人文地理学会大会 研究発表要旨
2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
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特別研究発表
第1会場
  • 研究動向と可能性
    荒井 良雄
    セッションID: 11
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1.インターネット・ギャラクシー
      欧米では1990年代後半以降,インターネットを含めた情報技術をキーワードとする地理学の研究が急増しており,さまざまな角度からのアプローチが試みられている。本報告では,1990年代後半以降の欧米における研究動向を英語文献の整理から抽出し,今後の研究の可能性を探ってみたい。本報告では,現実社会の情報化を扱った研究とバーチャル空間を扱った研究に大別して,1990年代後半の研究動向を整理することにする。

    2.情報化社会の地理学
    (1) 情報化と都市:グラハムとマーヴィンの論点
      グラハムとマーヴィンは,「情報化が都市に何をもたらすか?」という疑問に対する議論の整理のために,1)経済のリストラクチャリング,2)都市社会と都市文化の変容,3)都市環境,4)公共交通とライフライン,5)都市の物的形態,6)都市の計画・政策・管理,という6つの論点を提示している。
    (2) ディジタル・ディバイド
      情報技術が社会経済の基盤的存在としてその意味を増大させていく中で,それに即応できる人々と取り残されていく人々とが二極に分かれていく事態が危惧されている。
    (3) パノプティコン:電子的監視
      電子的手段を用いた市民の監視もグラハムとマーヴィンによって指摘されていた問題である。ベンサムやフーコーによって哲学的思弁の対象とされたパノプティコン(全周監視塔)は,今やビデオカメラや通信回線によって現実のものとなった。
    (4) 政治運動とインターネット
      1990年代後半,インターネットが社会に普及するようになって以降,急速に関心が高まったのが,政治運動のツールとしてのインターネットの可能性である。
    (5) 電子商取引
      2001年になってラインバックとブルン編による『電子商取引の世界』が出版され,この分野での大きな進展をみた。
    (6) マルチメディア:あたらしい都市産業集積
      インターネットの一般家庭への普及と軌を一にして急速な成長を遂げたマルチメディア産業は,あたらしい都市型の産業集積として注目を浴びている。
    (7) コールセンター:縁辺地域の成長戦略
      コールセンターは基本的には大都市型のビジネスであるが,最近では人材確保の容易さと人件費コストの低廉さをねらって,縁辺地域に立地するケースも多く,地方政府による誘致政策が背景にあることが指摘されている。

    3.サイバースペースの地理学
    (1) サイバースペース
      「サイバースペース」には広狭2種の意味があり,広義には漠然と情報化社会(あるいはそうした状況)を指すが,狭義に使われる場合は,コンピュータ・ネットワークを使ったコミュニケーションの世界の中にのみ存在するバーチャルな(仮想的に組み立てられた)空間を意味する。
    (2) ヴァーチャル地理学
      こうした狭義のサイバースペースを地理学の対象としようとするアイデアは1997年頃生まれている。たとえばアダムスは,コンピュータ・ネットワーク上のさまざまな存在が地理(場所)的なメタファー(隠喩)によって表現される「ヴァーチャル・プレース」の現象の意味を論じている。また,バティは,コンピュータ・ネットワーク上のバーチャル世界はそれ自身、独自の「場所と空間の意味」をもっているとして「ヴァーチャル地理学」の概念を提唱した。さらに,キッチンは,地理学の分野でおそらく最初に『サイバースペース』という表題を冠せられた彼の著作の中で,ヴァーチャル世界(すなわち狭義のサイバースペース)をその文化と社会性の面から論じている。
    (3) サイバースペースの空間分析
      もちろんサイバースペースは仮想的には広がりや位置関係をもつから,これまで作られてきた地理学の分析手法の応用が考えられる。そうした例のひとつがインターネットの空間分析である。ドッジとキッチンの『サイバースペースの地図化』は。メタファーとしてのサイバースペースの空間性を地図という形に凝縮して表現しようとしたユニークな試みである。

    4.混沌を超えて
      インターネット時代を迎えた1990年代後半以降の研究動向の大きな特徴は,情報化の影響を社会・文化・政治といった局面から扱うものが急増していることである。こうした「社会・文化的転換」の流れの中では総論的な議論が先行しており,論点は指摘されても実態をふまえた具体的研究事例の蓄積に乏しいテーマも多く,率直なところ,いまだ転換期の混沌の中にあるように見える。こうした欧米の動きを踏まえて,日本の地理学界における課題を展望するならば,第1に,現時点で空白に近い「社会・文化的アプローチ」の充実第2に,電子商取引の例のように,アイデア先行であったものがここ数年で急速に具体化している分野での実態把握であろう。
第2会場
  • 山本 健兒
    セッションID: 22
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      フォーディズムの危機以降、欧米では産業集積地域の再発見とこれに関する理論的・経験的研究が積み重ねられてきた。その結果として、「柔軟な専門化」、「新しい産業空間」、「地域的イノベーション・システム」、「学習する地域」、「イノベーティヴ・ミリュー」などの諸概念が普及するようになった。これらの概念を積極的に用いる論者たちはいずれも、イノベーションこそが地域の経済発展のために重要であり、イノベーション形成のためには産業集積(諸企業の空間的近接性)が重要であると主張する傾向にある。この主張を理論化する努力は、例えばMaskell & Malmbergなどによってなされている。彼らは、イノベーションの基盤を知識創造に見て取り、これが暗黙知の共有・伝達によってなされるという側面に焦点を当てて空間的近接性が重要だとしている。その論理は以下のとおりである。
      コード化された知識が以前よりもはるかに急速にグローバルに普及する現代にあって、暗黙的で空間的に粘着的な形態を取る知識が、持続的な競争優位の基盤としてますます重要になりつつある。グローバリゼーションの1つの効果は、かつて局地化されていた多くの能力や生産諸要素がどこでも入手できるものとなったことにある。このような状況下で企業が競争優位を獲得するためには、遍在化されえないものを利用することが必要である。それは経済取引の対象にならない、コード化されない暗黙知である。重要な知識が暗黙的であればあるほど、交換に関与するアクターたちの間の空間的近接性はより重要になる。
      暗黙知の伝達のためには、高度の相互信頼と理解を必要とする。これは言語だけでなく、共有された価値観と文化にも関連する。その暗黙知の相互交流が実際になされるのはローカルなレベルにおいてである。純粋に内的な情報を相互交換する能力は、関連する企業や産業が空間的に集積する場において獲得されるのであり、したがって空間的集積が競争優位の基礎となる。
      地域、領域、空間というものは、企業活動や産業活動の単なる容器ではない。むしろ、広範囲に構成されているアクターたちの間の濃密な相互作用を通じた集合的学習のためのミリューとして見られるべきである。そのようなミリューに知識は埋め込まれるようになる。つまり知識は、異なる諸企業を相互にそしてより広範な制度的文脈に結合する諸関係の中に埋め込まれるようになる。そのミリューは創造された空間であり、学習の結果であるとともに前提条件でもある。つまり、地域は受動的な存在ではなく、能動的な資源である。
      以上のようなマスケルとマルムベルイの諸説は、理論的にも経験的にも看過し得ない問題点をはらんでいる。それは以下のとおりである。
    ・知識と情報の概念的識別がなされていない。
    ・知識を暗黙知とコード化された知識に截然と分割する二元論的理解は不適切である。
    ・人間は移動しうるがゆえに、暗黙知といえども特定の場所に固定化されるとは限らない。
    ・イノベーション形成がなされるということは、たとえ当初は暗黙知が重要であったとしても、その内容がコード化されることを意味する。
    ・コード化された知識が遍在化するとは限らない。コード化された新しい知識を学ぶためには、それを我が物としうるための知識の蓄積が必要である。
    ・イノベーションの形成が知識創造に依存していることは確かだが、知識創造は暗黙知の創造だけを意味するわけではなく、産業集積を前提とするものではない。産業集積は知識創造を自動化するものではない。
    ・むしろ、イノベーションにつながる知識創造は、産業集積の外部世界とのつながりを積極的に構築する企業のほうが活発に行う。
    ・しかし、産業集積は知識創造にとって無意味ではない。外部世界とのつながりを積極的に構築する諸企業が、同時に産業集積内で相互交流を活発に重ねる場合に豊かな知識創造が行われる。
一般研究発表
第1会場
  • 世代間の差異に着目して
    谷 謙二
    セッションID: 105
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1.はじめに
      高度経済成長期以降,郊外から東京都区部への通勤者は増加を続けてきたが,1990年代後半にはその減少が観察された。本研究の目的は,1990年代の東京大都市圏におこった通勤流動の変化を明らかにし,男性就業者の年齢階級別就業地を検討することでその要因の一端を明らかにすることである。

    2.男性の年齢階級別就業地によるクラスター分析
      男性就業者について,国勢調査の市町村別・年齢階級別就業地データを使用して上記の課題を検討した。埼玉県,千葉県,神奈川県の1995年の常住就業者に占める東京都区部への通勤者が5%以上である114市町村を取り上げ,男性常住就業者の25-59歳の5歳階級別就業地について,標準化を行った。なお就業地は3区分(自市町村内で就業,県内で就業,県外で就業)であり,年齢階級区分数は7である。
      標準化された数値をもとに,Ward法によるクラスター分析を行い,114市町村を6つのクラスターに分類した(図1)。まず,「東京依存型」クラスターは,30km圏の内部に位置し,全年齢階級で県外通勤者が多く,ベッドタウン的性格が強いクラスターである。「親東京依存型」クラスターは,30km圏外に位置し,40から50歳代で県外通勤者が多い。
      「親東京-子郊外核依存型」クラスターは,40-50歳代で県外通勤者が比較的多いが,20-30歳代では県内通勤者が圧倒的に多い(図2)。「郊外核型」クラスターは,都心から30km程度に位置し,県外通勤者も多いが,それ以上に市町村内就業者が多い。「郊外外縁核型」クラスターは,都心から50km程度に位置し,県外通勤者は少なく,市町村内就業者が多いクラスターである。「郊外核依存型」クラスターは,全年齢階級で県内通勤者が多い。

    3.クラスターごとの時系列変化
      次にクラスターごとに,1990年から95年,2000年の間での変化をコーホート単位に検討した。その結果,90年代後半には,40歳代後半-50歳代において,県外通勤者が5-10%程度減少していることが明らかになった。この減少幅は,市町村内,県内就業者の減少幅よりも大きい。また,1990年から95年にかけては,「東京依存型」と「郊外核型」クラスターを除き,30歳代で県外通勤者が30%程度増加していたが,95年から2000年にかけては,5%程度の増加にとどまっている。このことは,就業地を東京におき,ライフサイクルの変化にともなって居住地を郊外に移す「住み替え」が90年代後半に大幅に減少したことを示している。この現象は人口移動統計からも裏付けられる。さらにこのことは,初職時に形成されるの通勤パターンが,その後も継続するようになったことを意味している。そこで25-29歳就業者の県外通勤率の変化を検討すると,90年代を通して低下していた(図3)。

