人文地理学会大会 研究発表要旨
2004年 人文地理学会大会 研究発表要旨
選択された号の論文の53件中1~50を表示しています
  • 伊藤 達也
    セッションID: 11
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    持続可能な社会を構築していくためには、環境問題の解決がもっとも重要なテーマの一つとなっている。従って、地理学に限らず、あらゆる学問分野において、環境問題の解決に向けた有効性を示すことが強く求められており、その提示に失敗した学問は自らの持続可能性を失う危険性を抱えている。しかしながら、地理学、特に人文地理学分野が環境問題の解決に向けたアプローチの採用に成功しているとは必ずしも言えず、環境問題研究の蓄積は他の隣接社会科学分野と比べて、むしろ劣っているのが実際と言えよう。本報告では発表者自らの経験を下に、環境問題に対する研究者の関わり方、環境問題を研究対象とする場合の立場のとり方等について報告し、その上で地理学、地理学者が環境問題を対象とする際の扱い方、その優位性について検討する。
  • 藤井 正
    セッションID: 12
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    都市圏は、爆発的に拡大する近代都市空間を把握し整備するための、単核で求心的な構造を有する結節地域概念(中心地とその関係圏という空間的まとまり)である。それに対して近年の日米大都市圏についての構造変化・多核化研究は、新たな機能地域構造を提示しつつある。都市圏は、都市機能の郊外立地とともに多核的な構造へと変化してきた。合衆国ではオフィス中枢をも含む郊外都心も形成され郊外の自立化が指摘された。しかし、各郊外領域間や中心都市との流動は少なくないし、都心群はむしろ機能分担している。日本でも中心都市通勤者数が減少をみるなど、少子高齢化や都市機能の郊外立地、郊外への転入人口の減少などのなかで東京や大阪などの大都市圏という従来の地域構造は転機を迎え、今後の住民の生活行動が問われている。 このように相互流動の展開が見られる都市圏を、本報告では新たな機能地域(相互流動による空間的まとまり)として理解したい。中心都市による単核の求心的な結節地域構造から、郊外への中心機能の立地(分散的多核化)がすすみ、合衆国では機能集積を生み出す集中的多核化によって郊外都心形成もみた。しかしそこでも都心群は機能分担し、領域間ではかなりの相互流動を示す。こうした郊外都心形成には至らないわが国大都市圏でも、郊外間流動が増加する一方、中心都市通勤者も減少を示すようになってきた。そこでは中心都市の強固に見える結節地域構造の下層で展開する分散的多核化により、やはり相互流動の展開する新たな機能地域構造がその重要性を増している。また都市政策面で盛んに主張されるコンパクトシティだが、それらが形成する都市圏(都市地域)全体の構造についても、同様の視角からの検討が今後求められよう。
  • 矢ケ崎 典隆
    セッションID: 22
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    南北アメリカ地誌は、従来、国を単位として論じられるか、北アメリカ、中部アメリカ、南アメリカの3地域区分して論じられるか、アングロアメリカとラテンアメリカに区分して論じられてきた。しかし、南北アメリカを一つの枠組みで考察することが重要である。本研究では、歴史地理学の視点から南北アメリカ地誌を描くための方法を提示する。南北アメリカの全体像および地域性は、自然環境、先住民の世界、ヨーロッパ文化圏の拡大、独立後の独自の発展という地域現象の4層構造によって理解することができる。カール・サウアーやテリー・ジョーダンをはじめとするアメリカの歴史地理学者は、このような地域現象に関して多様な研究を蓄積してきた。以上のような考察の枠組みと歴史地理学の研究成果および私が行ってきた研究に基づいて、南北アメリカ地誌を歴史地理学的に理解するためのアプローチとして、プランテーション地域、イベリア系牧畜地域、北西ヨーロッパ系小農地域という3つの文化地域の設定を試みる。それぞれの文化・経済地域を理解するためのキーワードは、砂糖、牛、丸太小屋である。さらに、以上の考察の枠組みに基づいて、カリフォルニアの地域変化のダイナミズムについて考察する。19世紀におけるカリフォルニアの地域変化は、イベリア系牧畜地域から北西ヨーロッパ系小農地域への転換であったと解釈できる。
  • 若松 司
    セッションID: 103
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本発表の目的は,G. ジンメルの風景論とそれを基礎づけている生の哲学の再解釈を通して,「景観」と区別される「風景」概念を提示し,landscape研究のオルタナティブを模索することである。 G. ジンメルはその風景論において,風景を眺めるという体験には,分析的に区別可能な二つの側面があると述べている。一つは,経験や感情の歴史的社会的に規定された形式という側面である。自然の一部を「風景」として捉えて審美的に観照するという体験は,風景画というジャンルの成立にもうかがえるように,時代的にも社会・地理的にも特有な感情の一形式に則って構成されている。ジンメルはこの側面を確認しつつも続いてもう一つの側面を,感情や体験の形式から溢流するものとして捉えている。「すなわち,直観や感情のうちに脈動する生が自然一般の統一性から自己を切りはなしはするが,こうすることによって創られ,まったく新しい層に移された孤立的形像は,いわばみずからすすんでふたたびかの総体の生にたいして自己を開き,その犯しがたい境界へ無限的なものを迎えいれるのである」(ジンメル1976: 168-169)。「風景」と名指される体験や感情の形式の側面が,ふたたび総体としての生に自らを開き,無限的なものを迎え入れる,このもう一つの側面において風景の体験および感情は生きられる。 風景の生きられている側面とは,地理学に現象学を導入したE. レルフが,科学的地理学には把握できない古くて新しい領域を開拓するだろうとした研究対象である。しかしながら,この研究対象はレルフ自身によっても,また後続の文化地理学者たちによっても追究されないままに残されている。本発表は,ジンメルの風景論を参照することによって,レルフによって提起されながらも積み残されたままになっている地理学のこの課題に取り組もうととするものである。
  • 双木 俊介
    セッションID: 106
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本研究は森鴎外『雁』に描かれた景観・社会空間と近代初頭に実際の景観・社会空間を復原したもの比較し、森鴎外や当時の人々に認識されていた近代-特に、明治期-東京の都市像を考察するものである。その際、ブルデューの「ハビトゥス」の概念を用い、主体の経験と社会との関連性を考察し、当時の都市像を解明しようとした。  まず、登場人物の資本(経済資本・文化資本・身体化された諸特性)を指標として登場人物の行動圏の特徴を考察した。実際の地域については町単位で社会地区分析を行った。その結果、従来、東京における社会地区は山の手・下町の二項対立ではとらえきれない複雑な地区が把握できた。『雁』にあらわれた行動圏と比較すると、両者の特性はほぼ一致する。『雁』では資本配分とそこから生ずる各社会階級間の都市における社会的距離と物理的な距離を描き出す。  景観については『雁』の記述中における景観表現について描き方の差を検討し、景観表現を象徴化して場所ごとに差異化していることが明らかになった。実際の景観については「五千分一東京図」、火災保険取調掛『毎町家屋種類棟坪合計』などと地籍図をあわせ、家屋配置に注目して、明治初期の景観復原を試みた。その結果、当時の景観特性と『雁』における景観表現の特性はほぼ一致している。それは当時の社会的な景観のとらえ方に起因するとも考えられる。しかし、森鴎外の景観に対する表現方法は彼自身による独自とらえ方である。  このように、『雁』における登場人物の行動や景観は明治13年当時の都市像を象徴的に表したものといえるが、作者自身も東京に身をおき、社会階層の中に組み込まれており、そのような社会的な位置に応じた独自の表現が『雁』のなかにあらわれていると考えられる。
  • 西岡 尚也
    セッションID: 108
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    小中学校時代に形成された「地理的見方や考え方」は生涯にわたって世界認識形成や地域イメージを左右する。本発表ではこのような地理教育の役割を考え、特にアフリカに関わる記述に焦点を当て考察した。検討したのは2004年4月現在使用されている、小学校社会6年下5冊、中学校地理7冊の合計12冊の教科書である。 6年下でアフリカの国を取りあげ詳しく記述した教科書はない。かつ5冊の教科書に登場するアフリカに関わる写真は合計19枚しか存在しない。しかもそのうち14枚が、「飢えに苦しむ」「食糧配給を待つ」「難民」「紛争」「砂漠化」などのマイナス面を表している。私にはこれらで学ぶ子供たちに、アフリカ大陸の「悲惨さ」のみが誇張されて伝わり、誤った地域イメージが形成されると思えてならない。 明治初頭の福澤諭吉(1869)『世界国尽』は、異文化地域にランク付けし、欧米以外の文化地域を蔑視した世界観を「啓蒙」した。当時の福澤の視点は、欧米人の世界観を「模倣輸入」したもので、福澤一人の問題ではなかった。しかし今日の日本人の誤った世界認識形成は「日本の地理教育の責任」である。 開発教育では「多様性の尊重」を重視している。私たちはこの視点に学び、福澤以来の欧米以外の地域への偏見を改めなければならない。そのためにも地理教科書では「正しい世界認識」をめざした表記が重要になる。
  • 千田 稔
    セッションID: 109
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    ここで対象とする地理学者は別技篤彦のことである。彼は、京都大学地理教室出身者の一部で形成された「皇道地政学」の集団の一人として、マレー半島の地誌の研究に従事した。「皇道地政学」の目的は占領政策のにあったことはいうまでもない。別技の地政学に対して有していた思想は、実践性と地誌であった。別技は戦前から地理教育に関与していたが戦後の社会科において地理教育の綜合性を重視した。そこにも、地理学の実践性と地誌学が中心的な位置を占めたが、「皇道地政学」の場合とは、次元が異なる。別技は、外務省の外国団体である国際教育センターで世界の地理・歴史教科書の調査に携わったが、その主たる目的は、国際理解にあった。しかし、世界の現状をみるとき、地理教育には、本来の地政学を視野に入れるべきだと考える。
  • 山口 幸男
    セッションID: 110
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    牧口常三郎著『地理教授の方法及び内容の研究』(1912、大正5)は、その当時までの数少ない地理教育専門書という点で大きな意義を持つとともに、『人生地理学』(1903、明治36)によって独自の地理学観を表明した牧口の地理教育書という点でも注目に値するものである。牧口の地理教育論については、これまで中川、武元らの論考があるが、地理教育本質論的検討は十分ではない。そこで、本稿では、『地理教授の方法および内容の研究』を主資料として、地理教育本質論(社会科地理教育論)の観点から牧口の地理教育論について考察する。
  • 湯田 ミノリ, 伊藤 悟
    セッションID: 112
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本発表は,地図を見る際に参照するポイントの選択に見られる傾向やその特徴を探るため、地図上における自己定位の可否,指定された建造物の位置の地図上での認識の可否,地図上で建造物を検索する際に参照した要素を明らかにするために実施した調査の結果を報告する.
