人文地理学会大会 研究発表要旨
2009年 人文地理学会大会
選択された号の論文の71件中1~50を表示しています
特別発表
  • 野中 健一
    セッションID: 11
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    「昆虫食」に関心を持ち,調べ始めた頃には,フィールドへ行けば「虫を食べることを調べて何になる?」地理学会では「変な食べ物を取り上げれば地理学になると思っているヤツがいる」とあしらわれた。カラハリ砂漠の狩猟採集民の調査に参加した時には,「砂漠で虫だと?」生態人類学者から嘲笑を買った。東南アジアの農村調査では,「どうして虫を調べる者がいっしょにいるのだ」と農学者から疎んじられた。それでも世界各地のさまざまに昆虫を捕り食べる人びとに惹きつけられ,四半世紀にわたって研究し続けてこれたのも,地理学が「自然と人間との関わりあい」を究明する学問分野であり,懐の広さのおかげ故である。この発表では,昆虫を捕って食べる人びとの研究という周辺的な立場からの地理学研究の可能性とナチュラル・ヒストリー研究への位置づけを検討したい。
  • 中西 僚太郎
    セッションID: 12
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    近代の日本では,近世の絵図・地図作成を背景として,新たな意匠の絵図・地図が多数作成された。その代表例としては,大正・昭和初期の吉田初三郎とその門下による一群の鳥瞰図があげられるが,明治・大正期にはそれとは異なる意匠をもつ鳥瞰図が,市街地や温泉地,景勝地,社寺を対象に数多く作成された。それらは当初は銅版,後には石版印刷による対象の精緻な描写を特徴とする鳥瞰図であり,図の名称から「真景図」と総称することができる。本発表では,景勝地の「真景図」の事例として,主に松島と厳島を取り上げ,同時期の案内記や写真帖と比較しながら,刊行状況や作成主体,作成意図,図面構成,構図,描写内容などの資料的検討と考察を行う。その上で,「真景図」を活用した当時の景観(風景)研究や観光研究の可能性を探ってみたい。
  • ―断絶と連続,形成と変容―
    谷 謙二
    セッションID: 21
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    1990年代後半以降の日本の大都市圏においては,戦 後の長期的なトレンドが反転し,人口の都心回帰,中 心都市への通勤率の低下などが顕著になった。この変 化を考える際には,90年代初めまでの大都市圏のシス テムが,いつ,どのように形成されたかを検討する必 要がある。筆者は,戦前の大都市(圏)と高度成長期 以降の大都市圏とではかなりの違いがあり,その違い は戦時期から復興期にかけての経済統制や占領政策に よって形成された部分が大きいと考える。これはいわ ゆる「総力戦体制論」につながるものであるが,当時 の大都市圏の変動はあまりにも激しく,変化の全貌は 十分に明らかとなっていない。本発表では,制度面と して土地所有,通勤手当,都市計画,労務動員,実態 面としては通勤流動,人口分布変動に注目して,当時 の大都市圏の変化とその含意を検討する。
  • ―地域暗黙知の視点から―
    川端 基夫
    セッションID: 22
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    日本の少子高齢化や人口減少は,日本企業の目を海外市場開拓に向けさせている。実際,消費財メーカーの海外売上比率は急速に高まりつつあり,政府も日本企業による海外市場開拓を積極的に支援する姿勢を示している。このような海外市場の開拓は,いうまでもなく国際マーケティング「実務」であり,そこでは「市場特性」の理解が問題となる。とはいえ,この実務を支える理論は極めて貧困である。テクニカルな手法開発は別として,海外市場の特性をどう捉えるのかといった根本的な議論をする際の基盤がないのである。結果,曖昧な異文化論的議論が繰り返されている。しかし,この問題については,本来は「地域特性」をキーワードにしてきた地理学が一定の役割を果たすべきであろう。本報告では「地域暗黙知」という概念をキーとして,地理学に課せられている古くて新しい課題について考えてみたい。
一般研究発表
第1会場
  • 宮本 真二, 安藤 和雄, 内田 晴夫, バガバティ アバニィ・クマール, セリム ムハマッド
    セッションID: 101
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    ブラマプトラ川流域における高所と低所の土地開発過程の検討を行った.低所では,バングラデシュ中部における沖積低地の開発は,1.3千年前以降に定住化が開始した.一方,高所であるインド北東部山岳地域の土地開発の集中化は,1千年前以降であることが明らかとなった.