    4.まとめ
      本研究から得られた,90年代後半における郊外から都区部への通勤者の減少の要因をまとめると,次のようになる。1.人口規模の大きい,1960年代に郊外化を経験した世代が退職期に入った。2.40-50歳代で県外通勤者が減少した。3.30歳代での東京から郊外への住み替えが減少した。4.初職時の県外就業率が低下した。
  • 名古屋市の事例
    伊藤 健司
    セッションID: 106
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    (1)はじめに
      大都市内部におけるオフィス立地を研究する際に、都心、副都心、新都心以外の地域でのオフィス立地はほとんど関心が持たれてこなかった。都心への集中立地は厳然たる事実であり、郊外立地オフィスがあってもそれぞれの地域において主要な土地利用・景観になっているわけではない。一方、都心へのオフィス集積が、道路や公共交通機関の混雑、長距離通勤をはじめとして様々な都市問題を引き起こしている部分があるのも事実である。そこでオフィス立地と都市全体の空間構造との関わりについて検討し、都心以外の地域でのオフィス立地の可能性について考えていきたい。本研究では支店オフィス、特に名古屋支店に注目する。広域を対象にしたオフィスこそ都市構造に大きな影響を与える可能性があるためである。都心外に立地するオフィスが積極的にその立地点を選択していて、同様の属性を持つ企業が多数存在するならば、今後、立地動向に変化をもたらし都市構造が変化する可能性がある。
    (2)研究方法
      対象とする支店オフィスは名古屋市内に立地する名古屋支店等である。名古屋支店は(株)NTT情報開発による「タウンページデータベース」から事業所名に、中部支社、名古屋支店など24のキーワードが含まれているものを抽出した。はじめにGISを利用しながら市全体での立地状況、業種毎の特徴を検討する。また、オフィスの所有形態や立地年次、移転、営業対象などについての情報を入手するため、全16区のうち都心3区を除いた13区の名古屋支店に対して郵送によるアンケート調査を実施した。
    (3)業種別・地域別立地動向と立地要因重要度評価
      名古屋市内には7,905の名古屋支店が立地し、その分布は都心への集中が明らかではあるが、業種によってその構成はかなり異なる。「金融・保険・証券」など6業種では都心3区の占有率が70%を越えて都心集中型業種と言えるが、一方で「運輸・倉庫」など9業種では半数に満たない。区別に業種毎の立地数や特化係数を見ると、特徴的な立地傾向として港区の「運輸・倉庫」、名東区の「医薬及び医療機械器具」などがある。
      アンケート調査から立地要因に関わる重要度評価を見ると、JR名古屋駅や都心への近接性は都心周辺部や名東区で比較的高いもののそれ以外の地域ではとりわけ高くはない。一方、地下鉄駅への近接性は地下鉄沿線区では高く、高速道路へのアクセスはほぼ市内全域にわたって重要度評価が高く利用頻度も高い。
    (4)特徴的な業種の立地
      都心以外の地域にも特徴的に名古屋支店が立地する業種がいくつかある。例えば「運輸・倉庫」では、名古屋港に関連する業務を行うオフィスや現業部門を併設する陸運関連の名古屋支店が港区に多数立地する。また「医薬及び医療機械器具」は、都心以外に都心と名古屋ICを結ぶ名東区や千種区に多数立地している。これらは営業対象が病院・医院・ドラッグストア本部などであり広域に分散しているため高速道路も利用した自動車による営業活動を行う。そのためICへの近接性を求め、駐車スペースの確保も重要である。「音響及び通信・コンピュータ機器」、「繊維機械及び精密機械器具」も類似の要因を持ち、これらは都心に加えて名東区への特化した立地がある。営業の対象は自動車や同部品、電気機器などメーカーの開発部門、研究所、工場やチェーンストア本部であり都心には少なく、やはり自動車により移動する。
    (5)おわりに
      都心への集中は事実であるがそれ以外の地域への立地も相当程度認められる。都心以外に立地する支店オフィスの特徴としては、まず営業対象とそれにともなう移動手段がある。一部にチェーンストア本部が営業対象となるものもあるが、多くは工場、研究所、病院などの現業部門であり、広域に分散して立地している。そのため自動車による移動が主となる。その傾向が顕著な名東区は高速道路のIC、都心に直通する地下鉄の両方を備え、加えて主に昭和40年代以降の土地区画整理により潤沢な土地供給がなされた。これらの条件を満たす地域においては同様に支店オフィスが立地する可能性があり、他の大都市においても同様のことが考えられる。
      都心以外に立地する名古屋支店には離心的移転によるものも多く、今後も徐々にそうした動きは進むであろう。ただし、このことは都心の業務機能が大きく衰退することにはつながらない。むしろ、おそらく今後、オフィス機能に関しても都心回帰の傾向が出てくると考えられるが、例えば職住近接などの視点から、今一度、オフィスの郊外立地に注目しても良いのではないだろうか。
  • 村山 祐司, 尾野 久二
    セッションID: 110
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    I はじめに
      最近,GISの世界では,計量地理学の成果と可視化技術を統合・発展させたGeoComputationが注目を集めている。この分野の研究は多岐にわたるが,重要な研究課題の1つに空間分析用のプラットホームの構築がある。その先導的役割を果たしのはSpaceStat を開発したLuc Anselinであるが,最近では,Leeds大学CCGやペンシルベニア州立大学GeoVistaなどでも精力的に研究が進められている。また,空間分析ツールの情報を集め,インターネット上で公開しているCSISS(Center for Spatially Integrated Social Science, http://www.csiss.org)の研究プロジェクトも関心を集め,世界的に高い評価を得ている。このように,人文地理学にとって有用な空間分析諸手法が次第にGISに取り込まれつつあるが,本研究は欧米の動向を踏まえ,オープンソースを利用した統合型空間分析システムを開発し,日本におけるGIS教育や地域分析に貢献することをめざしている。

    II 利用ソフトウェア
      本システムはWindowsNT/2000/XP上で動作する。 本システムを構築するにあたり活用したソフトはフリーウェアで,すべてオープンソースである。
    1.GIS関連
    GeoTools for Java(CCG開発のJava用GISエンジン), JTS(Java Topology Suite) (オーバーレイ解析モジュール)
    2.空間分析関連
    R言語・・・統計分析用言語。商用統計分析ソフトSplusのクローン。多くの拡張パッケージが存在する。

    III 統合型空間分析システム
    (1)概要
      プログラム本体(Java言語で作成)とR言語を統合するために,本システムは以下のツールを利用している。
    1.JCOM・・・システム本体とRSTATサーバー間の通信ソフト(オープンソース)。
    2.RSTATサーバー・・・JCOMとR言語間の通信(独自開発)
      これらを用いることにより,GIS機能と空間分析機能とのTight なカップリングを実現した。
    (2) 空間分析機能
      現時点で,以下の解析機能をサポートしているが,近い将来,空間的相互作用分析や空間的拡散モデルなど人文地理学の分析でニーズが高い技法やモデルを順次追加していく予定である。
        ・ 空間解析(バッファー),TIN,ボロノイ,凸包
        ・ 記述統計,多変量解析,ESDA(探索的空間分析)
        ・ ポイント・パターン分析,空間的自己相関分析,ニューラルネット分析
    (3) 実行例(空間的自己相関分析の事例)
      第4図はローカルG統計量を求める画面を表示したものであり,第5図はローカルG統計量を導出した結果の地図表示の例(茨城県,市町村単位)である。

    IV 展望
      現在,村山のサイト(http://land.geo.tsukuba.ac.jp/teacher/murayama/index.html)において,本システムを試験的に公開している。空間分析機能をより充実させるとともに,WebGIS化を果たすことが今後の課題として残されている。

    参考文献
    村山祐司・尾野久二編 『地域分析のための地理情報システム─Arc/INFOを利用して─』,文部省重点領域研究「近代化と環境変化」技術資料,1993,206頁。
  • 愛知県における内職業務供給の現状から
    尾崎 由利子
    セッションID: 112
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1.はじめに
      内職とは取引高も少なく、一般的に社会的地位も高くない、いわば周縁的な労働である。しかし、1.企業にとっては、景気に応じた発注量の調整ができ固定費が不要であるという“フレキシブル”で低コストのアウトソーシング化ができること、2.就業者にとっては、副業として主たる家計または主たる商業・農業の存続を補助すること、3.内職従事者がパート労働者等になるまでの過渡的な就業経験となることなどの経済的・社会的意義をもっている。
      国勢調査によると、家計で内職収入があるとする世帯数は近年減少しつつあるが、一部の中山間地など従事世帯数が増加している地域もある。また、近年、パソコンやインターネットを使った新たな内職業務が生まれ、その従事者は増えているといわれる。
      内職就業者のほとんどは家庭の主婦である。家にいて家事を行うために、彼女らには就業における空間的移動の制約及び時間的制約がある。その制約の中で業務を最大限に遂行するために、内職業務の供給パターンは、近隣での業務供給が行われ、仲介者であり移送者かつ情報の伝達者である「親方」や「リーダー」と呼ばれる中間者を介在させた形となり、地理学的にも興味深い特徴が生まれる。この特徴については、従来から労働科学などの分野で研究が行われているが、さらに今日的な情報化と関連した研究が必要であると考えられる。

    2.本研究の目的・対象・方法
      本研究の目的は、現在の内職供給パターンの特徴および形成の過程を、過去との比較を行いながら、実証的に明らかにすることである。対象地域は、内職収入のある世帯の比率が3大都市圏の中で最も高い愛知県とし、対象者は内職紹介施設及び事業所として聞き取りを行なった。事業者の聞き取りを補完するため内職者にも聞き取りした。また、内職業務の変化を把握するために、過去の調査研究、新聞掲載の内職情報及び「実用書」である副業ガイド・職業ガイドを概観した。

    3.過去の内職業務供給パターンの傾向
    *省略*4.内職業務の供給パターン
    *省略*5.本研究で得た知見と今後の課題
      本研究で得た知見では、内職従事者の就業行動は、次の時間的・空間的行動の制限の点で特徴づけられているといえる。1.就労可能時間が短く、連続していない場合が多いこと、2.育児や家事のため家から長時間離れることが困難であるか、あるいは離れたくないと考えていること、3.家庭に自家用車があっても昼は利用できないなど、移動手段に制限があること。そして内職の業務供給方法は、この制限を克服あるいは軽減し、従事者と事業所の利益を最大化するために、次のように形成されている。

    (1)仲介者または配送者の存在
      内職業務においては、過去においては「親方」、現代では「リーダー」などと呼ばれる仲介者を結節点とした組織を形成することが多い。また、最近のテレワーク業務においてもその傾向は同様であり、自然発生的に仲介者が生まれてくることがわかった。リーダーをおかない場合は、集配担当者をおき、業務の配送と情報の伝達を行っている。
      リーダーの管理できる最適内職者数や、業務量と従事者の立地からリーダーを何人おけば最も円滑に業務が進むのかについては今後の検討課題である。

    (2)内職供給コストによる事業所の立地
      事業所と発注元の距離は近接した方が合理的であるように思われるが、事業所によっては、発注元から離れても内職者が多く住む地域の近隣に位置するものもあった。材料の運搬が伴う業務請負業などがそれである。発注元や材料供給者との移送コストと内職者への業務の供給コストを合算したコストが、最も低くなる地点を事業者が経験的に選択していると考え、今後、均衡地点の算出を試みる必要がある。また、都心回帰などの人口構造の変化により、事業所の立地傾向に変化が起きる可能性もある。

  • 山神 達也
    セッションID: 113
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      人口規模別に都市圏の人口成長をみた場合,人口規模が大きいほど時間的に早く大規模に,広範囲にわたって分散が起こるという見解,中小規模の都市圏を大都市圏の縮小版と見る見解,人口規模が異なると都市圏の成長性には本質的な差異があるという見解,など,様々な見解が混在している。このことから,本報告では,1965年以降の日本の都市圏を対象に,人口郊外化過程における人口規模別の差を検討した。そのさい,都市圏の設定は山田・徳岡(1983)による標準都市雇用圏(SMEA)を用いた。SMEAは,市町村を基本単位とし,中心都市への通勤率などを用いて対象年ごとに圏域を設定するが,本報告では,1995年での圏域に固定した。また,SMEA内部をSMEA編入年次別に区分した。具体的な分析にさいし,1965年時点でのSMEAの人口規模をもとに,階層I(3大SMEA),階層II(前記以外で中心都市が政令指定都市),階層III(前記以外で50万人以上),階層IV(30-50万人),階層V(30万未満),と階層区分した。本報告での分析結果は以下のようにまとめられる。
      階層別に中心都市と郊外に分けて人口増加率を見ると,郊外が最大の人口増加率を示した期間は,階層Iと階層IIは1965-75年であるのに対し,他の階層は1975-85年である。また,各期間における郊外の人口増加率は,階層上位ほど高い。このことから,平均的な動向としては,階層上位のSMEAほど,時間的に早く大規模に人口郊外化が起こったといえる。しかし,この中心都市と郊外という二分法では,各郊外市町村の多様な動向を看取しえない。
      そこで,郊外を編入年次別に区分して,人口減少市町村数と人口急増市町村数を調べた。人口急増市町村数は,基本的にはどの階層でも,各分類でその数が最大になった時期が,新規編入郊外ほど近年であることから,人口の分散を読み取ることができる。しかし,詳細に見ると,階層上位ほどその時期が早く,人口急増市町村の割合が高い。一方,人口減少市町村数は,階層Iでは年々増加してきたが,それらは早い時期から郊外であったものが多い。また,階層IIでも全体的に増加しつつあるが,編入時期が近年のものでの割合の高さに注目される。それ以下の階層では,編入時期が近年のものほど多い。以上の点から,人口規模が大きいほど,郊外化の時期が早く大規模に,そして広範囲に及んだことが確認できる。
      また,人口急増市町村数と人口減少市町村数の両者に目を向けると,各階層とも,このどちらかに属する市町村が増えており,人口が急増するか減少するかの二極分化が進んできた。これは,階層Iの場合,早い時期から郊外であった市町村に人口減少市町村が多いことから,人口密度分布が平準化したものと考えられる。また,階層IIの場合,95年編入郊外で人口減少市町村の方が割合は高い。すなわち,階層IIのSMEAの外縁部に位置する市町村では,人口減少が継続し,人口分散の影響がほとんど見られないのである。そして,階層III以下では,郊外全般で急増か減少かの二極分化が見られる。加えて,階層が下位ほど,また,編入時期が近年のものほど,人口減少市町村の割合が高い。したがって,人口規模が小さいSMEAほど,人口成長の見られる市町村数が限られ,特定の市町村に向いてのみ人口分散が起こって,他の市町村では人口流出が継続したのである。この動向は,3大SMEAとは対照的である。すなわち,人口規模が小さいSMEAでは,人口分布の偏りがより強化される形で,人口再分布が進んできたと考えられるのである。
      以上のように,平均的な動向としては,階層上位のSMEAほど,時間的に早く大規模に人口郊外化が起こったといえるが,郊外市町村間の差異を考慮した場合,階層上位のSMEAでは,人口分布の偏りが弱まる形で郊外化が進展してきたのに対し,階層下位のSMEAでは,郊外の各市町村均等にわずかずつ人口増加が見られるわけではなく,人口分布の偏りが強化される形で郊外化が進展してきたと考えられる。
      人口規模別にこのような差異が生じた要因を考えると,人口規模が小さいと中心都市から人口を押し出す力が相対的に弱いという点が挙げられる。そして,同一SMEA内の郊外間で差異が生じた要因として,中心都市とのアクセスの良さが考えられる。具体的には,郊外市町村に中心都市への通勤率の上昇をもたらしたものが,離農や兼業化に伴うものか,中心都市からの転入人口によるものか,という相異が考えられる。前者であれば,人口分散の有無に関わらず通勤率が上昇するが,後者であれば,人口分散が通勤率の上昇につながるからである。
  • 日本の電子鍵盤楽器産業についての事例
    ライフェンスタイン ティム
    セッションID: 116
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
    会議録・要旨集 フリー