  • 泉谷 洋平
    セッションID: 117
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本研究では学会発表表題を題材として、人文地理学が事実として何であるのか、その現実的側面を明らかにする。人文地理学会大会の過去の発表表題に注目すると、「(に)おける」という表現が頻出することが分かる。この表現は全体の約3割の発表で用いられており、その大部分は地名と結びつく形で使用される。また、「(に)おける」のように地名を用いることで特定のテーマを空間的ないし地域的に限定する機能を果たす類似の表現として、「(の)事例」、「(の)場合」などの表現も確認できるが、これらの使用頻度の総和はおよそ6割となる。このような傾向は、はたして何を意味しているのだろうか。この点について明瞭な展望を与えてくれるのが、トマス・クーンの科学論である。元々クーンは、ある学問分野において規範となるような業績や教科書、あるいは定期刊行物をパラダイムと呼んだ。クーンはパラダイムという概念を、「支配的なものの見方」や「概念図式」(これらの方が、むしろパラダイムの意味としてよく知られている)という観念的存在ではなく、「それを通じてその分野の規範が学ばれていくような具体的事例」という物質的存在として理解していたのである。われわれは、教科書に掲載されている章末課題や、授業でのレポート、実習や演習の課題、学会誌に掲載された論文など、その分野の実践の具体的な事例に慣れ親しむことを通じて、その分野における基本的で模範的な振る舞い方を身につけていく。こうしたプロセスで実際にお手本とされる数々の具体例のことを、クーンは模範例と呼んだのである。こうしたクーン理解に基づけば、先に指摘した特徴を持つ学会発表表題が、日本の人文地理学において模範例の一つとして機能していることは明白であり、パラダイムを模範例としての観点から捉えるならば、人文地理学にはコアなパラダイムが存在すると言うことができるのである。
  • 渡邉 英明
    セッションID: 201
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本発表では江戸時代の在方市町・武州小川を例に、町場を描いた7点の絵図について作成目的と表現内容との関係を検討した。まず、絵図作成の契機をみると、7点のうち6点は町場における争論に際して作成されたものと位置づけられる。その争論内容も、町場住人の多数が関わる土地の保有・利用をめぐる争論で、かつ木戸内の町場とその隣接区域で完結する狭い範囲での争論という特徴を有する。争論絵図は、訴訟過程との関係でさらに2つに分類できる。すなわち内済段階で決定事項を表現した絵図(_I_)、及び争論の途中で一方が自己の主張を表現した絵図(_II_)である。絵図への連印者の構成との関係をみると、前者は訴訟人・相手双方の連印を伴う立会絵図で、後者は訴訟人と相手の片方のみ連印の絵図という特徴がみられる。 作成契機は以上のように整理されたが、次に、上申書類としての性格が強い2点の絵図にみられる特徴的な表現を検討した。この2点はともに19世紀初頭のものだが、いずれも領主による屋敷の把握の表現が特徴的に認められる。屋敷はA.町屋敷、B.屋敷、C.畑請屋敷の3つに描き分けられ、その把握は1668年の検地帳に基づいていた。1813年の市場絵図と同時に作られた文字資料でも、個々の屋敷に言及する際に1668年の検地帳における名請人が逐一参照されており、領主への上申書類としての性格を有する絵図では、19世紀初頭においても1668年の検地帳が直接参照されたことが明らかである。小川では19世紀により近い18世紀に作成された町場を描いた絵図も残っているにも関わらず、19世紀初頭に絵図を作成する際、まず参照されたのは18世紀の絵図ではなく時代の隔たった1668年の検地帳だったのである。この背景には絵図の作成意図や社会情勢の変化などの可能性が想定されよう。このような絵図相互の時代を超えた関係性とその背景についても若干の知見を報告したい。
  • 上杉 和央
    セッションID: 203
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    森幸安(1701-????)は,一般に「カルトグラファー」として認知されている。しかし,このような一般像は,実は幸安の活動の一部ないし一時期にしか当てはまらない。幸安の地図作製が本格化するのは1749年以降であるが,それ以前の1740年代には『山州撰』や『皇州緒餘撰』といった地誌を作成していたのであり,幸安は当初「トポグラファー」であったとさえ言える。本発表では,この2つの地誌の分析を通じて,「地誌作成時代」そしてそれ以前の「京都時代」の幸安の活動や地理的関心を明らかにすることにある。このような作業がなされてこそ,「地図作製時代」の幸安を正しく評価することが可能であろう。
  • 河角 龍典, 佐古 愛己
    セッションID: 204
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    歴史的空間情報へのGIS(地理情報システム)の適用が、過去数年の間に急速に発展しつつある。古代都市に関する歴史GIS研究もその例外ではなく、考古学の分野からすでにいくつかの研究が実施されている。しかしながら、埋蔵文化財の発掘調査や文献史学から得られる膨大な古代都市にかかわる歴史的空間情報については、そのデータベースが十分に整備されていないために、古代都市研究へのGISの適用が遅れている。 本報告では、平安京に関連する歴史的空間情報のデジタルデータベースの構築とそれらへのGISの適用から様々な歴史地図を作成し、平安京の地形景観、土地利用景観の復原を試みた。京都に関する歴史学的、地理学的、考古学的な研究成果には、膨大な蓄積がある。これらの大量かつ精緻な研究成果は現在活字媒体で提供されているが、これをデジタル媒体でデータベース化することにより、さらに容易かつ有効な検索・利用が可能となる。本研究では、『兵範記』を記主平信範が存命した12世紀の京都を中心に、GISに利用可能なデータベースの構築を行った。本研究では、『平安京提要』1) や『平凡社日本歴史地名大系 京都市の地名』2) などから作成したデータベースの構築と、12世紀の中級貴族・実務官僚である平信範(たいらののぶのり、1112~87)の日記『兵範記』(『人車記』ともいう)のデータベースの構築を通して、具体的な検討を進めた。本研究では、古記録に表れる歴史的空間情報にGISを適用することにより歴史地図を作成し、平安京の景観復原を試みた。その結果以下のことが明らかになった。1)過去の景観について議論するためには、過去の地表面の復原が必要である。2)平安京の土地利用データベースとGISの結合によって、平安時代の土地利用の視覚化が可能になった。
  • 井上 学, 矢野 桂司, 磯田 弦, 高瀬 裕, 中谷 友樹, 河原 典史, 塚本 章宏
    セッションID: 205
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本研究は、『京都地籍図』とGISを用いて大正元年当時の京都の景観を1筆単位で復原することを試みる。『京都地籍図』は、上京区・下京区・接続町村の3部で構成され、それぞれ地籍図と付属の土地台帳(以下、付属台帳)にわかれている。地籍図には土地1筆ごとの地番・面積、一部には学校・寺社名などが、付属台帳には地番・面積・地価・等級・所有者住所・所有者名など、景観復原の際の重要な事項が記載されている。これらの土地1筆に関する様々な情報は、GISを用いることで一元的に管理できる。それによって当時の土地所有者、地価、等級を現在のデジタル地図情報と比較することも可能となる。さらに、『京都地籍図』を空間基盤データとし、地籍図以外の資料のデータを付加することで、様々な景観復原に活用できる。GIS化を行ったのは御池通・鴨川・四条通・堀川通に囲まれる範囲である。2次元デジタル地図と地籍図の重ね合わせには、画像データを元に1筆ごとの土地をポリゴン化し、「アジャスト」機能を利用して現在のデジタル地図に重ね合わせる方法を用いた。対応する属性データとしては、付属台帳に記載されている地番・地目・面積・地価・等級・所有者住所・所有者名を1筆ごとにデータ入力を行った。それにより、データ内容を地図上に反映することができる。以上の方法を用いて、『京都地籍図』と2次元デジタル地図を重ね合わせた結果、おおむね高い精度で現在の2次元デジタル地図との重ね合わせできた。付属台帳に記載されている等級を反映させると、当時の土地は新京極錦小路の124等級を頂点として南北に123等級、122等級の筆が広がる。また現在の京都の大きな繁華街である河原町通の等級は相対的に低いことが大正元年当時の景観復原により明らかとなった。さらに、この土地割りのデータを利用して大正元年当時の景観の3次元化を行い、多数の建築物からなる町並みの再現も行った。
  • 小川 都弘
    セッションID: 206
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    弓削島庄に関しては歴史家清水三男氏以来の長い研究史がある。最近の研究成果に立脚しつつ以下のような諸点を報告した。 報告者は東寺における供僧らの評定制度を視野に入れながら従来の通説に再検討を加えた。詳細は報告に譲るが先学らの指摘する乾元2年の和与状と地頭・領家間の協議云々といった問題をいったん保留し、現場に精通する預所栄實とそうとは言えなかった東寺の供僧らの意見調整の有り様が看守できると指摘。つまり、軍事的手段を伴う紛争の回避には地頭・領家が領域的に棲み分ける原案(原筆部分)がすぐれているが、それを破棄し経済的得失により傾いた判断から、経済的リスク分散策が修正案(追筆)を通じて打ち出され、両者の間で領家側には苦慮のあとが伺える。これは従来からの報告者の見解(人文地理44-5、49頁)を補強するもの。次にこの差図のテーマたる網場の設定に関して東寺側の地政学的思惑(備後国沼隈郡との国境=領海問題で「辺屋路小島」を伊予国弓削島の属領とする)をベースとした地頭・領家間での漁業権配分と言う捉え方を提示した。『弓削島庄差図』は中世の海の国堺を表現した稀有の地図史料といえる。そういうもろもろのことから弓削島差図はソシオ・カルトロジーの面からはどのように評価できる中世絵図なのかを論じた。参考文献小川 都弘「中世荘園絵図のソシオ・カルトロジー」、人文地理44-5。 学会発表の関連資料は平成16年11月1_から_30日までの間以下のサイト上に掲示する。パスワードはgeo(小文字・半角) http://album.nikon-image.com/nk/NAlbumTop.asp?key=426687&un=78426&m=0
  • 有薗 正一郎
    セッションID: 208
