後進地域と考えられる隔絶山村の近代化は,鉱山開発によつて果してもたらしうるものだろうか.本論の意図はかかる問題を考える一つの手がかりを得ることにある.ここではかの住友財閥を築きあげる基盤となつた別子銅山が,1691年に別子山村に開坑されて以来,いかなる影響を当村に与え,また当村は銅山にいかに適応していつたか等の問題について検討した.
1. 銅山と山村との関連は,明治の産業革命以前にあつては,銅山が製錬燃料としての木炭をうるために,山林を媒介としてみられた.銅山用として当村の大部分を占める御林(幕府の直轄経営している山林)が,すべて銅山経営者泉屋(現在の住友)に1702年に払下げられて以来,現在まで林野の90%有余が住友の独占的利用のもとにおかれてきた.
2. かかる住友による独占的利用によつて,村民は明治後期までは銅山向けの炭焼き稼ぎや,銅山への木炭運搬稼ぎに従事した.産業革命後その仕事を失い,漸次鉱山労働者として銅山へ依存するようになつていた.
このようにして別子山村は山村としての主体性を弱化していつた.山村の近代化のイニシアティブは,山村自体の上におかねばならない.この村では鉱山への依存に,そのイニシアティブは弱められている.鉱山開発は限界をもつた生産活動である.そのためにも山村としての地域的性格に立つて山林利用の場を拡大することに努め,山林の近代的経営に留意することが必要である.
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