    I.はじめに
      現在,経済地理学において製造業の技術的イノベーションについて注目が集まっている。しかし,関連する研究は,ほとんど漸進的イノベーション(incremental innovation)と地域内ネットワークに注目している。これに対して,根本的イノベーション(radical innovation)と地域間ネットワークについては,注目が少ない(Asheim 1999, Hudson 1999, Bunnell and Coe 2001, Oinas and Malecki 2002)。進化経済学の視点では,根本的な技術変化は基本技術(現在の場合では半導体)が経済に広がり,他部門の発展に影響を及ぼすことが知られている。このような時期には,競争者(各会社)は多様な部門からの出身者を集め,1つの部門をつくる。Schumpeterはこの過程を「群がり」 (swarming) と呼ぶ。本研究の目的は,進化経済学のアプローチによって,日本の電子鍵盤楽器産業を調査し,上記のネットワークを明らかにすることにある。1970年代頃から,日本の大手楽器メーカー,特に本社が浜松にある会社(ヤマハ,河合,ローランド)は,電子楽器を開発し始めた。これらの会社は,音源の技術やピアノのタッチを再現する技術などの点で,アメリカの競争者たちをしのぐようになった。このような技術学習の過程において,これらの会社は一般的な電子技術の習得を必要とした。例えば,1965年からヤマハが半導体について知識を収集し始め,1972年には自社のLSI(大規模集積回路)を開発した。1980年代からは,他の電子メーカー(カシオ,松下)が電子楽器部門に参入した。新しい部門(電子楽器)は,部門間イノベーション (transectorial innovation) によって開発が行われたのである。

    II.研究の方法
      まず,アメリカの特許データベース (US Patent and Trademark Office Patent Database) から1970年から2000年までの特許統計を収集し,分析した。次に日本人とアメリカ人の発明者にインタビューを行った。

    III.結果
      特許の分析によると,1980年まではアメリカの発明者が日本の発明者より電子楽器特許を多く獲得していた。しかし,その後,日本の発明者がアメリカの発明者をしのぐようになった。ちなみに,国内で浜松在住の発明者は約65%を占める。インタビューの結果によると,イノベーションの源泉は複雑であるが,一般的に成文化された知識の流れと暗黙知識の流れが存在する。地域内における相互学習の過程は見えにくいのに対し,技術開発をめぐるメーカーとアメリカとの関係は,はっきり確認できる。例えば,ヤマハがスタンフォード大学で開発された研究特許を連続して使用した。また,1981年から1985年までの間,河合は41特許を発明したが,そのうちの24件はRalph Deutsch (アメリカ人)の特許に基づくものであった。そして,様々な日本の会社がアメリカの会社を買収した。

    IV.結論
      根本的イノベーションの地理学は複雑で,ネットワークは地域外にまで伸びている。日本の電子楽器産業の事例では,イノベーションに群がる過程は存在するが,地域外のネットワークが地域内の直接学習よりも強い。一方,地域内における最も有力な学習過程は部門間イノベーションである。

    文献
    Asheim, B. 1999. Interactive learning and localized knowledge in globalizing learning economies. GeoJournal 49: 345-352.
    Bunnnell, T. and Coe, N. 2001. Spaces and scales of innovation. Progress in Human Geography 25(4): 569-589.
    Hudson, R. 1999. The learning economy, the learning firm and the learning region: a sympathetic critique of the limits to learning. European Urban and Regional Studies 6: 59-72.
    Oinas, P. and Malecki, E. 2002. The evolution of technologies in time and space: from national and regional to spatial innovation systems. International Regional Science Review 25(1): 102-131.
第2会場
  • 大阪市と川崎市を事例として
    黄 慧瓊
    セッションID: 204
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1.問題の所在
      本発表は,在日コリアンの食文化の地域的差異を調べたもので,食文化を通じて民族的アイデンティティを検討したものである.地域対象としては大阪市と川崎市における在日コリアンの集住地区を中心とした.
      在日コリアンの研究では,教育面・政治面・社会面など多様な方向から進められてきた.その多くは,在日コリアン社会全体と日本社会との関係という全体的視野からの対比に焦点を絞っており,在日コリアンの生活上の最小単位である家庭は主たる考察対象とはされてこなかった.
      しかし,本発表は全体的な研究に対して,家庭に焦点をあてる.その理由はホスト社会における少数民族の文化の継承過程をみると民族総体としてではなく,家庭組織を通じて伝承されると考えるからである.特に食文化は,社会集団全体の中で伝承される側面よりも,家族内において親から子供に伝承・継承される傾向を有している.
      さらに食文化は,居住地域ごとにその特性が変化するとともに,食文化を共有する人間集団間にとっても,ある種の連帯感すなわちアイデンティティを共有することにより,他の人間集団と区別させる特性がある.地域対象として大阪市と川崎市をとりあげたのは,関東地域と関西地域の代表的集住地域という側面がある.また,民族的アイデンティティを生み出す在日コリアンのホスト社会との関係の在り方に両者地域差があると考えられるからである.

    2.調査方法および対象
      今回の調査対象としたのは,大阪市と川崎市における在日コリアンの集住地区で,その地区における世帯ごとに行事食と日常食にわけて,その内容を調べた.調査方法はアンケート調査を中心に,聞き取り調査も行った.
      調査期間は,大阪市では2000年11月から2001年4月まで,川崎市では2002年1月から2002年4月までであった.アンケート調査は大阪市では特に生野区を中心として1000世帯,川崎市では特に川崎区を中心として400世帯を対象に行い,それぞれの有効回収率は70.5%,30.5%であった.

    3.民族的アイデンティティと食文化との関係
    1) 民族的アイデンティティと行事食
    2)民族的アイデンティティと日常食
    ・チェサの参加および継承意志・家庭でのキムチ摂取頻度およびキムチ入手方法・家庭での正月料理・家庭での韓国・朝鮮料理摂取頻度・正月料理の盛り付け方法・家庭での料理の味付け・チェサのお膳に使う箸の素材・料理の嗜好および箸の置き方・家族との外食時の料理・結婚式・日常食の料理の購入場所・結婚式の披露宴の主な料理・鍋料理を食べる時の食事習慣・正月・結婚式以外の伝統行事・普段使う箸の素材および箸の置き方・行事食料理の材料の購入場所・食事メニュー

    4.調査の結果および考察
      以上のように,在日コリアンにおける民族的アイデンティティと食文化との関係を,特に行事食と日常食にわけて,大阪市と川崎市を事例として比較考察した結果,大阪市の在日コリアンにおいては民族的アイデンティティとコリアンの行事食との間,民族的アイデンティティとコリアンの日常食との間の両方とも関連がみられた.このような関連がみられた理由として,民族的アイデンティティが食文化に影響を与えているためだと考えられる.一方,川崎市の場合では,民族的アイデンティティとコリアンの行事食との間には関連がみられず,コリアンの日常食においては一部分に限って関連がみられた.
      川崎市において,民族的アイデンティティと行事食との間に関連がみられなかったのは「抑制的な環境」が作用したためだと考えられる.
      「抑制的な環境」では,民族的アイデンティティを強く感じさせる要因が作用すると,ふだん民族的アイデンティティが弱い人でも民族的アイデンティティが高揚する.行事食は儀礼(チェサと各種行事)意識が料理に含まれたもので,その儀礼意識が作用して民族的アイデンティティが高揚すると考えられる.
      また,川崎市の日常食においては,家庭でのキムチ摂取頻度と家庭での韓国・朝鮮料理摂取頻度に関連が見られなかった.その理由として川崎市,特に川崎区の桜本商店街の韓国・朝鮮専門店は,キムチだけではなく韓国・朝鮮料理も商品化され,種類も多いものの,すぐ買って食べやすくなっている状況である.そのため,日常には民族的アイデンティティの強弱との関係なく,摂取されたと考えられる.
  • 乙部 純子
    セッションID: 207
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      近代初頭におけるわが国の外国人居留地の特質を考察するためには、内部の土地利用や居住者の動向に関する詳細な分析が不可欠である。しかし、従来の分析は現存するデータを十分活用したものとはなっておらず、広く流布している通説にもまた再点検の余地を残すものが少なくない。
      幕末の安政五カ国条約により、1859年7月に日本最初の開港場となった横浜では、「居留地」と呼ばれる開港場の一定地域に限って、外国人たちの商取り引きと、住宅の構築が認可された。その結果、関内居留地は主として貿易関係業務地区、山手居留地は住居地区として利用された、とみなされている。このうち関内居留地内部の土地利用について、藤岡ひろ子(1992)は、機能分化した9つの同質地域に分類し、堀川沿いを「混合地区」=商業地域から華僑の地域への漸移地帯、旧横浜新田を「混合地区(華僑地区)」としている。この中で後者での「個人住居」の存在に触れ、「多くの華僑が住んだ」としているが、Japan Directory(戦前に横浜、神戸、長崎などや香港等の開港場で発行されていた英文の年鑑)をみると、藤岡が「個人住居」とみなしたと推測されるPrivate Residenceには、多くの場合、欧米人の氏名が記されており、中国人の氏名記載は決して多くない。
      報告者は現在、1868~1900年におけるJapan Directoryに記載された横浜居留地情報について、データベース分析を進めているが、本報告では、そこに掲載された関内居留地のモPrivate Residenceについて、分析結果を取りまとめたい。そこに氏名を記された人々の特性を、記載された年、年数、場所、職業などから分類し、関内居留地内での居住の実態とその分化について考察した結果は以下のとおりである。
      Private Residenceモに氏名が記載されていた人々は、次ぎのような類型に分類することができる。すなわち、a 掲載年数が短く、Private Residence以外にJapan Directoryに記載がないもの、b Private Residenceモ以外にも氏名が記載され、比較的継続年数の長いもの、c 1895年以後に新たに増加するPrivate Residenceで関内居留地内部に広く分布しているもの、である。
      1868から1900年を通じてもっとも多くみられるaは、多くの労働者を必要とした業種である土木・造船関連業や運輸業等の用地の近隣に立地しており、当時の欧米人の居住地であった山手居留地との関連がほとんどみられない。したがってこれらは近隣業務地に勤務した労働者層であったと推測される。継続年数の短いホテルやイン、居酒屋等もaの立地に比較的近い場所、もしくは同一の地番にみられ、滞在期間の短いこれらの労働者に住居を提供していたものと推測できる。
      bはPrivate Residenceが記載される地番と同一か、近隣の地番に立地する商社や店鋪にも氏名が見えることから、これらの商社・店鋪に勤務する人物と推測される。これらのなかには、山手居留地にも氏名記載のある場合がみられる。
      cは1894年の日清戦争を契機に増加した部分であるから、とりわけ日清戦争により帰国した中国人の代替人と性格付けることが可能である。日清戦争により、居留地人口の2/3を占めていた中国人の帰国が相次ぎ、中国人人口が1893年の3325人から94年には1173人と激減(横浜港在留外国人戸口数表による)したことにより、それまで商社などにおいて中国人が担っていた仕事の代替として多くの外国人労働者が招来されたものと推測できる。したがって、居住者の特性はaに準じるものとみなされる。
      以上のように、横浜居留地に住む欧米人は、社会階層の違いにより山手と関内に居住分化していたこととみなされ、社会経済的地位の高い中産階級・ホワイトカラー層が山手に居を構える一方、労働者階級は職住近接の関内居留地に居住していたが、関内居留地における欧米人は流動的で、短期的な滞在者が多数を占めたものと推測できる。この中でより定着的な居住者のなかには、後に山手居留地へと移動する例も少なくない。関内居留地には中国人集住地区がみられるが、欧米人のPrivate Residenceと隣接した場所とされている。
      横浜居留地の構造をみていく上で、人口の多くを占めていた中国人について考察することは不可欠である。本報告で考察した欧米人労働者層と、それに隣接する中国人の居住状況がどのように変容したのか、これらを今後の課題としたい。

