人文地理学会大会 研究発表要旨
2008年 人文地理学会大会
選択された号の論文の69件中1~50を表示しています
特別研究発表
  • 上田 元
    セッションID: 11
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     東アフリカでは,トップダウンの自然資源管理が人々の生計安全保障を脅かし,また1980年代に始まる構造調整による経済自由化と環境予算削減が資源の市場取引と破壊を促しているといわれる。このため,各国は資源利用者を交えた参加型管理のあり方を模索している。本発表は,タンザニアとケニアの定着農耕民を対象として報告者が行っている研究を紹介しながら,世界標準となりつつある参加型管理がその導入において直面する問題を報告し,とくに森林管理のあり方が農民の生計安全保障に与えつつある影響について検討する。
     タンザニアの事例では,比較的よく保存された森林保護区が対象であるがゆえに,保護派NGOなど地元利用者以外の関心を招いて参加型管理の導入が頓挫した一方で,村内では参加と無関係に私有地での造林活動が展開しつつある。また,ケニアの「破壊」された森林保護区の場合,当局は参加型管理を導入しようとしたが,人々はその代わりに少人数の内向きの協力によって薪炭材を採取し続けている。どちらにおいても,村指導層や行政は人々の「森林利用景観」を適切に把握しておらず,森林管理の行方は彼らの生計安全保障を脅かしかねない状況にある。このため,まずは貧困層の生計安定化のために彼らの資源利用実態を表現しなおす「再マッピング」,「対抗マッピング」が必要なことを指摘し,本発表ではそれを試みる。
     欧米では,集権的管理や大規模開発の失敗と財政危機を前にして,公有・共有・共用されてきた自然資源を私有化,民営化,商品化し,その管理に市場原理を導入して効率性と保全の両立を目指す市場環境主義が登場しつつある。地理学の関心もそこに集まっており,参加型管理はこうした「自然の新自由主義化」の文脈において検討されている。自然の新自由主義化は資源利用の利害関係を多様化するので,参加型管理は同時にそれを再規制して資源と市場を維持する役割を担うと論じられる場合があるものの,参加型管理が常にこうした意味で新自由主義的であるか否かは,欧米の事例についても容易に判断できないといわれている。
     東アフリカの場合,政府がトップダウンのかたちで管掌してきた自然資源は,実のところ,参加型管理を試みる前から,不正規な政治的手続きや違法ではあっても反社会的ではない手段によって,程度の差はあれ「私有化」されてきた。すなわち,東アフリカにおける自然の新自由主義化は参加型管理の試みによって始まったのではなく,それに先立つ不正規な政治的手続きに,自然資源利用を促進しつつある新自由主義的な経済自由化の作用が加わって進んだものといえよう。そのような自然の新自由主義化において,後から付加された参加型管理が資源利用を再規制する役割を果たすとは限らない。事例において,参加型管理以外の手立てによって市場が再規制されているのか否かについては,別途検討が必要である。参加型管理,自然の新自由主義化,そして両者の関係は,既存の制度・政策の地域性や歴史と混交した多様な過程であり,事例研究の蓄積が求められている。
     今後,活性化した環境保護派NGOを含む多様な主体間の利害関係を管理し,資源破壊を避けながら市場を維持するために,東アフリカでも資源利用を再規制する必要が増すかもしれない。そのとき,参加型管理が地元資源利用者本位に機能するかどうかは未知数である。トップダウンの管理を行ってきた政府に対して不服従などの受動的抵抗を重ね,また隠れて違法な資源利用を続けてきた人々は,そうした戦術が有効な間は,あえて管理に参加するには至らないかもしれない。予算不足の弱い政府や,政治家や行政・取締官と違反者の間のインフォーマルなパトロン=クライアント関係(贈収賄,癒着)などは,こうした戦術の有効性を高めているといえる。人々が参加型管理に意義を見出すのは,このような国家-社会関係の大枠が変わり,さらに事例にみられた形骸的参加(タンザニア)や排他的管理(タンザニア,ケニア)が彼らの生計安全保障を著しく脅かすときかもしれない。そうした変化は,新自由主義化のなかでNGOが社会の側の一主体として活発化し,政府の統制を受けながらもそれを上回る資金力をもって資源管理に関わることによって引き起こされる可能性がある。そのときには,参加型管理の場で地元資源利用者本位のマッピングを実践する必要性と,そうする意義が増すであろう。
  • 山口 幸男
    セッションID: 22
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    地理教育の本質について考察するとともに、本質論に関連するいくつかの課題について論じる
一般研究発表
第1会場
  • 川西 孝男
    セッションID: 101
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、ドイツ絶対主義期のバイロイト領邦とプロイセン王国の関係を人文学的視点から考察したものである。
  • 鳴海 邦匡, 上田 長生
    セッションID: 102
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    近世における公儀勤番を通じて作成もしくは集積された絵図について考察する。特に大坂城代に注目し、新出資料の紹介を通じながら検討する。
  • 平井 松午
    セッションID: 103
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    近世初頭から幕末期に至る洲本城下町を描いた約30枚の城下絵図の分析にもとづいて、城下町構造の特質について報告する。
  • 玉井 建也, 福重 旨乃, 馬場 章
    セッションID: 104
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     本研究は、天明三年(1789)の浅間山大噴火(天明の浅間焼け)の災害絵図を分析し、当該期の人々の中に形成された災害に対するイメージを把握することで、絵図が作成された文化的背景を引き出すことを目的とする。 歴史学において災害研究は環境研究と共に近年盛んに行われるようになった分野である。天明三年の浅間山大噴火の災害絵図に関する研究としては、文献資料を活用した渡辺尚志氏、浅間焼けに関する災害絵図の基礎分類を行った北原糸子氏、浅間山噴火災害絵図の内容や構図について具体的に分析した大浦瑞代氏らの研究がある。
     本研究では東京大学大学院情報学環馬場章研究室が中心となって行っている文化資源統合アーカイブシステムに収められた浅間焼け関連災害絵図を分析している。本アーカイブシステムには、検索機能や電子付箋(アノテーション)機能があり、これらを絵図の分析に用いた。
     以上を踏まえ、近世期に人々は災害に対してどのような視線を向けていたのかを考察する。見立番付とは、江戸時代に相撲番付の形式を取って、諸国の産物や流行物などを取り上げたものだが、その中に災害を取り上げた災害番付がある。「聖代要廼磐寿恵」(東京大学情報学環所蔵)には、大火・津波・地震の三種類が番付され、火山噴火は存在しない。火山噴火が取り上げられた見立番付は安政期(1855-60)に成立した「珍事一覧」(東京大学地震研究所所蔵)になる。この番付では浅間山噴火・雲仙普賢岳噴火は上位には描かれていない。また史料名からもわかるように災害ではなく、珍事のカテゴリーに所属している。その理由として、「珍事一覧」の成立に対する両噴火の時代的距離と地理的距離の問題がある。
     また、記録・随筆類についていえば、随筆は浅間山から離れた地域で記されたものが多く、浅間山を富士山との対比で捉え、噴火時の江戸の状況が中心的に述べられている(「宝暦現来集」)。当時勘定吟味役であった根岸鎮衛は、自身が検分した浅間焼けの被害について克明に記録している(「耳袋」)。また、当時流布していた絵図について山川村里の名前の間違いが多いと指摘した記述もみられる(「翁草」)。しかし、必ずしも正確性を追求した記録類ばかりではない。「浅間ケ嶽振動実記」(東京大学地震研究所所蔵)や「天明三年癸卯秋七月上旬信州浅間焼之図」(浅間火山博物館所蔵)には化物や毒の描写がみられる。ただし、留意すべきなのは、地震を鯰絵で表すのとは違い、火山噴火そのものを「異形なもの」として捉えているのではないということである。
     また、天明の浅間焼けを描いた災害絵図を、主題や範囲などから分類するといくつかの傾向がみられる。すなわち、絵図の主題-噴火の様子、降灰・泥流被害-により、描く範囲や構図が異なる。絵図中のランドマークを分析することにより、絵図作成の背景を探ることができる。「信州浅間焼之図」(三井文庫所蔵)、「浅間焼見聞実記」(東京大学地震研究所所蔵)、「浅間焼吾妻川利根川泥押絵図」(群馬県立歴史博物館所蔵)などには、絵図の主題となる浅間山をはじめ、白根山・万座山・赤城山・榛名山などの山々が描かれ、それらはランドマークであるとともに、絵図の範囲を設定する。
     さらに、江戸を絵図中に含めることで絵図の構図が変化する。「閑窓雑誌」(群馬県立文書館所蔵)や「太平秘録抜書」(東京大学地震研究所所蔵)、「浅間山噴火に関する瓦版」(浅間火山観測所所蔵)では江戸がランドマークとして描かれたが、絵図中に絵図を手にする人々の居住地を含めることで、絵図のリアリティを増すことになった。また、彼らの必要とする情報-降灰被害か、泥流被害か、信濃・上野両国内で完結する被害か、利根川流域にかかわる広範囲の被害かにより、被災地として描かれる範囲やランドマークも変化した。絵図には城下町・寺社・史跡なども描かれており、これらのランドマークは絵図の作成者・閲覧者にとって共通に認識できる記号となっていた。
     今後の課題としては、浅間焼けに関する様々な記録物を類型化し、分析することが必要である。また、絵図史料に関しても、類型化・内容分析とともに、他の火山噴火の絵図との比較なども視野に入れる必要がある。
     なお、本研究は文部科学省科学研究費補助金特定領域研究(16089203)「火山噴火罹災地の文化・自然環境復元」の一環として行われたものである。
  • 阿部 美香
    セッションID: 105
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    浮世絵「名所江戸百景」に描かれた風景に関して、『江戸名所図会』等の名所図会類には記載が無い「名所」が取り上げられている意味を、同時代文字史料や地形条件等から考察する事を通じ、当時江戸に生きた人々の風景認識の一端を考察したい。
  • 川口 洋
    セッションID: 106
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    「過去帳」分析システムを用いて、17世紀初頭から19世紀末まで、武蔵国多摩郡の寺院「過去帳」に供養されている被葬者の死亡地と出身地を復元すると、同郡で死亡した者の出身地は全国に及び、檀家の死亡地も全国に及んでいた。在所を離れて死亡した人々の実像を日記から追跡して、江戸近郊農村における百姓の流動性について考察したい。
  • 渡辺 理絵
    セッションID: 107
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに日本本土における天然痘の流行を検討するため、本研究ではいまだ予防方法が導入されていない地域の疾病記録を利用し、近世期の天然痘流行の感染パターンについて検討することを目的とする。
    2.疾病記録の特徴と研究対象地域利用する資料は、18世紀末に米沢藩領中津川郷14ヶ村をおそった天然痘の発症記録である。寛政7(1795)年10月25日、14ヶ村の大肝煎は、全村に第1発症者を確認した日時を確認し、その時点での未罹患者Susceptible(感染する可能性のある人間)の氏名、年齢についての調査を命じた。そこから未罹患者数が算出された。つぎに翌年2月にも再度、発症者数、天然痘による死亡者数、未罹患者数の調査を行った。
    中津川郷14ヶ村は、山形県米沢より西へおよそ30km離れた位置にある。14ヶ村の東端の村から西端の村まで直線距離で10kmほどの規模で、もっとも小規模な村で世帯数10、人口31人であり、最大でも世帯数48、人口223人にとどまる。
    3.集落間の伝播について14ヶ村の発症日時をみると4つの時期に区分される。第1期:6月23日~8月5日(5ヶ村)、第2期:9月4日~6日(2ヶ村)、第3期:9月30日~10月9日(3ヶ村)、第4期11月29日~12月15日(3ヶ村)となる。13ヶ村の第1発症者の発生日と距離との関係をみると発症日時は、第1感染村からの道路距離と強い相関を持ち、r=0.72を示す。そこで、天然痘の拡散における距離の効果を求めるために、重力モデルによって距離パラメーターの算出を試みた。Yj=R・Xj・Yi / dijα (X:未感染者数、Y:この流行で感染した人数、i村→j村に天然痘が伝播したと仮定、Rは定数、αは距離パラメーター)と定式化した。その結果、R=44.3、α=0.78(r=0.69、2.5%水準で有意)となり、距離パラメーターは1に満たない。拡散現象は一見、第1感染村からの道路距離に規定されているようにみえるが、集落間の伝播における距離は予想されるほどの大きな意味を持たないと言える。最近隣村までの距離が2kmにも満たない隣村でも伝播におおよそ1~1.5ヶ月ほども要したことは、この距離パラメーターの値と符号する。