  • ―和歌山平野の水軒堤防の構築の影響―
    水田 義一
    セッションID: 102
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    歴史地理学 和歌山平野は紀ノ川の堆積によって形成されたが、現在でも和歌山平野にはその形成過程を示すかつての海岸にあった砂丘が、3列存在していると看做されてきた。もっとも外側の砂丘-水軒浜の中央部は19世紀に石垣堤防が築かれている。県史跡に指定されている石垣堤防は、道路改修に伴ない、この3年間の発掘調査が行われた。砂丘の発達の悪い砂州の先端に、約1km築造されたことが判明した。全国的に例の少ない海岸の石垣堤防の建設の背景とその後の地形変化を考察する。
  • 有薗 正一郎
    セッションID: 103
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    (1)『江見農書』の著作地と著作年・・・『江見農書』には著作者と著作地と著作年が記述されていない。『江見農書』には「当国江見」のほか、「芸州」「伯州赤碕」と、中国地方の地名が記載されている。「江見」地名は中国地方では美作国英田郡と伯耆国で拾えるので、「江見」は美作国英田郡江見である。『江見農書』に挟まれている別紙の耕作暦中の2年目に申年と記載され、またこの年は6・7・閏8・10月が小(29日)の月であった。これらの条件を満たすのは1824(文政7)年だけである。したがって、『江見農書』は1823-24(文政6-7)に著作されたと推定した。 (2)美作国江見の地理・・・江見は美作国東端の盆地に立地する集落である。近世の江見は美作国を東西に通る因幡往来の宿場であり、近世には新たな農耕技術が真っ先に伝わる好条件を持っていた。 (3)『江見農書』の耕作技術の地域性・・・『江見農書』は有用樹10種類の育生技術から記述を始めており、これが中国山地中の盆地に立地する江見の性格を説明している。『江見農書』はイネとワタ株の雌雄判別法を記述している。『江見農書』は、雌イネは穂軸最下段の枝が2本あり、雌ワタは幼株の時に葉が対生すると記述する。これは『農業余話』『草木撰種録』(いずれも1828年)の雌雄判別法と同じであり、『江見農書』は農作物の雌雄説が美作国まで普及していたことを示す史料である。
  • 羽山 久男
    セッションID: 104
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    徳島県の秩父帯の地すべり地帯には棚田地帯が形成されているが、文化・文政期作成の実測分間村絵図と地租改正期の地面明細図では棚田表現に著しい精度のちがいがみられる。両図を比較することにより、棚田の空間構造を明らかにしたい。
  • 高橋 清吾
    セッションID: 105
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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     本発表では、近世に発生した水論を収束させる際に作成された絵図を用いることで、水論発生後の景観について述べる。  人々が農業を行う際、村々が協力して水源や水利施設について維持管理を行ない、さらに用水の利用規則である水利慣行を執行していた。ところが、水利施設の維持管理や水利慣行の履行を巡って村落間における対立が起きた。これを水論と呼ぶ。  近世の水論に関する研究は、主に文献史学と歴史地理学において行なわれた。文献史学では、近世の水論に対する幕府の見解と水論発生後の関係者の動向が明示された一方、歴史地理学では、河川や用水路の上下流に分かれた村々における水論の発生が、日本各地の河川や溜池の分水問題等から実証された。しかしながら、水論の発生後に、論所がどのような状況にあったのかについても考慮すべきだと考える。そこで、水論を収束させる過程で作成された絵図に描かれる景観から、論所についての検討を行なう。研究対象地としては、和泉国日根野村周辺を事例として、文政3(1820)年に嘉祥寺村と岡本村で発生した水論について記された水論史料と論所について描かれた「岡本村船岡山南西側之図」を取り上げる。  当地における灌漑水源に目を向けると見出川、佐野川、樫井川と、それらの河川から取水する用水路および溜池群が利用され、それぞれの水源には水利慣行が執行されていた。次に、具体的な水論の実態を探るべく、複数の水論史料の解読から水論における争点の整理を進めた。その結果、番水や分水量を巡る問題や河川や溜池に設置された水利施設に関する問題が見られた。この他、鍬などの農器具を使って隣村の用水路を破損させ、自村へと水を奪い取った盗水や、他村の耕地で既に利用された使用済みの用水が、別の村の耕地へと流れ込むことで生じた悪水の問題が確認できた。これらの水論の解決方法については、関係村落間による協議や近隣の村落による調停により、水利慣行の調整や水利施設の維持管理方法の見直しがなされていた。  文政4(1821)年に作成された岡本村と嘉祥寺村の水論に関する史料によると、前年に発生した大雨により岡本村と嘉祥寺村が利用する尾張池の小川筋へと船岡山からの土砂が崩れ落ち、流水の妨げになる被害が発生し、耕地の灌漑に支障をきたした。そのため、船岡山の山裾の川岸に杭木を打つことで土砂を止める工事が嘉祥寺村の手によって実施された。