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原稿種別: 表紙
2001 年 10 巻 p.
Cover1-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
App1-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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宮寺 晃夫
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
i-ii
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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原稿種別: 目次
2001 年 10 巻 p.
iii-iv
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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今井 康雄
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
1-17
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
近代教育学の基本構造である世界の表象は、すでに世界との関係の一種の仮想化を含意しているが、この仮想化は「経験」によって克服可能と考えられていた。W・ベンヤミンは経験のこうした力に根本的に疑問符をつけた。彼はそれに対する積極的な対案をメディアの中での気散じに求めた。気散じにおいては,ショックを与えるような疎遠なものが外部から意識の中に進入してくるからである。現在の仮想性の状況に対する対応物として、言語の不透明性という現象が目に付くが、この現象は真正性、客観性、社会性の分裂をもたらすことになる。こうした状況においては、表象の限界を打ち破るような力は、ベンヤミンが考えたような外部からではなく、この三つの次元の衝突に求められるべきなのである。
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原 聡介
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
19-28
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
教育思想史は、方法的に固有の専門性をもつ研究領域である。教育思想史研究を必要とする今日的課題があることを確認するとともに、その方法的意味について考える。過去を記録するためでもなく、全体史(あるいは全体史をめざす社会史)のためでもなく、過去から学ぶためでもなく、未来を知るためでもなく、結局のところ、今日の教育思想の歴史的構造を解明するための方法として教育思想史を要請することをまず確認しておきたい。そのことはまた、教育思想史自体の作業を進めるために用いる方法に反転する。教育思想史研究の科学性は、過去の教育思想に真理が含まれているかどうか探すことや、特定の思想家に寄り添ってその言説の良し悪しを判定することにあるのではなく、思想を分析の単なる与件として扱うところにある。思想は歴史的脈絡の中に対象化され位置付けられなければならない。そして、われわれが問ううべき最大の脈絡は近代問題である。近代が未完成であるからでなく、完成されればされるほど解決困難となる問題の歴史的脈絡をどう取り出すか。今日の教育の思想的状況は、その矛盾的展開の果てにあることを知らなければならない。解明されるべき歴史的構造とは、このことに収斂していくことになる。それを知ることによってわれわれは今日の教育と対峙できる。
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桜井 佳樹
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
29-36
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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本論は原聡介氏のフォーラム1の報告「教育思想史の課題と方法-近代問題にどう接近するか」の司会論文である。まず原氏の提案の概要とそれをめぐる質疑応答の概略を述べ、当フォーラムにおいてどのような議論がなされたのか、できるだけ忠実に再現したものである.さらに司会者の個人的な感想を述べ、最後に「教育思想史研究の論争点」を3つにまとめた。(1)「教育思想史」と「教育哲学」の差異について、どう考えるか、(2)教育思想史研究の観点・テーマについて、どう考えるか、(3)教育思想史研究の対象について、どう考えるか、以上である.これらは論者によって微妙に錯綜している論点であり、これらについて論ずることが教育思想史研究(教育思想史学会)のさらなる発展につながると思われる。
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田代 尚弘
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
37-47
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
「今日の教育思想の歴史的構造を解明する」という意味での「現代の教育を創った歴史的責任」を「近代教育思想」に問うことは、(1)近代教育思想を受容してきたわれわれ自身の教育思想的な「責任」を問うという視点を介在させなければならない。そのことは、(2)近代教育思想の歴史性と現在性の連関を問うということでもある。今日とは全く異なる時空において展開された近代教育思想と対峙することは、(3)「教育的想像力」の回復をはかる手がかりとなる。今日の教育状況におけるシニシズムは教育の「批判的理性」を麻痺させ、教育的な想像力を枯渇させている.「批判」は「否定」を意味しないし、むしろ「批判」を封じ込めるような狭隘なオルタナティヴしかない教育状況こそが、近代問題をさらに閉塞させていく。そうした思想的状況において批判的な教育的想像力の回復こそが、「近代問題」に対する生産的なオルタナティヴの第一歩である。
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下司 晶
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
49-58
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育思想史という方法および「近代教育学批判」という視座が、その内実を問われないまま「公式」のように受容されることには危惧を覚える。原氏に教育思想史を要請するのは、「今日の教育現実」であり、それと等値される「近代問題」に他ならない。だが、私たちの世代にとっては、近代を批判的検討対象とする必然性は、共有されているとはいいがたい。よってこれを、戦後教育学の文脈に位置づける、原氏の立場は、近代を理念や価値として把握してきた戦後教育学の枠組みに対して、求められたものだったのではないか。原氏の近代教育学批判を成立させるのは、教育学的問題関心といえる。しかし批判の対象が、私たちの問題関心の反映だとすれば、その矛先は私たち自身にも返るものとなる。近代教育学批判のアクチュアリティは、その点にこそあるのかもしれない。
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森田 伸子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
59-77