    4.集落内・世帯内の感染について発表者は、集落内の感染について年齢の高い者がまず罹患し、次に世帯内に感染させ村落内流行をもたらすという仮説をたてた。この仮説の真偽を問うため、11月27日と29日に第1発症者が確認された広河原村・須郷村について罹患者の年齢と発症日数との関係を検討した。この結果、年齢が高い者ほどより早く発症している特徴は見いだせず、幅広い年齢層の子どもが短期間に発症していることが判明した。すなわち子どもの年齢の違いによるmobilityの視点から集落内の感染を説明することは難しく、むしろ異年齢集団を軸とした感染であったと想定せざるを得ない。
    近世期出羽国を旅した菅江真澄や、明治初期に活躍したイザベラ・バード、モースは農村において集団で遊ぶ子供たちをスケッチしている。民俗学者によれば近世期の農村の子どもは、自宅近所の子どもたちと幅広い年齢層からなる遊び仲間を形成し日常的に関わりを持ったという。 この点をさらに検証するために、世帯内発症率について検討した。須郷村・広河原村の世帯内発症率(世帯内に発症者がいた場合に他の世帯構成員に感染した割合)は、須郷村76%、広河原村82%であった。この結果は、Henderson and Yekpe(1969)が西アフリカで調べたベナン共和国での2次感染率と近似する。つぎに本事例における村落内の世帯内感染パターンについて検討した。広河原村では同一世帯に2名の発症者がみられた3世帯中2世帯は同日あるいは同時期に発病が起こっている。他に分析した4村においても8世帯中6例が同じ日に発病している。彼らは1例を除いて兄弟関係にあり、その年齢構成も大きく離れている。この特徴は、村落内の伝播が異年齢集団を軸とするという先述の指摘とも整合する。
    集約すると、村落内の感染過程は次のように考えられる。他の村落の感染者に接触した異年齢集団の子どもたちは、天然痘の潜伏期間(5~17日)や予兆期間(2~3)、発症期間(11~15)を考慮すると全快まで1ヶ月は要したと考えられる。次に彼らの中で未だ全快せず感染力を維持した者が他の未感染者に接触し、ふたたび感染が集団で起こることになる。こうして村内での流行が収束するまで数ヶ月を要することになり、極めて緩慢な伝播が起きることとなった。本事例でも流行の収束まで1村平均3~4ヶ月要している。  
  • 阿部 志朗
    セッションID: 108
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    石見焼は19世紀半ばから島根県西部の石見地方(現在の大田市、江津市、浜田市の一帯)で広く生産されてきた。とくに「はんど(はんどう)」と呼ばれる大きな水甕を中心とする粗陶器の生産が中心であり、各種文献等には「江戸時代から明治時代にかけて はんど が 北前船 で北海道から東北、北陸など全国各地へ運ばれた」と記載されている。本報告では日本海沿岸各地の水甕の分布確認と、それらが 石見焼のはんど かどうかの産地同定を、消費地と生産地双方での現地調査および文献調査から試みる。さらに はんど が北前船で流通した背景を考察することから江戸明治期の北前船による買積方式の物流の実態とその中での石見焼の位置づけを論ずる。調査はおもな北前船寄港地である小樽、江差、松前、酒田、遊佐、加賀橋立などの各消費地と、石見、越前、信楽、常滑、唐津、笠間、益子などの陶器生産地を対象とした。消費地調査では調査したすべての寄港地で北前船ゆかりの旧家または資料館に現存する「はんど」らしき水甕を多数確認したが、それらのほとんどは北陸地方などの石見以外の製品だと認識されていた。一方、生産地調査で多くの陶工や各地の専門家への聞き取りにより、形状、施釉の状態、江戸明治期の大甕生産技術の有無などの視点から消費地の水甕が「石見焼」の「はんど」である可能性が高いことが推定できた。文献・統計資料では、明治期の石見地方で北陸地方の下り船による焼物の買積記録が多いこと、明治期の石見焼産地の陶器生産が高水準にあったことなどから、北前船による はんど の日本海沿岸地方への十分な供給が裏付けられた。また消費地の水甕に明治中~大正初期に江津の臨海部で製造されたことが断定できるものが含まれることも分かり、北海道~北陸地方に明治後期の 石見焼のはんど が確実に流通していることが明らかになった。消費地における はんど の産地名(石見地方)と運搬してきた船籍の国名(おもに北陸地方)との混同・誤謬も、北前船による はんど 流通の事実や消費地における「北前船」の影響力の大きさを裏付けるものといえる。このような石見焼のはんど流通の背景として、まず耐水性に富む品質が寒冷地での販路拡大の一因であったことがあげられる。これまで北前船の商品流通で重視されてきた産地間価格差による優位性は他産地商品の売価の比較などからみて はんど には認められない。また、幕藩体制下の専売品ではなかった はんど の買積件数は明治期に急増し、和紙や鉄など石見地方の近世専売特産品は逆に衰退する。はんど が専売制による流通システムの崩壊と近代流通システムの確立の狭間で興隆したことが推察できる。一方、はんど が船積みに適する形状であり空荷の下り船に積まれたことからバラスト代わりの役割も果たしたこと、さらに陸上輸送では壊れやすい はんど の分布が明治期以降の陸上交通網の発達から遅れた地域にトレースできることなど、海上輸送の商品としての優位性も はんど の日本海沿岸での広範囲な分布の背景として指摘できる。このように 石見焼のはんどは、北前船に代表される海上交通が日本海沿岸地域の物流を長く支えたことを今に伝える象徴的な交易品であり、近世~近代の国内物流システムの変容をとらえるうえで看過できない対象物であるといえよう。
  • 山根 拓
    セッションID: 109
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は,19世紀末のわが国における「拡大された公権力者」の場所としての帝国議会に注目し,議員や政府メンバー等の各アクターの発言内容を分析解釈し,当時の公権力の空間認識を解明する。
     そのために,議事内容を収録した「帝国議会衆議院議事速記録」を通覧し,議会での多様な発言・議論のうち「地理的テクスト」と見做されるものを摘出し,その内容を分析し整理する。地理的テクストとは,具体的には各アクターの場所・地域への言及内容や言及の仕方(量的質的な場所・地域への言及の実態),また国土の領域や空間組織形態に関わる言及等である。帝国議会を構成する多様なアクターは,政府関係者か,議員か,また議員であってもその立場は民党か吏党か,政府側か反政府側か,出身地はどこかといった,複数の基準で区分され,ある程度類型化できる。これらの属性と関連付けて,各発言を位置づけることもできる。
     1890年11月25日に第1回帝国議会衆議院は開会し,翌年3月7日に閉会した。衆議院議員と政府関係者が演壇で陳述した内容のうち、複数の場所・地名が言及されたのは,(1)特別輸出港規則追加議案,(2)商法及商法施行条例期限法律案,(3)郡分合に関する法案,(4)予算案に関する全院委員会,(5)予算案歳出臨時部追加内務省部,等の審議においてであった。(1)では,釧路港の特別輸出港への追加が提案されており,同港とこの件に関連した地名群が見られる。(2)では,神戸・大阪・東京等の商業都市の商人・商法会議所の,商法施行への見方や対応が示されている。(3)は,宮城から鹿児島に至る全国40府県での大規模郡分合案を内務省が提示したものである。その際に,内務次官の白根専一は,郡分合や新郡命名の基準や事例を,具体的な場所の事例を引用しながら説明した。(4)は,北海道開発,水道・築港,治水,軍事,鉱山,司法,教育,海運,電信等の事業が議論され,国内各地が言及された。(5)では鉄道敷設関係予算が議論され,当時東京と日本海側を結ぶ路線建設が進められた折柄,関係する地名が頻出した。この鉄道建設の可否に関して,二人の民党系議員が,地理的条件を踏まえて議論した。双方の議論は各々の地元地域の位置や社会事情を反映していた。総じて、殖産興業に関わる場所、特に首都東京と内国植民地が言及される機会の多い場所であった。
     一方、国土領域や国土空間組織に関する見解の表明の中で注目されるものとして、山県有朋首相の「主権線」「利益線」概念の披瀝や白根専一内務次官の郡分合原理に関する説明、綾井武夫議員による国防上の首都整備最優先説などがあった。
    結局、本研究は,第1回帝国議会(衆議院)の議事速記録を地理的テクスト群として解釈し,公権力の空間認識解明を試みた。国政の諸問題を扱う議会は,種々の立場の人間が異説を戦わせる場である。議論を経て国土の空間的情報や認識は,議会=公権力により共有される。ここでは国土の場所情報や空間組織形態に関する見解を摘出し整理して,公権力の空間認識の一端を提示することができた。
  • 小林 茂, 山近 久美子, 渡辺 理絵
    セッションID: 110
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    2008年3月、ワシントンのアメリカ議会図書館で外邦図の調査をおこなったところ、1880年代に中国大陸・朝鮮半島・台湾で、日本軍将校がおこなった簡易測量にによる手書き原図を発見した。まだ調査は完了していないが、彼らの調査旅行と測量、手書き原図を集成した地図作製、さらにその利用について一定の成果がえられたので報告する。この測量と地図作製は、日清戦争以後の臨時測図部による外邦図作製の前段階と位置付けられるが、記録がすくなく、手書き原図のさらなる調査は、その全貌の解明に大きな意義をもつと予想される。
  • 林 哲志
    セッションID: 111
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに  愛知県の最南端,渥美半島の基部に位置する弥栄集落は,1931(昭和6)年に県の施策により,「不良土開発」事業としての開拓によって誕生した集落である。ここは「彌榮」もしくは「第一彌榮」と表記され,第2次世界大戦以前に入植した県下7ヵ所の弥栄とその他5ヵ所の開拓集落のうち,最も早く着手したパイロット的な地区である。  本発表では,開拓事業のなかで開墾と同様に重要なプロセスである住宅などの建設と,開拓地内での宅地の配置とその形態に視点をおき,住宅とその周辺環境を屋敷と捉えて,どのような屋敷の特徴があるかを考察する。 II 住宅などの建設の概要  1931年12月4日に地鎮祭と鍬入式が行われ,まず,入植者8名は住宅の建設と冬作物の作付準備にとりかかった。住宅ができるまでは,実家や隣村の教員住宅から通い,「宅地とその接続地」の開墾からはじめた。住宅建設に際しては「入植者が落ちついて営農をし,生活する基礎的な条件として快適な住宅が必要である」という考え方のもとで,最初から瓦葺木造の堅固な住宅を建設し,定住意識を自覚するよう務めた。その結果,翌年の3~4月には住宅と納屋が完成し,入植者は家族共々移住し開墾と営農に専念できるようになった。  その後,住宅については戦後の建替えまで拡張されることはなかったが,納屋については営農のための重要な施設であったため,しばしば拡張された。その他,鶏舎や豚舎などの畜舎も建てられた。 III 宅地などの配置の概要  宅地とその接続地は,集落内の井戸が1ヵ所だけであったため,「密居式村落」といわれる集村の形態をとり,井戸の周囲に配置された。そして,農地はその周囲に平坦地と傾斜地を区別して,数ヵ所に分割されて配置された。  本来,農地のなかに宅地が配置され,そこに散居する散村の形態をすすめようとしたが不可能であった。ここは洪積層の台地であり地下水に恵まれず,集落内1ヵ所の井戸は小河川の最上流部の谷に掘られ,他地区と比較しても高額な「井戸補助金」が支出されていることから,水を得ることに苦労したことが推測できる。 IV おわりに  以上のように,開拓集落内の屋敷の特徴として,住宅などの建物の種類と規模などを考え,宅地とその接続地が集落内のどこに位置したのかを示すことで,弥栄集落の地域性を捉えてみたい。また,なぜ飲み水にも不自由するこの場所が,この時期に開拓地として選ばれたかということも考えたみたい。
  • 濱田 琢司
    セッションID: 112
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    (1)はじめに