だが、この杭木を施したことで水流が変化し、川堤に危害が及ぶことから撤去を求める抗議が出されたことで水論へと発展した。この水論に対して岸和田藩は、杭木等の撤去と、川堤の内側に拓かれた耕地の埋め戻しを行なった上で、護岸杭の打ち直しを命じた。さらに杭を打ち直す際に行なわれた測量結果が絵図へと記入された。そして川筋における障害物の除去と護岸の工事に当たることで、和談へと至った。先述の当地における水論の特徴に鑑み、嘉祥寺村と岡本村における水論は、堤防の維持管理を巡る水論として位置づけられる。 この水論の際に作成されたのが、先述の岡本村船岡山南西側之図である。図には尾張池と小川筋が描かれる。池には取水口である樋が描かれた他、岡本村と嘉祥寺村の耕地と池の北側に位置する船岡山が見られる。全体に彩色が施され、用水路と池が青色、各村の耕地が塗り分けられている。論所となった小川筋に目を向けると、用水路の両岸に打たれた杭に測量値が記述されている。さらに同じ岸側の杭と用水路を挟む対岸の杭との間を線で結んだ上、それぞれに数値が記される。この他、船岡山には、土砂崩れが発生した三ヶ所の痕跡を山肌の色を変えて示した上、「崩」と書かれた文字も確認できる。  和泉国日根郡嘉祥寺村と岡本村の水論史料と、その翌年に作成された絵図には水論の収束へ向け、関係村落に奉行所を交えて協議が進められた結果が示されていた。絵図には、水論を発生させた要因である土砂崩れの状況が描かれ、その土砂が流れ込んだ小川筋に対して測量による護岸整備が行なわれていたことも判明し、当事者の主張と奉行所の裁定の結果が窺えた。
  • 川本 博之
    セッションID: 106
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    歴史地理学 本論は推論や仮説ではない。安土山は織田信長の安土城があった山として知られているが、富士山と大山の正確な間中経度上で安土山と名社名寺、名寺との正確な精度の実在方位線関係の提示により、古くから重要な山として認識されていた位置性を示す。
  • 上島 智史
    セッションID: 107
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    長崎県対馬市は、博多から約150km、韓国から約50kmの距離に位置し、「国境の島」と呼ばれている。古くから朝鮮との交易で生計を立ててきた対馬にとって、朝鮮との関係は重要な課題であり、それは近世対馬藩になってからも変わることはなかった。対馬藩は、交隣外交に尽力し、朝鮮通信使など日朝関係を維持しつづけた。対馬藩に関しては、文献史学においての研究業績がほとんどだが、日朝交易や藩制などに重点が置かれており、その舞台となった対馬の城下町については考察されてこなかった。 そこで、本研究では、そうした歴史・地理的背景を有する対馬の城下町がどのように形成され、どのような空間構造をしていたのかを解明していくことを目的とする。 対馬における城下町は、対馬の最南部に位置している厳原町東部に形成されていた。ここを古くから府中と称していたため、府中城下町と呼ばれてきた。対馬において、本格的な城下町の整備に着手するようになるのは、明暦二(1656)年・第21代藩主の宗義真の襲封以降である。朝鮮通信使が滞在する城下町であったため、馬場筋と呼ばれるメインストリート沿いに武家屋敷を配置するだけでなく、馬場筋を直線的な道路にしたことからも遠見遮断のような防御意識よりも500人以上におよぶ朝鮮通信使に配慮した城下町の構造となっており、他の城下町とは異なる構造を有していた。日朝交易の繁栄と城下町の整備にともない人口も増加し続け、元禄十二(1699)年には、16138人に達した。それ以降は、日朝交易の衰退とともに人口は減少していくが、朝鮮通信使の江戸同道のために府士(府中に居住する武士)数の占める割合は依然として高い特徴を維持していた。 上記のような特徴をもつ対馬の城下町の空間構造を明らかにするために、本発表では、文化年間(1804~1811年)に作成された城下町絵図「対州接鮮旅館図」を資料の1つとして用いた。この城下町絵図は、寛政の改革によって緊縮財政を推進してきた江戸幕府が、文化八(1811)年の朝鮮通信使を対馬で聘礼する際、その準備のために作成された。道路や町割だけでなく、上級武士については、その居住者名も記載されており、府中城下町を分析する上で重要な資料といえる。 それとともに文献史料として「延宝四年 屋鋪帳」・「海游録」・「通航一覧」巻百三十二・「津島紀事」・「津島日記」・「楽郊紀聞」を用いる。「延宝四年 屋鋪帳」は宗家文書の記録類に属し、町ごとに居住者名・職種・坪数が記載され、近世初期における居住形態を読み取ることができる。対馬藩士が作成した地誌書としては、府士・百姓・町人から聞き取りしたことを整理した「楽郊紀聞」[安政六(1859)年]、幕府の命により地理・歴史に関して編纂された「津島紀事」[文化六(1809)年]の2点を用いる。これらにより、城下町の風俗・雑聞・奇聞・異聞等の様子を把握することができる。このほかに、城下町の様子をうかがえる史料としては、安永元(1773)年に長崎奉行所の役人が対馬へ派遣されたときの報告書である。「通航一覧」巻百三十二、文化八(1811)年の朝鮮通信使応接のため対馬に赴いた儒学者草場珮川の記録である「津島日記」があげられる。