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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長い間オーラルの世界に生きていた圧倒的多数の民衆を、文学の世界に導きいれ、その正当な市民として位置付けること。これが近代教育が自らに課してきた課題であり、少なくとも先進諸国においては、この課題は19世紀末から20世紀初めの国民国家の体勢が整うと歩を同じくしてほぼ達成されたとされる。そのとき文字とは何を意味したのか、文字を読むこと,あるいは文字を書くことに何が求められたのか。さらに、こうしたことと、近代教育思想に通低する書物への断罪はどうかかわるのか。ヨーロッパの教育思想における文字の審級を、19世紀末のフランス公教育における作文教育をめぐる議論をとおして考察する。
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小松 佳代子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
79-87
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿は、森田伸子氏のフォーラムでの発表および大幅に書き換えられた論文において、森田氏が論じようとしていた問題の射程がどのようなものであるかについて考察したものである。森田氏は、「読み書き」をめぐる思想史を主体形成との関連で問うことが発表の目的であると述べているが、その議論は主体化の問題を超えて、作文教育に体現されている近代教育思想そのものへの問い直しを迫るものであると理解した。この点を明らかにするために、まず日本の作文教育における「ありのままに」書くというイデオロギーが持っている問題構図を、J.デリダのルソー読解を参照しつつ明らかにした。そして、論文において新しく森田氏が論じたフランスの作文教育実践については、それらが生活世界における物語行為を目的意識的に教室という場で凝縮して実現しようとしたものであり、それゆえにこそ作文教育をめぐる思想において近代教育の矛盾が明らかになることを論じた。
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片桐 芳雄
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
89-100
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿は、森田伸子氏「近代教育と読み書き思想」に触発されて、ヨーロッパと比較しつつ、日本における読み書きの歴史と思想を検討したものである。読み書きの前提にある日本における話すことは、家や村落共同体の「共同の思惟」もとで、他者に向かっての言説行為として鍛えられることはなかった。このような状況のもとで江戸時代の読み書き文化は、武士・上層庶民の学問塾での読書(読み)と、一般庶民の手習塾での手習(書き)との二系列で展開したが、これらは共にテクストに忠実であることを至上とするものであり、「精神の働」(福沢)の欠如という点で、共通していた。19世紀前半以後、民衆識字化は急速に進み、ヨーロッパと比較しても相対的に高くなったが、この急速な展開は、考えることと書くこととの間に新たな「空隙」を生じさせた。この「空隙」を埋めるものこそ樋口勘次郎、芦田恵之助、小砂丘忠義と承け継がれた作文教育論であり、日本の「近代教育」論の典型の一つであった。
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山崎 洋子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
101-113
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
本論文は、(1)森田氏のテクスト「近代教育と読み書きの思想」の論旨をスケッチし、(2)氏が採用する思想研究の視座と枠組みに焦点づけながら、その接近姿勢に認められるモチーフを「ずれ」として取り上げて考察し、(3)筆者の受けた綴り方教育の体験を紹介しながら、教育実践者に即したアプローチの必要性と可能性、新教育思想研究の新たな意味について述べたものである。テクストは近代教育、読み書き、新教育という三つのモチーフに焦点を当て、近代化、主体化、識字化、作文、活動、自由テクストに内在するずれを重層的・相対的に描出している点で高く評価できる。しかし、このアプローチは、スタンスの超越性、分析者の特権性、多元的な参照枠の強要、巨視的な事象選択、「ずれ」描出上の恣意性、実践家の思想形成過程の捨象が認められ、「新教育」事象についての解釈には性急さが窺われる。確かに従来の新教育研究には称楊的な態度が強くあると思われるが、しかし、そのような姿勢への批判さえも留保したかたちで、教育的営為をリアリティある文脈に位置づけつつ、まずは、第一次史料に基づいた解釈と意味の析出の作業を積み重ねることが要請される。
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皇 紀夫
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
115-127
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育相談を、言葉が演出する意味争奪と意味探索の場面と見立て、相談において交わされる問題言説の仕組みを解明してそれの変換を工夫することによって,教育の通常言説に差異を仕掛け教育に新しい意味を発見する役割を臨床知に与える、こうした立場を臨床教育学のものと論じた上で、新しい論点、すなわち、意味変換の技法をともなったこの臨床知を、教育を意味付ける語りに所在するレトリックの知と解釈できるのではないかという論を、教育相談の問題言説においてメタファーが演じる意味変換的で発見的な働を考察することを通して、さらにはレトリック論の今日的な展開、つまり言語学的「回転」に誘発された解釈学のそしてレトリック論の「回転」現象が教育研究に波及している状況に言及することによって、これらふたつの文脈から新しい論点の可能性を検討した。
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鈴木 晶子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
129-141
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
臨床知は実践知と同様に、臨床実践を含めた実践一般を研究対象とすると同時に、その対象と関わること自体が学問的営為でもあるような教育学や臨床医学など実践的学問の根底を支える知恵だといえます。この専門家の知恵ないし術を一定の確実さをもって働くものとして専門家の間で共有できるようにするための努力は、古代ギリシアのレトリックをはじめとして、ルルスによる図表、ライプニッツによるフレーミング法、さらにはヘルバルトの教育地図など一連の系譜となりました。本報告では、こうした臨床知の確立と伝承の試みを思想史的観点から概観することを通して、そうした試みのもつ落とし穴、すなわち臨床知の働き方の画一化や実践の根拠なき正当化といった問題を確認します。と同時に、単なる図表による技術化ないしパターン化には収まりきらないような、こうした思想系譜の特質について、フーコーやドゥルーズのダイアグラムの思想を手がかりにしながら考察し、今後の臨床知伝承の可能性についても検討しています。
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松下 良平
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
143-155
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本論文では、教育学における臨床知の歴史を、生活や仕事の中での学び-教えの中に埋め込まれていた臨床知を排除しながら、それを改めて発見し、教育学の中に再び組み込もうとする歴史として捉える。しかし、その「臨床知」発見の意味は両義的であり、その過程には相矛盾する二つの局面が含まれている。一つは、近代の教育やそれを支えてきた教育学の枠組みを原理的に問い直そうとする局面であり、もう一つは、臨床知を教育や教育学の内部に回収することによって、教育と教育学の旧来の枠組みを正当化し強化しようとする局面である。ここでは、昨今の教育学が臨床知の意義を再発見することの背後にある歴史的・社会的なコンテクスト(近代の知への批判およびポストモダン社会への移行という条件)を解明することを通じて、相反するこの二つの局面を浮き彫りにするとともに、その二種類のコンテクスト(条件)とその二つの局面の関係についても論じた。