    <参考文献>
    藤岡ひろ子(1992):外国人居留地の構造ー横浜と神戸ー, 歴史地理学, 157, 58-84p.
  • 金 木斗 哲, Yoon Hong-key
    セッションID: 209
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      1991年にニュージーランド政府がユーロピアン以外にも移民の門戸を開いてから新たな生活スタイルを求める多くのアジアの人々が当地に渡っている。特に韓国人移民の増加は目を見張るところがある。現在韓国はニュージーランドの5番目の輸出国であり、イギリスを追い越す勢いで両国の経済関係は緊密になってきた。これに伴って韓国人移民も急速に増加し、1996年のセンサスでは総人口の0.35%に当たる12,657人もの韓国出身の住民が報告された。これは10年前の426人に比べ約30倍の増加であり、彼らはニュージーランドの多文化傾向に十分貢献できるまで成長している。また、ニュージーランドにおける最大の都市であるオークランドには約1万人以上の韓国人が住んでおり、オークランド総人口の約1%に上っている。彼らの居住地域を見ると、約6割がオークランド大都市圏のNorthshore地域に居住していると推定され、アジアからの移民グループの中でも最も地理的集中度が高い。
      Yoon(1997)によると、韓国人移民の職業の種類は1992年の20から1997年の55と韓国人移民の増加に伴って多様化している。また、韓国人移民が経営する事業体の数も1992年の37から1997年の636へと1600%の増加を見せている。しかしながら、韓国人が経営する事業のほとんどは、ホスト社会の経済ネットワークに浸透できず、典型的なエスニック・ビジネスの段階に止まっている。つまり、韓国人の資本と経営スタイルで韓国人の従業員を雇い、主に韓国人を客にするものである。
      では、ニュージーランドへ移民する韓国人はどのような人々で、なぜニュージーランドを移民先として選んだのか。ニュージーランドにおける韓国人移民はほぼ例外なく高学歴で中産階級のホワイト・カラー出身である。また、韓国経済が好況のピークに向かっていたときに祖国を離れた彼らは、子供の教育環境ときれいでゆとりある生活環境をもっとも重要な移住動機として挙げている。このような社会経済的属性や移民の動機は、低い社会経済的ステータスと経済的理由といった従来の韓国人移民とは明らかに異なっており、新しい韓国人ディアスポラを象徴するものと言える。このように異なる社会経済的背景と移住動機をもつニュージーランドにおける韓国人移民は、移住前に描いていたパラダイスとしてのニュージーランドのイメージと現実としてのニュージーランドでの生活の間でどのように妥協し生活を営んでいるのか。本報告ではニュージーランドにおける韓国人移民の動向を1996年度センサスの分析と現地での深層インタビューより明らかにする。
      ニュージーランドにおける移民政策の転換はニュージーランドの実験と評される新自由主義改革の一環として1986年に行われた。それまでニュージーランドでは社会の安定(social fabric)という名分のもとに白人特にイギリスとアイランド出身を優遇する差別的な移民政策が厳格に維持されてきたが、1986年の移民法改正によって伝統的な特定出身国選好システムを廃止された。しかし、この改正では移民者に高い英語能力を要求するなど依然として差別的な要素が多く残され、期待された投資移民の増加はほとんど現れなかった。1986年の移民法改正が批判を浴びる中、ニュージーランド移民省は1991年に‘新しい移民者の個人的な貢献により多文化社会としてのニュージーランドを促す’ため、‘ポイント・システム’と呼ばれるより進んだ移民法改正に踏み出した。このポイント・システムの導入はアジアからの移民の増加に特に効果的であった。ニュージーランドの移民法は移民の数だけでなく、移民者の年齢、学歴、技術や経済状況をも巧みにコントロールしてきた。現在、ニュージーランドにおける韓国人移民の典型は3、40代で大学教育を受けた中産階級出身である。しかし、ニュージーランドにおける彼らの就業状況をみると、65%が失業ないし非就業人口であり、就業者のほとんども記念品店、レストラン、旅行代理店などのエスニック・ビジネスに従事している。これは移民社会の初期においては共通する現象であるが、韓国人移民の場合は言葉の壁以外にも文化的な違いによって主流社会への同化にほかの移民グループより困難を極めている。
      ニュージーランド移民省長官は1998年に“移民政策の失敗は数万の高級労働力が彼らの専門分野で働く展望をなくす結果を招いた”と認めた。確かに数千の高級技術を持つ韓国人移民が失業或いは非就業状態にある。しかし、ニュージーランドにおける韓国人移民社会の歴史は浅く、主流社会に適応する十分な時間がなかったことを考慮すると、彼らのアイデンティティつまり、Koreanか, New Zealanderかあるいは Korean New Zealanderかは今まさに形成中であると考えられる。また、それは移民社会に存在する3つの力、同化、隔離, そしてディアスポラの相互作用にかかっている。
  • 岐阜県営住宅・ハイタウン北方を事例に
    村田 陽平
    セッションID: 212
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      今日の日本の学際的な空間論(地理学・都市社会学・建築学など)において,ジェンダーの視点は,「新しい」視点として注目されつつある。1970年代の女性解放運動を受けて誕生したジェンダーという概念は,自然とされてきた性差が社会文化的なものであるという認識変革をもたらした。ただしこの概念が,日本の空間論で一般的に認識されるようになったのは1990年代後半になってからである。そのため関連研究は十分ではなく,空間論においてジェンダー概念が適確に理解されているかは疑問である。そこで本研究では,ジェンダーの視点を取り入れたとされる岐阜県営住宅・ハイタウン北方を事例に,その問題を検討したい。空間のなかでも居住空間はフェミニズムが重要視してきた日常生活の場所の一つであるが,今日の居住空間において,ジェンダーの視点のコンテクストや意味などは的確に認識されているであろうか。
      岐阜県南西部・本巣郡北方町にある岐阜県営住宅・ハイタウン北方は,1960年代に建設された県営長谷川団地の老朽化に伴う建て替えとして建設された。このプロジェクトの総合コーディネーターとして選ばれた建築家・磯崎新氏は,南地区をジェンダーの視点による空間の創出と位置付け,すべて女性の設計者を起用した。
      まず日本の建築ジャーナリズムにおけるこの公営住宅の評価を検討した結果,この公営住宅は概ね好意的な評価を得ていることがわかった。一方,2002年6月から9月に実施した住民へのヒアリングを通じて,この住居空間は「新しさ」や「明るさ」といった点では一定の評価が得られているものの,いくつかの問題点があることが明らかとなった。住居空間の大きな問題としては,そこで暮らす生活者の視点が十分には組み込まれていない点である。また非住居空間の大きな問題としては,海外の女性設計者による中庭が住民によって身近なものと認識されておらず積極的には使用されていない点である。そこで設計者の言説などを検討した結果,女性設計者たちが生活者の視点よりも外観などのデザインを重要視する傾向が明らかになった。この空間に対する彼女たちの「まなざし」は,(住居部・非住居部ともに)「外側」の場所から主に向けられており,「内側」で暮らす住民たちの立場を必ずしも反映したものではないのである。
      次にこの空間を岐阜県という場所の意味から検討すると,ハイタウン北方のような公共住宅は全国どこでもみられるものではなく岐阜県に特有の事例といえる。その背景として県知事の強いリーダーシップによる岐阜県政があげられ,この住宅の他にも県内には多くの公共建築がつくられている。その一方で,岐阜県には女性センターと呼ばれる建物が存在しない。地域のジェンダー活動の拠点となる女性センターは,ジェンダーの視点に特徴的な空間であり,男女共同参画基本法が制定された今日では全国のほとんどの都道府県に存在するようになっている。ところが,岐阜県にこのような空間がないのは県政がジェンダーに関わる政策を必ずしも積極的に進めているわけではなく,岐阜県という場所は必ずしもジェンダーの視点の先進地域ではない。すなわちハイタウン北方は,ジェンダーの視点というよりも,主にこのような岐阜県のコンテクストのなかでつくられた側面が強いのである。
      以上から,このハイタウン北方という空間はジェンダーの視点との関連性は低く,むしろ「男性」県知事や「男性」建築家などを頂点とする旧来の男性論理のなかで生産されたものといえよう。ジェンダーの視点を重視するならば,岐阜在住ではない有名な女性設計家のみに依頼することや女性に限定すること自体再検討すべきことであった。このようにジェンダーの視点という名目で生産される空間が,必ずしもその視点と関連しているわけではないことは,まさしく空間論においてジェンダー概念が適確には理解されていない一つの表象といえる。空間論に対するジェンダーの視点の核心は,単に女性の視点を強調することではなく,自己の性別をめぐる空間的な諸現象を主体的に自省することにある。一方,女性設計者たちが「女性=生活者」という与えられた役割を(意識的でなくとも)結果的に果たさなかったことは,旧来の女性観に対する一つの「反逆」と積極的な意味でとらえることも可能である。しかし,その行為がそこで暮らす生活者の軽視に繋がるのなら,必ずしも有意義なことではないだろう。
  • 矢寺 太一
    セッションID: 216
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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     近年わが国では,社会福祉サービスの再編が議論されている。その方向性は利用者とサービス供給者との直接契約制を導入すること福祉分野への競争原理を根付かせるというものである。再編論のひとつの根拠となっているのが,福祉サービスの普遍化であり,ナショナルミニマムが多くの分野で達成され福祉サービスが本来の救貧的役割を終えたという論調である。しかしそういった意見の一方で,いまだ福祉サービスの質・内容および供給量の向上が求められており,更なるサービスの充実が求められているという見解もみられる。この論調の対立にみられるように,どこまでが国民の生活上必要最低限のサービスであるかというミニマムに関する議論は今後社会福祉サービスの再編を論じる上で必要不可欠であると考えられる。
     こうした議論に対する回答のひとつの基礎となるのが,既存の公的社会福祉サービス以外の,同内容のサービスの存在である。こうしたサービスが公的福祉サービスと同様のミニマムレベルの生活を求めるニーズに基づいて存立しているか否かは,社会福祉サービスの更なる拡大の必要性の有無に直結する。またこうしたサービスは公的規制・財政的援助なしに運営されているものが多く,その存立形態を明らかにすることは供給体制の再編方法の模索するのにも役立つ。
     本発表では,保育の分野を例にとり話を進める。保育サービスは,公的社会福祉サービスとして児童福祉法に基づき,国・自治体が運営する公営保育所と主に社会福祉法人が運営する私営保育所によって供給されてきた。これら認可保育所対して,主に都市部に個人および企業などによって運営される認可外の保育施設が存在する。認可外保育施設の存立状況およびその利用者特性を明らかすることにより,地理学の立場から保育における上記のような議論に対する基礎的資料を提供する。
      広島市には2001年6月現在,76の認可外保育施設が立地している。施設数は近年増加傾向にある。1990年代に入る前は,市中心部に立地しているのみであった。この時期は保育サービスの供給量が充足されていた時期であり,夜間主のベビーホテルが特定地域に立地しているのが目立つ程度である。1990年代に入ると,郊外地域でも立地が見られるようになった。1990年代前半は,その数はそれほど多くなく,設立が見られる一方廃園も少なからずみられる。この時期はまだ郊外地域よりも市中心部での設立が顕著である。1990年代後半になると,広島市でも全国の大都市と同様に保育需要の数的拡大がみられる。この時期から郊外地域で数多くの施設立地が多く見られるようになった。
      今回,26の認可外保育施設に対して調査を行った。うち企業によって運営されているものが11,個人運営が15であった。1995年以降に設立した施設が10施設あったが,20年以上存続している施設が6施設あった。その多くが夜間主のベビーホテルで,昨今保育ニーズの多様化が指摘されている中,夜間からの保育ニーズは古くからあったことを示している。入所児童は,認可保育所の定員が少ない3歳未満児が多く,保育時間も昼間主の施設でも認可保育所よりも長い傾向にあり,認可保育所の保育サービスで満たされないニーズに対応していると考えられる。保育時間に応じた保育料体系や,保育や教育内容を売りにしている施設も多い。
      認可外保育施設の運営者は,多かれ少なかれボランティア・社会貢献的考えを持っている。運営者は,不動産業者などが遊休スペースを活用したケースと,保育士免許を持つものが,その資格と経験を生かして開設するケースにおおまかに二分される。前者の場合は施設運営の最も大きな負担となる家賃を支払う必要がないためやや運営状態が良い。後者は,自分の子育てが終わった後の生きがいとしての社会貢献として開設する場合,以前認可保育所に勤めていた者が,保育方針などの食い違いなどにより退職し開設する場合がほとんどである。
      認可外施設への入所理由は,保育時間の長さを挙げた世帯が目立つが,待機児童が多い安佐南区や安佐北区の施設では認可保育所へ入所できなかったことを理由として挙げている世帯もみられる。その他,保育方針や保育士との相性,保育料の安さ,急なニーズの発生,手続きの簡便さなど,単にサービスの量・内容の充実だけでは語れないニーズも数多く存在している。
第3会場
  • 有薗 正一郎
    セッションID: 303
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1 はじめに
      近世後半の日本の人口はほとんど変わらなかったが、サツマイモを多く食べた西南日本の諸地域の多くは人口が増加した。発表者は「サツマイモを主な食材にする食の体系が普及した地域では、その時期に人口爆発が起こった」と考えている。
      本発表では、まず食物としてのサツマイモの長所と短所をあげ、次に西南日本3地域におけるサツマイモ食の普及と人口増加との関わりを、近世後半と近代初期の資料を使って説明する。