     国の文化行政の影響もあり,このところ地域における「資源」への関心が高まっている(例えば,内堀編 2007)。そこでの「資源」とは,鉱産物などのいわゆる天然資源ではなく,「文化や知識,小生産物・小商品や貨幣,自然物と生態,空間から身体に至る広い範囲にわたる」(内堀 2007)ものであるとされる。このことは,有無の明確な物理的資源とは異なり,それらが,ある種の価値付けに組み込まれることによってはじめて,「資源」として認知されるという過程が少なからず存在することも意味している。実際に,こうした「資源化」のプロセスについても,近年,種々の検討が加えられるようになってきている(例えば,岩本編 2007)。  そのような「資源化」をもたらすものとして,近年では,世界遺産への登録が最も代表的なものといえるであろうが,戦後の日本において,より古くから一定の影響を有してきたものは,文化財への指定であろう。しかしながら地域における種々の事象を「資源化」させる文化財という制度的枠組み自体についての考察は,近代期を対象とした諸研究を除くと,民俗学の分野において,民俗文化財に関しての見るべき研究がいくつか存在する程度で(才津 1996: 1997,菊池 2001),地理学ではもちろんのこと,隣接分野においても,決して多くの成果があるわけではない。  例えば,ここで対象とするのは,文化財のなかの,重要無形文化財,とくに工芸技術に関するそれ(いわゆる「人間国宝」)であるが,この指定が各地の工芸産地や生産者に与えるインパクトは小さくないにもかかわらず,報告者も含め,これまでの地理学や隣接分野における工芸産地を対象とした研究において,この制度の意味や特性についても,やはり多くは検討されてこなかった。そこで,本発表では,こうした制度的枠組みによる地域文化の「資源化」とそれが工芸諸産地をはじめとする特定の地域に与える影響とを考える前段階として,国指定の重要無形文化財(「人間国宝」)における工芸技術分野の特色と状況とについて,簡単な考察を加えてみることにする。

    (2)重要無形文化財(工芸技術)の誕生と概略
     大正期の「史跡名勝天然記念物保存法」などを統合して,現在の文化財保護制度に直接つながる「文化財保護法」が制定されたのは,戦後の1950年である。4年後の1959年には,最初の大きな法改正があり,そこで「重要無形文化財」が新たに保護の対象となった。ここで無形文化財として対象とされたのは,「芸能や工芸技術など人々が身に付けている各種の価値の高い「わざ」」であり,「その「わざ」の体現者又は体得者を保持者として認定」することになった(文化庁 2001)。これを受け,1955年5月12日,第1回の保持者認定があり,「工芸技術」の分野では,陶芸5,染織9,漆芸2,金工1,人形2の計19件18人が認定された。  認定は,「わざ」を有する個人を個々に認定する「各個認定」と,多数の保持者を集団で認定する「保持団体等認定」とが存在し,前者がいわゆる「人間国宝」とされるものである。保持団体も含めた2008年現在での認定数は,69件68名であるが,「各個認定」は,特定の個人が有する「わざ」であるので,認定者の死去に伴い解除されるため,1955年より2004年までの認定の累計は,163件161名となっている。

    (3)「人間国宝」の特色と芸術性・地域性・伝統性
     ときに地域/産地と結びついたものとして語られることもあり,また生産者の「わざ」を顕彰する制度でもあることを考えると,「人間国宝」の認定は,地域において継承されてきた伝統的な「わざ」を有した者を対象としているように思われるかもしれないが,必ずしもそうではない。  これまでの認定者のうち,当人が当該業種の後継者ではない,すなわち「初代」である場合の数と割合を確認してみると,分野および年代によってばらつきがあるものの,全体のおよそ半数が,「初代」となっており,必ずしも代々受け継がれてきた技術が顕彰されているわけではないことが分かる。  このことは,例えば,「伝統工芸士」や「現代の名工」といった,工芸生産者もその対象に含む,他の認定制度が,「技術・技能」をベースとした要件であるのに対して,「人間国宝」では,その芸術性が強く重視されていることに関係していると思われる。この芸術性の重視こそが,「人間国宝」に特徴的な価値を与えているものであるといえようが,さらにそれには,認定要件の第3項にもあるように,「地方的」な特色が顕著であることも付加されている。  発表においては,「人間国宝」という認定制度が持つ,このような芸術性と地方性・地域性・伝統性との関連を吟味しつつ,制度の成り立ち,認定者の出自・属性についてのより詳細な検討と,いくつかの個別事例とから,「人間国宝」の「資源化」について考えていく。
  • 林 麗華, 塩川 太郎
    セッションID: 113
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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    台湾の夜市における日本食の普及状況を調査し、 台湾で大衆化した日本食文化の考察を行った。
第2会場
  • 高木 秀和
    セッションID: 201
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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    1 目的と方法
     本論は、三重県先志摩半島に位置する志摩町(現・志摩市志摩町)のなかから片田についで「漁法の多様性」がみられる御座において、漁村の村落構造と漁法との関係をフィールドワークにより示し、村落構造の規定要因を明らかにすることを目的とする。
    2 地域概況
     三重県志摩市志摩町は先志摩半島と呼ばれる半島の大半を占め、全体が隆起と沈降を繰り返した海蝕台地の上に乗っている。そのため、台地面および海底地形は複雑であり、熊野灘側の磯漁場、英虞湾側のリアス式海岸のような好漁場をうみだした。
     このような基本的な自然条件にある志摩町域の西端に位置する御座は、英虞湾口にあるために海水循環がよく、イワシ類がよく入ってくる。そのために、カツオ漁に欠かせないイワシを狙う小型定置網(御座では「大敷」と称する。以下、大敷とする)による水揚量が他地区に比して多く、真珠養殖漁場も相対的に恵まれている。また、御座岬周辺には岩礁が発達し、磯漁に好影響を与えている。
     御座の人口・世帯数は2007年9月末の時点で、人口664人、うち65歳以上208人、世帯数265を数えるが、1955年時点と比較すると世帯数は約20、人口は560人以上減少した。2001年時点の正組合員数は117人であり、漁業従事者も減少している。
     御座の基本的な社会集団をみてみると、地区内を6つに分けた番組があり、それぞれが定期的に寄合を持っている。後述するが、漁協とムラとのつながりや関係性は強く(以下、ムラ=漁協と記述する)、志摩漁村のなかでは地縁的まとまりが比較的強いといえる。そのほか、特権的な集団として氏神の御座神社の世話役である祷屋(大祷)があった。これは30軒前後の家でその役を順番に回して務めていたが、1988年を最後に廃絶した。
    3 御座における漁村の村落構造と漁法との関係
     御座では小型定置(大敷)、あま、えび刺網、ツボアミ、一本釣などの漁法がみられ、そのほか真珠養殖もおこなわれている。このように御座でも「漁法の多様性」がみられるといえる。どの単位で漁を行うかをみてみると、大敷以外は血縁や地縁や個人のレベルで漁業に従事しており、規模も家族レベルで営まれる漁法が多いので大きくはない。なお四艘張は戦後廃絶した。
     ところで、ムラ=漁協の収入源となっているのが大敷の漁場料(餌鰯沖売歩合金)と口銀(手数料)である。大敷は網元経営によるが、かつてはムラ人の就労先となったり現在でもムラ=漁協に対して多額のカネを納めているという点では地縁的な漁法であり、ムラ=漁協に自由を奪われた網元といえる。また、昭和30年代後半まで「村営」とよばれた「御座村鰯大敷網組合」があり、各種団体(婦人会や青年団など)に運営資金が支給され、なおかつムラ人たちには盆前に漁獲物が支給されたという。村営廃止後は、各種団体に運営資金を支給する習慣が漁協に受け継がれ、毎年漁協から100万円(うち50万円は御座神社の祈祷料)が捻出された。しかし、1970年ころ町から注意を受けて両者ともに廃止された。さらに、各番組で話し合われた要望事項を漁協の総会や理事会に提出して議論をおこなうことから、旧御座村が志摩町に合併(1954年)後も漁協はムラの行政的な役割の一部も担っていたといえる。なお、かつては何軒かの網元があったが、現在では御座に網元が在住するY大敷(3統)と浜島に在住するY氏(1統)が従事しており、後者は浜島に漁獲物を水揚げする。
     その他、磯魚を対象とする漁法に関しては片田ほど磯漁場の環境には恵まれておらず、聞き取り調査から刺網とツボアミなどいくつかの漁法を組み合わせて生計を立てる零細漁民の姿がうかがえる。なお、真珠養殖が普及すると雇われの従業員も含めて養殖業に転業するものも多かったためにこの「漁法の多様性」は見えにくくなったが、それが衰退している今日においては再び「漁法の多様性」を明瞭にしている。
    4 御座における漁村の村落構造の規定要因
     御座では多数の一般漁民たちは少数の網元のもとで水夫として大敷に従事したが、網元より納められる多額のカネによりムラ=漁協の財政は潤い、各種団体の活動資金も配分されていたことなどからその存在は肯定されていたといえる。このように御座の大敷は網元経営でありながらもムラに密着した地縁的漁法であり、その構成員たちも比較的横並び的な関係にあった。しかし、真珠養殖の成功や観光地化(民宿業)により一時的に財をなすものもいたが、今日では両者ともに規模を縮小させたり廃業に追い込まれているケースが多く、再び磯漁を中心とした「漁法の多様性」が浮かび上がってきたといえる。
  • 藤田 佳久, 高木 秀和
    セッションID: 202
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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    1 目的
     本発表は、山間地域の典型である長野県下伊那郡のうちいわゆる遠山郷(旧南信濃村・旧上村)の中心集落である和田地区を中心に、歴史的文化的資源であり、数多くの分布がみられる神仏の存在を評価して「神様王国」を提案し、それが具体化したプロセスとその背景を示す。
    2 方法
     発表者らは、遠山郷の山村性に関する研究を進めてきた。その過程で多くの神仏が個々の村人により勧請されており、その資源に注目するとともに、地元での多くの聞き取り調査をふまえて神仏のデータベースをつくり、それらをもとに、地元に「神様王国」づくりの提案を行ってきた。
    3 実践経過と背景
    (1) これまで、遠山郷和田地区を中心に神仏調査を繰り返し行ってきた。その結果、多くの神仏は各個人が勧請し、自宅のみならず、路傍や田畑、そして山の中にまで祀られていること、それら神仏は地元に土着した水神や山神などの神仏と郷外から勧請してきた神仏とに分けられ、後者が圧倒的に多く、近くは山住、秋葉、富士浅間、遠くは金毘羅、愛宕、伏見、津島、三峰など、広範な地域の神々が勧請されたことがわかる。
    (2) 後者の神々は、天保期以降から明治、大正期にかけて勧請されている。その背景には、江戸時代に入ると、中世土豪の遠山氏に代わり徳川家康がこの一帯を支配し、江戸の町づくりのための森林資源の確保と、武田残党の監視のために、他国との交流を断ち鎖国状態にしたことがあった。地元民は飢饉や疫病に悩んだが、なす術もなかった。それが江戸時代後半に入ると森林資源が枯渇し、鎖国状態がゆるみ、飯田と遠州方面を結ぶ秋葉道の利用が高まり、和田には自然発生的に宿が成立した。こうして多くの情報が流入し、宿で多少財をなした人々は他国への旅もできるようになり、各地から飢饉や疫病などに効果があるとされる神仏を勧請することになった。
    (3) 以上のように、少し前まで地元の人々の生活の一部であった神仏を今日的な歴史的文化的資源として活用し、「神様王国」プランを描けるようになってきた。調査過程において神仏の来歴を多くの地元の人々から聞き取ることで、「神様王国」プランが次第に理解されるようになり、そして地元商工会の中に「神様王国建設実行委員会」が組織され動き始めた。
    (4) このプランが地元に受容され、地元側がそれを活用し始めた背景には、平成の大合併により飯田市へ合併され、地元の意志表現の場を失い、行政依存への限界を実感したなかで、地元に自立的なムラづくりを目指そうとする状況が生じていたことがある。
    【参考文献】
    藤田佳久・高木秀和(2006):「南信州遠山郷の和田地区に「神様王国」をつくる基礎的研究」、187―206頁。
    藤田佳久・高木秀和(2007):「遠山郷に「神様王国」をつくるプランについて」、113―131頁。
    藤田佳久・高木秀和(2008):「南信州遠山郷に「神様王国」をつくるプランの実現へ」、107―124頁。
    上記、いずれも愛知大学中部地方産業研究所の年報に収録。
  • 夫 惠眞, 金 木斗哲
    セッションID: 203
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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    高齢化率が49%を超す過疎山村を維持していくため、住民組織が行うコミュニティ活動の仕組み、組織の理念と運営方式、住民参加の場に関する研究.