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田中 智志
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
157-171
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
1980年代の後半にカウセリング、ケアリングといった臨床知指向が強まってきた。しかし臨床知指向は、この時代にはじめて生じた現象ではない。教育学は、臨床知を発見し方法知に回収し、ふたたび臨床知を発見し方法知に回収するという反復運動をくりかえしてきた。臨床知は本来、危険に臨み、生のクリティカルな局面を受けとめるという、積極的ニヒリズムを伴っている。しかし、通俗的な教育(学)は、この積極的なニヒリズムを失わせる静態的フレーミングからなかなか逃れられなかった。臨床知に似ている実践知、たとえばフーコー=ドゥルーズのダイアグラムも、静態的フレーミングによって通俗化するなら、積極的ニヒリズムを失っていく。ここに臨床知の発見と回収という反復運動の根本原因を見出すことができるだろう。とすれば、たえず臨床知を発見しそれに参画しつづけることは、通俗的な教育(学)を超克する知を探索することである。「教育問題」を語る場を「レトリック状況」と見なしそこに言説変革の可能性を見出すことは、そうした臨床知への第一歩である。
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宮寺 晃夫
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
173-182
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
シンポジウムの提案者は、いずれも、臨床知の再評価による教育学的認識の内側からの組替えを提案している。このことを確認した上で,本論文では臨床教育学の可能性について、期待と疑問を述べていく。とくに、臨床知の現実性と信憑性を問題にしていく。そのさい、(1)システム化されている近代教育に対する臨床知からのインパクト、(2)実践知の活性化に対する臨床知の有効性、(3)解釈学的臨床知と制度論なき解釈学の危さを、順次取り上げていく。
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山内 紀幸
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
183-191
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
臨床知の未規定性とその制度化の歴史の二つの磁場に引き寄せられない形で、どのように「臨床知」に立ち向かっていけばいいのか。三氏の基本戦略はそこにある。だが、リクールの「生きた隠喩」をつかった行為知としての組み替えも、教育詩学として教育言説の二項図式を揺るがせる試みも、農村共同体の臨床知を教育学の反省知としてみなす方法にも、それぞれ弱点がある。臨床知の未規定性と制度化にナイーブになりすぎることはない。臨床知を言説化していくいわば取水作業なくしてなにも議論は始まらないし、そしてハイパーメディア共同体の日常の分節化をもっと積極的に行っていくべきである。教育学の第二段階の肯定的な脱構築は、そこから始まっていくのではないだろうか。
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山名 淳
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
193-195
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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宮本 健市郎
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
196-198
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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山崎 洋子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
198-201
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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渡邊 隆信
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
201-203
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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古屋 恵太
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
205-213
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
215-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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上野 正道
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
215-218
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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室井 麗子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
218-220
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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北詰 裕子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
221-223
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
225-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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田中 智志
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
225-228
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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松浦 良充
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
229-230
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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小玉 重夫