    2 サツマイモの性格と食体系
      サツマイモの長所は3つある。第一は、単位面積当たりの収量が他の熱源作物よりも多いことである。第二は、人間が食べる部分が地下にできるので風害に強いし、つるが表土を覆って水の蒸発を抑えるので、干害にも強いことである。第三に、つるを植えておけば手間をかけなくても一定量の収穫が得られることである。

    3 西南日本3地域のサツマイモ食と人口
      沖縄島では遅くとも19世紀前半にはサツマイモは1年中収穫されるようになっており、近代初期にはサツマイモはイネの6倍近くの収量があった。ただし、サツマイモは連作すると病害虫に犯されるので、他の作物と輪作されていた。サツマイモとたんぱく質を摂取するための大豆の加工品(味噌汁と豆腐)を組み合わせる食体系の下で、近代初期の沖縄島では単位面積当たり日本平均の2倍の人口を養い、耕地の単位面積当たりの生産力は日本平均の5倍あった。
      近世の薩摩藩領の人口増加率は日本平均よりも高く、近世後半に人口が増加したことは確実である。またこの間に鹿児島県の耕地面積は3.5倍になり、かつ増えた耕地の大半は畑であった。近世後半はシラス台地上の畑地開発の時代であり、風害と干害に強いサツマイモが夏季に作付された。近世後半の薩摩藩領ではサツマイモといわし類と味噌汁を組み合わせる日常食が普及していたと考えられる。
      近世末の九州大村藩領の人口密度は近代初期の日本平均よりも高く、耕地の単位面積当たり生産力は日本平均の2倍あった。また旧大村藩領の近代初期のサツマイモのエネルギー生産量はイネの2.3倍あった。大村藩領では近世後半にサツマイモのたんぱく質不足をうるめいわしの干物で補う日常食の体系が形成されていた。大村藩領の中でも、西彼杵半島の諸村では、売り出せる量のサツマイモといわし類を生産していた。
  • 指宿・小根占を中心に
    森田 浩司
    セッションID: 305
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    I.研究の目的
      薩摩藩は藩特有の外城制度を設け、鹿児島城下町とその近在及び屋久島、口永良部島、七島、道之島などを除く、薩摩・大隅の2国と日向国諸県郡の領域を113の「外城」として区画していた。外城の数は、102あるいは120といわれ一定しなかったが、延享元年(1744)以降は、地頭所92、一所(私領)21、計113になった。天明4年(1784)4月に「郷」と改称したため、外城制度を郷士制度とも呼ぶようになった。
      このような外城制度及び個々の外城(郷)については、諸先学によって明らかにされている。しかし、城下町と外城(郷)における配置的・機能的システムを論点とした研究は、これまで十分には検討されてこなかった。そこで本報告は、「指宿」・「小根占」を中心に、鹿児島城下町と外城(郷)の位置関係や機能・役割という視点から考察を行う。
    ※なお、本報告は「外城制度」を根幹とするものであるが、城下町をふまえ各外城(郷)の位置関係における機能・役割が有機的に関係し合い、全体としてまとまった機能を発揮している集合体とした外城(郷)を論点としているため、あえて「外城システム」と題した。

    II.研究の方法と分析
      各外城(郷)は、その構成規模に大小があり、郷士戸数などによって大郷・中郷・小郷及び私領地に区分されていた。本報告は、その中でも「大郷」に着目して考察を行い、幕末期の『薩隅日琉諸郷便覧』における村数と石高の相関関係を分析した。「出水」・「大口」・「高岡」などの国境付近に位置する郷は、当然のごとく防御目的で村数・石高ともに多く、「大郷」となっている。つまり、村数が多く石高が高いのは「大郷」または「藩の要所である郷(例:帖佐など)」となる傾向が明らかである。その一方、一部例外として、「指宿」・「小根占」は村数も石高も少ない割に「大郷」となっている。

    III.考察
      藩主島津家久が「鶴丸城」築城の際、義弘が指摘しているように、鹿児島城下町は海からの防御機能に乏しい。そのため鹿児島湾の入り口にあたる東西の郷(指宿・小根占)を「大郷」にして海上からの攻撃に対する防衛機能を重要視していたことがわかる。 小根占では、藩政時代の天保9年(1838)に外敵の侵入に備えて、藩より大砲を借り受けて、さらには遠見番所を置き外船の通過あるごとに烽火をあげてこれを報じているなど、海上からの外船の襲来に気を配っていた。

    IV.結論
      本報告では、薩摩藩における「外城制度」を個々の外城(郷)として考察し捉えるのではなく、藩全域スケールで各外城(郷)と城下町との相互関係を加味しつつ分析した。その際、一般的な傾向から逸脱する「指宿」・「小根占」を中心に、城下町と外城(郷)のシステム的連関について考察した。
      結論としては、以下のことが指摘できる。 鹿児島城下町が海上からの攻撃を警戒していたため、海上交通の要所となる鹿児島湾入り口にあたる「指宿」・「小根占」の両郷を「大郷」とし、海上の防衛拠点として重要視していた。
      このように、「鹿児島城下町」と「薩摩藩の外城制度」との間には明らかに因果関係があり、薩摩藩における外城制度を論じるにあたっては、藩全域スケールで各外城(郷)と城下町との相互関係をも加味することが必要であると考えられる。今後は、さらに多くの事例を分析しつつ、薩摩藩における「外城システム」の位置付けを課題とする。
  • 本居宣長作「端原氏城下絵図」
    上杉 和央
    セッションID: 309
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      本居宣長(1730年から1801年)は国学者として著名である.彼は,まだ学問世界に身を置く23歳よりも以前から,多くの書物を読んでいるが,同じ頃,地図とも戯れていたことはほとんど知られていない.宣長は,15歳から23歳にかけて,6枚の地図を作製しているが,それらは既存図の単なる模写ではなく,彼独自の地理認識が表現されたものとなっている.その中でも,特に異彩を放っているのが「端原氏城下絵図」(本居宣長記念館蔵)と称される作品である.
      この図には端原氏の治める城下町が描かれている.端原氏とは何者か.実は本居宣長が創りあげた架空の氏族である.地図とは別に,宣長は (架空の)神代に端を発する端原氏の系図,および端原氏15代当主宣政時代の家臣256氏の略系図が記載された「端原氏系図」(本居宣長記念館蔵)と呼ばれている系図も作成しており,この宣政の治める城下町が描かれているのが「端原氏城下絵図」である.法量は51.7cm×72.0cm.裏面に「延享五ノ三ノ廿七書ハジム」とあり,19歳の頃,作製されたことが分かる.彩色は全体には施されていないが,端原氏に関する建造物の一部には朱が用いられている.街路や屋敷割,周辺部に至るまで精緻に描かれ,また系図中の人物がその住所どおりにほぼ矛盾なく記載されるといった芸の細かさである.部分的に空白もあり,もしかすると未完成であったのかもしれないが,全体としてこの地図の凝った趣向には圧倒させられるものがある.
      構図をみてみると,一見して「京都図」に似ていることがわかる.当時,すでに京都図は林吉永を始めとする諸版元から売り出されていたが,その構図ははほぼ一定であった.これらの刊行図は北が上として描かれているが,東を上にして見た場合,「端原氏城下絵図」と京都図の構図は非常に類似したものとなる.系図についても王朝時代が意識されたものとなっており,京都という舞台が意識されていたことは明らかである.この頃の宣長は,京都に関する記事をあちこちから抜書した書物や,洛外図などを作成/作製しており,京都に対して強い憧憬の念を抱いていた.実際,京都に赴いたこともあり,これらを勘案すると京都図を見ていた可能性は極めて高い.
      次に,「端原氏城下絵図」の都市と近世の実際の都市とを比較するため,矢守氏の提示された「城下町プラン」をもとに検討していく.矢守氏がパターンの析出に用いた,城内・侍屋敷地区・下士の組屋敷地区・町屋敷地区・囲郭といった指標をもとに,「端原氏城下絵図」を分析すると,この都市は「郭内専士型」に分類することができる.ここから,宣長の都市形態の理解のひとつに,このような「郭内専士型」という形態があったことが理解される.近世城下町は,それぞれの城主の意図にもとづいて都市が形成されたものである.その意味で,矢守らの分析する「城下町プラン」は支配者側の都市理念ないし都市認識の抽出であろう.しかし,それが市井の町人にどのように認識されていたのかは,あまり明確ではない.この意味で,町人である宣長が空想の都市を「郭内専士型」に描いたことは興味深い.
      「郭内専士型」は近世城下町に広く見られる形態のひとつとされるが,当時の宣長がそのような一般的状況を理解して描いたとは考えにくい(第一,この分類は近代の所産である).それでは,宣長は何をもとに,この形態を思いついたのか.京都や江戸の旅行中に赴いた都市である可能性もあるが,やはり,矢守が「郭内専士型」の代表として挙げた都市,そして宣長が生活していた都市,松坂の影響であろう.宣長は日常生活を営む中で,武士と町人の住居地が区別されていることを,自然に受け止めていた.架空の都市を描く際,この日常経験にもとづく都市形態の認識が反映したと考えられる.「端原氏城下絵図」に描かれているのは,架空の都市である.しかし,宣長がまったくのゼロから創りあげたわけではない.彼の京都への憧れ,そして日常生活における都市空間の認識といったものが基礎となっている.さらに,宣長は「郭内専士型」といった支配者側の理念を(おそらく無意識のうちに)受け止めていることも重要であり,個人的な体験や志向性とともに,近世という時代的なコンテクスト,そして空間的なコンテクストの中で,「端原氏城下絵図」は想像/創造されたのである.
  • 太田 茂徳
    セッションID: 314
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    ○発表内容
    I はじめに
      本発表では,明治20年代以降の兼六園の歴史過程を捉え返し,兼六園の「保勝」の問題が戦前期にどのように論じられ,どのような問題点が議論されてきたのかを概観したいと考えている。
      明治維新により金沢城の前庭としての兼六園は1つの役割を終えたことになるが,景観・事物の保護・保存という流れ,また都市内の「公園」という流れから,兼六園はこの2つの流れから論じることが可能なように思われる。

    II 公園としての兼六園の歴史
      このうち「公園」としての兼六園の辿ってきた流れについては,太田[2000]において明治初期の状況について論じた。そこでは,明治初期の兼六園が,国家の目的をもってを造られた上野公園と同様に,新時代の到来を演出する「新しさ」の集積地であることが確認された。
      明治初期には,兼六園において幾度も博覧会が開かれ,様々な西欧の文物が紹介されている。明治4年に園内には新しくできた鉱山学所の講師として招かれたデッケンの居宅も兼六園内に建てられ,後には勧業博物館として利用されている。兼六園は,最新の技術や知識のもたらされる場として,いわば「西洋への窓」のような場所であったと言えるだろう。兼六園には勧業博物館・図書館・工業学校などの時代の先端をいくような施設が集中的に立地し,そこに多くの人々を集めることによって新しい知識・見識を人々に与えるような場になるのである。このことは,吉見[1987]や橋爪[1990]のいうような意味での博覧会の歴史とも符合している。兼六園も博覧会の開催される場として,博覧会と意味を共有してきたのである。
      明治30年頃からは,新しい施設が兼六園内に設置されることは少なくなるが,様々な集会が兼六園内で行われるようになる。旅順陥落祝賀会などの日清・日露戦争の戦勝祝賀会,そして明治天皇の大葬に伴う行事が園内で行われている。こうしたことは,公園と天皇・国家との結びつきを示すような出来事であり,兼六園と国家的な儀礼との結びつきを強調しているように思われる。これ以外にも,戸水寛人の野外演説会が開かれ,昭和4年以降はメーデーの会場として利用されるなど,市民的な行事の場としての位置づけも持っている。