  • 蛯原 一平
    セッションID: 204
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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     狩猟を通した野生動物管理の在り方を考える上で、猟場がどのように形成され、地域で維持されているかという点にも注目する必要がある。本発表では、沖縄西表島でのイノシシ罠猟を事例として、狩猟活動の同行調査と狩猟者への聞きとりから罠場の空間的な構造と島内の分布について報告し、その形成過程について考察をおこないたい。西表島では罠猟が主流で、他の地域で見られるような、犬を用いた銃猟との猟場をめぐる争いは皆無である。罠を排他的に掛けることのできる罠場はヤマと呼ばれ、近傍の狩猟者間で互いに認知されている。ヤマは南海岸を除く森林の辺縁地帯に分布しており、アクセス性に大きく規定されている。このようなアクセスしやすく、ヤマが密集している所は他人が勝手に入りにくく占有権が明確化されやすい。各罠場の形態は、狩猟者の自然認識を通し、年ごとに細かく変化しているが、特に台風などの大きな自然攪乱は罠場を縮小させ、狩猟活動に大きな影響を及ぼす。一方、ヤマの境界はほとんど変化せず、このような境界付近にはお互い罠を掛けるのを極力避けるような曖昧な空間が存在する。新規狩猟者の場合、他の狩猟者からヤマの一部が譲られるか、誰も掛けていないところを選び掛け始める。そのため、毎年、罠を掛け続けている限り、その罠場の占有権は互いに認知され、安定的に保たれるのであり、現時点では、ヤマをめぐるトラブルは少ないといえる。ただし、このようなテリトリー性と資源量(イノシシ個体数)との関係は、空間に着目した動物生態的研究と併せ今後の検討課題であるいえる。
  • 伊藤 貴啓
    セッションID: 205
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    農業地理学 本報告は,知識経済下における農業地域の自立的発展のメカニズムを総合的病害虫管理(IPM)の地域的普及を指標に考察しようとする研究の手始めである。
  • 岡田 登
    セッションID: 206
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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     本研究では群馬県東毛地域のニガウリ生産を事例として,コンフリクトの解決方法と各農家に共通する経営条件に注目し,複数の農協が協力して野菜の集荷範囲を拡大する過程を明らかにした.東毛3JA(JA群馬板倉・JA館林・JA西邑楽)管内では,1970年代から第二種兼業農家と60歳以上の農業従事者が増加してきた.さらに,東毛3JAでは1980年代からは主力作物であるキュウリ・ハクサイ・ナスの出荷量が減少してきた.JA群馬板倉は1996年以前から自家用苗としてニガウリを農家に販売していたが,1997年からキュウリとナスに代わる作物として,農家からニガウリを集荷し,販売するようになった.1998年頃から館林市や明和町,邑楽町,大泉町の農家が個人的にJA群馬板倉からニガウリの栽培方法を教えてもらい,JA群馬板倉の農家と一緒にニガウリを共販するようになった.2001年には全農群馬が主導となり,JA群馬板倉とJA館林,JA西邑楽が各種野菜を共同販売するために,研究会を発足した.2002年から東毛3JAはニガウリの共販を開始した.2002年から2006年のニガウリ栽培農家数をみると,JA群馬板倉が88戸から150戸,JA館林が47戸から140戸,JA西邑楽が10戸から29戸に増加していている.2001年に全農群馬主導のもとに共販研究会が発足すると,東毛3JAの販売・営農指導担当者2名ずつと全農群馬の共販担当者2名で,年間6回企画会議が開催されるようになった.JA群馬板倉とJA館林の担当者は1992年に営農指導担当として,愛媛県の種苗会社からキュウリ苗を購入するため,協力して交渉をしていた.この二人が販売担当のトップとして,2001年の共同販売研究会発足時とニガウリ共販に至るまでの会議に出席していたため,東毛3JAによるニガウリの共販が実現した.全農群馬主導のもと,館林地区営農指導センターが東毛地域に適したニガウリの栽培技術を研究するようになり,この結果をもとに東毛3JAは農家にニガウリ栽培の指導をするようになった.また,全農群馬の指示により東毛3JAはニガウリの品種と規格をJA群馬板倉のものに統一した.ニガウリの販売先についても全農群馬主導のもと,2007年には東毛3JA合わせて32業者と取り引きするようになり,このうちJA群馬板倉が18業者,JA館林が18業者,JA西邑楽が5業者を受け持ち,東毛3JAがそれぞれ分担して業者にニガウリを販売するようになった.ニガウリの集荷範囲が拡大するにつれ,農家はどのようにニガウリ栽培を導入してきたのかを農家の栽培品目別にみると,キュウリやナスを栽培していた農家,米麦と野菜を組み合わせて栽培していた農家,各種野菜類を栽培していた農家に分類できる.キュウリ・ナス栽培農家はおもに2002年までにニガウリ栽培を導入しており,この時に世帯主は60歳以下の専業農家であった.キュウリ・ナス農家はキュウリやナスの栽培面積を減少させ,ニガウリを栽培するようになった.米麦・野菜栽培農家はおもに2002年から2004年までにニガウリ栽培を導入しており,この時に世帯主は60歳以下の専業農家であった.米麦・野菜栽培農家は野菜の栽培面積を減少させ,ニガウリを栽培するようになった.各種野菜類栽培農家は2002年から2006年までにニガウリ栽培を導入しており,この時に世帯主は60歳以上の兼業農家であった.各種野菜栽培農家は野菜の栽培面積を減少させ,ニガウリを栽培するようになった.以上のことから,東毛3JAではJA群馬板倉とJA館林の販売責任者が野菜集荷範囲の拡大以前から協力関係にあったこと,全農群馬が主導となって3JAの生産形態を統一したことにより,コンフリクトを回避できた.さらに,東毛3JA管内ではキュウリ・ナス農家が率先してニガウリ栽培を導入し,つづいて米麦・野菜農家と各種野菜栽培農家がニガウリ栽培を導入してきた.すなわち,東毛3JAには同様な経営条件をもつ農家が共通に存在していた.
  • 中窪 啓介
    セッションID: 207
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     これまで沖縄農業が抱えてきた問題として,市場経済に対応した産地としての取り組みの不十分さがある。戦後,他県の農産物産地では,農協を中心とした主産地形成や,その発展型としての高度主産地形成が見られた。主産地では生産農家による機能的組織化が進められるとともに,高度主産地への移行に従って,農協が産地存続のために農家を従属させて市場細分化に対応する状況も発生した。  他方,沖縄県の農協では,これまで市場への組織的対応が十分に機能してこなかった。販売事業においては,共選共販体制が築かれた品目も少なく,市場に向けて商品を戦略的に販売してこなかったといえる。市場の要求である「定時・定量・定質」の出荷に応えるとともに,県行政が掲げる農作物のブランドを形成するためには,生産者の組織づくりが重要となっているのである。  これらを踏まえて,新興作物として将来性が期待されるマンゴー(アーウィン種)の主産地形成について取り上げる。マンゴーの導入は県北部地域が早く,農家主導で生産規模が拡大していった。他方,南部地域では遅く,農協主導によって産地化が進められていった。このため,南部地域では他地域よりも県産マンゴー出荷量に占める農協共選取扱率が高く,産地としてのまとまりも良いといわれている。南部地域は,農協のマンゴー販売事業にとって重要な拠点となっているのである。南部地域の中でも特に豊見城市は,農産物を安定供給できる産地として,県行政によってマンゴーの拠点産地に指定されている。発表では,豊見城市におけるマンゴー産地を事例対象として取り上げたい。  豊見城村では1970年代後半に,数戸の農家によってマンゴーが導入された。初期のマンゴー農家は,主に農外収入に多くを依存する経済基盤の豊かな農家のみに限られていた。しかし1980年代後半より,産地規模は急速に拡大していった。この主因として,県内でマンゴー生産への意欲が高揚していったことに加えて,村内3地区への土地改良事業の導入と,マンゴーを対象とした補助事業の導入があった。  村では導入当初より,農家と農協との協同で産地化が進められていった。マンゴー農家のほとんどは,農協の生産部会に所属し,農協へマンゴーを出荷していた。農協の販売事業では,共選共販体制の構築や販売経路の複雑化など,市場への集団的対応も早くから図られていた。このため,販売事業の取り組みに遅れがあった県内他産地に対して,豊見城村のマンゴー産地は市場関係者から高い評価を得ていた。  しかし1990年代半ばより,農協の流通体制をめぐって篤農家の「農協離れ」の問題が現れた。この問題は,県内の農協の統一を機に,さらに他の多くの農家にも見られるようになった。その要因として,一つ目に,篤農家においては,産地が拡大し様々な生産者が農協に出荷するようになる中で,農協の販売事業は,自身が生産する高品質の果実の特権性を十分に保証していないと考えたこと,二つ目に,多くの農家が,農協の統一によって,それまで築かれてきた高い産地評価や独自の販路が損なわれると捉えたこと,三つ目に,多くの農家が,産地形成に大きな役割を果たした農協の果樹担当者の異動に反感を抱いたことが挙げられる。  農家の農協外出荷を支える主因として,県内外の市場において農協の寡占状態が築かれていないことがある。特に県中央卸売市場では,個別農家の評価が価格形成に強い影響を与えており,顧客の信頼を得られたならば,農協販売価格以上の高価格を実現することが可能である。また,県産マンゴーの多くは個人販売されており,観光関連業者や通販業者などへの出荷も多いといわれる。農協外出荷においても多くの需要が存在しており,流通の多様性が維持されているのである。  農家の農協離れに対して,豊見城市の農協共選区では,2006年以降,共選参加者に8割以上の出荷量と,時期や品質に偏りのない出荷の条件を課すようになった。さらに,選果を厳格化させ,品質基準の幅を広げ,多元的な流通網を開拓することによって,多様な生産者からの要求に応えようとしている。販売事業においては,県内業者との直接契約など,従来からの独自の販路を維持するとともに,県経済連の販売戦略に委ねた県外出荷の体制も構築されている。今後,市場において安定した高価格を実現するためにも,いかに産地内の農家を取り込んでいけるかが鍵となっているのである
  • 川久保 篤志
    セッションID: 208
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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    分野:農業地理学。 発表概要:わが国は1991年の輸入自由化以降、牛肉の輸入量を大きく増大させたが、それを担ったのは主にオーストラリアとアメリカであった。本発表では、対日輸出を大きく伸ばしたオーストラリアの牛肉産業にどのような変化が見られたのか概要を報告する。
  • 鈴木 富之
    セッションID: 210
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
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    _I_.はじめに  近年、日本の地方中核都市やリゾートでは、ヒルトン・ホテルズ・インターナショナルなどの外資系ホテルチェーンなどの外資系高級ホテルの参入がみられようになった。このような外資系ホテルは、五万円を超える高額な宿泊料金で富裕層や外国人旅行客をターゲットにしており、低料金の宿泊施設とのすみわけが可能だった。一方、長野市や盛岡市のような地方中心都市では、中央資本の宿泊特化型宿泊施設(ビジネス客をターゲットとしたホテル)の台頭により、客室の過剰供給が生じた。それに伴って、従来の地元資本の旅館・ホテルでは稼働率が低下し、経営不振に陥っている。  日本の地理学における宿泊施設研究として、都市部のホテルを指標に都市の拠点性・中心性を明らかにした都市地理学的研究や、観光と農業・地域社会との関係を考察した観光地理学的研究が挙げられる。前者については、宿泊施設の立地に着目した研究(松村1996;石澤1991など)や宿泊施設の集客圏から都市の中心性を明らかにした研究(河野,1993)がある。しかしながら、都市部の宿泊施設自体を対象にした研究に関しては、東広島市における客室過剰供給の実態を明らかにした淺野ほか(2005)などに限られており、さらなる研究の蓄積が必要である。  本研究の目的は、冬季オリンピック以降の長野市中心部における宿泊産業がどのように再編成されたかを明らかにすることである。その際、宿泊施設経営の変遷や宿泊客をとりまく環境の変化に着目した。

    _II_.結果と考察  冬季オリンピック以降、長野市中心部の宿泊施設では、客室の過剰供給がみられるようになった。地元資本のホテル・旅館では、長野新幹線開通以前の稼働率が70%程度の高い割合を示していた。ところが、現在、地元資本のホテルの稼働率が50%前後、旅館が30%前後と低迷している。一方、中央資本のホテルでは、70%程度の稼働率を維持している。冬季オリンピック期間中ではほとんどのホテルが100%近い稼働率を記録していた。現在の過剰供給は、このようなオリンピック需要に合わせて開業された中央資本のホテルの増加によってもたらされたといえる。  オリンピック以降も多数の中央資本のホテルが参入している。これらは、省力化した経営を行っている。たとえば、コストがかかり、採算をとることが難しい飲食・婚礼部門を設けず、宿泊に特化した経営を行っている。また、近年、地元資本のホテルが廃業した中古物件を買い取りもしくは賃借することによって、低コストで新規参入した中央資本のホテルもみられた。 一方、開業年次が早い地元資本のホテル・旅館の中には、施設の老朽化や宿泊客の減少、料飲部門のコスト増大によって、宿泊業を廃業し、観光客向け土産店や飲食ビル、結婚式場、マンションなどに転換するケースもみられた。また、空きビルになったまま放置させた施設もいくつも出現している。現在営業している地元資本のホテルは、知名度の低さや施設の老朽化によって、ホテル中央資本のホテルと競合しない低価格(1泊5000円以下)路線を選択し、集客を行っている。  このような宿泊施設経営の変化は、宿泊客をとりまく環境の変化とも大きくかかわっている。長野市中心部のホテルでは、ビジネス客による利用がほとんどで、関東地方在住の宿泊客が多かった。しかしながら、長野新幹線の開通により、日帰り出張が可能になり、長野市中心部の宿泊施設を利用する関東地方在住のビジネス客が減少したといえる。また、従来ビジネス客は、定宿に宿泊するか、自社が提携・予約する宿泊施設に宿泊してきた。しかしながら、近年では宿泊施設のホームページによる割引や宿泊予約サイトによって、直接予約を行うようになった。また、中央資本のホテルは、マイレージなどによる「顧客の囲い込み」を行っている。さらには、シティホテルの場合、ハウスウェディングの台頭や少子化によって、長野市周辺の結婚式需要が減少したことも指摘できる。

    _III_.結論 近年、長野市中心部では、中央資本の宿泊特化型ホテルの出現により、客室の過剰供給が生じている。これらの宿泊特化型ホテルは、低コストで省力化された経営を行っている。それによって、地元資本の宿泊施設は、宿泊料金の低価格化や廃業、業種転換を余儀なくされた。この背景には、客室数の増加、長野新幹線の開通による東京大都市圏との近接性の改善、インターネットの普及、結婚式需要の変化も大きくかかわっている。
  • 西原 純
    セッションID: 211
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     平成の大合併では面積が1,000平方キロメートルを超えるいわゆる超広域自治体が誕生した。しかし巨大な行政域故に、行政運営にさまざまな問題が発生している。その解決策の一つが政令指定都市制度である。  報告者は、静岡市と浜松市を事例にして、インタビュー調査により、行政権限の配置、情報共有と意志決定の方法を調査した。  その結果、比較的良く運営されている静岡市と、本庁に権限が集中しすぎて情報共有と合意形成が上手くいかない浜松市の事情が明らかとなった。
  • 岡部 遊志
    セッションID: 212
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     フランスは一極集中的な地域構造,中央集権的な政治構造を持った国として知られている。このような状況のもとで,フランスの地域開発政策(「国土整備政策aménagement du territoire」)は,第二次世界大戦後,長い間パリへの集中を是正することが中心であった。しかしグローバル化の進展のもとでの競争力の低下など,フランスの地域開発政策を取り巻く環境は大きく変化している。
     本発表では地域開発政策と地方分権の歴史的展開を明らかにし,その上で現在の地域開発政策の新たな動向を検討する。特に,1990年以降,社会的,経済的な結びつきを重視する新たな地域政策として注目されながらも,地域間不均衡や都市農村間格差を拡大させてしまう可能性をも持った「ペイ」政策と,2000年代,フランス版クラスター政策として注目を浴びている「競争力の極」政策を紹介する。
第3会場
  • 新井 智一
    セッションID: 301
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     1.はじめに
     東京大都市圏郊外に位置する多摩地域西部では2000年以降,ショッピング・モール,大規模スーパーマーケットやホーム・センターの進出が著しい.従来の商業地理学では,いわゆる大店法の改正や大店立地法の成立に見られるような,流通規制緩和に伴う大規模商業施設の進出についての研究は数多いものの,商業施設の進出をより大きな政治的背景から検討したものは少ない.そこで本研究は,多摩地域西部における大型ショッピングセンターの進出について概観し,このうち西多摩郡日の出町の「イオンモール日の出」開業の政治的背景について明らかにすることを目的とする.