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本発表では、近世から20世紀前半までの稲の干し方の分布と、近代に入っても地干し法が掛け干し法と並用された理由について、発表者の解釈を述べる。 近世は農書類の記述から稲の干し方を拾い、17世紀と18世紀と1801-68年の3つの時期を設定して、分布図を描いた。19世紀後半は『農談会日誌』と『稲田耕作慣習法』から1880年頃の干し方の分布図を、20世紀前半は『日本の民俗分布地図集成』から1910-20年頃の干し方の分布図を描いた。 ひとつの国で近世の間の動きを追える例はほとんどないが、全体としては、地干し法から地干し法と掛け干し法が並存する姿に変わっていった。ただし、農書類は進んだ技術を記述する場合が多いので、農書類が掛け干し法を奨励する場合は、農書類が言及する地域に掛け干し法が普及し始めていたと解釈すれば、実際に近い姿が描ける。1880年頃は19世紀前半よりもさらに掛け干し法が普及し、地干し法と並用された。1910-20年頃も地干し法がまだ広くおこなわれていた。 地干し法は近世には広くおこなわれ、近代に入っても掛け干し法と並用された。その理由は、湿田でも稲束を干す前に水を抜けば地干しはできたし、掛け干し法は労力がかかったからである。20世紀前半までの稲は現在の稲よりも背丈が高かったので、掛け干し法では稲束の穂先が田面につかないように、稲架の横木を高い位置に設定せねばならなかった。また、20世紀初頭頃までの日本人は現代人よりも10cmほど背丈が低かったので、稲架の横木の位置は現代人の目線よりも30cm以上高くなり、稲束を持ち上げる姿勢で稲架の横木に掛ける作業は、多くの労力がかかった。さらに、掛け干し法は稲架の設置と取り外しに多くの労力がかかる。他方、地干し法は背丈が低い人でも背丈が高い稲束を楽に扱えるし、稲架の設置と取り外しの手間がいらない合理的な稲束の干し方であった。
  • 波江 彰彦
    セッションID: 212
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    明治以降に形成された近代的ごみ処理システムは、社会情勢の変動に伴って改変を繰り返してきた。なかでも、戦後の経済成長による都市化とごみの急増は、ごみの収集、運搬、処分という各機能の変化を促し、それらによって組み上がるシステムの大きな転換を要求したのである。本発表の目的は、特に昭和30年代から50年代までの大阪市におけるごみ処理の各機能の変化に着目して、ごみ処理事業の転換点を明らかにすることにある。 1955年頃から、飲食店などから排出される業者収集ごみの伸びを主な要因として大阪市のごみは急増し、それに対応できないごみ処理事業は危機的状況を迎えた。収集・運搬局面では、作業時におけるごみの散乱や不衛生状態が非難され、また運搬効率の低さが問題となった。埋立に依存する処分局面では、埋立処分地付近の劣悪な環境がさまざまなトラブルを引き起こした。そこで、昭和30年代以降各局面で抜本的な変革に迫られたのである。 まず収集・運搬局面では、ロードパッカ車の導入によってその機械化が図られた。また、運搬効率も向上したため、市内に設定することが困難となった埋立処分地の遠隔化にも寄与することになる。昭和30年代には全処分地の約半数が市外に設定されたのである。しかし、やがて埋立処分そのものの限界が露呈され、昭和40年代以降の埋立は市内臨海部の大規模処分地に集約化していく。一方、昭和30年代初頭から計画を推進していた現代的焼却処理への移行は、全連続式機械炉を備えた焼却施設の建設が相次ぐ昭和40年代にようやく実現し、以後焼却処理率は急速に高まっていくことになる。大阪市のごみ処理事業は1965年頃に転換点を迎え、可燃性ごみの全量焼却体制が整った1980年頃になって現在の処理体制がほぼ確立したといえよう。
  • 南 紀史
    セッションID: 213
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    本発表の目的は、被差別部落(以下、部落)での近代工業の成立とその後の展開、ならびにそれに関わる被差別部落民(以下、部落民)の就労活動の変化をみることである。従来「部落産業」と位置付けられた工業に関する研究は、差別問題の分析をおもな目的として、その原因となる事象の過程が重視されてこなかった。具体的には、皮革業など前近代に起源をもつ業種以外では、部落民による工場誘致の過程、とくに彼らの就労活動の変化を分析する必要がある。その業種の存立基盤が、外部地域における彼らの労働に依存しているからであり、それが工場誘致に直接関わる要因なのである。このような分析を通じて、部落民が近代工業の成立に重要な役割を担っていたことを考えてみたい。本発表では、大阪府南部の部落で行なわれてきた製線業を事例とする。製線業はワイヤーロープを製造する業種で、この部落では、おもにその素線を製造する伸線加工が行なわれてきた。研究方法として、大阪府救済課『部落台帳』(大正7年)、ならびに『商工名鑑』や『工場通覧』などで製線工場の分布の変遷を確認し、部落民の製線業への就労の有無や、就労地については、聞き取り調査を行なった。その結果、ある部落民・グループAは伸線の技術を外部の工場で習得した後、対象地域の部落内で工場を創業した。一方、グループBは技術習得後、大阪府南部・東部の製線工場から賃金面などで好条件を提示され、高次な技術職人として引き抜かれた。また、彼らはグループAの創業した工場で血縁関係のある工場に就業した。この際、周辺の工場は高度な技術を求め、多くの伸線工程がこの部落へ受注された。以上から、製線業における部落民は、彼らの高次な技術によって優遇されていた。このように、近代工業において重要な役割を果たしていたことは看過できない。他の部落産業における本発表の結論への相違点を検討し、就労活動からみた類型化を課題としたい。
  • 喜多 祐子
    セッションID: 214
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    明治時代は県と国という呼称が併用されており,一定していない。それは,2つの要因が考えられよう。1つは,県が国を基に設置されたため,県域と旧国域が合致する場合が多く,人々は旧国域をそのまま県域として想像したことである。もう1つは,県が統廃合を繰り返したような地域では,国が行政の単位として取り扱われたことである。つまり,府県の設置後も旧国として認識されていた。ところが,旧体制を崩壊させ,均質な空間を創出するためには,行政区を分割する境界を一本の明瞭な線として示す必要性があった。たとえ県境と旧国界がほぼ一致するような箇所においても,行政的・社会的・地縁的な理由から,境界を明確にしようという動向がみられた。県が県境を明示するという行為は,国家への帰属する表徴であった。ところが,先述したように,当該期は国の呼称を併用する府県が多く,県境というよりはむしろ「旧国郡界の画定作業」として処理する県が多数みられた。 県境の画定事業は,江戸時代までの裁許方法とは相違し,政府が主導となり実施された。政府は県間による折衝を一任していたが,最終的な判断を認可するのは,明治政府であった。また,争論の決着がつかない場合に限り,政府から論地へ官人が派遣された。 このように県境を決定する権限は政府が有しており,地元住民には認められていなかった。つまり,公的機関で決定した情報を地元住民へ押し付けたのである。それを徹底させるための準備作業としては,境界を決定するにあたり,まず境界を挟んだ1通の書面を各村から作成させた。その書面によれば,1)公的機関が決定した事項を必ず遵守すること,2)その内容について村落から不平・不満を申し出ないこと,3)再び争論を起こさないことを約束させている。また,一連の経緯を記した帳簿や地図を作成させ,それらを保管することにより,境界争論の防止に努めた。
  • 渡辺 理絵, 小林 茂
    セッションID: 216
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    19世紀末から20世紀初頭、日中間において、近代地図作製に伴う技術移転が展開した。中国には日本人測量士が招聘され、他方、同時期の日本では中国からの留学生を受け入れ、地図作製の教育を行っている。以上の技術移転は、どのような変化をもたらしたのであろうか。本発表は日中間で展開した地図作製技術の移転についてその概要を報告する。 中国人留学生を受け入れた陸軍陸地測量部修技所は、明治21(1888)年、測量技術者育成のために設置された教育機関である。修技所へ進学した清国留学生は、そこで3年間の地図作製に関する技術教育を受けた。留学制度は、1904年から1911年までの8年で終了したが、その間の入学者数は総計132名に及び、母国帰還後、彼らは中央陸軍測量学校校長など中国の近代測量教育および測量事業の中心的な役割を担った。 同時期、多くの日本人が中国各地の諸学堂に赴き、中国の教育行政や技術指導をおこなった。明治38(1905)年、清国陸軍部測絵学堂教習を務めた土方亀次郎を初めとして、大正5(1916)年まで30名を超す日本人が測量技術者として傭聘され、南京や江蘇省の測絵学堂などに赴いている。そこでは技術指導はもちろん、測絵学堂のカリキュラム編成まで担っている。 さて大阪大学には、光緒34(1908)年に原図が作製された広西省の地形図が所蔵されている。本図の凡例をみると、日本の正式二万分の一地形図に適用された「明治三十三年式図式」と酷似する。当時の広西省龍州には測絵学堂があり、そこでは日本に留学した者が教鞭をとっていた。事実、この測絵学堂の教官の中には、修技所へ留学した袁華選(修技所第3期生)が含まれている。こうした事実は、日中間で展開した技術移転が、中国において日本式図式を採用する契機となったことを示しており、中国と日本の地形図の類似性がここに起因することを物語っている。
  • 山内 昌和
    セッションID: 302
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    先進国における1970年代以降の出生力低下は、第二の人口転換とも呼ばれ、多くの研究者が関心を寄せている。本報告では、1980~2000年における日本の地域出生力の変化を、子ども婦人比、子ども有配偶婦人比、有配偶率の各指標を用いて市区町村別に検討する。具体的な課題は以下の2点である。1点目は、出生力の地域差の確認である。その場合、結婚行動の地域差と有配偶女子の出生力の地域差との関係に注意する。また、1980~2000年の20年間における地域差の変化も確認する。2点目の課題は、1点目の課題を受けて、有配偶女子の出生力および結婚行動に変化が生じているのかどうか、あるとすればどのような変化なのか、さらには出生力の変化に有配偶女子の出生力と結婚行動の変化がどのように影響しているのか、といった点について検討することである。分析の結果、主に3点が明らかになった。1点目は、1980年以降の日本では、出生力に明瞭な地域差が存在するが、それは大都市地域で低くその他の地域で高い、という単純なパターンではなかった。2点目は、子ども有配偶婦人比と有配偶率の地域パターンは異なっており、1)有配偶女子の出生力・有配偶率とも高い地域(山陰地方や九州地方南部等)、2)有配偶女子の出生力・有配偶率とも低い地域(大都市地域等)、3)有配偶女子の出生力は高いものの有配偶率が低い地域(沖縄県等)、4)有配偶率は高いものの有配偶女子の出生力は低い地域(東北地方北部日本海側や北陸地方等)の4つのパターンがみられた。3点目は、1980~2000年の地域出生力の変化は、基本的に有配偶率の変化によって説明可能であり、全国人口の分析結果で示された有配偶女子の出生力低下は人口分布変動の影響を受けている可能性があるということである。