また、1719年の朝鮮通信使がみた府中城下町として、申維翰が記録した「海游録」も史料として用いる。これらの史料を分析することで、近世における府中城下町の姿を明らかにする。 まず、城下町絵図「対州接鮮旅館図」をもとに文化八(1811)年の府中城下町を復原してみた。武家屋敷は南部の海岸から北部の宗家屋敷を結ぶ馬場筋に沿って立ち並び、町屋敷は主に河川に沿って立ち並んでいることがわかる。また一方で、武家屋敷と町屋敷が明確に区分されておらず混在しているところも見られる。「延宝四年 屋鋪帳」によると、延宝四(1676)年においても明らかに武家屋敷と町屋敷が混在している町がいくつか記載されており、おそらく城下町の形成期から混在し続けたのではないかと想定される。このように町屋敷と武家屋敷が混在するのは対馬の城下町の特徴といえるだろう。おそらく平地の乏しい対馬にとって、土地不足は常に悩みの種であったことが理由の1つであると思われる。元禄十二(1699)年に城下町の人口は、16138人のピークをむかえたが、狭い府中では飽和状態であったため、武家屋敷と町屋敷の混在が生じたのではないかと思われる。
  • ―平沼1・6市を中心に―
    渡邉 英明
    セッションID: 108
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    _I_.はじめに
    江戸時代の武蔵国では,定期市が広範に展開したことが知られている。定期市は,一定周期をもって設営される取引の場で,江戸時代の武蔵国では,5日単位で1ヵ月に6度開催される六斎市がその主流をなしていた。武蔵国の定期市に関する研究は,伊藤(1967)の先駆的業績をはじめ,多摩郡や秩父郡など武州西部を中心に蓄積が進んでいる。一方で,武州東部とりわけ葛飾郡の定期市については,相対的に分析が手薄であった。本研究は,武州東部の二郷半領を事例として,村々と周辺定期市との関係を検討することを目的とする。

    _II_.対象地域の概観
    二郷半領は武蔵国の東部低湿地帯に位置し,東を江戸川,西を古利根川,南を小合溜井で区切られ,北は吉川村の北方で松伏領と接していた。南流する古利根川左岸の自然堤防上には早くから集落が立地し,戦国期には上赤岩・吉川・彦名・花和田などの市場が存在したことが知られている。また,古利根川右岸の八条にも,戦国期に市が立てられた。
    江戸時代の定期市について,『風土記稿』をみると,平沼・三輪野江という2ヵ所の六斎市が二郷半領内に確認でき,また,越谷宿・草加宿の六斎市も二郷半領から1~2里程度の距離にあった。さらに,江戸川左岸をみると松戸宿と流山村に六斎市があり,また,小金町や東深井村でも定期市が確認できる。これらの定期市間では,隣接する市同士で市日が重ならないよう調整され,いわゆる「市リング」が形成されていた。

    _III_.二郷半領の村々における定期市の利用
     近世二郷半領の村明細帳を分析したところ,最寄市場として最も頻繁に表れる定期市は,平沼村であった。特に,古利根川左岸の彦倉村や中曽根村は,18世紀前半時点で余剰米を平沼村で売却しており,中曽根村では幕末期までそれが続いたことが確認できる。また,同じ二郷半領の村であっても,18世紀後期の境木村では,平沼村とともに松戸宿でも米穀を売却していた。彦倉村や中曽根村は,平沼村に1里程度と近接していたが,二郷半領南部に位置する境木村は,直線距離では松戸宿の方がむしろ近く,平沼村と松戸宿の両方で取引が行われたのも,それゆえと考えられる。
     近世中期以降の定期市は,在地への日用品供給機能よりも,在地からの特産品の集荷機能がより重要になっていたといわれている(伊藤1967:99-101)。江戸川と古利根川とに挟まれた低湿地に位置する二郷半領では,定期市に集荷される主要な商品は,米穀であったと考えられる。米穀以外では,縄・俵・莚といった稲藁を用いた製品の製造,あるいは木綿糸機などが,二郷半領の村々で広く営まれていたことが確認できた。ただし,これらは自己消費分の生産に留まり,定期市での販売は行われていなかったとされる。

    _IV_.江戸時代後期の平沼1・6市とその商業圏
     二郷半領の米穀が集散した平沼の町場は,南北に走る往還の両側に民家が建ち並び,幕末期には400戸以上が軒を連ねたという。町並は北接する吉川村にも連続し,幕末期には六斎市の売場も吉川村地内まで拡大していた。江戸時代後期の平沼六斎市では,米穀をはじめ,麦,雑穀,豆類,農具など,様々な品目が取引されていた。そして,平沼には多くの米穀商人が居住しており,米穀商人仲間が形成されていた。平沼村に集荷された米穀は,主に江戸へと船で輸送されていたが,幕末期には米穀商人仲間がそれらの荷船を掌握していたという。
     また,平沼六斎市を利用する村々は,必ずしも二郷半領内に留まっていなかった。特に,19世紀に入ると,二郷半領に北接する松伏領の上赤岩村や川藤村が,最寄市場として平沼村を挙げている。また,平沼村から古利根川を挟んだ対岸に位置する埼玉郡柿木領の村々も,幕末期に平沼六斎市を利用していたことが確認できる。江戸時代中後期には,二郷半領の枠を超えた経済行動が広く展開していたといえよう。

    【文献】
    伊藤好一『近世在方市の構造』隣人社,1967。
  • ―12~20世紀におけるドイツ・バイロイト図絵から―