     2.多摩地域西部における大型ショッピングセンターの進出
     多摩地域西部において,2000年以降に開業した主な郊外型大規模商業施設は,アウトレット・モール,ショッピング・モール,大規模スーパーマーケット,大規模ホーム・センターに分けられる.また,開業前の土地利用に着目すると,自動車・自動車部品メーカーの工場閉鎖,百貨店の物流センターの再配置,製造業による都市開発事業への展開,銀行の福利厚生施設売却,などの背景が大規模商業施設の用地を供給していることがわかる.
     3.イオンモール日の出の開業と秋留台開発計画
     こうした経済的背景の一方で,多摩ニュータウンにある三井アウトレットパーク多摩南大沢などは,不動産会社などが都有地を買取するなどして開業させたものであり,東京都の多摩ニュータウン開発からの撤退という政治的背景も見られる.こうした政治的背景について,日の出町のイオンモール日の出を事例とし,さらに検討する.
     イオンモール日の出のある地区は秋留台地に含まれる.東京都や秋留台地域の自治体は,1984年に首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の整備が表面化して以降特に,秋留台の開発をうたってきた.これを受けて1993年に東京都都市計画局は,「秋留台地域総合整備計画」(以下,秋留台計画)を策定した.
     秋留台計画は,「多摩地域の自主性を高めるための先端技術産業の導入と就業の場の確保」を目的とし,旧秋川市を中心として68,000人の人口増加と36,000人が働く産業を誘致するとした.また,秋川市・五日市町・日の出町の合併を暗に促進した.その結果,秋川駅周辺において「あきる野とうきゅう」を中心とした商業施設の集積が進んだ.また,いくつかの工業団地造成や土地区画整理が進んだ.しかし,計画策定後の深刻な景気低迷により,目標に遠く及んでいない.
     秋留台計画においてイオンモールのある三吉野桜木地区は当初工業・住宅地区として,また3市町合併の際には行政地区として開発される計画であったが,未開発地区として取り残されていた.そうした状況の下でイオンがショッピング・モールの進出を日の出町に打診し,全面的な賛同を得た.しかし,この地区と秋川駅との距離は1kmほどしかなく,2007年の開業前後から数多くの店舗が秋川駅周辺の商業施設を離れ,イオンモールに移転するという問題が生じている.
     イオンモールの進出は秋留台計画の変更を伴うものであったものの,都や秋留台地域自治体の議会では秋留台計画についてほとんど議論されていない.秋留台計画頓挫の後処理を進めるために,都や秋留台地域の自治体がこの計画を省みないことによって,イオンモール日の出は開業に至ったと考えられる.
     このように,多摩地域西部では,上位スケールの政治的・経済的背景が新たな商業空間の創出を促していると結論づけられるのである.
  • 根田 克彦
    セッションID: 302
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    本発表は,次の内容からなる.第1に,イギリス,ウェールズの首都であるカーディフ市の土地利用計画の概要を紹介する.第2に,2005年におけるカーディフ市中心部における小売店の分布パターンの現状を示す.第3に,土地利用計画と実際の小売店の分布パターンとを比較し,イギリスの土地利用計画における小売店の立地計画政策の課題を指摘したい. 調査年の2005年におけるカーディフ市の土地利用計画に関する指針である開発計画は,1996年発行の「カーディフ市ローカルプラン」である. カーディフ市ローカルプランの第9章は,「ショッピング」という題名である.カーディフ市では3階層のセンターの階層を設定しており,シティセンター,ディストリクトセンター,ローカルセンターとして指定されたセンターの階層構造を維持・強化して,それらの場所の再開発と再生計画を促進することが示される.新たな小売開発は,それらのセンター内かその付近に集中させることが望まれ,逆に,センター以外の場所,すなわちセンター外立地の開発を抑制される.それにより,既存のインフラストラクチャを有効利用し,すべての人が徒歩か公共交通機関で利用できる場所に買物施設を配置し,自家用車の利用を抑制することができるのである.なお,すべての開発が,障害者を含むすべての人々にとって近接性が良好であるためのデザインが必要である.
  • 川口 夏希
    セッションID: 303
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    日本の大都市では,従来さほど注目されてこなかった地区が,新たに集客力を持つ商業空間として更新されていく事例がみられている。例えば大阪市でも,中崎町,福島界隈,阿倍野界隈などといった地区が例として挙げられる。本発表では,_丸1_大阪市阿倍野区阿倍野筋西側,_丸2_東側,_丸3_昭和町界隈という同じ区内の3つのエリアを対象として,旧ターミナル型商業地と旧郊外型住宅地が近年注目される商業地へと更新される過程を明らかにする。同地区では,阿倍野筋西側の官主導の大規模な再開発,東側の百貨店が牽引する民間主導型の開発と小資本経営者の参入,昭和町の地元住民とクリエイターの手によるリノベーションといった三者三様の空間変容が隣接したエリアで同時に進んでいる。対象地区が歴史的にどのような経緯をたどり,どういったアクターがそれを牽引したか検討し,考察を行う。
  • 三上 絢子
    セッションID: 304
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    奄美諸島は第2次世界大戦後(以下、戦後)の1945年から1953年まで、日本本土から行政的・社会的・経済的に分離され、米軍統治下に置かれた。このような状況下の奄美諸島では日本本土との正規の交易は断絶したが、一方で盛んに密貿易が行われて、島の人々の生活を支える重要な役割を果たした。本研究の目的は奄美における密貿易の成り立ちを明らかにすることである。
    奄美諸島は東経128度~130度、北緯27度~29度に位置し、鹿児島から台湾までおよそ1200キロに及ぶ南西諸島のほぼ中央に位置し、鹿児島の南南西約380Km、沖縄から280Kmに主島である奄美大島があり、他に喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島、加計呂麻島、請島、与路島の有人8つの島々から成り立っていて、戦前までは日本本土との交流も海上交通によって、経済活動が行われていた。
    1946年(昭和21年)2月2日、奄美諸島は連合軍最高司令部の覚書「若干の外郭地域を政治上、行政上日本から分離することに関する」によって、北緯30度線以南の南西諸島は日本政府から行政分離される事が明らかにされ、アメリカ海軍軍政府の直轄支配下におかれることになる。鹿児島と奄美大島の海上200海里の海上が国境線で閉ざされ「海上封鎖」で自由渡航も禁止となり、戦前には日本本土の消費を目的に生産されていた黒糖は、販路を閉ざされて市場を失った。
    戦前には生活必需品から学用品に及ぶ物資は日本本土から流入していたが、戦後は極度の物資不足におちいる。一方、日本本土においても黒糖は貴重品で奄美諸島が分離されて入手できず、黒糖不足の状況下にあった。このように日本本土の黒糖、奄美の生活物資といった品物の需要と供給で発生したのが密貿易である。米軍政府は「密航に関する件」によって、取締まり対象と適用範囲を北緯27度20分より北緯30度に至る水域を出入りする特別渡航許可書を持たない船舶は密航とみなすと発令し、厳重な取締り対策をとった。密貿易は鹿児島、奄美間の2百海里の海上をわずか5~6トンのポンポン船と呼ばれる焼玉エンジンの小型船で、巡視船や警備船の目をかいくぐって、トカラ列島の口之島を拠点として、本土商人と取引が盛んに行われた。また台湾、沖縄、朝鮮からの50~60トンの大型船が、本土商人と海上での沖取引をしているケースもある。船賃は黒糖や米軍配給衣料の羅紗生地等でバーター方式がとられ、奄美の商人達は戦略商品に本土側の需要の高い黒糖を運び出し、本土側からは学用品、日用雑貨品、瀬戸物、鍋、化粧品等の生活必需品を流入して、物資不足のトカラ列島、奄美、沖縄の島民の生活を支えてきた。人々は密航船を「ヤミブネ」、「タカラブネ」と呼び密貿易を「ヤミトリヒキ」、「ヤミ商売」と呼んでいた。
    奄美諸島の密貿易船の主な出航地は、宇検村の名柄港・平田港、大和村の津名久港・浦内港、瀬戸内の久慈港・古志港旧三方村の大熊港、龍郷村の芦徳・瀬留・久場の各港、喜界島の小野津港、徳之島の秋津港、亀徳港、与論島の赤崎海岸・大金久海岸が主な出航地である。
    『徳之島町誌』によると、1946年徳之島では、生活物資が島に持ち込まれなく行政的な封鎖が経済的封鎖となり、島の経済が崩壊する危機感で密貿易に目を向け、島の特産品の黒糖を持ち出す手段をとったと記述されている。戦前奄美で経済活動をしていた島外出身の寄留商人は戦争によって撤退し、入れ代わって島の商人達が命がけで封鎖された海上を越えて、生活物資をつなぐ役目を自らの責任で、密貿易が行われている。密貿易が行われるのは、そこには需要と供給があるからである。米軍政府の厳しい取締りと摘発の中で、行われてきた密貿易は、人々の生活を支える重要な役割を果たしたとともに奄美経済の原動力となった側面もあった。密貿易が展開されたのは、戦前に奄美を撤退した寄留商人が関わったからこそ成立したのであり、その結果、奄美出身者の多くの商店主を誕生させている。このように米軍統治下での統治政策が島の経済に及ぼしたものはマイナスだが、闇市を起点の「市場」や密貿易による「商店街」を中心とした自立への興隆が奄美の暮らしに及ぼしたプラスの側面を見逃すわけにはいかない。奄美社会の足元を固めることとなったといえるだろう。
  • 小原 丈明
    セッションID: 305
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は,『日本全国諸会社役員録』を用いて,戦前期の京都における各会社役員の居住地と就業地との関係性についての分析・考察を行うものである。
  • 山田 浩久
    セッションID: 306
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     わが国は,1980年代後半のバブル景気によって土地の所有関係が一層複雑化したうえに,1990年代初頭のバブル崩壊後は,土地市場が長期にわたり低迷し,土地評価や土地の概念が大きく変化した。このような変化は,居住地や家屋に対する考え方にも多大な影響を及ぼしていると考えられる。また,少子化による国内人口の伸び悩みや高齢者福祉への対応といった問題も顕在化している。都市域はもちろん農村域をも含めた全国的な居住地域構造の再編が現在進行中であると言える。
     そこで,本研究では,バブル崩壊後の居住地域構造の変化を全国的な視点から把握するとともに,特徴的な変化を示す地域を導出し,その要因を明らかにすることを目的とする。
     住宅着工統計のデータから,新設住宅の建築戸数の推移を見ると,分譲住宅の新設戸数の割合が20%を超えるのは,高度経済成長期後のことでありバブル崩壊後は,持家の新設割合が低下していく中で分譲住宅の新設割合が上昇した。2006年時点での持家,貸家,給与住宅,分譲住宅の新設戸数の割合は,それぞれ27.8%,42.1%,0.7%,29.4%となっている。分譲住宅による住宅の大量販売が全国的に定着していく様子は,総床面積の推移にも顕著に現れる。全新設住宅に占める分譲住宅の総床面積の割合は,高度経済成長期に上昇し始め,安定成長期からバブル期まで20%台で推移していたが,バブル崩壊後,徐々に上昇し,2006年には32.6%に達した。また,分譲住宅1戸当たりの平均床面積は,1992年に90_m2_を超え,2001年には全体平均を上回るようになった。分譲住宅は,供給量の増加に伴い,1戸当たりの居住面積を増大させる傾向にあり,それは同住宅の質的向上を裏付ける。
     バブル崩壊後における住宅建設の特徴は,分譲住宅の量的・質的上昇にあると指摘できる。そこで,都道府県別に分譲住宅の総床面積の推移を見ると,2006年時点で全国平均を上回る上昇を示しているのは,千葉県(53.6%),大阪府(52.0%),神奈川県(51.7%),東京都(51.4%),兵庫県(47.4%),埼玉県(44.4%),奈良県(41.4%),京都府(40.2%),広島県(36.6%)であることが分かる。上記9都府県について,分譲住宅から分譲戸建住宅とマンションを抜き出し,それぞれの都府県別に新設住宅に占める両者の総床面積の推移を見ると,京都府,奈良県,埼玉県では分譲戸建住宅の新設割合が増加しているのに対し(戸建卓越型),千葉県,広島県ではマンションの新設割合が増加する傾向にある(マンション卓越型)。また,東京都,神奈川県,大阪府,兵庫県は,両者の新設割合がいずれも増加している(同時進行型)。両者の間に若干の連動が指摘できる県もあるが,全体を通してみると,分譲戸建住宅の新設が増加するとマンションの新設割合が低下する(あるいはその逆)といった関係は見られない。住宅供給における戸建住宅とマンションとの二分化が進行中であると言える。
     分譲住宅の建設は大規模な土地利用改変を伴う場合が多く,居住地域構造にも多大な影響を及ぼす。戦後,分譲住宅の新設割合が上昇したのは,高度経済成長期とバブル崩壊後であり,それぞれの時期において居住地域構造は大きく変化したと考えられる。しかし,高度経済成長期における分譲住宅建設は,全国的なインフラ整備と都市人口の増加を背景にして進行したのに対し,バブル崩壊後のそれは景気の低迷と都市人口の滞留の中で進行した。そのため,バブル崩壊後の住宅供給は,限定的な住宅需要者の個々の需要に対応することで,購買意欲を高める必要があった。マンションと分譲戸建住宅の双方が並行して建設されているのも,住居選択の幅が拡大している一つと現れとして解釈できる。