  • 朴 澤龍
    セッションID: 304
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    近年,過疎地域における高齢者のみの世帯の増加は,諸サービス機能のさらなる縮小とともに,日常生活行動においても移動制約者の増加,行動の地域格差などをもたらしている。このような過疎地域では,日常生活圏整備が必要とされ,それに先だって高齢者の日常生活行動の実態をより明確に把握することが重要となる。その際,従来の一町村や中心集落のような分析単位ではなく,類似性を持った集落類型に基づいた研究が必要となり,有用な空間的単位の一つとして,「流域圏」が考えられる。さらに,高齢者が抱える制約要因は,居住環境などにおいて共通するのもあれば,世帯の個人属性によって相違するのもあり,それらを一元的に議論することはできない。すなわち,世帯をさらに類型化することによって,個人属性の格差による制約要因などもより明確になり,高齢者の生活行動実態をより正確に把握することが可能になると考える。 そこで,本研究では,高齢化が進みつつある奈良県川上村を対象に,高齢者を中心とする移動制約者の日常生活行動(購買・通院・余暇)の実態と問題点を,アンケートと聴き取り調査を通じて明らかにする。 結果,高齢者の日常生活行動は既に町村域を超えており,通院にあわせた購買行動や別居家族または親族訪問に際した購買・通院行動のような多目的の場合が多く,より遠方の移動ほどその傾向が強くなるが,移動頻度は頭打ちとなる。特に単身世帯ほど多目的移動者が多く,別居家族との空間的距離関係が強く影響する。また,高齢者の居住環境・世帯構成・交通条件の違い,諸施設との位置状況などから,集落や世帯間には格差があるのみでなく,類似性も持つことがいっそう明確にした。 今後,高齢者を中心とした移動制約者の生活行動問題は,過疎農山村のみならず,都市の郊外地域においても発生しており,これらの比較研究も重要となろう。
  • 折橋 幸代
    セッションID: 305
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では、高齢者の外出行動パターンの特徴を明らかにするため、第2回および第3回の「富山高岡広域都市圏パーソントリップ調査データ」を分析する。富山県は全国的にも高齢化が進んでいる県のひとつであり、2025年には高齢化率が30%を超えると推計されている。なお、トリップとは「何らかの目的を達するために行われる空間移動」である。分析の結果、外出率は加齢に伴って減少するが、平均トリップ数は65歳以上75歳未満の前期高齢者が非高齢者よりも多いことがわかった。就業者ほど1トリップ当たりの平均トリップ所要時間が長く、どの年代も20分程度である。平均トリップ所要時間は2時点を比較してもほとんど差がない。代表交通手段は、男女とも加齢に伴い徒歩トリップが増加し、自動車トリップが減少する。非就業者が多い高齢者は、通勤・帰宅ラッシュ時を避けてトリップが発生し、午前と午後の2回ピークがある。なかでも午前10時台に発生する全トリップのうち3割が高齢者のトリップである。2時点を比較すると、高齢者の非外出パターンは減少している。高齢者の特徴としては、「私用・帰宅」パターンが2割以上を占め、通学・通勤・業務関係のパターンが少ない。平均トリップ数は、非高齢者よりも前期高齢者のほうが多くなる要因を探ることが今後の課題である。
  • 畠山 輝雄
    セッションID: 306
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    2000年4月に介護保険制度が施行されたことにより,全国で介護サービスの需要が高まり,それに伴い多くの介護保険施設が新設された。このことから,介護保険サービスの供給量も急激な増加をみせている。しかし,全国で介護サービス供給の地域格差が生じている。 非都市部の自治体では,財政的にも恵まれず,また高齢化率は高いものの,絶対数では少ないことから,営利法人やNPO法人の参入はほとんどみられず,介護サービス供給の基盤が脆弱である。そのため,このような自治体では広域的なサービス供給が求められる。 本発表では,財政的,地理的理由から広域市町村圏でサービス展開を行っている事例として,群馬県利根沼田圏域を取り上げ,介護保険サービスの展開と介護保険施設の利用実態を分析することで,これらの地域における介護保険サービス供給の問題点を明らかにする。 利根沼田圏域では,広域的な介護保険サービスの展開を図っており,入所施設では圏域全体として,広域的にサービスが行われている。しかし,通所サービスや訪問サービスなどの在宅サービスでは,送迎や高齢者宅への訪問において,距離的,時間的制約があるため,圏域全体としての広域的なサービスの展開には限界がある。つまり,各自治体が自立した介護保険運営を行う必要がある。 しかし,沼田市,東部地域,西部地域の3地域間においてサービス基盤の格差が生じている。このことから,隣接自治体との連携によるサービスや地域の特性,需要を考慮した施策の展開が有効であり,これらの調整,補助役としての働きが,広域市町村連合および一部事務組合には求められる。
  • 荒井 良雄, 柏倉 清人, 久木元 美琴
    セッションID: 308
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    日本における携帯電話の利用形態として,外国にみられない顕著な特徴は携帯電話からのインターネット利用が非常に盛んなことである。携帯電話向けの多数のサイトが提供している情報の種類はさまざまであるが,特定地域についての情報提供を行っているサイトが多数含まれている。本研究では,こうした地域情報を携帯電話から提供しているサイトの全体像の把握を試みた。 iモードの公式サイトでは、地域情報サイトの重複を除いたネットの数は全サイトのネット合計の59%にあたる。しかし、メニュー上で見たときの地域サイトの見かけの数はもっと多く、総数の70%を超えている。一般サイトについては、代表的な携帯電話用ポータルサイトであるYahoo! Mobileのトップページの中の地域別カテゴリーに含まれるサイトを調べると、その数は約7,100であり、カテゴリー別サイト数の単純合計の43%にあたる。これは、公式サイト(iメニュー)とほぼ同じだが、一般のPC向けポータルサイトであるYahoo!よりかなり低い水準である。こうした差の背景には、携帯電話インターネットサービスの拡大過程におけるサイトの種類による選択的浸透のメカニズムが働いていると考えられる。 Yahoo! Mobileに登録されている地域別カテゴリーごとのサイト数から見ると、地域情報サイトの地理的分布は日本の都市システムの階層構造にほぼ一致している。より詳細な分布を調べるために、登録数が多い情報検索サイトを分析してみると、代表的な飲食店情報検索サイトである「Yahoo!グルメ」では、登録店舗は大都市で大きな集積が見られる。しかし、代表的な宿泊施設検索サイトである「旅の窓口」では、大都市圏を取り囲むように宿泊施設数の多い地区が存在する。飲食店の集積も宿泊施設のそれも大都市圏の巨大市場に対応していることでは共通している。
  • 中村 努
    セッションID: 310
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    少子高齢化の進展、医療技術の進歩、国民の意識の変化等を背景として、より質の高い効率的な医療サービスを提供することが課題となっている。特に生活習慣病の診療の質を向上させるためには、医療機関と院外処方せんを受け付ける薬局との連携が求められる。そこで、本発表は情報技術を活用した医療ネットワークの展開の現状を概観した上で、保険薬局が参加した事例を取り上げ、その役割を検証する。 わが国のネットワーク基盤整備事業として、2000年度に通商産業省(現経済産業省)、2001年末に厚生労働省が情報技術を活用した医療連携の取り組みを推進している。A医療ネットワークは、この両事業において採択され2002年4月から運用された。 本事例ではネットワーク構築以前から、地域中核病院と地域医師会、地域薬剤師会とのセミナーや会議が開催され、院内と地域の医療スタッフの研修支援と交流の推進が図られた。しかしながら、医療機関格差が解消しなかったため、当該病院院長がイニシアティブをとり、最新の情報技術を導入したA医療ネットワークを公募事業によって構築した。当該医療ネットワークは地域の中核病院を中心に、地元診療所と保険薬局をオンラインで結ばれ、電子カルテによって医療情報が共有化される。当該事業の特徴は、保険薬局がネットワークに参加していることで、上記の会議における交流によって、薬局から病院の保有する検査データの閲覧への要望が出されたことがそのきっかけとなった。 実証実験の結果、薬局は医師からの患者情報や服薬指導指示をもとに、個々に合った服薬指導が可能になった。薬局からは、患者の状況の報告、服薬指導内容、食事や運動指導内容等を医師に伝えることにより、双方向の情報交換が可能になった。一方、今後の課題として、技術的な問題、運営費用の捻出の方策、住民への啓蒙、具体的な有効性の証明、の4点が指摘できる。
  • 荒木 一視
    セッションID: 314
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    報告者はこれまで1973年,1983年,1993年の各年次において,産地から消費地に至るわが国の野菜の流動の地理的パターンを検討してきた(荒木 1998)。その結果,1970年代までは関東や,近畿,中国といった各地方ごとに完結性の高かった青果物の流動体系が,80年代90年代を通じて変化し,各地方の枠を超えた全国的な体系が構築されたことが明らかになった。特にその頂点となるのが東京や大阪などの大都市であり,産地サイドでは地方市場への出荷を担っていた中小産地の淘汰が進み,全国的な大市場への出荷を担う大型産地の成長と極化(polarization)が進行した。本報告は以上のような研究蓄積を踏まえて,次なる10年間でのわが国の野菜流動における変化を明らかにすることを目指すものである。検討の結果,1980年代90年代を通じて認められた,大産地と大消費地を結ぶ野菜の流動体系が一層進んでいるということができる。特に北海道や東北地方の野菜産地としての成長が目立ち,ネギや,キュウリ,ピーマン,トマトなどでも相当量を全国各地に出荷するに至っている。また,今後は海外産生鮮野菜の動向にも着目する必要がある。