    III 兼六園保存論の流れ
      近年の町並み保存を取り扱った研究として,沖縄県竹富島の「赤瓦の町並み」の保存運動を伝統文化の創造という観点から考察した福田[1996],そして千葉県佐原市の町並みについて,景観の形成過程を商業活動の変遷過程を通して考察した小堀[1999]が挙げられる。これらは,主として1975(昭和50)年の文化財保護法改正による「伝統的建造物群」概念導入以降の過程を扱ったもので,本発表で対象とする明治期の兼六園とは時代背景に差異があるが,こうした町並み保存の問題の前史として兼六園など名勝の辿った歴史的過程を位置付けることも可能であろう。また戦前期の景勝地の保存を扱った研究としては,荒山[1995]が日本の国立公園の成立を「文化のオーセンティシティを創り出す近代的なシステム」として捉えて,文化財や史蹟名勝天然紀念物との関連にも触れながら概観している。
      本発表では,これらの研究成果も踏まえ,兼六園の美観を守ろうという議論の流れを把握したいと考えている。

  • 鈴木 晃志郎
    セッションID: 315
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      本発表は,日米の観光案内書に含まれる道案内文の空間描写を,地理学的な観点から数量的に比較分析することを意図したものである。分析はまず,都市の街路パターンの規則性に注目して日米合計4都市(京都・東京・ボストン・ニューヨーク)を対 象地域に選定した。次に,同一シリーズで4都市全てをフォローしていることを条件として日米合計6種類の案内書を選定し,それぞれの都市について,各案内書が含む地図表現および言語表現を数量化した。
      分析の結果,アメリカの案内書が主に言語表現に大きく依拠して空間描写を行うのに対し,日本の案内書は相対的に地図表現に依拠して空間描写を行う傾向が強いことが明らかになった。従って,空間的情報伝達において,この2つの表現モードには相互補完的な関係があると考えられる。
      次に,言語による道案内文の分析の結果,相対的参照系とランドマーク(ノード)の使用によって成り立つ構文が,道案内文の最も基幹的なスタイルであることが明らかとなった。空間描写の際,言語情報は基本的に地図表現の至らない部分を補う働きがあり,従って日米を問わず慣れ親しみの度合いが低い(unfamiliar)環境ではより多く用いられている。しかし,言語表現に用いられている参照系や被参照物の種類や量は,対象となっている都市の特徴(街路パターンの規則性)に応じて変化することが明らかになった。また,日米の住所表示システムの違いが,案内書に含まれる各地点の配列方法や地図表現のスタイル(彩色・座標の使用)あるいは言語情報の使用率などに影響を与えていることも明らかになった。
  • 沖 慶子
    セッションID: 316
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1 研究の背景と目的
      地理学および地理教育で使用される写真については,田中(1960),石井(1988)らにみられるように,「地学写真」,「地理写真」の定義や撮影技術などに関する議論が多くなされてきた。しかし,地理書や地理教科書における写真資料の使用状況については充分な議論がなされてきたとはいいがたい。そこで,本研究においては,印刷技術が向上し,写真資料の導入期に相当する明治期(1868-1912)に着目し,地理書および地理教科書における写真資料の導入状況やその後の変遷を明らかにすることを目的とした。

    2 研究対象の概観および研究手法
      初版発行が明治期である地理書および地理教科書――重版が大正期におこなわれたものを含む――を調査した。これらについては,鳥居編(1967,1985)に掲載されている書籍との照合をおこなった。調査対象の書籍に掲載されている視覚資料のうち,写真(金属製版でないもの)と,銅版画や木版画などの各種版画に着目し,これらにおいて写真資料が占める割合やその経年変化について,量的な変化と質的な変化の両面から変遷を明らかにした。なお,地図,グラフなど使用目的,使用方法が写真資料とは異なる資料は対象外とした。

    3 結果および考察
      本研究により,視覚資料の使用状況について次のような変遷過程が明らかになった。明治初年代から10年代(1868-1886)の地理書および地理教科書においては和装が主流であったが,明治20(1887)年ころから洋装のものがみられるようになった。視覚資料においては,この遷移よりも早い明治10(1877)年ころから,それまで主流であった木版画に代わり銅版画などの金属版画が用いられるようになった。江戸期に欧米から日本へ導入された金属版画は細部の表現に優れており,写真の使用がまだ一般的ではなかった当時の地理書および地理教科書においてはこの点で有用であったと考えられる。さらに明治30(1897)年ころから視覚資料として写真が用いられるようになった。ただし,一般的にこのころの写真資料は掲載点数が多くはなく,主流はまだ金属版画にあったといえる。また,あまりにも不鮮明であったり掲載意図の不明確な写真が存在するなど,地理書および地理教科書における写真資料としては玉石混交の時期であったといえる。こののち,次第に視覚資料における写真の割合が金属版画を凌駕するようになっていく。これらの書籍が大正期にまで版を重ねると,視覚資料の大半を写真が占めるようになり,写真の掲載点数も増え,また比較的鮮明で掲載意図がより明確な写真資料が多くなっていった。
      このなかで,井原儀が編集した地理教科書(1902)は,木版画がごく一部にみられるものの,全編にわたって写真資料を使用しており,なおかつその掲載点数も他書における金属版画に劣らない。この書籍が地理書および地理教科書への写真の導入がみられ始めた当時の発行であることを考慮すれば,これは極めて先駆的な事例といえる。
      また,山崎直方は数多くの地理教科書を著しているが,それらを比較することにより,視覚資料の使用状況の遷移をみてとることができる。山崎(1910)の視覚資料では金属版画が大半であったが,その8年後に発行された山崎(1918)の視覚資料においては,同様の事物を示す場合であっても写真を掲載するなど,極力写真資料を用いて説明しようとしていた姿勢があらわれている。