    川西 孝男
    セッションID: 109
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    本発表は、ドイツ・バイロイト市が創設された12世紀から現在に至る都市図絵を中心にその都市の機能や文化の変遷を考察したものである。
  • ―播磨国絵図の場合―
    藤田 裕嗣
    セッションID: 110
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    1.はじめに 本研究の目的は、ライデン大学に所蔵されているシーボルト収集手書き国絵図コレクション21点のうち、播磨国絵図の記載内容を検討し、他の播磨国絵図と比較することで、当該絵図の位置づけを試みる点にある。  なお、本研究は、報告者が共同研究者を務める科学研究費・基盤研究(B)「ライデン大学所蔵シーボルト国絵図の地図史研究」(研究代表者:小野寺淳茨城大学教授)による成果の一部である。 2.シーボルト収集手書き国絵図の概要 ライデン大学で撮影された写真をもとに、メンバーで分担し、分析を進めている。既にその年代推定がほぼ固まった国絵図を挙げると、大和の場合は4寸1里程度の正保図の縮写図(小田匡保による今年8月27日のICHG口頭報告)、石見・佐渡・能登・山城国絵図もまた正保図系統と考えられる。一方、阿波・淡路国絵図は寛文度の国絵図の写本と考えられ、志摩国絵図は寛文・延宝期に幕府へ再提出された国絵図の2分の1程度の縮写図の写本である。 3.研究対象としての播磨国絵図の概要 報告者は、その中で播磨国絵図(シーボルト本を以下_丸1_と表記する)を担当した。杉本他(2009)(『東京大学史料編纂所研究紀要』19)によれば、絵図番号はSer.284、サイズは219×231.5cmである。国立公文書館所蔵の中川忠英旧蔵本(_丸4_)・松平乗命旧蔵本(_丸5_;その明治期におけるラフな写しが_丸6_)、京都府立総合資料館所蔵本(_丸2_)など、国内に現存する近似の国絵図との比較研究を行った。 _丸1_で目立つ最大の特徴は、淡路島が北端だけで南に続かず、独立した島のように描かれる一方で、明石港から延びる砂州のような表現であろう。これは、舟路を書き誤ったと推察される。このうち、後者は、中川本_丸4_等でも認められる。  『国絵図の世界』で示された慶長・正保(_丸3_)・元禄国絵図(_丸7_)について、城下町としての明石と赤穂で位置を合わせ、国境の輪郭と明石郡界をトレースしてみると、北側の因幡・但馬・丹波国との国境は、慶長から正保の間でぐっと北方に延びる一方で、元禄では正保とさほど変わらない位置にある。特に、但馬・丹波国との三国境で北に迫り上がる状況は、慶長と正保とでほぼ同じであることが判る。このうち正保国絵図について小型であることに注目した工藤茂博(2005b)『国絵図の世界』(柏書房)により、古城が描かれていない図像表現や色彩などの特徴から、慶長国絵図との類似性が指摘されている点と呼応しよう。 それらの違いにもかかわらず、明石郡界の相対的位置は殆ど変わらない。そこで、摂津国に接する播磨国南東部は、慶長の折から、比較的正確に知られていた、と考えてよかろう。 4.諸本との比較 まず、京都府立総合資料館本_丸2_は、工藤茂博(2005a)『播磨新宮町史文化財編』では正保国絵図と断定されているが、工藤茂博(2005b)では言及されていない。後者で正保図とされている新宮八幡神社本_丸3_と比較すると、図2で示した国境について若干異なっており、_丸1_とともに、正保国絵図と評価されている_丸4_の中川本との一致度が高い。先に指摘した三国境に特徴的な突出の仕方は、元禄国絵図とされている龍野市立歴史文化資料館本_丸7_のみ異質なのである。  この点、_丸2_を所蔵する京都府立総合資料館の担当者によれば、他の国でも類似した装丁の一連のセットがあり、唯一、年次が明記された信濃国の場合、明治2年となっており、二条城に旧蔵され、京都府に移ったと考えられるそうである。播磨の領主記載によれば、正保当時と考えるのが適当であるが、その担当者は、正保とは断定できず、元禄の可能性も考えている、との由であった。とはいえ、上述した国境線との関係からは、元禄はありえない。領主との関係からも、やはり正保に傾くが、寛文図である可能性も捨て切れない。  以上、正保図~寛文図の間にあると思われる、_丸1_~_丸5_に元禄図の_丸7_を加え、相互に比較した。先に_丸1_について指摘した二つの特徴に加え、郡高目録、各村型内における村高記載、各村毎に領主を示す記号の項目で比較すると、_丸1_に一致する絵図は見当たらず、単純にいずれかの写しとは断定できない。  なお残されている課題を解明するには、高精細写真の撮影とその精査、および熟覧調査が必要であり、その成果は、当日の報告に委ねたい。
  • 山田 奨治, 中西 和子
    セッションID: 111
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    『古事類苑・地部』の国(地域)別地誌編の本文採録文献を整理し、国ごとの総情報量(文字数)および採録文献の特性を分析した。あわせて、『古事類苑・地部』編纂経緯についても報告する。
  • 飯塚 修三, 澤田 平
    セッションID: 112