  • 池田 真志
    セッションID: 315
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    2000年以降,BSE騒動や食品の表示偽装問題など,食の安全をめぐる様々な問題が発生し,流通業界は対応に迫られてきた.大手スーパー各社はいわゆる「顔が見える」野菜と呼ばれる生産者名や生産履歴が分かる青果物を導入することで,安心や安全を訴えている.このような青果物の調達は,従来の市場流通では難しいため,スーパーは新たな調達システムを形成している.このような動向に対して産地は様々な対応に迫られている.本発表では,「顔が見える」流通に対する産地の対応を検討することによって,その意義を議論する. なお,本研究では,「顔が見える」流通を‘流通の「個別化」’という新しい概念で捉える.流通の「個別化」とは,従来は一緒くたに扱われていた商品をできるだけ個別に扱おうとする流通の変化を意味する.例えば,青果物流通においては,同じ野菜であっても,生産者別に商品を区別して流通させる動向である.農家は「顔が見える」野菜に取り組むにあたって,1.出荷する数量の対応,2.出荷する品目・品種の対応,3.作業面の対応などの様々な対応に迫られている.他方,農協や専門流通業者は,個別に流通させる仕組みの構築や需給調整などの対応をしている. 「顔が見える」流通に参加する各主体は以上のような対応に迫られているが,それでも取り組む意義は大きい.農家にとっては経営的・精神的なメリット,農協にとっては新しい生産・出荷体制の構築,専門流通業者にとっては青果物流通業界で生き残りを図るための重要な活動である. 流通が「個別化」から,生産-流通関係が変化が読み取れる.大量流通のシステムでは,生産者と消費者は切り離されており,生産から流通までの関係は価格と品質に基づいた一時的なものであったが,「個別化」した流通において,その関係は,信頼関係に基づいた,密接的で継続的な関係に変化した.
  • 井原 淳
    セッションID: 317
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、(1)消費者の属性と分布特性による商店街のソフト事業活動の展開の差異を明らかにする。(2)顧客・商店街間の関係性を再構築することで、より多数の消費者を獲得できる可能性について検討する。本研究の調査対象地域は、京都市中京区西新道錦会商店街と同じく下京区松原京極商店街、およびそれぞれの商店街から500mの圏内である。本研究で用いるデータは、質問紙調査と聞き取り調査から得た。 分析の結果、以下のことが明らかとなった。1.両商店街でのソフト事業展開の差異は、(1)高年者・高齢者層人口数と密度、(2)共同住宅居住者人口数と密度などからもたらされていることが明らかとなった。西新道錦会商店街は、主要な顧客層である高年者・高齢者層などに対してソフト事業活動を行ったためスムーズに展開することができた。一方、松原京極商店街では、主要な顧客層ではない若年者・中年者層などの増加にどのような対策を講じていいのかがわからない現状である。つまり、商店街のソフト事業展開は、商圏内の消費者の属性や分布の違いによって差異が生じている。2.両商店街ともに、「顧客の地域への愛着」および「顧客と商店街の関係性」との間に有意な相関があった。また、商店街と関係性を構築しにくい顧客層であっても、地域への愛着度が強ければ商店街を利用することが明らかとなった。顧客と商店街の関係性と地域への愛着との関係の構築ができれば、若年者・中年者層や共同住宅居住者層を商店街に取り込むことができる。このようにみると、商店街が地域社会と密接に関わることで消費者の属性や分布を克服できる可能性がある。
  • 神田 孝治
    セッションID: 401
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では、第二次大戦後の米軍統治期から本土復帰前後の沖縄の場所イメージを、観光現象との関係性から、特に戦争の影響や米軍統治に注目して考察する。 1945年にアメリカ軍の軍政下におかれた沖縄には、1957年段階で15,123人の観光客が訪れ、そのうち7割強が日本人で2割弱がアメリカ人であった。多くを占める日本人観光客は、主にハワイ移民の帰郷者と、沖縄本島南部の戦跡を訪れる本土からの遺族巡礼者であった。また1958年には米ドルが沖縄で使用されるようになったためショッピング観光が行われるようなり、1960年頃には観光は沖縄で三番目の基幹産業になった。しかし、これら戦跡観光もショッピング観光のどちらも、当時その永続性と魅力が疑問視されており、また戦前注目されていた沖縄の植物景観や建築物も戦災で焼失して観光資源とならない状態が生じていた。 そのため、1960年ごろには、米軍が先鞭をつけた海浜リゾートの存在や、本土からの観光客の意見を背景に、海を観光資源として「発見」し、そのイメージを強調して「沖縄を第二のハワイ」とする道が模索されはじめていた。1965年には沖繩本島の中北部の西海岸が沖縄海岸政府立公園に指定され、その一部は海中公園とされて1970年には海中展望塔も建設された。 そして、1972年の本土復帰前には、沖縄開発に寄与することを目論んで国際海洋博覧会の開催の企画と用地選定がなされ、会場となった北部の本部半島は将来国際的な海洋リゾート・ゾーンにすることが企図されていた。そして博覧会での海のイメージは、沖縄と本土の一体感を回復しかつ存続する基地のイメージを隠蔽しようとする政府と、沖縄の優れた風景として考えかつ基地経済にかわるオルタナティヴとして観光産業に期待していた住民双方にとって重要なものとなり、また観光客も沖縄の海のイメージに憧れそこを訪れるようになっていたことが確認された。
  • 玉懸 慎太郎
    セッションID: 402
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本発表の目的は、マス・メディアとしての劇映画が、ロケ地に与える影響を実際の事例で検討することにある。本発表では、フィルム・コミッションが誘致した映画のロケ地が、映画のヒットによって「名所」になっていく過程を報告する。事例としたのは、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」とそのロケ地となった香川県木田郡庵治町である。映画「世界の中心で、愛をさけぶ」は、300万部を突破した片山恭一原作のベストセラー小説を映画化したものである。映画の公開は2004年5月で、観客動員は400万人を超えた。劇映画とは別に、テレビドラマも制作され、「セカチュウ現象」という言葉を生み出した作品である。香川県木田郡庵治町は、高松市中心部から車で約30分ほどの距離にある。人口は約6,500人で「四国本土最北端のまち」「石と魚のまち」がキャッチフレーズであった。庵治町で撮影が行われた背景には、香川フィルムコミッションの存在が大きい。原作の小説の作者は、愛媛県出身のため、映画の行定監督らスタッフも瀬戸内海を中心にロケ地を探していた。そこで香川県観光協会内にある香川フィルムコミッションが、映画制作会社東宝に働きかけ、香川県内の数カ所を紹介した。スタッフが実際にそれらの場所を訪れ、庵治町が映画のイメージにぴったりだったことからロケ地に決定した。町に観光客が来始めたのは、2004年5月に映画が公開された直後のことである。ロケ地目当ての観光客が町に殺到した。町では慌てて4カ所に看板を設置し、ホームページでロケ地情報を提供した。7月にはパンフレットができあがり、町内の公共施設などで配布を始めた。このブームをきっかけに、庵治町では有志によるボランティア団体「庵治町おこし会」が結成され、7月24日から町役場に隣接する町民ギャラリーでロケ地と映画の写真展を始めた。将来的な課題として、映画ブームが去った後、どのように町おこしをしていくのかがあげられる。
  • 向後 紀代美
    セッションID: 404
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    琥珀という宝石をテーマに特色ある町づくりをしている地域を紹介する。何をもって地域振興の成功とするのか考察する。
  • 塩川 太郎
    セッションID: 405
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    140箇所以上の温泉が有る台湾は、世界的に見ても有数の温泉地帯である。しかし,台湾における温泉開発の歴史は浅く,日本統治期の約100年前からである。初期の温泉開発は,日本主導の下で行われ,利用者も日本人が中心であった。近年,経済成長とともにゆとりが増え,レジャーとして台湾の人々による温泉の利用が多くなってきた。しかしながら,日本とは生活習慣が異なる台湾では,人々は本当に温泉が好きなのかどうか疑問が生じる。一方,台湾の温泉開発は,近年の急激な開発により,様々な問題が起こっている。この問題点を探り,改善していく上では,台湾の人々(利用者)の温泉に対する考え方を知る必要がある。そこで,今回は,台湾において温泉旅行に関するアンケート調査を行い,台湾の人々の温泉旅行の志向性に関する結果を報告する。アンケートは,(A)台湾の温泉地についての内容,(B)温泉旅行の志向と日本の温泉についての内容の2つに分け,2004年6月に台湾中部で行い、合計922人から回答を得ることができた。まず,温泉の好き嫌いを尋ねたところ,「好き」が約90%を示し,温泉が好きな人々が多いことが分かった。次に台湾の温泉の印象について, 5段階に分け選択してもらったところ,平均はいずれも「普通_から_良い」の間の結果となった。一方、温泉の利用頻度は年1回_から_数回が多い結果となった。その他,台湾の人々は,主に多人数で自動車を利用して温泉地に行き,1泊する形態が多いことが分かった。風呂の形態の好みについては,個室風呂を好む傾向がみられた。また,宿の部屋も和風の部屋が最も好まれ,台湾の温泉観に日本の影響が大きいことが伺える。最後に日本の温泉についてアンケートを行ったところ,日本の温泉を利用した経験者は25.9%であったが,80%近い人々が興味を持っていることが分かった。これらの結果から台湾における温泉旅行の志向性について考察を行う。
  • 荒又 美陽
    セッションID: 408