    引用文献
    石井實(1988)『地理写真』.古今書院,254p.
    井原儀編(1902)『中等教育日本地理教科書』再版.春陽堂,278p.
    田中薫(1960)『地理写真手帳』.古今書院,241p.
    鳥居美和子(1967)『教育文献総合目録第三集明治以降教科書総合目録小学校篇』.小見山書店,595p.
    鳥居美和子(1985)『教育文献総合目録第四集明治以降教科書総合目録II中学校篇』.小見山書店,484p.
    山崎直方(1910)『普通教育日本地理教科書』訂正四版.開成館,170p.
    山崎直方(1918)『普通教育日本地理教科書 全』訂正十四版.開成館,206p.
第4会場
  • ピラミッド論争の分析から
    荒又 美陽
    セッションID: 406
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1. はじめに都市景観が受容されるとはいかなることであろうか。景観は、一方では主体の認識に関わる側面、他方では社会や文化の創造物という側面から論じられてきた。しかし、社会や文化の産物を主体としての人間が受容する過程と、そこに存在する文化的・社会的特性については、いまだ解明されているとは言い難い。本研究では、一つの景観が形成されたとき、それがいかに社会に受容されていくかを、ルーヴル美術館のガラスのピラミッドを事例に考察する。ガラスのピラミッドは、1980年代に実施されたルーヴル美術館の改修工事、グラン・ルーヴル計画の一環として建設された。1984年1月、計画が公表されてまもなく、フィガロ紙は第一面に「ルーヴルに場違いな(incongru)ピラミッド」という見出しを掲げた。しかし現在、ガラスのピラミッドは、「場違い」であるどころか、ルーヴルのシンボル、あるいはパリを代表する景観の一つとして受容されている。本研究では、ガラスのピラミッドの建設をめぐる論争をもとに、フランス社会が新たな景観をいかに受容するかを考察する。2. 既存景観との比較による正当化受容の論理を探るために、まずピラミッド建設に賛成する人々が建設を正当化するレトリックに注目したい。そこでは、ガラスのピラミッドの機能や利便性(拡張した美術館の入り口であり、自然光とヴォリュームを取る役割を果たしている)を評価するだけでなく、景観としてのふさわしさが主張された。具体的には、まず、既に存在しているモニュメントのなかで「場違い」とみなされたものが参照され、ガラスのピラミッドと比較された。例えば、コンコルド広場のオベリスクは、エジプトから持ち込まれたにもかかわらず、今日のパリにいかに溶け込んでいるかが主張された。また、建設予定地であるルーヴルの中庭を公園あるいは庭園に見立てた発言もあった。例えば、モンソー公園などに装飾としてピラミッドが置かれている事実を指摘し、ルーヴルにピラミッドを設置することに違和感はないと主張したのである。これらの主張は、フランスに既に存在する景観と対比することによって、ガラスのピラミッドを正当化するものであった。3. 歴史的事実との比較による正当化次に、賛否双方の論者が、フランスにおける過去の歴史的事実を頻繁に参照したことに注目したい。例として、実物大模型の展示(1985年5月)をめぐる論争を挙げる。実物大模型の展示は、ガラスのピラミッドが景観に与えるインパクトを確認するために、主に反対派が要求したものだった。しかし、その根拠として、凱旋門やオベリスク等、既に存在するモニュメントについて実物大模型の展示が行われていたという史実が挙げられたのである。実施後には、逆に賛成派が同じ史実を利用し、ガラスのピラミッドの正当性を主張する根拠とした。また、設計者イオ・ミン・ペイが外国人だったことに対するナショナリスティックな反発に関しても、史実の参照が行われた。参照されたのは、ルイ14世によるルーヴル宮殿の拡張計画に絡んだ出来事である。ルイ14世はイタリア人のベルニーニに依頼したのだが、これがフランス人建築家たちの反発を招き、結局ベルニーニの案は採用されなかった。この史実を参照し、古典主義的な建築であるルーヴルにイタリア・バロックの様式を折衷させることへの嫌悪になぞらえて、反対派はペイの斬新なプランを批判した。他方賛成派は、絶対王政時代を引き合いに出すことで反対派の時代錯誤を糾弾した。ここでも、フランスの歴史的事実の中に参照点を見出すことで、双方が主張の正当化を図ったのであった。4. 文化の参照と受容 現在あるいは過去に参照点を見出すことによる正当化は、論争の中に広く見られる現象であった。争点となる「景観」が、既にフランスに存在するか、あるいは過去に存在したことが正当化の論拠となったのである。中には、「オベリスクが外から持ち込まれたものであるのに対し、ガラスのピラミッドはフランスで作られるのであるから正当だ」という強引な主張もみられた。新たな景観は、「場違い」で異質なものではなく、「フランス的」であることが常に要求されるのである。実際、この要求は論争のレトリックの中にたえず提出され、ガラスのピラミッドは、結果として既存のフランス文化に多くの参照点を見出したのである。したがって、ガラスのピラミッドという新たな景観が、革新的であるがゆえに受け入れられたと考えるだけでは十分とはいえない。それは、フランス文化に参照点を見出し、「フランスの」景観として成立したがゆえに、つまり、文化的な正統性が読み込まれたがゆえに受容されたのである。このプロセスは、パリという都市が歴史的な街区と革新的な建造物を共存させる仕組みを考えていくときに重要な枠組みを示している。
  • 人間が地理的空間と出逢って
    西部 均
    セッションID: 407
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      景観は、実在する物質性と人間の認識や意味が渾然一体と論じられる。この語用法は立論を鈍らせ、この概念の潜在的効力を発揮させない。しかし、この両義性は景観を人間の認識の様式から理解できる。阿部は、現象学にしたがって主観の側から客観の成り立ちを論じ、景観を環境の視覚像と前提する。そのとき、景観を意識する規範として意味母体が分析概念となる。各時代・各地域の意味母体の構造を探求し風土論が構築された。しかし、無意識の規範のみでは実在世界─景観─主体の連動メカニズムの解明は十分でない。
      また、松畑・松岡はポスト構造主義の立場から、現象学的なこの連動メカニズムに疑問を呈する。景観とは近代的強者の見方・語り方であったが、1980年代から実在世界との接点を失い、シミュラークルとしてそれ自体の意味化作用にしたがって複製・増殖し、主体をその共犯関係に巻き込んでしまう。景観はもはやメディアのなかにしかなく、そもそも「非在」という存在だったという。しかし、景観は実在世界から断絶した存在ではない。そこで、視線の作用から再度景観現象を追跡してみる。
      Meinigは環境と景観を次のように区別する。環境は私たちを包みこむ直接的な有機的存在の要素である。景観は視覚によって明確に見定められ、知性によって解釈される、と。視線は行為を前提するから、行為を意識しないとき私は身体を通じて環境と融合する。しかし、行為を意識した瞬間、私の眼には視線が生まれ、私と世界が節合され始める。
      視線は主体確立と関係をもつ。まず私は他者に同一化する。私は他者ではないことに気づき、他者によって示された鏡像を引き受ける。多様な鏡像から統合された私の像を作り内面化して主体を確立する。主体は他者と情動で強く結ばれ、同時に他者から外部化されて存在する。視線はモノからも私を外部化する。行為を意識する私の視線は環境から私を引き剥がし環境との相互浸透を制限することで、景観が現れる。この現象こそが私が主体として意識的に地理的空間に出逢う瞬間である。
      ところが、景観にはこの範疇に収まらないものがある。一つは、主体が対象と情動的に同一化する景観の相貌的把握がある。もう一つは、視線を失った眼に映える景観である。そのとき、環境の圧倒的なリアリティを前に私たちは嘔吐を催し恍惚に身を委ねる。また、他者とともに地理的空間を見る三項関係において景観が情動と共に敷き写される。視線は景観にも情動を絡みつかせ不安定で強力な感化力をもたらす。
      主体確立の過程で何を知り信じたのかが景観という視覚像を彼/彼女に独特に形成する。ここでは意味母体より流動的でアクティヴな言説を分析概念とする。言説とは正統化・制度化された語りであり、社会の世界認識や実践に統制力をもつ。景観は知のネットワークの交差部に現れたダイナミックな言説的場である。主体は様々な起源と特徴を持つ言説をモジュールとして自在に活用できる。言説の統制力を借りて、主体は景観という視覚像のなかで対象を並置・連結・評価する。景観に対象を位置づける座標系が設定される。
      主体は言語や科学を駆使して自己の行為により適合する緻密な景観を編成し、地理的空間を評価して構造化し特定の布置を作る。そこから、より抽象的な思考操作を経て空間的構想を生み出す。しかし、敢えて主体と環境の出逢いの場である景観を論じつづけることは何を意味するのか。これは視線にともなう情動に訴えて、人間の存在の仕方を問い直したり、思考操作を検証したり、新たな空間的構想を起動させようとする社会的・政治的戦略である。このように景観を捉え直すことで、個人や集団の社会的戦術について微細に論理的・動態的に捉える社会地理学研究の可能性が開かれる。
  • とある論争と、その「地図」
    泉谷 洋平
    セッションID: 409
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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      ここ2、30年の間に、社会理論や文芸批評、ポスト構造主義哲学などにおいて空間的語彙への言及が増加してきたことにより、従来縁の薄かったこれらの領域と人文地理学とが接点を持つ機会が、ますます増えつつある。それにともない,人文地理学と他分野との境界が次第に不明瞭になるとともに、いわゆる「地図の無い人文地理学の研究」が目立つようになった。このような研究においては、ポストモダンという語が(その意義をどのように理解するか、それに対していかなる態度をとるかはともかく)一つのキーワードとなっており、とりわけその徴候が顕著になったのは、1980年代の後半から1990年代の前半にかけての時期であったと思われる。英語圏を中心とした近年の人文地理学のこのような動向は、日本の人文地理学において、「百花繚乱」、「百家争鳴」などと表現されるように、ある種のカオス状態として受け止められている。本報告の目的は、このような近年の英語圏における人文地理学の理論的研究の状況を、単に「混沌」としでなく、少しでも理解可能なものとするための見取り図を提供することにある。
      ところで、日本において近年の英語圏における人文地理学の研究動向を、ポストモダン人文地理学の名のもとに整理したものとして、加藤(1999,人文地理51,164-182)がある。そこでは、1980年代後半から1990年代の初めにかけて人文地理学でポストモダンの議論に先鞭をつけた代表的論客であるハーヴェイ、ソジャ、ドイチェ、マッセイらの中に、〈対象としてのポストモダン/態度としてのポストモダン〉 という対立軸(それは、やや乱暴に要約すれば、〈ハーヴェイ・ソジャ/ドイチェ・マッセイ〉という対立軸でもある)を見出しうることが指摘されている。さらに詳細に検討すれば、〈対象としてのポストモダン/態度としてのポストモダン〉が〈ハーヴェイ・ソジャ/ドイチェ・マッセイ〉のみならず、〈地理学に固有の「知」/フェミニスト地理学を中心とする批判理論〉という区別とも重ねられていることが分かる。
      しかし、このような区別は、私見では「ポストモダン人文地理学」の適切な見取り図を提示するものではない。われわれの目に近年の英語圏の人文地理学が「百花繚乱」と映るのは、〈対象としてのポストモダン/態度としてのポストモダン〉という区別が日本において十分に理解されていなかったからではなく、むしろ、1980年代後半から1990年代初め(加藤1999のレビューの対象となった時期)において、すでに〈態度としてのポストモダン〉自体が差異化していたためである。すなわち、〈懐疑的ポストモダニスト〉と〈批判的実在論〉という二つの異質な理論的立場が、90年代のはじめにはここでいう〈態度としてのポストモダン〉の中に亀裂を生じさせていたのである。前者は、現況の知的困難を抜け出すために、いわゆる「表象の危機」の問題にこだわって考え抜くことで新しい方向性を模索しようとする立場で、後者は逆に表象の危機の問題で明らかになった知的デッドロックを部分的に承認した上で、表象の相対的な確実性に依拠した科学的実践の可能性を模索する的立場との確執である。この時期に文化地理学やフェミニスト地理学などさまざまな下位分野で生じた論争は、ここで検討する対立を反復するものであり、同様の対立は人文地理学のみならず,他の人文社会科学や現代思想の諸領域でも反復されていた。
      今回の報告では、1990年代前半にAAAG誌およびAntipode誌上で、〈対象としてのポストモダン〉、〈懐疑的ポストモダニスト〉、〈批判的実在論〉それぞれの確執を孕みつつ展開した、相互に関連する二つの理論的論争の検討を通じて、以上のような〈態度としてのポストモダン〉の見取り図を、実際にあった論争の過程を「地図」化しながら提示するとともに、論争という知的実践それ自体に孕まれる空間性の問題にも触れることにする。なお,本報告で対象とする論争は以下のものである。
    I. AAAG.誌上で展開されたCurry、Pred、Hannah & Stromayerらの論争(1991-1992)
    II. Antipode誌上で展開されたStrohmayer & Hannah、Barnett、Sayerらの論争(1992-1993)
第5会場
  • 梅田 克樹
    セッションID: 504
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1.問題の所在と研究の目的
     世界の主要酪農国の多くは、取引価格の異なる複数の生乳市場を並立させる政策・制度を採用している。日本においても、1965年制定の「加工原料乳生産者補給金等暫定措置法(不足払い法)」を根拠として、飲用乳・加工原料乳などの用途別に異なる取引価格が形成されてきた。この制度を円滑に運用するために、都道府県ごとに指定生乳生産者団体(指定団体)が設立され、生乳共販体制の確立とプール精算方式の導入が進められた。さらに、この価格支持制度が招いた生乳生産過剰の慢性化に対処するために、1979年には生乳計画生産制度が導入された。
     これら一連の制度は、酪農経営と乳業会社のいずれもが再生産可能な乳価の形成と、生乳輸送の広域化に伴う激変緩和措置としての産地間競争の抑制を図ったものと捉えられる。しかし、飲用乳生産地域の酪農経営や多頭育化志向が強い酪農経営には、受け入れがたい制度だった。そこで、「生産者組織による自主的計画」という形式が採られ、酪農経営はその自発的意思に基づいて参加することと定められた。その結果、生乳生産量の約5%にすぎないアウトサイダーの動向が、飲用乳価の形成に無視できない影響を及ぼすことになった。
     アウトサイダーには、中小乳業会社と深い関係を有する小規模な酪農組合が多いほか、イン・アウトの出入りも珍しくない。半ば恒久的なアウトサイダーである大規模な酪農組合の代表例としては、サツラク農協(北海道)と日渓酪農協(滋賀県)が挙げられる。本発表では、主に札幌大都市圏向けの飲用乳を生産しているサツラク農協を取り上げ、その組合員における多頭育酪農の発展動向とその要因を明らかにすることによって、一連の制度が果たした役割を評価するための対照事例を示したい。
    2.サツラク農業協同組合の概要
     サツラク農業協同組合は、アウトサイダーとしては全国最大規模の酪農専門農協であり、年間生乳生産量は3万tを超えている。生乳出荷者(138名)は道央各地に広く散在するものの、その8割以上が石狩管内(特に札幌市・千歳市・江別市)に集中している。1戸あたり飼養頭数(80頭強)は道内平均値にほぼ相当する水準であるが、一部の大規模層における多頭育化志向は強く、なかには500頭を超える多頭育経営も存在する。その反面、全国平均を下回る小規模経営も約半数を占めており、1990年代後半以降、廃業者が続発している。
    3.サツラク農業協同組合のアウトサイダー化とその要因
     サツラク農協の前身である札幌酪農組合は、雪印乳業__(株)__の創業者たちの出身組合である。それゆえ、サツラク農協の生産乳のおよそ3分の2を雪印が全量飲用乳価にて買い入れるなど(1960年代まで)、サツラク農協は雪印と特別な関係を有していた。しかし、指定団体であるホクレンが、不足払い法に基づく生乳共販を全面的に導入すると、こうした特例的な措置は廃止された。また、北海道協同乳業__(株)__(ホクレン系)が札幌市乳市場に進出したため、サツラク農協の市乳化率が急落するおそれが強まった。そこで、サツラク農協は、高い市乳化率を維持するために、組合有の市乳工場を建設して、組合員の生産乳を自ら処理・販売する市乳事業を開始した(1970年)。そして、近郊酪農地域としての既得権益である高乳価を引き続き確保するために、完全アウトサイダーの道を選択して、全道プール乳価への組み入れを拒否した(1976年)。その高乳価に支えられて、多頭育化志向の実現も可能になったのである。
    4.競争原理の導入とサツラク農業協同組合
    現在のサツラク農協は、市乳事業における年間販売額が約70億円に達しており、札幌市乳市場において確固たる地位を築いている。ところが、その生乳出荷者数の減少には歯止めがかからず、他組合に集団移籍する事例すらみられる。その要因として、生乳輸送の広域化に伴って北海道全体の市乳化率が上昇し、ホクレンと比較した生産者乳価の有利性がほぼ消滅したことや、補給金単価の引き下げに伴って、飲用乳価と加工原料乳価の格差が縮小したことが挙げられる。すなわち、激変緩和措置の解除と競争原理の導入によって、アウトサイダーであることの有利性が低下したことを意味している。サツラク農協は、ビジネスモデルの転換を迫られている。
  • 豊田 哲也
    セッションID: 505
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1.研究の目的
     約40種類にのぼると言われる日本の香酸柑橘(酢みかん)のうち、徳島県特産のすだちは大分県のかぼすと並ぶ代表的なもので、年間生産量7千tと全国の97%を独占している。最大の柑橘である温州みかんの生産は1960年代に西日本各地で急拡大を遂げたが、生産過剰や輸入自由化による価格低下に直面し産地の大幅な再編を迫られた。もともと温州みかんに不適な気候条件の中山間地域で始まったすだちの栽培は、技術革新による周年出荷の実現で安定した収益の確保に成功し、1980年代にはみかんからの有力な転換作物として生産量の増加を見た。本研究では徳島市の南西に隣接する神山町と佐那河内村を事例地域に取り上げ、産地形成の過程を跡づけながらその生産構造を明らかにする。
    2.産地形成の過程
     すだち生産の開始から拡大、成熟に至る経過はおおむね10年ごとに以下の4つの時期に区分され、栽培面積の推移は典型的なロジスティック曲線を描く。
     第1期 徳島県におけるすだち栽培の歴史は江戸時代に遡るが、1956年に神山町鬼籠野地区で養蚕業や甘藷栽培の行き詰まりを打開すべく農家有志が栽培に取り組んだのが、商業的生産の始まりである。1960年代には消費宣伝と販路拡大を図りながら、同町におけるすだち生産は徐々に増加した。
     第2期 1970年代に入り、低温貯蔵技術の開発やハウス栽培の導入によってすだちの周年出荷体制が確立される。9月に出荷される露地すだちのkg単価が100円前後であった当時、長期貯蔵ものや加温ハウスものは1500-2000円の高値で取り引きされ、生産農家の収益性を大幅に高めた。
     第3期 温州みかんの価格低迷と生産調整が本格化する中で、1979年に県はすだちへの転換支援政策に乗り出す。1981年2月の大寒波でみかんの木が大量に枯死するなど大打撃を被ったのを契機に、佐那河内村など周辺産地ですだちへの転換が進んだ結果、栽培面積は10年間で2.5倍に急拡大した。
     第4期 1990年代なると、新興産地の成長にともなう競争の激化、長期不況による業務向け需要の伸び悩みなどのため市場は飽和気味となり、すだち栽培面積は約600haで頭打ちとなった。
    3.事例地域の生産構造
     2000年におけるすだちの栽培面積は、神山町126ha(徳島県全体の21.2%)、佐那河内村109ha(同18.3%)で、県内で1位と2位を占める。また、販売農家のそれぞれ60%と75%がすだちを栽培している。
     神山町鬼籠野地区はすだち栽培の先進地で、長い経験を持つ栽培農家の技術水準は高い。1戸あたり栽培面積は零細だが、密植による集約的な経営で補っている。貯蔵用冷蔵庫の設置は早かったが、気候が冷涼なためハウス栽培はふるわない。中心集落である東分・中分・西分では米や野菜との複合経営が多いのに対して、山間部には一の坂集落のようにすだち栽培に特化した集落も見られる。
     後発産地である佐那河内村では、温州みかんからの改植や高接による転換園が多く、1戸あたり経営面積が大きい。1970年代はハウスすだちの産地として成長したが、1983年以降は採算上の理由から貯蔵の方が多くなっている。鬼籠野地区に近い北山集落は、みかんからすだちへの転換がドラスティックに進んだ例で、情報や人の交流がこうした動きを促進する役割を果たしたと考えられる。
     このように、神山町と佐那河内村はすだち産地として対照的な性格を示しながらも、出荷時期などで機能的な補完関係を有している。また両者に共通する産地形成要因として、行政や農協による支援体制のほかに徳島市への近接性を指摘できる。すなわち、意欲ある生産農家は機動的な個人出荷で利益を追求しうる一方、通勤兼業を選んだ農家が加工向けの粗放な露地栽培を続けることも可能なためである。しかし、近年はいずれのケースでも就業者の高齢化が進んでおり、後継者の不足とあいまって今後の展開は楽観を許さない状況にある。
  • 中村 周作
    セッションID: 508
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    ?.はじめに
      発表者は,かつて(1983から84年),わが国全域を対象として水産物行商人の分布と活動の地域的展開,およびその行動上の特徴について論究した1)。それによると,当時,在来型行商人が全国で約22,000名,自動車営業者が約15,000名あった。彼らの分布は,前者が主要産地市場や大都市に近接する漁村などに顕著な集中がみられたのに対し,後者は従来の鮮魚流通の空白地であった内陸部や僻地性の強い地域に集中するなど大きな違いがみとめられた。
      九州地方に関していうと,1983年当時,沖縄県を除く7県で在来型行商人が計4,589名(内訳:福岡県1,034,佐賀県619,長崎県940,大分県357,熊本県499,宮崎県291,鹿児島県839),自動車営業者が沖縄県と福岡県を除く6県で計2,258名(内訳:佐賀県66,長崎県470,大分県489,熊本県507,宮崎県290,鹿児島県436)を数えた。
      かつての調査から20年近くを経た今日,水産物行商は,その活動形態,活動内容ともに大きな変容が予想される。発表者は,昨年の日本地理学会秋季学術大会において,中国地方,特に山陰地方を事例に水産物行商活動の実態に関する報告を行った2)。そこで今回は,九州地方の事例について詳細な検討を行う。