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     海野一隆(1921~2006年)の遺作となった「東洋地理史研究 日本篇」に『江戸時代地球儀の系統的分類』と題して、50数種類の地球儀を紹介している。分類は1~14までは『○○系』として48個、分類15は『未分類』2個。 さらに、分類16は『未調査』、安中市教育委員会と記載されている。  安中藩、藩儒・太山融斎(おおやま ゆうさい、1794~1863年)は嘉永5年(1852)に数個の地球儀を製作した。現存数は2個である。他の1個は保存状態が非常に悪く、今回状態のよい個人蔵の地球儀を紹介した。  地球儀の直径:36cm。木で地球の形状を作り、その表面に髪を張っている。紙の張り子に胡粉を塗り、、世界図を手書きしている。  台座は幅59cm、高さ45cm。  地球儀に書かれた世界図は『江戸時代地球儀の系統的分類』の分類13の『箕作省吾系』の分類される。箕作省吾は弘化2年「新製與地全図」を刊行した。これは1835年フランスで発行された世界図の日本語訳である。『ナポレヲンランド』などの地名が表記されている。
  •  
    楊 韜
    セッションID: 113
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    本発表は、近代上海における新聞や出版を中心とするメディア産業の状況を、歴史地理学的視点から考察する試みである。
  • ―東亜同文書院生の調査旅行記録から―
    藤田 佳久
    セッションID: 114
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    1 目的
     本研究の目的は、20世紀前半期の満州に漢人が集中的に流入したさいの、中国本土のうちの流出地、満入先、流入時期、流入者の特性、流入地域の拡大とその背景について明らかにするところにある。

    2 方法
     方法としては、その時期に集中的に満州地域へ調査の足を伸ばし、漢人の満州移動状況を観察、調査した東亜同文書院学生による記録を利用した。
     東亜同文書院は1901年、上海に開学し、終戦の1945年までの半世紀にわたって中国との貿易実務者を養成するビジネススクールとして存続し、中国調査研究の発展によりそのアカデミックさが認められ、大学へ昇格した。徹底した中国語教育とともに、1907年から本格的な中国および東南アジアの「大旅行」調査が行われ、その成果とともに書院の大きな特徴となった。
     「大旅行」は最高学年で実施され、学生たちの自由な調査旅行テーマと旅行日誌が記録された。各学年1班2~5人ほどの10~20班が組織され、3~5ヶ月間徒歩による調査が行われた。その総コース数は700に達し、とりわけ旅行日誌は毎日の旅行コースと沿線状況、会った人々、料理などが生き生きと描かれ、近代中国の様子を十分にうかがい知ることができる。
     満州事変直後の2年間、民国政府は中国国内旅行をめざす書院生へのビザの発給を中止し、書院生は心ならずも満州地域にフィールドを設けざるを得なかった。それ以前にも満州各地の調査を行った班もいくつかあったが、この2年間の調査でほぼ満州全域を同時に把握できることになった。その記録の中に漢人の満州への移動がみられることになり、それを本研究のベースとした。

    3 まとめ
    (1) 満州は満州族の聖地として位置づけられ、清国時代、とりわけ19世紀までは漢人の満州入りは禁止されてきた。しかし、19世紀後半以降、満州がロシア勢力の南下によって保全がおびやかされるようになると、清朝政府は領域の一部を漢人の農業移民に開放し、ロシア南下の防禦にしようとした。
    (2) この動きは、民国期になるとさらに活発になり、多くの漢人が満州へ入るようになった。当初は夏季中心の出稼であったが、次第に入植定着する農民が増え、1920年代にはそのピークを迎えた。こうして毎年100万人もの漢人が入植し、遊牧の民・満州族の牧地を手に入れ、満州族を周辺へ追いやる形で南満さらに中満へと入植地を拡大し、一部は北満へも入植した。
    (3) 彼らの出身地のほとんどは山東半島のある山東省である。これは山東省の将軍がこの時期に隣接省との戦争をつづけ、農民は兵士として徴用され、また食料や家畜を徴発されたこと、また折しも災害が発生するなど、山東居民の条件が悪化したことがあった。それが海を渡れば目と鼻の先、そして次第に日本による満州経営による労働力需要が彼らを引き受け、また満鉄も船と鉄道を彼らのためにほとんど開放したりした。
第2会場
  • ―『漁業センサス』をもとに―
    高木 秀和
    セッションID: 201
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    1 目的と方法
     本発表の目的は、三重県志摩市(旧志摩郡)域のなかにある漁村を、各年次『漁業センサス』所載の統計データをベースに整理したのち、漁法の多様性とそれを支える条件を農業との関連性にも留意しつつ分析を行い、地域区分と地域類型を試みることにある。