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本報告の目的は、景観保存政策が人々の認識に影響を与え、地区の実態的・象徴的位置づけを変化させる過程を明らかにすることである。フランスにおける歴史的街区の保存は1962年の「マルロー法」による。パリのマレ地区は1964年にその対象(「保全地区」)となった。パリという長い歴史を持ち、数々の事件の舞台となってきた都市において、歴史的でない街区はないが、マレは法律制定の議会ですでに名前が挙がっていた。アルジェリア戦争直後の混乱の時期において、比較的古い建造物が残されていたマレは、フランス「本来の」姿として重視されたのではないか。保全地区の設定までは順調であった政策は、具体的な方針の決定段階で困難に直面した。一部実験的に行われた事業が多大な負債を抱えたこと、また住民や経済活動を維持できないということに批判が集まったためである。調整を重ねた結果、最終的な方針が決定したのは1996年であった。理想の景観を作り出すために明らかに社会構造を変化させようとしていた60年代当初と比べると、現在の方針における保存の目的は曖昧である。行政は政策自体の存続も見直しにかかっている。統計で見ると、マレ地区は労働者の地区から比較的裕福な層の居住地へと変貌している。政策にそった変化というよりは、マレがパリにおいて特権的だという認識の広がりによって投資が集まったためといえよう。現在でも比較的古い建造物が多いとはいえ、40年の間には他の地区と比べ、取り壊しも急激に進んだ。マレと周辺地区との差異は実態的には減少したのである。他方、現在のマレはユダヤ人、中国系の卸業者、ホモセクシュアルの人々の地区としても知られている。パリの都市空間におけるマレの特権的な位置づけは、社会的マイノリティとの結びつきも認知されやすくしたと考えうる。保存政策は、パリにおける地区の特権性と少数性を象徴的に維持したのである。
  • 遠藤 尚
    セッションID: 415
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本報告では、2003年の少雨の際の水田営農世帯における作物選択とその背景について、インドネシア、ボゴール県のスカジャディ村を事例として明らかにする。スカジャディ村は、ジャカルタの南60km、ボゴールの南西10kmに位置する。対象集落では、2003年1月から6月にかけて、灌漑水路の破損と少雨のために農業用水が不足していた。また、2002年から2003年にかけて、野菜とサツマイモの販売価格が高騰していた。 対象集落の水田では、例年、主に自家消費用の米と現金収入のための野菜が栽培される。しかし、2003年1月から6月の作物選択は、サツマイモを含む作付け組み合わせが過半数を占める。この理由として、農業用水の不足とサツマイモの販売価格の高騰をあげる世帯が多い。特に、灌漑水路の下流側の水田を経営する世帯の多くが、水量不足を理由に水稲の代わりにサツマイモと野菜を作付けた。また、世帯主の主職業が農業以外の世帯の多くが、野菜の代わりにサツマイモを植えつけた。その理由として、サツマイモの販売価格の高騰に加え、サツマイモが野菜と比較して労働力や生産費を必要としないことが考えられる。対象集落における2003年のサツマイモの収量は例年の33-80%であり、結果として、水稲あるいは野菜の代わりに、サツマイモを植えた世帯だけが少雨の影響を受けた。 このように、少雨時の水田営農世帯の作物選択行動は、水不足への対応のみを考慮してなされたのではなく、経営農地の水利条件、および世帯の労働力資源等の制約という条件下で、より多くの販売利益獲得を目指して行われ、その結果として、少雨という自然環境変動による影響を受けたといえる。ただし、対象世帯の総収入に占める農業収入の割合は低く、また、水田営農世帯はそもそもこの村の中で社会的上層に属しているため、サツマイモの減収という直接的被害が、家計に対して及ぼす影響については疑問が残る。
  • チャン アイン・トゥアン
    セッションID: 501
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本報告は、ベトナム北部紅河デルタの沿岸部に位置する、人口がきわめて稠密なタイビン省の農村変化の実態調査の中間報告である。沿岸のティエンハイ郡について、その成立から現在までの開発過程を各種の時代を異にする地形図、歴史文献、微地形などを資料にたどるとともに、沿岸部のDong Long 村と10km内陸に位置するVan Truong村という2つの行政村(xa)の農家世帯約300に家族構成、人口移動、経済状況、農村工業、家屋タイプなどについて、ドイモイ以降の変化を中心にアンケートを実施した調査の中間的な分析の成果である。主要な結果は以下の4点である。1.ティエンハイ郡は1828-29年に海岸に堤防を築いて7つの新村落(Tong)の成立によって誕生した。Van Truong村はそれ以前に成立した古村である。いっぽう、Dong Long村は1950-60年代に周辺からの移住者によって成立した。2.成立の古いVan Truong村では農村工業が発達し、ドイモイ以降、就業構成も多様化しているが、Dong Long村は米作2期作が中心で、近年エビ養殖が水田を改廃したり、堤外に養殖池を造成して開始されたが、なお、商品経済化の度合いは低い。3.警察統計などによる来住者の時系列累積数では、郡内移動ではDong Long村が総数では多いが、来住者の多様性はVan Truong村が高い。省、北部ベトナムの範囲では、両村の移住者の特性には有意な違いは認められなかった。4.近年の農村家屋は、農村工業の発達と新た交通の便のよい地点への家屋の移動・新築によって、伝統的な家屋が中小都市のショップハウス的な形態に変わり、農家の中庭が農村工業(米麺、酒造)などの機械を設置するスペースに機能変化した。同時に新しいライフスタイルへの移行がVan Truong村ではより顕著である。
  • 森川 真樹
    セッションID: 502
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    パキスタンの住宅セクターは、1970年代以降、政府からほとんど注視されず、スラム開発も十分な対策はなされずにきていた。1999年10月に政権を奪取したムシャラフ軍事政権は、国家の復興および欧米からの支持を得るため、数多くの改革を実施した。2001年に連邦政府により制定された住宅政策は全12項目で構成され、第5項の「スラム開発」において、急速な都市化や難民流入といった都市部のスラム拡大の諸要因を分析し、土地マフィアやマネジメント不足の問題、開発コントロールの強化、低所得者層のニーズにあわせた漸進的開発、等が記載されている。 各州において開発プログラムを作成する地方自治体や大都市の開発当局は、十分な能力を持つ機関が少なく、UNDPがパンジャーブ州政府と協力し、都市貧困層を対象としたPLUSプログラムを1997年に開始した。その特徴は、カラチのスラム開発で成果を上げたオーランギー・パイロット・プロジェクトの住民参加型・自助努力型開発方法を利用する、Social mobilizerがコミュニティに入って住民の気づき・意識改革を促す、低価格下水道設備を導入しステークホルダーへのトレーニングを実施して持続性を確保する、コミュニティを基準とした内的・外的開発の概念を定着させる、等である。筆者が行ったインタビュー調査等にて判明したPLUSの成果と課題を政府の立場に絞ってまとめると、成果では低所得層住民も開発に対して応分の経費負担の用意があることが分かった、自助努力の意義を住民が理解した、開発に対する住民の意識・能力が向上した、等である。課題では「プロセス重視」と「目標達成重視」での開発観の相違がある、サンプル数が十分でない、住民の意識や能力が向上しても次のプロジェクトに活用できない、等があげられる。これらの成果と課題をもとに、全国的な展開を如何に図るかを検討する必要が今後残されている。
  • 川田 力
    セッションID: 503
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    近年、日本では消費者のライフスタイルや購買行動の変化、モータリゼーションの進行、人口の郊外化、商業施設の郊外展開等の影響により、全国各地で中心市街地における商業機能の空洞化が進展している。これに対して、ドイツでは商業規制に保護されて、中小都市においても旧来の市場や小規模な小売店が大規模店やチェーン店と共存し、中心市街地の商業機能が維持されている例が多いとされる。特に、1956年制定の閉店法(Ladenschlussgesetz)は、営業時間の競争を抑制することから、個人経営の小規模な小売店を保護する大きな役割を果たしてきたとされる。しかし、近年の規制緩和政策により1996年と2003年の2度にわたり閉店法の改正が行われ、営業時間の延長が可能となった。また、2003年の改正時にはドイツ連邦参議院では現行の連邦レベルの閉店法を撤廃し、閉店時間を各州の裁量に任せる案も提出されるなどさらなる規制緩和の動きも見られる。しかし、ドイツの中心市街地の商業機能については都市計画が果たしている役割も極めて大きい。すなわち、都市計画の権限を有する自治体がかなりの程度、大規模小売店舗の立地を制限したり誘導したりすることが可能であり、これが既存の中心市街地の商業機能の浮沈に影響している。そこで、本研究では、1997年に全市域にわたる商業振興構想を策定したドイツ南西部に位置するハイデルベルク市(Heidelberg・人口約13万人)を対象としてその構想と商業の地域構造を検討した。
  • 山本 匡毅
    セッションID: 504
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    ドイツの空間整備政策は,先進国の代表的な地域政策として研究されてきた.本発表では,ドイツの地域政策の法的基礎をなす空間整備法から空間整備政策の理念を見出し,ドイツの社会資本整備の現状を考える.この空間整備法は,ドイツの地方分権体制に基づいて,市町村や州が政策主体となることを規定し,さらにそれは全体空間と部分空間を環境に配慮しながらバランスよく発展させることを規定している.したがって空間整備法は,空間整備政策が市民の福祉を高めるような生活空間をどのようにつくるのかという哲学を示しているのである.ドイツでは,空間整備法に基づいて社会資本整備が展開されているわけであるが,生活関連のインフラストラクチャーの整備が単に生活空間の高質化だけを目的としているのではない.インフラストラクチャーの整備は,生活空間の高質化を実現するとともに,それによって経済立地における非経済的な立地因子を改善することを通じて,経済活動の立地誘引ともなりうる.すなわち,生活空間の高質化は下部構造としての地域経済を経済立地によって活性化し,それが地域経済への波及効果となり,生活空間をさらに豊かにすることを可能にするのである.こうしてインフラストラクチャーの整備は,産業関連と生活関連というように区分して考えるのではなく,生活空間を軸にして考える必要がある.ドイツのインフラストラクチャーは多様であるが,本発表では生活空間に直接関係する都市におけるインフラ整備の事例を紹介する.対象地域は,ドイツのいくつかの都市であるが,インフラ整備によって生活空間の高質化を実現するとともに,新たな経済立地によって地域活性化を図ったことを明らかにする.
