地理学評論
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34 巻, 3 号
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  • 谷岡 武雄
    1961 年 34 巻 3 号 p. 121-139
    発行日: 1961/03/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    本研究は,トゥールーズ・カルカソンヌ廊下地帯に位置するヴィルヌーヴェルVillenouvelle村を,フィールドワークの対象にとり,南西フランスにおける農村集落の構造を,明らかにしようとしたものである.
    1) フランス南西部,とくにガスコーニュ地方にあつては,テルフォールと呼ばれるモラッセの丘陵と,ガロンヌ河本支流の段丘および氾濫原とが,集落の上でも,土地利用の上でも,対照的である.しかも,ガスコーニュの特色ある地形とミディ的な夏季乾燥冬季湿潤気候とが,田園景観の上に充分反映されている.もつとも広い面積を占めるテルフォールにおいては,一般に畑の耕作は,小麦・とうもろこしの輪作に一時的牧草地を挿入するタイプで,集落は散居型をとるが,西部のごとく囲われてはいない.これに対し,段丘では集居が多く,また牧草地に宛てられる氾濫原では,新しい散居農家が点在している.
    2) ヴィルヌーヴェル村の歴史を辿ると,テルフォール中の谷に定着したアモーが始まりらしく,その後15世紀末から16世紀初頭にかけてのころ,地中海域と大西洋域とを結ぶ歴史的交通路が通じていたため,丘陵麓の段丘上に,計画的なプランをもつ市場町が建設された.しかし,その後これは隣町との競合に打ち克ちえず,充分な発展を成し遂げえないままに,再び丘陵地の開拓へと向つた.つまり,場所を異にした小村→市場町→散居農場の継時的出現が,今日のごとく,散居とそれらの中心的機能を持つヴィラージュVillageとから成る農村集落の二重的構造を,もたらしたものである.
    3) 散居農場の住民は,自作農・小作農・分益小作農・農業労働者など,いろいろな階層の農民に限られるのに対し,行政上は同じコミューンに属する集居部のヴィラージュには,数種の商人・職人が居住し,それはまた散居部に対して宗教的・政治的・教育的・交通通信的中心ともなつている.そのうえ若干の地主がここにおり,彼らは土地所有を通じて,分散する農場を把握している.
    4) このような集落の構造は,個々の農家の経営地の分布形態を規定し,一部は耕地の形状にも関係をもつてくる.ブロック型耕地と矩冊型耕地との相違は,農法よりも居住様式のちがいに由来すると考えた方が,この揚合は穏当であろう.
    5) 近年において,散居部は一般に停滞的であるのに対し,集居部には発展の兆しがみうけられる.人口も後者は漸増の傾向にある.それは,この村が,一次的には隣町のヴィルフランシュとバジェージュとに従属し,二次的にはトゥールーズの発展に伴い,その郊村化しつつある現象と関連を持つている.アーバニゼーションの進行に伴う都市網réseau urbainの形成が,この地方においても,農村集落の構造を複雑化しつつある次第である.
  • 江波戸 昭
    1961 年 34 巻 3 号 p. 139-159
    発行日: 1961/03/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    この数年来,長野,群馬,福島,山梨の各蚕糸業地域で行なつてきた実態調査を素材として,明治以降の日本の資本主義発展に際しての地域的差異に関し,若干の考察を加えてみた.その結果,後進資本主義国の特色として,歪められた農民層分解が行なわれたと一般にいわれている日本でも,蚕糸業地域においては,ある時期までは比較的正常な分解,発展がみられたということを知つた.すなわち,この地域では,工業としての製糸業,あるいは農業としての養蚕業のもちえた有利性を軸として,地主・小作という歪められた形での分解に終始した水田地帯とは極めて異質的な発展傾向がみられためである.
    一方,形態はともかく,分解の早く進んだ水田地帯から析出された小作貧農一半プロ層のかなりの部分は,産業資本による労働力の吸収が極めて不十分にしか行なわれなかつた当時として,商業的農業畑作部門に発展しつつあつた富農経営に吸収されていつた.しかし,明治末期から大正期にかけての,工業部門での急速な独占化の進行によつて,農業におけるこのような方向は完全に阻害されてしまつた。以後,独占資本支配下の農民層分解は,蚕糸業地域においても,中農標準化とよばれる頭打ち状態に歪められてしまつたのである。
  • 茂木 昭夫, 岩淵 義郎
    1961 年 34 巻 3 号 p. 159-178
    発行日: 1961/03/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    利根川河口から仙台湾にわたる,常磐沖ならびに鹿島灘の陸棚を考察した結果,陸棚は20m以浅, 25~50m, 40~60mおよび100~140mの4つの地形面からなることが知られた.20m以浅の海底は,甚だ狭k・なめらかな斜面でv現在の海面に関して形成されつつある現海成面である. 25~50m平坦面は,平均巾10kmを有し,多数の明瞭な海底谷によつて,浅く刻まれた起伏のある海底を示し,その表面には,広く岩盤と粗粒堆積物が分布している.40~60mの海底は,海底谷末端に狭く連なり,そこにはやはり粗粒堆積物が分布している.これらの海底地形,底質分布から,筆者等は次のような地形発達を考えた。洪積世最末期の海面低下の際,現在の100~140m平坦面が形成され,この海面を侵蝕基準面として,現在の久慈川の地下に埋没している-60mの旧谷が形成された。その後海進に転じて,これらの谷は埋没され,現在の50~100mの斜面が形成された.この海進の途中で海面は一時停止し,そこに現在の25~50mの広い平坦面を形成したが,その後再び海退に移り,海面は現在の水深40~50m付近に停まつた.この時,河川は延長川となり陸化した25~50m平坦面を下刻して,現在の海底谷を形成し, -40~60m付近には,狭い平坦面と粗い底質を残した.再び海進に転じ,海面は現海面より4~5m高い所に位置した後,海退に移り,現在の海岸平野を形成した.
  • 1961 年 34 巻 3 号 p. 179-186_2
    発行日: 1961/03/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
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