     これまで行われてきた研究は漁業動向や経営主体などの概念的把握が中心であり、近年では「漁業センサス」などの基本的な統計資料を用いた志摩半島の地域分析は行われていない。そこで本発表では、詳細な地域調査を行うための基礎的な作業として、近年の志摩半島の漁村の変化と動向を知るために漁法の多様性にも注意を払いながら「漁業センサス」や「世界農林業センサス」に掲載のデータを用いて整理を行い、その結果から漁村の分析と地域区分(注1)および地域類型を行うことにする。

    2 結論
     熊野灘に面した志摩町の全集落と大王町船越、波切、浜島では漁業に関するほぼ全ての指標に関して順位は高く、志摩漁村のなかでも漁業の中心地域であるといえる。そのなかでも志摩町和具と浜島は中心的存在ではあるが、浜島では漁業経営体数が大きく減少したうえ、大規模な沖合遠洋漁船もなくなり、真珠養殖の経営体数数も多くないことなどから、和具・浜島という二本柱から和具に一本化したといえる。また、熊野灘に面したこれらの集落では農業のウエイトは全体的に低いといえるが、志摩町越賀のみ例外的に高い。これらの集落に準ずるものとして阿児町安乗や磯部町的矢がある。
     また、英虞湾に面する阿児町立神、神明、鵜方では漁法の多様性はないものの志摩漁村のなかで真珠養殖に特化した地域であり、それによる漁獲金額も増大している。農業に関してはさほどウエイトが高いとはいえないが、熊野灘に面した漁業の中心地域よりは高い。
     その他の地域は漁業のウエイトより農業のウエイトが高いといえるが、浜島町迫子や磯部町飯浜、阿児町の表海に面した集落などは、若干漁業のウエイトが高い時期もあったが近年では漁業は停滞している。このような表海に面した地域以外の集落は、少なくとも今回の分析で用いた1968年以降は漁業のウエイトは低く、とくに浜島と迫子を除く浜島町や磯部町の的矢湾奥(伊雑浦)沿岸の集落では漁村というより農村と言ってもよいほどである。
     以上、大きく志摩漁村を地域区分すると、漁業の中心地であるが農業はあまりさかんではない熊野灘に面した地域、そのなかでも農業のウエイトがやや高い地域、真珠養殖に特化した地域、漁業と農業のウエイトを比較すると農業のウエイトが高くなる地域の4タイプに分けることができる。
     なお、地域類型の結果は、当日発表したい。

    【注】 (注1) 高木秀和(2009)、「三重県志摩市における漁村の分析と地域区分」、愛知論叢87、93-122頁、愛知大学大学院。
  • ―成田市十余三地区を事例として―
    大石  貴之, 横山  貴史, 市村 卓司, 飯島 智史, 伊藤 文彬, 深瀬 浩三, 田林 明
    セッションID: 202
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    I はじめに
     千葉県成田市は千葉県北部に位置し,西側は下利根平野における稲作農業,東側は下総台地における畑作農業が卓越する地域である。1950年代から1960年代にかけて,成田市を含む下総台地の東部は,後進農業地域(白浜 1958),あるいは近郊農業圏外(菊池 1966)と位置づけられていた。しかしその後,1980年代には交通網の進展等によって野菜や工芸作物の主産地が形成され,中郊農業地帯(斉藤ほか 1985)や近郊農業地帯と中郊農業地帯との間に位置する,中位の近郊農業地帯と位置付けられている。
     1980年代における交通網の進展は,主として1978年に開港した成田国際空港(以下,成田空港)の建設によるところが大きい。成田空港の建設は,交通網の進展による市場近接性が向上するといった利点をもたらした一方で,空港用地の買収に伴う農地の減少や,空港産業への雇用機会が拡大することに伴う農家の兼業化などの側面も生じた。
     空港建設が当該地域の農業を変容させうる様々なインパクトを秘めていることは明白であるが,それらのインパクトが農家にいかに受容されているのだろうか。そこで本報告では,成田空港の第二滑走路建設によって大きな影響を受けた千葉県成田市十余三地区を事例として,成田空港の建設が当該地域の農業に与えた影響を明らかにすることを目的とする。

    II 十余三地区における農業の展開
    1.農業と空港のかかわり
     十余三地区は成田市のほぼ中央,下総台地上に位置する畑作農業集落である。多くの農地が空港用地あるいは騒音用地1)に転用された。第二滑走路が建設され,暫定的な運用が開始されるのは2000年であるが,用地買収は1970年代に開始されており,1970年から1975年にかけて作付面積がおよそ半分に減少した。その後,1979年に空港所有の騒音用地の多くが農地として十余三地区内の農家に貸し付けられることとなった。この頃,サツマイモの作付面積が徐々に増加し,十余三地区における作付面積の大部分を占めるようになった。

    2.十余三地区における農業経営
     サツマイモは成田市において古くから栽培されている作物であり,1960年代まではデンプン採取用として,1970年代ごろからは生食用として品種を変えながら生産が行われてきた。成田市では農協共販が開始される以前から地区ごとの任意出荷組合が組織されており,そのため組合が農協の傘下となった現在においても出荷組合単位での集出荷が行われている。十余三地区のサツマイモ生産農家はマルナリ出荷組合と新生出荷組合のいずれかに加盟しており,組合独自の規格や選別方法のもと,異なる市場へ出荷している。その他の作物として,サツマイモの輪作用作物として栽培されるラッカセイやゴボウは商人を通じて,ナシは任意組合を組織しての市場出荷や,個人による産直販売が行われている。さらに,近年では十余三産直組合を組織し,地区内で直売所を開設している。