  • 加藤 一誠
    セッションID: 505
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本報告の目的は,日本とほぼ同じ道路財源制度をもちながらも,透明性や公平性を重視する制度の運用をめざすアメリカの姿を明らかにすることにある。まず,アメリカの道路財源の分配に注目し,1980年代以降における州への配分公式の質的変化について説明する。そして,州間格差の是正の成否と地域別の受益格差を検討する。 アメリカでは,1982年陸上交通援助法(STAA)からTEA21まで,複数年の授権期間をもつ4つの交通立法が成立した。STAA以降の交通立法では配分公式が見直され,特に1990年代のISTEAとTEA21において,人口や面積という初期賦存量に依存する指標から,走行台マイルなどの道路利用の程度を表す変数が取り入れられた。そして,STAAでは州間の公平に配慮し,最低配分保証措置(minimum guarantee)が導入された。これは,各州が受け取る連邦補助額を信託基金への納税額の一定比率(受益率と略称)以上にするしくみである。こうして地域間再分配にもとづくルーラル・エリアを含む道路ネットワーク構築から維持へと重点が移り,伝統的な州権重視の道路整備への回帰がはじまったとみることができる。 州別の受益率の分散は,STAA以前の5年間(78-82年)の0.38からTEA21の5年間(92-97年)には0.17へと大きく低下し,受益格差は縮小した。分散分析によれば,STAA以前と87年以降の受益率の間に統計上有意な差があることがわかる。つまり,これは80年代以降における公平性改善のための政府の努力の成果ということができるだろう。 しかし,州別,地域別の受益率の変化を比べると,偏りがみられる。北東部,中西部および西部に受益州が集中しており,南部には受益州はほとんど存在しない。しかも,公式の変更にもかかわらず,人口や産業集積のすすむサンベルトに受益州が増えていないことが明らかになった。
  • 四井 恵介
    セッションID: 506
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    昨今のアメリカにおける貧困問題は,都市インナーエリアに集中している。景気回復による低失業率という実態の裏側には,低賃金労働者の増加による所得格差の拡大,インナーエリアの治安の悪化などが存在し,いまだに人種間の格差は激しい。フィラデルフィアはこういった背景がはっきりと目に見える形で現れている都市のひとつである。日本におけるフィラデルフィアに関する都市研究の多くは60年代に停止しており,それらは先進的大都市, 工業発展もしくは歴史として扱われたものがほとんどである。確かに戦後から60年代までの都市再開発,とくに市中心部における再開発は現在の都市機能の中核をになっているといえる。しかしインナーエリアの再開発は十分におこなわれず,70年代以降, 市の人口は減少に転じ,ヒスパニック,アジア系移民の増加により治安はさらに悪化していくことになる。戦後からの白人郊外移住の傾向も衰えることなく,1983年には黒人市長も誕生,2000年のセンサスによると市内における黒人の全人口に占める割合は,白人45% に対して43%と約半数を占めるまでになっている。アメリカのほかの都市同様,人種間の居住分化はほとんどの地域で行われ,市の北部および西部における一帯は低所得層の黒人の居住地域となり,一般に薬物や殺人など,犯罪の多い危険な地域としてフィラデルフィアのイメージを形成している。本発表では,このような居住分化によるインナーエリアの拡大およびそれに伴う街の荒廃と,戦後の都市再開発との関係性に着目し,ブライトエリアの形成存続過程の考察を試みる。
  • 山下 清海
    セッションID: 507
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    今日、世界の華人社会は、ダイナミックに膨張と拡散を続けている。中国では、1970年代末以降の改革開放政策の進展に伴い、新たに海外へ移住する者、すなわち「新移民」が急増した。香港では、1997年の香港の中国返還を前に、海外移住ブームとなり、多数の香港人が移住した。台湾でもアメリカを中心に海外移住の流れが続いている。 東南アジアでは、1970年代半ばからベトナム戦争やインドシナの社会主義化で、ボートピープルなどの難民(華人が多く含まれる)が流出した。いったん東南アジアや南アメリカなどへ移住した華人が、さらに北アメリカやヨーロッパなど他の地域へ移住して行く現象を、中国では「再移民」と呼んでいる。 従来の伝統的な華人社会は、「新移民」や「再移民」の増加によって、大きな変容を迫られている。 本研究は、このような最近におけるアメリカ華人社会の変容を、ロサンゼルス大都市圏を対象に考察するものである。考察に際しては、ダウンタウンのオールドチャイナタウンと、新しく郊外に形成されたニューチャイナタウン(モントレーパーク、ローランドハイツ)を比較しながら進めていく。なお、現地調査は、2003年8月と2004年7月に実施した。
  • 中澤 高志, 神谷 浩夫
    セッションID: 508
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    従来のライフコース研究におけるコーホートの概念は,人生において同じ時期に同じ出来事を経験することが人生に特徴付けを行う作用を重視してきた.しかし同じ時代に生まれたことと並んで,同じ地域に生まれた,あるいは暮らしているということによって,ライフコースが共通性を帯びることも少なくない.したがってもっぱら時間概念であった従来のコーホートの概念に加え,出身地あるいは現住地といった地域を,ライフコース研究の本質的な枠組みに加える必要があると考える.本研究では,人生において共通の地域的経験を持つ集団を地域コーホートと呼び,それぞれの地域コーホートが示す特徴的なライフコースをローカル・ライフコースと呼ぶ.具体的には石川県金沢市のS高校卒業生(金沢対象者)と神奈川県横浜市のK高校卒業生(横浜対象者)を,それぞれ地域コーホートとみなし,彼らの進学と就職に焦点を当てながら,それぞれのローカル・ライフコースに見られる差違とそれをもたらす要因を探ってゆく.
