Geographical review of Japan, Series B
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62 巻 , 1 号
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  • アジズ M.M.
    1989 年 62 巻 1 号 p. 1-13
    発行日: 1989/06/30
    公開日: 2008/12/25
    ジャーナル フリー
    本研究はクウェートにおける3大死亡原因を地域的に考察したものである。クウェートの人口は,クウェート人と非クウェート人の2つの明瞭に異なるコミュニティから成り立っており,両グループの社会的,経済的,人口学的性格は死亡の分布に大きく影響している。
    死亡率は,死因に関する国際的分類により10万人ごとに算定した。主な死因は腫瘍,循環器系疾病,事故傷害の3つで,これらで全国の死亡の3分の2近くを占める。特に循環器系疾病による死亡率は高く,次いで事故傷害,腫瘍の順である。
    クウェート人の間の死亡率は非クウェート人のそれよりも高い。また,両コミュニティとも,女子より男子の方が死亡率が高い。地域的には,クウェート市を含む首都地区とジャハラ地区で特に高い。移民は,事故傷害にかかりやすい。
  • 溝口 常俊
    1989 年 62 巻 1 号 p. 14-34
    発行日: 1989/06/30
    公開日: 2008/12/25
    ジャーナル フリー
    焼畑村落の変容過程を江戸時代初期から現在にわたって明らかにすることが本稿の目的である。従来の研究において,焼畑は時代が下ると少なくなると信じられていた。しかし,白川郷を対象とした本研究においては反対の結果が得られた。すなわち,焼畑は江戸時代初期から明治後半にかけてむしろ増えてきたのである。生産性の乏しい地域にもかかわらず,この時期に人口が増えているのは膨大な焼畑開墾によるものと考えられる。焼畑が減り始めたのは明治後半以降のことである。
    焼畑主要地は居住地周辺から遠ざかり,山地の緩やかな斜面から急な斜面へと移っていった。農業的な土地利用の変容過程として,仮説の一つとして唱えられていた焼畑から水田という変化は白川郷では認められず,ほとんどの焼畑が森林もしくは畑地に変っていった。明治後半,白川郷には630筆の焼畑があった。1筆の平均面積は約1haであった。焼畑は700-1,000m,居住地から1-2km,傾斜20-30度の東斜面に最も多く分布していた。
    土地保有の変化に関して,以下の結果が得られた。本百姓と本百姓に従属する抱からなっていた元禄時代の村において,本百姓の間では土地保有上顕著な差はなかったが,抱は本百姓より少ししか保有していなかった。しかし,江戸時代後期になると,両者ともに新しい土地を開墾し始め,ともに焼畑を開いた。安永時代までに,抱はかなりの土地を保有するようになり,本百姓から独立していった。同時期に,多くの村有の焼畑が開かれ,その共有の焼畑は村のいかなる農民もいつでも自分の利益のために使うことが認められていた。それゆえに,この地域では,他の一般の近世村落とは異なり,農民層の顕著な分解はみられなかった。
    近世における広大な焼畑の開墾,焼畑耕地の分散と共同作業,農民層の未分解,焼畑の森林・畑地への転換などの事象は,山梨県湯島村でも追跡でき,焼畑村落の共通した性格と考えられる。
  • 知念 民雄, リヴィエール アン
    1989 年 62 巻 1 号 p. 35-55
    発行日: 1989/06/30
    公開日: 2008/12/25
    ジャーナル フリー
    1977-1878年噴火によって荒廃した北海道有珠山の火口原全域において,1977年から1984年に至るあいだの自然の植生回復と地形プロセス(侵食および堆積プロセス)との関連を調査した。調査方法は,おもに野外での観察・観測と航空写真判読によった。
    植生回復プロセス-残存(survival)と種子散布による侵入(invasion)-と地形プロセスとの関連はダイナミヅクな様相を呈した。残存は植生回復に大きく貢献した。樹木の親株と埋没落枝からの萌芽は新期テフラに浅く覆われた(約50cm以下の層厚)区域でしばしば観察された。数多くの草本植物の地下茎からの回復-樹木に比較して容易に厚いテフラ層(約1mの層厚)を貫いた-は広範囲にわたった。テフラに厚く覆われたが,2次的に開析された斜面においては,リルやガリーに沿う草本植物の残存と侵入が一般的に認められた。軽い風散布種子起源の先駆木本植物は,はじめに火山灰と軽石に特徴的に覆われ,かつ地形プロセスの鎮静化した扇状地に侵入した。草本植物の侵入も,同様に火山灰地より軽石質の区域に優勢であった。リルおよびガリー侵食は,植生回復に物理的被害をおよぼす反面,有機物や種子を外輪山内壁から斜面下部そして火口原へと運搬すると同時に,旧土壌を露出するという重要な役割を演じた。
    斜面と扇状地における先駆木本および草本植物の定着の経時変化は地形プロセスの不活発化に大きく左右された。表面侵食速度は顕著な植被回復の開始以前に急減した。このことは,実際の植被回復が加速化した侵食を和らげるのに大きな役割を果たさなかったことを示している。むしろ,地形プロセスの不活発化が植生回復を規定したと言える。
    以上のことは,植生回復が基本的には噴火の直接的被害-とくに植生の破壊程度とテフラ層厚-と噴火後の地形プロセスとその推移に大きく依存することを示している。
  • 正井 泰夫, 中村 静夫, 大竹 一彦, 三村 清志
    1989 年 62 巻 1 号 p. 56-71
    発行日: 1989/06/30
    公開日: 2008/12/25
    ジャーナル フリー
    日本の都市地図・アトラスは,日本という風土の中で特徴ある発達を示してきた。江戸時代に大きく発達した絵図的都市地図は,特に百万都市江戸において都市案内図として役立った。明治以後の近代化の過程で,欧米の先進技術が導入され,地図作成法も大きく変化したが,さまざまな面で日本的対応が見られたことも事実である。
    今日,国土地理院が大縮尺都市地図のシステム化で果している役割は非常に大きい。また,各省庁,地方自治体,民間企業でも,国土地理院の指導の下に,または密接な協力関係において,詳細な大縮尺地図を作成している。国土地理院は現在,1:10,000地形図シリーズを刊行中であり,これは全国の主要都市へ適応されることになっている。地方自治体等でも,国土地理院の設定したガイドラインの下に,1:5,000から1:2,500程度の大縮尺地形図を作成している。市街地でも地籍図の作成が少しずつ進められているが,正確な地籍図を全面的に完成させるには,従来からの足かせが余りにも大きい。
    きわめて詳細なタウンマップの重要性は特に主題図において高い。民間企業による1:1,OOOあるいは1:2,000程度の住宅地図類が全国的規模で出版されているが,この利用度は高い。主として若者向けの買物・レジャー関連の大縮尺タウンマップが多数出されている。歴史的都市アトラスの作成も,東京を中心に盛んとなっているが,大縮尺のものの出版も進み,専門家や中高年を対象として販路がふえている。この種の地図・アトラスは,次第に若者や外国人の関心を呼んでいるが,これには世界最大都市としての東京の過去に対する関心の高まりが反映していよう。
  • 1989 年 62 巻 1 号 p. 72
    発行日: 1989/06/30
    公開日: 2008/12/25
    ジャーナル フリー
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