近年、中興期の連句研究は注釈以外あまり進んでいない。暁台についても同様だが、彼が当時の連句解体の動きを感知し、蕉風復興の第一義的手段として連句指導を盛に行っていた (『暮雨巷書留』) 点を顧みれば、明和期の暁台像を考える上で連句観の検討は避けることができないものと思う。最近、暁台評『百歌仙』なる、明和期の暁台の連句指導の実態を示す資料を寓目することができた。これは昭和初期に『俳人真蹟全集天明時代下』 (平凡社、昭和10年) 等に一部紹介されていたが戦後消息をたち、近年名古屋市博物館の所蔵に帰したものである。拙稿「暁台評『百歌仙』の成立―『江戸廿歌仙』混入の疑義について」 (『国文学研究』136、平成14年3月) (以下拙稿) に紹介し問題点を検討した結果、版本『江戸廿歌仙』 (存義独吟歌仙) の混入という不可思議な事実を孕んでいたことがわかった。オリジナルの連句を何人かの宗匠に同時に送りつけ、手腕を試すといった行為は元禄期以前から度々行われていた (『物見車』等) が、このように既存の歌仙を混ぜ宗匠の批点を乞う例、まして混入に気づかず加判してしまうという例を私は寡聞にして知らない。このようなケースでは次の三点が問題となろう。
(1) 誰がどのような意図で『江戸廿歌仙』を混入させたのか。
(2) 暁台が著名な歌仙に加判した事実から何が読みとれるのか。
(3) 暁台の存義歌仙への加判の内容から何がわかるのか。
(1) (2) は拙稿で検討したため、本稿では中興黎明期の地方系蕉門宗匠による江戸座歌仙への加判という視点から (3) を中心に検討したい。
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