  • 中澤 高志
    セッションID: 307
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では,1970年代初頭に開発された大分市の郊外住宅地を対象地域として,世代交代に伴う郊外住宅地の変容の一端を捉えようと試みる.東京圏においては,上述のような郊外をめぐる問題意識の変遷を受け,世代交代に伴う郊外住宅地の変容を扱った研究がすでに公表されている )が,非大都市圏に関しては,同様の観点からの研究はその緒についたばかりである.非大都市圏の場合には,進学や就職に伴って子世代が大都市圏に他出することが多いため,世代間関係や住宅の継承可能性の相違を反映して,郊外住宅地の変容の軌跡も大都市圏の郊外住宅地と異なるものとなる可能性がある. 調査の概要 本稿の対象地域は,大分市内の隣接する2つの住宅地(仮に住宅地A,住宅地Bとする)である.大分駅から直線距離にして5_km_ほどのところに位置するが,いずれも開発が始まってから30年以上が経過し,当初入居した世代の高齢化は,すでにかなり進行している.住宅地Aは地元のバス会社によって開発された住宅地である.開発年次は1972~76年,計画戸数は801戸,完成戸数は772戸である.住宅地Bの開発主体は県外の私鉄であり,開発年次は1973~1975年,計画戸数は671戸,完成戸数は480戸である.  発表者は,世代交代に伴う地方都市郊外住宅地の変容に関する基礎的なデータを収集するため,2008年3月に上記2つの住宅地においてアンケート調査を実施した.住宅地Aについては736部,住宅地Bについては599部の調査票をポスティングで配布し,それぞれ141部(回収率19.2%),122部(同20.4%)を郵送で回収した.アンケート調査の結果をふまえ,9月以降には聞き取り調査に応じる意思表示をしている対象者に対するインタビュー調査を実施する予定である.なお本発表では,2つの住宅地を一括して分析する. 親世代の属性  対象者のうち,大分市の出身者は,夫の33.1%,妻の28.5%であった.夫の平均年齢は64.9歳,妻の平均年齢は61.8歳で,夫については60~74歳が52.9%を占める.夫の31.9%は大卒以上の学歴を有している. 1960年当時の男子大学進学率は13.7%であるから,対象者は非大都市圏にあって,同世代一般と比べても高い学歴を有しているといえる.夫の40歳時点での勤務先は,61.5%が官公庁か従業員1,000人以上の企業であり,60.5%は専門職,管理職,事務職などのホワイトカラーであった.  大分市出身者を除くと,夫の場合には,就職(29.0%),転勤(31.5%),転職(8.5%)など,就業に関連した理由を大分市に住み始めるきっかけとしている例が多い.これに対して妻は,結婚によって大分県に転入した者(36.2%)が最も多い.夫に大企業等に勤務者が多いことを反映して,対象者の33.5%は前住居が社宅・官舎であった.対象者の属性や居住地移動から見る限り,人口集中のメカニズムや郊外居住者の属性において,地方都市の郊外住宅地は大都市圏郊外住宅地と共通点が多いといえる. 子世代の動向と親世代との関係  25歳以上の子世代のうち,親世代との同居も含めて大分県内に居住しているのは,男性が47.5%,女性が54.6%である.大まかに言って,子世代の半数は県内に残っていることになる.県内に残留している子世代と親世代の関係は親密であり,別居している既婚の女性では51.3%が週1回以上の頻度で親世代と顔を合わせている.しかし子供と同居することが望ましいとする親世代は3.0%ときわめて少なく,実際に既婚の子世代が同居しているのは9世帯(3.0%)にとどまっている.このように,親子関係においても,中澤ほか(2008)が報告した大都市圏の事例と共通性が見られる.  
  • 井上 孝
    セッションID: 308
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    一般に,社会的地位,収入,学歴等のステイタスがより高い者と結婚することを上方婚または上昇婚,その逆を下方婚または下降婚という。周知のとおり,先進国,途上国を問わず,女子のほうがより強く上方婚を志向する傾向がある。また,この傾向は国内どうしの結婚,国際間の結婚のいずれにも現れるが,とくに後者の場合は,結婚しようとする2人の個人的なステイタスの違いに加えて,その2人が属する国の経済水準の違いが大きく関わる。すなわち,経済水準のより高い国の相手との結婚を志向する傾向は,女子の方が相対的に強いといえる。本研究では,国際結婚におけるこうした傾向を論じるにあたって,経済水準のより高い国の国籍をもつ者との結婚を上方婚,その逆を下方婚と定義する。
    本研究で定義した,国際結婚における上方婚と下方婚については,多くの研究において言及がなされている。しかし,管見ではそのような国際結婚に注目しその動向を定量的に示した研究はほとんどない。そこで本研究は,任意の二国間の国際結婚において,上方婚と下方婚の量的差異またはその変化にどのような法則性があるかを,近年の日韓間の国際結婚を事例にして検証することを目的とする。この検証にあたっては次のような3つの仮説を設けて議論を進める。
    以下では,任意の2か国(A国とB国)の間の国際結婚を考える。このとき,A国におけるB国人との結婚またはB国におけるA国人との結婚に関して,妻からみた上方婚の件数の,夫からみた上方婚の件数に対する比率をWH比と呼ぶこととする。ここで,
    仮説1:A国におけるB国人との国際結婚に関するWH比とB国におけるA国人との国際結婚に関するWH比は等しい,
    仮説2:仮説1で示した2つのWH比は,いずれも,A国とB国の経済格差の短期的変動の影響を受けない,
    仮説3:A国におけるB国人との国際結婚件数の,B国におけるA国人との国際結婚件数に対する比率は,過去のある時点におけるA国とB国の経済格差に連動する,
    という3つの仮説を設ける。
    上述の仮説を近年の日韓間の国際結婚に適用した結果は以下のとおりである。2000~2006年における両国間の国際結婚件数については,日本における対韓の件数にはあまり変化がないが,韓国における対日の件数は2002年以降上昇傾向にある。この期間におけるWH比を日韓のそれぞれについて算出すると,これらのWH比はいずれの年も近似しており,また2.5前後の比較的安定した値をとっていることがわかった。これにより仮説1と仮説2は日韓の国際結婚に関して支持された。また,日本における対韓の国際結婚件数と韓国における対日の国際結婚件数の比率を2000~2006年について算出し,1995年以降の日韓の1人あたりGDPの比率と比較すると,4年間のタイムラグをおいてこれらの比率が連動していることが示された。すなわち,ある年の日韓の1人あたりGDPの比率が4年後の国際結婚件数の比率をよく説明している。したがって,日韓の国際結婚に関しては仮説3も支持される形となった。
  • 中川 聡史
    セッションID: 309
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    タイからドイツへの結婚を目的とした国際人口移動に関して,ドイツでの移動者への調査,送り出し地域であるタイ東北部における送り出し世帯への調査をもとに国際結婚移動の意義と課題を検討する。
  • 須田 昌弥
    セッションID: 310
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    2008年現在、我が国の11空港・14路線において空港ターミナルと鉄道を初めとする軌道系交通機関の駅が直結ないし隣接している。大阪を中心とする近畿圏では、大阪国際(伊丹)空港・関西国際空港(以下関西空港)・神戸空港が併存し、国内航空旅客においては競合関係にある。首都圏に東京国際(羽田)空港・成田空港の2つしかないにもかかわらず、近畿圏に3つも空港があるのは過剰であるとの指摘もしばしばなされる。  その際に関連して言及されるのが関西空港の「アクセスの不便さ」である。関西空港は都心から離れているためアクセスに時間がかかり、運賃・料金も高いという指摘である。このことが他方では、航空各社が関西空港発着の国内便を相次いで廃止・減便する理由ともなっている。しかし本当にそうであろうか?本報告では近畿3空港の鉄道アクセスを比較することを通じて、関西空港は本当に「不便な空港」なのか、そう言えるとしたらどのような点にあるのか、そしてその背景にある問題は何なのかについて検討する。  関西空港への鉄道アクセスはJR西日本・南海電鉄によって行われているが、運行本数においては両者の合計(149本/日)は伊丹空港(大阪モノレール:117.5往復/日)・神戸空港(ポートライナー:126往復/日)のそれを上回っている。また、伊丹・神戸両空港がいずれも大阪都心部(JR大阪環状線上またはその内部)に到るまでに必ず乗り換えを必要とするのに対し、関西空港からならば乗り換えなしに到達可能という点でも関西空港はむしろ「便利」である。  ただし、所要時間・運賃については大阪(梅田)駅までの場合、関西空港からが65分・1,660円(JR「関空快速」利用の場合)であるのに対し、伊丹空港からは蛍池乗り換えで24分・420円、神戸空港からは三宮乗り換えで51分・710円と差があることは否めない。しかし、上述した鉄道ネットワーク全体で考えた場合、関西空港の優位性について別の議論も可能なのではないか。  この点をさらに詳細に検討するため、市販の運賃検索ソフト「駅すぱあと」を使用して各空港から一定時間内に鉄道のみで到達できる駅の数を算出した。関西空港から120分以内に到達できる駅の数は伊丹・神戸両空港に比べやや劣るものの、首都圏における羽田空港と成田空港の2倍以上の格差に比べればその差はむしろわずかであるといえる。  次に、関西空港の「不便さ」の所在を考えるため、各空港から大阪市内主要駅ならびに近畿の主要都市中心駅までの所要時間を算出して比較した。その結果、関西空港は難波・天王寺などの大阪南部や和歌山方面には優位性があるものの、梅田・新大阪や京都・神戸方面は伊丹・神戸両空港の方が所要時間は短いことが明らかになった。個別の地点で見ると、南海電鉄のターミナルである「難波」で関西空港と伊丹空港がかなり互角の所要時間となっていること、JRの特急「はるか」で乗り換えなしに到達できる「京都」においても神戸空港が関西空港より所要時間が短いことが特筆される。これらの事実が、「関西空港は不便だ」という一般的評価につながっているものと考えられる。 この状況をふまえ、関西空港のアクセスを改善するための施策はいくつか挙げられよう。具体的には、特急「はるか」のJR大阪駅乗り入れや、南海電鉄の梅田方面への延伸(またはJRとの直通運転)といった施策が考えられる。これらはいずれも、関西空港と「梅田」の間のアクセスを改善するものである。しかしそのような解決策で十分なのであろうか?この問題のさらに大きな背景として、本報告では「東京一極集中」のもとでの「大阪の停滞」のために、かつては「梅田」と互角の中心地であった「難波」の求心力が低下しているということがあるのではないか、という仮説を提示したい。関西空港の立地は「大阪南部の活性化」を意図した面が少なからずあると考えられるが、そのことが逆に、関西空港の「不便さ」を助長している可能性はないであろうか。この点は本報告の段階では厳密な検証には到っていないが、関西圏の都市構造を分析する上で、そして今後の関西の都市政策を立案する上で、この問題についても今後検討していく必要があるのではないか。
  • 梅川 通久
    セッションID: 311
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     地理情報システム(GIS)を用いた解析が、多くの学術・実務分野で用いられている。本研究では主に人文地理学や社会統計学等を念頭に置き、物理学で場を記述するのに用いられる「ポテンシャル」を応用した数量解析について、GISを用いた解析に使用可能な基礎的手法の開発を行った。今回は主に国スケールの領域での人口密度分布を取り上げ、その特性や都市が人口を集中させる傾向の数値化などについて、ポテンシャル分布の計算をベースとした議論を行う。  人口密度分布に関するポテンシャルは、Socioeconomic Data and Application Center (SEDAC)によりインターネット上で公開されている各国の人口密度分布に関するグリッドデータを用いて、Poisson方程式を数値的に解く事により導出した。数値計算は、Incomplete Choleskey Decomposition - Conjugate Gradient (ICCG)法によるコードを作成して用いた。これを日本、ベトナム、中国の各モデルについて計算し、そのポテンシャル分布と導かれる仮想的な力を、等高線とベクトル場として示す。  計算の結果、日本に関するモデルでは、東京から大阪に至る本州太平洋岸地域においてポテンシャルの大きな谷が見られた。より詳細には東京、名古屋、大阪の3都市圏が谷を構成しているが、東京圏によるポテンシャルの谷の大きさが際立っており、人口を引き寄せる力の大きさを物語っている。またこの大きな谷の他、主要都市による小規模なポテンシャルの谷が見られたが、その分布は3都市圏によるものと比べて極めて小さいことがわかった。  ベトナムのモデルでは、ハノイとホーチミンによる二極構造のポテンシャル谷が存在することが特徴的であり、この2地域が人口を集中させる力において抜きん出ていることを示している。また、両都市間には日本のモデルと同様に小規模なポテンシャルの谷が存在しているが、日本と比較してよりはっきりとその存在が確認できる事が特徴である。これは、ベトナムのモデルが大きな二極のポテンシャルの谷を持つという構造的特徴に由来する、日本のモデルとの違いかもしれない。  この様に、ポテンシャルを計算しその分布を分析する事により、各国や各地域の人口密度分布の特色を、定量的に解釈することが可能となる。また、例えば日本における人口の一極集中問題などについて、本研究で行った様な複数のモデルでのポテンシャル分布の比較が、新たな考察の為の糸口の一つとなるかもしれない。  本研究で導入したポテンシャルのその他の量への応用としては、例えば言語や特定の習慣の分布を当該人口の比率に関する分布等として数値化し、数量解析を行うといった使い方も考えられる。また、異なる種類の地図上の分布量に対してポテンシャルという共通の量を導入することにより、相関関係や複合した効果の数量的な分析へとつなげることも期待される。