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
231-233
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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岡部 美香
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
235-247
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
『児童の世紀』(1900)が、子ども中心主義の教育学の先駆的著作として、20世紀初頭に生起した世界各国の新教育運動に影響を与えたことは、よく知られている。しかし一方で、この著作に展開された教育思想が優生学から少なからず影響を受けていることも、しばしば指摘されてきた、本稿では、『児童の世紀』における子ども-大人関係の構造を、この著作の記述に即して解明し、それを通して、子ども中心主義を強く訴えたケイの教育思想のなかで優生学的な言説が果たした機能について考察する。その際、子ども中心主義の教育思想とともにケイの思想の通奏低音をなしている母性主義思想に着眼しつつ、考察を進める。この考察結果に基づいて、子ども中心主義の教育学を基礎づけてきた理念、すなわち、子どもは<自律的な主体>である、という理念が内包する問題点について指摘したい。
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木村 浩則
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
249-262
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
過去のハンナ・アレントに関する諸研究は、彼女の教育についての議論の保守主義的な側面を強調してきた。しかし今日、アレントの著作の新たな解釈はこうした見解を退け、その進歩的な側面を強調するようになった。本論の課題は、近年のアレント研究の成果にもとついた新たなアレント解釈のコンテクストのもとで、アレント教育論に対する従来の評価を再検討することである。そしてその作業を通じて、アレント理論の教育学的受容の可能性を明らかにしたい。第一章では、初期のアレント研究における彼女の教育論の評価を検討する。第二章では、アレントの教育的権威論についてのM.ゴードンの解釈を検討し、第三章では、アレントの政治的子どもについての理解に対するエルシュテインの解釈を検討する。これらの検討から結論付けられるのは、彼女の教育論は、保守主義というよりもむしろ進歩的な教育理論として理解することができ、さらにまた彼女の教育概念は、私的領域に留まるものではなく、公的領域に拡大可能だということである。したがって、アレントの理論は、今日の教育学的議論に大いに貢献しうるものだということができる。しかしそれは、たんにアレント著作における進歩的側面のゆえだけではなく、多様な解釈の可能性のゆえである。
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今井 康雄
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
263-266
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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弘田 陽介
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
267-271
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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原稿種別: 文献目録等
2001 年 10 巻 p.
271-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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荻路 貫司
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
272-276
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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山名 淳
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
277-281
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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岡村 達雄
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
282-286
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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新井 保幸
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
287-290
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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大内 裕和
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
291-294
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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今井 重孝
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
295-298
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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田中 智志
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
299-304
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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室井 麓子
原稿種別: 本文
2001 年 10 巻 p.
305-310
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
311-312
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
312-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
312-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
313-317
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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原稿種別: 付録等
2001 年 10 巻 p.
318-
発行日: 2001/09/14
公開日: 2017/08/10
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フリー