  • 谷 謙二
    セッションID: 510
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    戦後長らく郊外から東京都区部への通勤者は増加を続けてきたが,1990年代後半にはその減少が観察された。その要因として,1)高度経済成長期に就職し,東京に通勤していた世代が退職する年齢層に到達し始めた,2)新卒者の地元就業率の上昇,3)大都市圏外からの人口流入の減少および都心周辺部での分譲マンションの供給の増加により,郊外への住み替えが減少,4)中高年層のリストラ,などがあげられる(谷,2002)。本研究では特に2)に着目し,郊外に居住する男性若年者の就業先がどのように選択されているかをアンケート調査の結果をもとに検討する。 東京大都市圏の30km圏以遠においては,中高年層では東京へ通勤する者が多いが,若年層では地元や郊外核での就業者が多いという地域が広がっている。本研究では埼玉県上尾市を事例地域として選定し,アンケート調査を行った。上尾市は人口約22万人で,さいたま市の北側に隣接し,JR上尾駅から東京駅まではJR高崎線・山手線で約50分の位置にある。上尾市では,第1図に見られるように,中高年層では県外に通勤する男性が多いが,20~30歳代では県内で就業する者が多いという特徴が見られる。 アンケート調査に際しては,上尾市内から無作為に16町丁を選択し,その町丁に居住する1970年代生まれの男性1942人を対象とした。住民基本台帳の住所をもとに2003年10月に調査票を郵送し,230人から有効回答が得られた(有効回収率11.8%)。調査項目は,生年・学歴・婚姻状態・勤務先・情報入手手段・居住歴等である。 発表では、この調査結果を基に就職に際しての情報入手経路等を検討する。
  • 山下 亜紀郎
    セッションID: 513
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本発表の目的は、茨城県水海道市の水道用水供給体系とその形成過程を明らかにし、流域的視点からその地域的条件について検討することである。 水海道市の水道普及率は62.5%と、茨城県全体からみると非常に低い。水道水源は近隣の市町村同様、地下水と広域水道であり表流水は利用されていない。 水海道市において上水道が供用開始されたのは1964年であった。当時の給水区域は市中心部に限られていた。水源は深井戸による地下水であった。その後1983年までに7つの深井戸が掘削された。その結果、給水区域も市北部へ拡大した。このように水海道市上水道は、従来、水源の全てを地下水に求めてきた。そのため普及率も1989年までは40%に満たなかった。それに対して、1995年、茨城県西広域水道用水供給事業からの受水を開始した。これによって、給水区域は飛躍的に拡大した。しかしながら、水海道市のような小規模自治体における広域水道の導入は、市町村財政を圧迫し給水原価の高騰を招いている。 水海道市の水道用水供給の現状は、普及率という点からみても経済的な点からみても決して良好であるとはいえない。これは、鬼怒川や小貝川といった市域内を流れる河川水を水道水源として全く利用できないことが一因と考えられる。そこで、鬼怒・小貝川流域における自然的・人文社会的諸条件をGISによって分析し、水道用水供給との関連を考察した。鬼怒・小貝川流域は本流の上流域のみしか水源となりうる地域的条件を持たず、中下流域は広大な水田地帯や都市的土地利用で占められ人口も多い一大用水消費地となっている。それに対応して既得農業水利権の総取水量が非常に多く、いずれも本流河川に権利を有している。都市用水としての河川水も中流域で主に利用される。したがって水海道市上水道のような下流域の水道事業体は、用水需要を自流域内の河川で満たすことができない。
  • 香川 雄一
    セッションID: 514
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    栃木県旧上都賀郡鹿沼町の「歳入歳出決算書」と「町会会議録」を中心とした行政資料を読み解くことによって、地方財政をめぐる政治過程が予算から決算に至るまでの金額の更正に、いかにして作用しているかを明らかにする。町制を施行した直後の明治20年代には1万人に満たなかった鹿沼町の人口は、大正期に入ると1万5千人を越えるようになる。鹿沼町では明治23年に鉄道の日光線が開通し、帝国製麻株式会社の主力工場も存在していたため、一時的な増減はあるにせよ、人口は増加傾向を示していた。とくに大正期は工場の増設による工業化を主導として、町の内部に都市化をもたらすことになった。大正9年の国勢調査による職業分類別人口を見ても、商業を抑えて工業が第一位部門となっている。工場労働力の流入など、人口が増えることによって必要となるのは住宅である。一方で若年人口の増加は義務教育体制下にあって、学校の増改築を不可避のものにすることになった。 鹿沼町における学校建設費用による財政規模の急変は決算額の推移によって裏付けられる。明治28年度は学校建設のための寄付金によって、歳入額が前年度の倍以上となる。明治35年度と36年度は校舎建築費と復旧費で決算総額が再び急増する。42年度以降も毎年多額の学校建設費が予算化され、翌年度以降の歳出増加を導いている。大正期に入っても前半はそれほど変化していないが、大正9年度以降は急激に財政規模を膨張させる。これもやはり小学校改築費用のためであり、町債によって準備された金額が大正10年度には多額の繰越金として歳入に組み込まれ、歳出では小学校改築費に使われた。学校の改築や新築といった建設費用に町の財政が苦心していたことはひとまず確認できた。財政規模の拡大により、町有財産を充実させてきたのも事実である。財政に取り組む政治過程が行政施策の方向性を定めてきたことが理解できる。
  • 埴淵 知哉
    セッションID: 515
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    NGO(非政府組織)は,非営利・非政府性を組織の編成原理とする主体である。NGOの特徴として国境を越えたグローバルな活動があるが,組織の基盤となる地域や国内におけるネットワークも明らかにする必要がある。そこで,本発表では日本におけるNGO間ネットワークの地理的編成について報告する。 日本のNGO団体は全体として東京一極集中であり,職員や会員,財政規模からみるとその傾向は一層著しいものとなる。逆に地方では,比較的小規模で新しい団体が多い。しかし近年,所在地の地域を単位とした地域型ネットワークNGOが日本各地で設立されている。このような動きが生じる要因は,広い意味で「地域」への着目に求めることができる。地域密着を実践し,「顔の見える関係」のなかで組織間関係を編成することが,地域を単位としたネットワークNGOの存在理由であると考えられる。 また90年代以降,ネットワークNGO間の全国的なネットワークを組織しようとする試みがおこなわれてきたが,それに対しては賛否両論があり,長い間構想はあるものの設立には至っていない。その主な争点は,政府や市民に対するNGOの影響力拡大を優先するか,各ネットワークNGOおよび地域の自律性や多様性を重視するかという点である。 単一組織として全国展開が進んでいない日本のNGOにとって,このNGO間ネットワークの地理的編成が影響力や正当性を獲得するための空間編成戦略であると考えることができる。ネットワーク本来の意義を考えた場合,地域の自律性と全体の影響力拡大は必ずしもトレード・オフ関係にあるわけではない。INGOの空間組織にみられるような両者が相乗的に結びつくような仕組みを,日本という枠組みにおいて構築できるかどうかが,今後のNGO間ネットワークの方向性を規定するといえる。
  • 北川 眞也
    セッションID: 516
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    批判地政学の研究においては、政治家やエリート達の政治的言説のみならず、大衆に対するそれらの影響や大衆の解釈、さらには大衆の地政学的想像力を支える諸種のメディアが分析の対象となってきた。 こうした研究の例として、イタリアの北部同盟という政党のスペクタクルな政治活動に注目し、それがメディア(特に新聞)において、どのように、またどのくらい報道されたのかを明らかにする。 北部同盟は1990年代前半に国政選挙で躍進を果たしたが、1996年には「豊かで秩序のある」北部の「貧しく腐敗した」南部からの分離を主張するに至ったのである。北部同盟の政治を特徴付けるのは、象徴レベルでの政治である。特に、「パダニア(=北部)」の分離に関しては、「パダニア議会」や「パダニア政府」の設置、北部の神話的過去の創造など、その象徴政治は際立っている。 発表では、1996年9月13日から15日にポー川に沿って行われた「パダニア独立」のための儀式の新聞報道に注目する。これは、もっともメディア向けの行為で、多くの分離支持者、反分離主義者をデモへと向かわせたのである。この北部同盟の集会は「成功」だったのだろうか、「失敗」だったのだろうか。 分析する新聞は、Il Gazzetino紙(ヴェネツィア)、 La Stampa紙(トリノ)、Il Mattino紙(ナポリ)、La Gazzetta del Mezzogiorno紙(バーリ)である。北部同盟の呼びかけを、これらの地方(地域)紙がどのように報道したのか、またそれの間の差異はどのようなものなのかを明らかにする。イタリアの新聞は、圧倒的に地方(地域)紙が支配的なので、新聞報道の違いを考察するには適していると考える。特に、北部同盟が北部の分離を要求するだけに、北部と南部の間の報道、また「パダニア」と「イタリア」の間の報道には差異があると考えられる。
  • 山近 博義
    セッションID: P01
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本発表の目的は、江戸時代中期に刊行京都図で一画期を築いた、林吉永による「京大絵図」の特徴を整理し、同時代の京都やそれをとりまく様々な状況との関係で考察することにある。その結果、「京大絵図」は、全体的図様等から、1.貞享3(1686)年図から元禄、正徳年間の図、2.正徳2~4(1712~14)年図から享保年間の図、3.寛保元(1741)年図以降の図の3タイプに整理できることがわかった。タイプ1からタイプ2への変化は、京都から各地への里程等を示す起点が「一条札辻(一条室町)」から「三条大橋」に変わった点、伏見など郊外の描写がより詳細になった点に認められる。タイプ2からタイプ3への変化は、この傾向をより進めるとともに、三条通を境に南北2分割の図になった点をあげることができる。タイプ3は2分割図になり南北方向にゆとりが生じたため、描写される京都の市街地にみられるゆがみが3つタイプの中で最少となった。このような変化の中で、タイプ1からタイプ3へと継続してみられる里程の起点の変化および郊外のより詳細な描写という点は、京都への入洛者の視点をより重視したことに関係していると考えられる。それは、図中で重視される三条大橋や伏見といった場所が、同時代の京都と周辺のとのつながりにおいて重要な場所となっていたからである。また、郊外の描写重視という傾向は、タイプ1と同じ版型の一枚図のままでは、様々な無理やゆがみを生じさせることとになる。このような問題点を解決するために、タイプ3の2分割図が考案されたとも考えられる。
  • 片平 博文
    セッションID: P02
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、宝徳3年(1451)の「地からみ帳」や享禄5年(1532)・天文19年(1550)・同20年(1551)の「検地帳」などから読み取れる耕地の具体的記載と、条里型地割の形態変化とを分析することによって、中世の賀茂川左岸地域に発生した大規模な洪水の痕跡を復原したものである。 上賀茂神社・下鴨神社・松ヶ崎付近を三角形に結ぶ賀茂川左岸地域には、近代における市街地化の波が及ぶまで、整然とした条里型地割が存在していた。しかし、大正11年(1922)測図の「京都市都市計画図」等によれば、植物園の北部ないし北東部から東部にかけての地域に、一部土地割が大きく帯状に乱れた区域が見いだされる。この土地割の乱れは、「地からみ帳」を分析した結果、宝徳3年にはすでに成立していたことが判明した。ところが、寛喜3年(1231)の田地売券によれば、先に土地割の乱れが確認された同じ区域内に、整然とした条里型地割を復原することができた。したがって、この付近の土地割を乱す原因となった洪水は、寛喜3年から宝徳3年の間に発生したことが特定できた。またこの洪水は、賀茂川から取水する明神川の灌漑水路に沿って内陸に侵入し、その後一気に溢流したことも確認された。さらに、天元5年(982)に書かれた慶滋保胤の「池亭記」をみると、同様のケースの洪水は平安時代にも生じていたことがわかる。
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