    ?.在来型行商および自動車営業活動の変容
     (1) 福岡県
      在来型行商人は,県の資料が残っている中では1965年の1,850名が最大であったが,2000年末で474名となった。35年間での減少率が74.4%,年当たり2.1%減少した。年当たりの減少率を前回調査の1983年以降でみると,3.2%とさらに大きくなる。なお,福岡県では,営業を認めていなかった自動車営業を1989年の条例改定に伴って認めている。こちらは,2000年末現在で128名となっている。
    (2) 佐賀県
      在来型行商人は,県の資料が残っている中では1963年の1,250名が最大であったが,2001年末で256名となった。38年間での減少率が79.5%,年当たり2.1%減少した。年当たりの減少率を1983年以降でみると,3.3%とさらに大きくなる。一方,自動車営業者は,データ上では1979年の15名から始まり,87年の77名をピークに減少に転じ,2001年末で24名となった。ピーク時からの減少率が68.8%,年当たり4.9%の大幅減となっている。
    (3) 長崎県
      在来型行商人は,県の資料が残っている中では1977年の1,065名が最大であったが,2001年末で577名となった。24年間での減少率が45.8%,年当たり1.9%減少した。年当たりの減少率を1983年以降でみると,2.1%と大きくなる。一方,自動車営業者は,データ上では1977年の335名から始まり,84年の482名をピークに減少に転じ,2001年末で237名となった。ピーク時からの減少率が50.8%,年当たり3.0%の大幅減となっている。
    (4) 大分県
      1983年と2001年のデータを比較してみると,在来型行商人は,367名から133名となった。18年間での減少率が63.8%,年当たり3.5%の大幅減となっている。一方,自動車営業者は,489名から273名となった3)。19年間での減少率が44.2%,年当たり2.3%の減少となっている。
    (5) 熊本県
      1984年と2002年現在のデータを比較してみる4)と,在来型行商人は,499名から301名となった。18年間の減少率が39.7%,年当たり2.2%減少した。一方,自動車営業者は,507名から363名となった。18年間の減少率が28.4%,年当たり1.6%の減となっている。
    (6) 宮崎県
      在来型行商人は,県の資料が残っている中では1968年の1,270名が最大であったが,2002年現在でわずか79名となった。34年間の減少率が93.8%,年当たり2.8%減少した。年当たりの減少率を1983年以降でみると,3.8%の大幅減となる5)。一方,自動車営業者は,1979年の350名をピークに減少に転じ,2002年現在で157名となった。ピーク時からの減少率が55.1%,年当たり2.4%の減となっている。
    (7) 鹿児島県
      在来型行商人は,県の資料が残っている中では1967年の2,320名が最大であったが,2001年末で287名となった。34年間の減少率が86.7%,年当たり2.6%減少した。年当たりの減少率を1982年以降でみると,3.5%の大幅減となる。一方,自動車営業者は,1979年の460名をピークに減少し,2001年末で278名となった。ピーク時からの減少率が39.6%,年当たり1.8%の減となっている。
  • -釜山市オムグン市場を中心に-
    荒木 一視
    セッションID: 509
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    目的
      わが国の青果物流動流動の地域的パターンは1980から90年代を通じて様変わりした。地域的なスケールでの流動から,全国的なスケールでの流動が主体となり,さらには青果物の輸入も常態化している。また,発表者がインドや中国で行った調査でも,全国的な青果物流動が展開していることが認められた。こうした点をふまえて,本発表では,韓国の青果物流動がどのような地域的スケールで展開しているのかを明らかにし,その特徴をわが国の青果物流動のパターンと比較することを試みる。
    研究対象
      具体的な分析では筆者のこれまでの手法と同様,青果物卸売市場への品目別入荷量や入荷地のデータを採用した。研究対象としたのは韓国第二の人口規模を擁する釜山市である。釜山市には主要な青果物卸売市場が2つ(オムグン市場とバンニョ市場)ある。バンニョ市場は設立後間もないため,ここではオムグン市場を主たる対象とした。資料は2001年11月に訪韓して入手したオムグン青果物卸売市場の市場報告書『2000農産物取引動向』(釜山広域市オムグン農産物卸売市場管理事業所/原典・韓国語)である。なお釜山市の人口は3,664千人,同市場の取引総量は413,505トンで,人口,取引量ともほぼ横浜市のそれに匹敵する。また,取引品目の上位は表1に示すとおりである。
    考察
      図1は2000年に同市場に向けて青果物を出荷した産地の分布を示したものである。これによると,市場所在地に近い慶尚南道,慶尚北道および全羅南道が主たる青果物の供給地域となっていることがうかがえる。しかし,国土の南東に位置する釜山市とは対角線上に当たる国土の北西部の京幾道や忠清南道にも産地の分布が認められ,遠距離の輸送も展開していることがうかがえる。
      月別の入荷量の変動は,当該作目の収穫期と端境期のパターンに応じて変動し,価格もほぼそれに連動するという動きが認められた。また,いくつかの作目ではわが国同様に出荷時期の周年化が進んでおり,それに応じた入荷地の分布パターンの季節的変動も認められた。
      このほかにオムグン市場への入荷パターンに影響を及ぼしているものとして以下を挙げることができる。第1は腐敗性と輸送可能性で,鮮度を要求される品目や保存の難しいものは近郊産地から入荷し,保存がきく品目や輸送コストの低いものは比較的遠距離からの入荷が認められる。第2は道別の生産量で,特定の道が高い生産を誇る産物では,入荷地の分布にも偏りが認められた。第3は同一道内でも,産地の差異化が認められることで,端境期出荷に特化した産地が確認できた。
  • 遠藤 尚
    セッションID: 516
    発行日: 2002年
    公開日: 2002/11/15
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    1.はじめに
      ジャワ農村については、ギアツの農業インボリューション批判を含む実証的研究によって、次の特徴が指摘されてきた。1.多くの土地なし、もしくは極めて零細な耕地しか持たない住民が存在する。また、二極分化というほどではないにしろ耕地の所有と経営をめぐる階層分化が存在する。2.多就業が一般的に見られるが、農村内の非農業部門における就業機会は階層分化の要因となる。3.都市との移動労働は、世帯経営、ひいては住民の階層構造に大きな影響を持つ。本報告では、西ジャワの農村における世帯内の就業状態と農地経営の現状を分析することにより、上記の3点について再検討する。

    2.対象地域と調査方法
      調査対象地は、ジャカルタの南約60km、ボゴールの南西約10km、サラック山(標高約2200m)北側斜面の標高470mから900mに位置するスカジャディ村である。2000年の村の統計によると、人口は6,427人、人口密度は2,114人/km2、世帯数は1,440である。また、総面積は304haで、うち水田約160ha、畑地約110ha、住宅地約20ha、ホームガーデン約10haである。調査対象集落の土地経営平均規模は、水田1,410m2、畑地1,114m2と非常に零細である。村は10の集落(RW)に分けられ、うちRW4内の2つの隣組、RT3、4を対象に、詳細な土地利用調査とアンケート票を用いた聞き取り調査を行った。調査対象は、同地区内の全世帯(95世帯)であり、うち85世帯から回答を得た。

    3.調査結果と考察
      この集落では、世帯主が農業や農村内非農業に就業する場合は、世帯主と世帯構成員が共にいくつかの職業を持つ傾向にある。逆に、世帯主がボゴールやジャカルタなど大都市に就業し、休日のみ帰宅する工場労働者や運転手などの世帯では、世帯主以外の世帯構成員は生産活動を行わず、世帯主の主職業からの収入に頼る傾向にある。
      土地所有状況で分けると、水田所有集団と水田非所有集団に分類できる。前者は主業または副業として水田での水稲と野菜作を行っており、後者は主に非農業を主業とし、農業は副業としての畑作に限られる。水田所有には偏りがみられ、水田所有世帯は全世帯の18%(16世帯)にすぎない。水田非所有集団は、さらに、農業賃労働や農村内非農業を主業とする多就業状態にある集団と、都市で単一の職業に就く集団に分けられる。
      ところで、水田の多くが所有世帯によって経営されている一方、畑地の大部分は借地である。これは、現在不在地主の所有となっている元プランテーション地を、住民に無償で耕作させるトゥンパンサリという制度が広く利用されているためである。トゥンパンサリは耕作権が不安定で、多くは灌漑施設もないため、50%の世帯が畑作を行っているにも関わらず、その多くは副業または自給目的である。
      水田を経営する世帯の多くは、労働・資本集約的に野菜類と水稲の多毛作を行っている。ただし、都市就業者世帯では、水稲の2,3期作を行う傾向にある。逆に畑地ではキャッサバやタロイモの粗放的な耕作が広く行われている。また、水田には多くの雇用労働力を用いる傾向にあるが、畑地では投入労働力の91%が世帯内労動力である。
      このように、冒頭の1、2については、この集落においても類似した傾向があることが分かる。ただし、トゥンパンサリを利用した畑作はこの集落特有のものであり、土地なし層を下支えする重要な要素となっている。また、この集落では、住民の階層分化を大きく拡大するような農村内非農業部門の就業機会はみられない。しかし、3.に関しては、都市での非農業部門就業者の世帯は世帯主の主職業収入に頼り、たとえ農地を経営していても、より粗放的な経営、より単純な作付体系をする傾向にある。また、土地を所有していない若年労働者から都市での就業を選択する傾向にある。つまり、ボゴールやジャカルタに近く、見るべき産業のないこの集落では、都市との移動労働が世帯経営と農業に与える影響が大きく、特に、若年層における住民の階層構造や就業構造を上の世代とは大きく変化しつつあると考えられる。
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