  • 村中 亮夫, 中谷 友樹
    セッションID: 312
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
     現在,地域住民や地方自治体,日本政府による様々な取り組みにより,日本各地において歴史的景観の保全が図られている。これらの歴史的景観は所与の自然環境のもとで築き上げられた人間活動の所産であり,文化財に指定されている伝統的建造物や史跡のみならず,文化財に指定されていない建造物や民家建築,町割など,多様な景観要素によって構成されている。しかし,これら歴史的景観は,現在においても開発と保全との狭間に置かれ,しばしば利害関係者の間で紛争の対象となっている。これは,歴史的景観が公共財としての側面を持つと同時に景観を構成する要素の多くが私的財であり,歴史的景観の維持や改変が誰にとってどの様な価値を有するのかを明示しにくく,地方自治体や政府が支援する景観保全政策の推進に際しても,どの程度の財政支援を行うのが妥当かを示しにくいことに起因する。この問題を考えるべく,本研究では歴史的景観を保全することで生まれる効果を地域住民と観光客の視点の双方から社会経済的に評価することを目的とする。

    II 分析資料
     本研究では,歴史的建築物の保全や建築物のデザイン改修による歴史的景観保全に関する意識調査を実施した。具体的には,_丸1_京都市内在住者に対しては歴史的景観整備に関する支払意思額(WTP),_丸2_京都市外在住者に対しては歴史的景観が整備された場合に京都を訪問する仮想行動(CB)を質問し,歴史的景観保全の便益を2種類の評価測度で計測した変数を準備した。本調査では,20歳以上のYahoo!リサーチ登録モニターに対するインターネット調査を実施した。本調査では,2005年国勢調査における20歳以上人口の,性別,年齢階級,居住地域を考慮し,2007年2月8日時点のYahoo!リサーチ登録モニターから系統抽出法により3,945名(京都市内=698名,京都市外の全国=3,247名)の計画標本を抽出した。未達数が3通のため有効発信数は3,942通である(有効回答率=48.5%)。アンケート調査は,2007年2月8日~13日にかけて実施した。

    III 結果
     本研究では,地理的な変数に着目して京都市内在住者によるWTPや京都市外在住者によるCBの分析を試みたが,それぞれの変数と地理的な変数との単純な2変量間の関係においては有意な関連性は確認できなかった。この点に関しては,WTP関数や訪問頻度関数の推定において,WTPやCBに与える被験者の居住地や社会経済属性の影響を同時に考慮した回帰分析に取り組む必要がある。また,訪問拒否に着目した分析からは,やむを得ない理由で訪問を拒否した理由には,金銭的な理由で訪問拒否した回答の割合が京都市からの距離に正比例しているのに対し,時間的制約を理由に訪問を拒否した回答の割合は京都市からの距離に反比例している傾向が確認された。このことは,京都市から遠くに居住する者は金銭的な問題が解消されたら訪問の意思を表明することを示しており,当該地域においては家計の消費を刺激する経済政策により潜在的な需要を見出せる。一方で,京都市に相対的に近くに居住する者は,時間的な問題が解消された場合の潜在的訪問者である。比較的近距離の観光需要の喚起には,長期連続休暇制度の確立や有休休暇の消化促進などに向けた政策立案が望まれよう。
第4会場
  • 朴 秀京
    セッションID: 401
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は韓国と日本の遠隔診療における地理的特性とそれが及ぼす影響を調べることを目的とする。
  • 久木元 美琴
    セッションID: 402
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    大都市圏における専業主婦向け保育サービス(一時保育や「つどいの広場」事業など)の概況と供給・利用の現状について報告する.
  • 亀山 玲子
    セッションID: 403
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    急速な高齢化の進展とそれに伴う要介護者の急増に対応するため、2000年4月に介護保険制度がスタートした。この制度の導入により、利用者の利便性が高まり、介護サービスの量的拡大・質的向上が図られることとなった。実際に介護サービス事業所数・利用者数は介護保険制度施行後、大幅に増加している。しかし、それまで行政の措置として利用者に提供されてきた介護サービス分野に、民間企業の参入や利用者本人によるサービスの選択・決定という市場原理を導入したことは、施設のサービスエリアに変化をもたらしたと考えられる。本研究では朝夕の2回、利用者を送迎する必要があることからとくにサービスエリアが狭小になると考えられる通所介護を取り上げ、介護保険制度導入後の通所介護施設のサービスエリアの変化を把握・分析するものである。しかし、サービスエリアを把握する際には各施設の利用者の居住地データが必要となるが、詳細な住所を得るのは困難である。そのため本研究では便宜的な方法として、各施設の利用者数を町単位に集計したデータを用いてサービスエリアを捉えることとした。その際、まず詳細な住所を得られた施設のみ、そのデータを用いて施設からの距離帯別利用者分布を集計し、次にその利用者住所を町単位で集計したデータを用いて同様の集計を行い、両者の距離帯別利用者分布の類似性が比較的良好であることを確認する作業を行った。施設からの距離帯別利用者分布によるサービスエリアは、施設の開設時期、立地場所、一日の利用定員数によっていくつかのパターンに分かれた。介護保険制度導入以前から開設していた施設では、都市部に立地する施設は距離減衰的に利用者が分布しているのに対し、非都市部に立地する施設は距離帯によって利用者にばらつきが見られた。これは制度導入前に、行政からの委託という形で利用者を受け入れていたことが影響していると考えられる。介護保険制度導入後に開設した施設では、開設年度が比較的早い施設は距離帯に関係なく利用者を集めていたが、開設年度が遅い施設ほど定員数が減少する傾向にあり、それに伴ってそれらの施設のサービスエリアも狭まっていた。このような施設の特性によるサービスエリアの差異は、利用者が施設を選択・決定する際にも影響してくると考えられる。
  • 畠山 輝雄
    セッションID: 404
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    介護保険制度改正に伴う地域包括ケアの実態について、地域包括支援センターと日常生活圏域の関係を考察する。
  • 山下 亜紀郎
    セッションID: 405
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    2006年7月集中豪雨被害に見舞われた長野県岡谷市を対象に、公助(行政の防災施策)、共助(自主防災会を中心とした自治区レベルでの防災)、自助(世帯または個人レベルでの防災意識)の3つの側面から地域防災についての実態を調査し、総合的な地域防災力について検討した。
  • 稲田 七海, 若松 司, 蓬莱 梨乃, 水内 俊雄
    セッションID: 406
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
     本報告は、地方都市における社会的条件不利地域を対象に、格差、貧困、社会的排除などの課題について地域がどのように対応し改善への道筋を探っているのか、その福祉実践のプロセスに迫り、新たな地域福祉構築の可能性について検討することを目的としている。そこで、本報告は、Q県R市における貧困層や生活困難者を対象とした包摂型コミュニティ福祉の先駆的な実践に着目し、掘り起こし型の福祉実践のあり方を「見える化」システムと定義し、新たなコミュニティ福祉の創造の可能性について検討を試みる。
     現代社会における福祉ニーズの多様化や高度化によって、公的な福祉では対応しきれていない福祉課題が現われてきている。そのため、地域における身近な生活課題に対応し、支え合いを進めるための地域福祉のあり方を検討することが緊要の課題となっている。従来型の福祉ニーズが複雑化し福祉そのもののあり方が多様化する中で、福祉部門における社会的コストは確実に拡大している。それにもかかわらず、近年の日本の福祉政策は、サービス主体の多元化と市場化の推進によって、福祉における国家の役割を間接的な役割へと縮小させ、地域や家族の役割を増大させる方向にある。福祉における国家の役割が縮小しつつある現在、地域社会におけるローカルな「つながり」の再構築こそが国家に変わる福祉の担い手として要請されているのである。
     Q県R市は、主要幹線交通体系から遠く離れたS半島の南東部に位置する。現在の人口約3万3000人、高齢化率が29.4%となっており同一県の市部と比較しても高い値を示している。R市における福祉ニーズは、失業の増加に付随した地域就労支援の問題と、これに付随した若年層、ひとり親、中高年世帯における生活困難現象の深刻化である。R市はいくつかの同和地区を有していることから生活困難者への生活支援課題を古くから有し、隣保事業の拡充に伴いさまざまな支援が独自に行われてきた。しかし、R市における地域経済の不安定化や雇用の流動化は格差の拡大を市民にも認識させ、貧困や生活困窮の問題が同和地区などの特定の地域に限った問題としての認識から、広く一般に浸透した問題として立ち現われてきた。特に重要かつ必要度の高い分野として、地域就労、児童福祉、独居高齢者の生活支援が挙げられるが、それぞれが行政および関係機関ならびに民間の支援者の連携を通じてユニークな実践を始めている。
     子ども会は1972年に同和地区における児童教育の一環として隣保館で開始された。実施にあたり、専任主事が各隣保館に配置され、放課後の児童の学習生活全般にわたる指導を行ってきた。また、子ども会に通ってくる児童・生徒の様子から家庭問題の端緒をいち早く捉え、家庭養育環境の改善に介入することも少なくないことから、生活困難世帯における児童養護を行うことも多い。次に地域就労支援については、2006年より15歳から34歳までの若年層を対象とした就労ナビゲート計画が実施され、2007年よりNPO法人に業務委託して地域就労支援が行われている。NPO法人では就労相談員を1名配置し、窓口対応だけでなくアウトリーチ型の就労相談によって、個別の就労ニーズ、世帯状況、本人のスキルなどを総合的に判断し就労機会の紹介を行っている。また、相談者のケース記録を蓄積しているため、就労相談員は相談者の日常的な生活実態を把握し、就労相談を通した生活全般の見守り、問題解決の支援にもつながっている。地域福祉啓発推進相談事業は、相談業務は窓口対応型ではなく、相談員が高齢者世帯を個別に訪問し、ニーズを拾い上げサービスを届けるデリバリー型の相談業務であるが特徴的である。これらの相談業務は、困窮している独居高齢者が公的な福祉、社会保障へのアクセスすることを容易にしただけでなく、受益者としての負担の義務も啓発する役割も担っている。
     R市の福祉実践にみる複雑化した困窮者のニーズを発掘し、人的資源によりネットワーク化されたローカルな調整機能によって問題解決する「見える化」システムは、これからの新たな地域福祉を再構築する上でひとつの手がかりを示すものである。さらに、「見える化」は、地域の不可視化された問題を掘り起こすだけでなく、人的ネットワークによる地域の課題の共通認識を深め、「支えあい」や「つながり」の再構築を促がす装置としても注目すべき福祉実践のシステムであるといえよう。
  • 水内 俊雄, 稲田 七海, 蓬莱 梨乃, 渥美 清
    セッションID: 407
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    <分野>社会地理学 全国各地でたちあがったホームレス支援の活動が、地域の生活困難者に対する広範な社会保障の仕組みを草の根的に作り上げてゆく過程を分析し、これを「見える化」システムとして体系づけることを検討する。
  • 市川 和子
    セッションID: 408
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    高度成長期から四半世紀を過ぎた現在、集団就職は現代史上重要な出来事としてメディアから再考されている。それにもかかわらず、集団就職に関する学術研究は少ない。管見の限りでは、社会教育の小川・高沢(1967)や生活学の黒田(2001,2005)が集団就職者の日常生活をインタビューから報告している。しかし、集団就職者の仕事以外の日常生活については記述が限定的であり、インフォーマント数も少ないことから、彼らの日常生活をリアルに再現したとは言い難い。そこで本研究では、集団就職者の仕事以外の日常生活にも注目し、彼らがどのように都市生活に適応していったのかについて明らかにしたい。研究方法としては、当時、集団就職者の仲間作りサークルとして機能していた若い根っこの会の会報「若い根っこ」に寄せられた会員手記を分析する。会員手記の分析を通して、集団就職者が都市生活に適応する上で、居住地や出身地による地域差は存在したのかについても明らかにしていきたい。
  • 中西 雄二
    セッションID: 409
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ はじめに
     同郷者集団研究の成果をまとめた松本・丸木(1994)は、人びとが都市移住する際に都市と村落の結節機能を果たすものとして同郷団体を捉えた。だが、地方出郷者の移住過程や同郷団体の形成過程は、単に都市(移住地)と村落(出身地)の2つの要素のみによって規定されたり、影響されたりするものではない。従来の「都市の中のムラ」として同郷団体や地方出郷者の生活を捉える研究に対し、多様なネットワークのなかで暮らす都市生活者という地方出郷者の姿を明示する研究成果も提示されてきた。また、都市移住後のさらなる再移住を含む移動性に富んだ国内移民としての要素や、地域を越えた広範な同郷者ネットワークの存在も近年では無視できない。
     以上の視座を踏まえて、本発表では1960年代以降に倉敷への奄美出身者、特に沖永良部出身者の移住過程を同郷団体の事例から考察していく。あわせて、神戸をはじめとする地域を越えた同郷者ネットワークの空間的拡大について検討していく。

    _II_ 倉敷への奄美出身者の移住
     奄美諸島から日本「本土」への大規模な人口移動は1900年頃から認められる。1920年代には阪神地方や京浜地方への工場労働者としての移住が増大し、各地で同郷団体の設立も盛んに行なわれていった。なかでも神戸は三菱・川崎財閥に関連する工場へ同郷者の紹介で縁故就職するものが多く、奄美出身者の集住が最も顕著な地域の1つとなる(中西2007)。
     一方、倉敷へ多数の奄美出身者が移住するようになったのは比較的遅く、1960年代の水島地区における大規模な工場地帯の造成以降である。その直接的な契機となったのは、1961年に設置され、1965年に操業を開始した川崎製鉄水島製鉄所の新設であった。川崎製鉄の新たな基幹工場の労働人員として、既存工場のあった神戸の人員が配置転換され、そのなかにかなりの数の奄美出身者が含まれていたのである(西村2006)。川崎製鉄は水島への進出時、岡山県と倉敷市と結んだ協定のなかで社宅など労働者住宅建設への協力を取り付けているが、実際に造成された住宅地に奄美出身者の多住がみられるようになっていく。

    _III_ 岡山沖洲会の設立と活動
     同郷者の増大に伴い、倉敷において岡山沖洲会が1971年に設立された。「沖洲会」とは奄美諸島のなかの沖永良部島出身者の同郷団体という意味で、これは倉敷在住奄美出身者の大半が沖永良部島出身であるということによる。会の設立には神戸から転勤してきた川崎製鉄社員が中核として関わった。
     岡山沖洲会の設立当時について、同会の創立30周年記念誌では「水島の殆どの郷人は川鉄の転勤者が多く、建設当初から来られた人達の苦労はとても筆舌では書き尽くせないぐらいで、新興都市に共通する活気はあるが、住むにはあまりにもわびしく不便で、知り合いとてもなく、特に都会から移ってきた者にとり、実に耐えがたい」(岡山沖洲会2001)状況であったと記述されている。ここから新たな移住地での孤独を解消する必要から設立に至ったことがうかがえる。また同時に「都会から移ってきた者」という表現からは、既に都市生活者となっている奄美出身者の一面と、その自己認識を表しているといえよう。
     戦前期や奄美諸島のアメリカ軍政期に設立された同郷団体は、ホスト社会から受けた偏見や他者化の経験が極めて重要な外的要因としてその活動に作用した。これは出身地の奄美諸島が国民国家・日本における境界地であることに起因するものであった。しかし、高度経済成長期に設立された岡山沖洲会では設立当時から象徴的な文化活動が中心で、親睦団体としての側面が強く打ち出された。

    _IV_ 地域を越えた同郷者ネットワーク
     現在、日本各地に沖永良部出身者の同郷団体である沖洲会は、岡山沖洲会を含め10団体(千葉・東京・愛知・大阪・尼崎・神戸・岡山・鹿児島・奄美・沖縄)が活動している。このうち、千葉と愛知は岡山同様に川崎製鉄関連工場の配置転換に直接的な影響を受けて設立に至った団体である。これら10団体は1999年に全国沖洲会連絡協議会を構成し、相互の情報交換や連携を行なっている。岡山沖洲会は設立の経緯から、神戸沖洲会との交流が特に盛んになされている。また、全国の沖洲会と沖永良部島の2町との交流も盛んで、行政側が積極的に全国の沖洲会との交流を重要な事業の1つとして捉えている。
  • 西部 均
    セッションID: 410
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    1はじめに
     地域は地理学で最も多用される重要概念である。しかし今日、地理学者も従来の地理学概念とは異なる文脈に置かれた「地域」概念を無視し得ない状況も生まれつつあるようだ。超国家的な地域のとりまとめが外交の熾烈な議題になると同時に、地方分権改革の流れから身近なコミュニティのエンパワメントが市民的議題になっている影響であろう。こうした多種多様な「地域」概念を地理学概念と節合していくために、その出自を整理し、簡単な見取り図を描くところから始めたい。
    2戦後日本における「地域」概念の出自
     日本語としての「地域」概念は、まず戦前期の地方自治制度や都市計画制度に由来する法律用語として定着したが、1950年代初頭でも馴染み薄い用語だったという。しかし、その後「地域」概念は瞬く間に日本社会に普及した。そのきっかけは何だったのか。
     表1に「地域」の初出を確認すると、戦後間もない頃の労働闘争の戦術として登場した。GHQが労働組合の結成を奨励すると、極度のインフレと食糧難のなか、組合数は一気に膨れ上がった。その勢いから労働組合全国組織の指揮の下に政権打倒を目指す2.1ゼネストが準備されると、GHQは態度を急変させてゼネスト禁止を命じた。弾圧を避けたい組合側は戦術を地域闘争に切り替えた。地域ごとの賃上げ闘争を行いながら、地域住民の要求を汲み上げ協力し、やがて家族ぐるみ、町ぐるみの闘争となった。全国各地の教師もまた、住民の協力を得て自らの労働闘争に立ち、一方で住民を抑圧する古い共同体の支配関係を断ち切るために活動した。
     歴史学者の金原左門にとって、帰省した故郷の町で生活に喘ぎながらも未来への明るさの中で共同の力で町を活性化しようとする友人たちと対話したことこそ、「地域とのそもそもの出会い」であった。戦後民主主義は生活の場に流れ込み、津々浦々で個別の課題を解決しようとする草の根の活動を促していった。その体験こそが、地域史研究を追求する基点になったという。
     ところがその後、自民党政府の保守管理化政策が次々に実施され、草の根民主主義の活動を無化する大企業利益優先の地域開発政策が展開された。表1にみるように、高度経済成長による社会変動の顕在化した1960年代前半に、「地域」概念を組み込んだ政治理論や教育理論が一斉に開花した。前者は、政治学者、総評(自治労)、社会党が、町内会に残るボス政治など草の根保守を打ち破るために展開した地域民主主義の主張である。後者は、日教組の設立した国民教育研究所における歴史学者上原専禄の地域研究に基づく国民教育の提唱である。
     このような「地域」理論は、1973年の石油ショックによる高度経済成長の終焉によって、再び活気付く。1960年代に直面した高度成長期の矛盾が改めて問い返され、新たな社会指針を探し求める広範な議論の中で「地域」概念がキーワードになった。この時期、歴史学において戦後民主主義と「地域」の関係が確認されると同時に、地域主義が未来の理想社会を構築するため学際的な文明論を提唱した。地理学者もこうした議論に参入した。
    3「地域」概念から例示される発想力
     地域民主主義は、それまでの地域闘争の経験を踏まえ、組織労働者の協力の下で民主的地域組織を結成し、職場とともに地域で革新運動前進の土台を築く主張である。ここでの「地域」は、市町村、校区、町内という小スケールの居住地区を指す。町内ごとの投票傾向などを精密に調べて政治地図を作成し、地域の特殊性を把握するなど、政治地理学的な発想も示すが、この「地域」は同時に居住社会である。末端活動家の独創的活動にその成否はかかっていたし、国民的連携を勝ち取るための学校と位置づけられたように、目的志向性を帯びた、人々のネットワークなのである。また大企業の利益のために自治体に合併や社会資本整備を押し付ける国家政策に対して、生活経験の現場を固守しようとするスケールの闘争でもあった。なぜなら大企業や国家の巨大権力に対抗しうる民主的な人間を教育するには、人間としてのギリギリの欲求を訴えて生きぬいている自分の地域の具体的な歴史地理的現実の中で痛みを自覚してこそ、普遍的な人類の権利を自分の問題として感じ取る人間になりうる。労働生活の歴史を宿す「地域」は、連帯による意味と情念を全身にまとわせて変革へ向かう実存的な場なのである。
  • 柴田 剛
    セッションID: 411
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    或る「場所」や「地域」と、そこに生活する人々の「記憶」や「語り」との関わりを、発表者が行なった聞き取りなどを材料にして、考えてみたい。
  • 山崎 孝史
    セッションID: 412
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/12/25
    会議録・要旨集 フリー
    地政学の「魅力」と地政言説
    言葉による表現が、特定の空間や場所をめぐる想像や表象を意味し、歴史的・政治的な文脈の中である種の真実性を持つものとして扱われることがある。その政治的に重要な例が「地政言説」である。オトゥーホール(O' Tuathail)によれば、地政学は「国家間の競争と権力の地理的な側面を強調した世界政治に関する言説」である。オトゥーホールは、現代において地政学がジャーナリスト、政治家、戦略思想家などにとって魅力であるという。ジャーナリストや政治家は地政学をとおして、混沌とした日常的な出来事を超えた、本質化された差異にもとづく永続的な対立や根源的な闘争を見出そうとする。そこで地政学を言説としてとらえるならば、特定の政治家や戦略思想家が「現実」として示す世界が、実は特定の時間と空間の文脈から描き出されていることや、多様で複雑な現実を特定の視点から単純化されていることに気づくことができる。

    地政言説の構成と物質的基礎
    言説は単に書かれたものとして主体の位置、実生活、あるいは社会の諸制度から遊離しているわけではなく、それらの中に埋め込まれている。地政言説を例にとれば、世界政治の表象は特定の国家の物質的な要素(人口・資源・産業・資本など)と無関係ではなく、それを基礎としてつくり出される。オトゥーホールは地政学の概念的構成を図解している。図の上部におかれるのが三つのタイプの地政言説とその具体的な形態であり、これらの言説は地政的想像力によってつくり出される特定の地政的伝統から派生している。地政的伝統とは、特定の国家の構造を基礎としている。こうした図式は国際関係の分野での言説構成の理解には有効であるが、それ以外のスケールではどうだろうか。

    スケールと言説
    政治地理学的にみると、地理的スケールは重要な政治的意味を持つ。個人または集団による政治行動は特定の場所において展開し、一定の空間的広がりを持つ。スミス(Smith)が分類する身体からグローバルにいたる7つのスケールは、政治行動が展開される空間的広がりの程度を示している。特定の政治問題や政治行動は特定のスケールを基盤に発生・展開し、またそのスケールの操作をめぐって政治的な駆け引きが起こる。これを「スケールの政治」と呼ぶが、問題のスケールが重層的な場合「スケールのジャンプ」と呼ばれる現象が起こる。こうしたスケールの政治にも地政言説が関係する。それを「スケール言説」と呼び、政治行動の理念的部分において重要な役割を果たす。政治問題や政治運動は単一のスケールで展開するものではなく、多様なスケールの間を往復する。故にスケール言説の分析についてもマルチスケールの視角が求められる。

    言説分析の方法
    では言説はどのように分析されるのであろうか。社会運動における主体と場所や空間との関係とを明らかにするために、フレーム分析の手法を用いることができる。フレーム分析は、社会運動を「枠づける=フレーミング」言説に着目する。社会運動は特定の信念、価値観、あるいは世界観のもとに組織され、運動組織は自らの活動を正当化し、敵対する立場や組織の考え方を否定する。フレーミングとは、そうした運動の理念を言語的に表現する行為である。フレーミングに着目することで、特定の組織の活動理念の形成過程のみならず、組織内あるいは組織間での異なった理念の同調や対立を検討することができる。こうしたフレーミングは複雑な現実を言説的に単純化することで人々の支持を得ようとする。この点では地政言説と同様の働きをもっている。

    地政言説から政治を読む
    地政言説と政治との関係を理解することは、地理学という観点から政治を分析する上で有効となる。また、特定の個人や集団が空間や場所を表象する行為から政治的な意図や権力関係を読み取ることは、政治という営みに対する感受性や批判的思考力を高めることにもつながる。そして、私たちがより賢明な市民や有権者であるためには、地政言説の作用に敏感であるばかりでなく、そうした言説の基礎をなすもっと複雑で錯綜した世界や社会の物質的構成(人口・権力・その他資源の配分、すなわち地理そのもの)を理解せねばなるまい。
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