    III 第二滑走路建設に伴う畑作農業の変容
     空港用地の借地を利用する農家の多くはサツマイモを主体とする農家が多い。個々の農家経営の変遷を見ると,空港用地の貸付に前後して経営の主力をサツマイモに転換する農家が多くみられた。これには空港用地の貸付が開始された時期が,サツマイモの堀取り機などサツマイモ生産の省力化が期待できる農機具が導入され始めた時期や,サツマイモの価格が高かった時期と重なっていたことが大きい。また,空港用地は3年周期で更新されるため,特別な技術を要せず,スケールメリットの効くサツマイモ生産が借地での栽培に合っていたといえる。しかし,近年はサツマイモ価格が下がってきたことからサツマイモの経営規模を減らし,経営の主力を米やスイカなどの他作物に求める農家も現れている。
     果樹・観光型の農家では,十余三地区で1950年代から続けられているナシ栽培を主力としている。これらの農家は小規模に借地を利用してサツマイモを家計の補強としている。また,トランジット客を見込んでの観光農園経営や,空港内の売店にイチゴなどの農産物を出荷するなど,空港への近接性を最大限に利用する経営体もみられる。
     一方で,兼業型の農家では空港開港に伴い空港内で雇用される清掃業や消防業などの職種に就きつつも農業は継続し,小規模なナシ生産を行ったり,耕土や収穫期のみの補助的労働力となったりする経営体がみられた。
     このように,十余三地区では主穀農業からサツマイモ主体の農業地域に変容しながらも,個々の農家はそれぞれの経営状況に合わせて空港というインパクトを様々に受容していることが明らかとなった。

    1)空港用地の周辺に設けられる緩衝帯であり,基本的に宅地として利用することのできない土地である。
  • 吉田 国光
    セッションID: 203
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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     日本の農政において低迷する食料自給率の問題は,長らく政策的課題として掲げられ,国内での食料の増産が求められている。その対応策の一つとして,農地の流動化による遊休農地の有効活用が挙げられているものの,農地流動は円滑に進んでいない。平野部において農地流動の停滞する多くの地域は,小規模な稲作兼業農家が離農後も農地を手放すことなく保有する場合や,専業農家が施設園芸などの商品価値の高い作物生産に傾倒し,水田に十分な労働力を投下していないところである。また,このような地域では,耕地1枚当たりの面積は小さく,農地の受け手にとって条件が悪いことも農地移動の障害となっている。これらの地域では,稲作が経済活動として機能しておらず,兼業農家は農外就業,専業農家はその他の作物の生産によって世帯収入を支えている。 しかしながら,このように小規模兼業農家が多く,稲作以外の農業生産や農外就業により世帯収入を支えている農家が多い地域においても,農地が有効に利用されている事例も存在する。このような地域では,耕地1枚当たりの面積は小さいものの,農業生産の形態や段階に応じて,農業者の農地への関わり方を変化させている。これは,農業生産活動の場は農地で共通しているものの,その形態や段階によって,農地の果す経済的な役割が異なることに起因している。
    農地が経済的な役割を果す段階においては,各農業者は最大限の利益を得られるように,個々の経営方針に則して農業生産を行っている。この場合,自身の耕作地での農業生産活動を,他の周辺農業者から干渉されることはなく,農地が私的な空間として,個々の農家が支配力を有している。
     一方で,農地は公的な側面も持ち合わせている。農地は各イエ(農家)に私有されるものであると同時に,各農家により構成されたムラ(集落)に属するものでもある。例えば,自身の農地を耕作放棄することは他の農家にとって迷惑行為となり,農地の継続的な利用を求められる場合などが挙げられる。これは,私有地である農地が,農家間の社会関係から形成される集落やその他の社会集団などの共同体によって,「共有」されるものであることを示している。集落営農や集団転作,「農地の景観保全」などは,この延長線上にある現象といえ,農業者個人の意向で農地の利用形態を決定できない側面をもつ。
    このように農地の主たる利用形態である農業生産活動は,経済的行為として一様に扱うことはできない。多様な農業生産活動の形態や段階は,ムラ(集落)における農地の社会的・経済的役割を変化させている。農業者の社会生活上,農地は管理しなければならないものとなり,主体が「私有」と「共有」の間を変化するなかで,積極的にあるいは消極的に農業生産活動が展開している。
     これまで農村をフィールドにした研究においては,村落社会そのものや農業の経済的役割が,それぞれ個別の研究対象として扱われてきた。とくに農業を産業としてのみ扱う傾向が強かったため,農業がもつ社会的役割については,経済的役割と混同される傾向にあり,両者の役割に留意して議論されることは多くない。例えば集落営農は,ある地域の経済的役割のみならず農地管理という社会的役割も担っている。このような場合,農業生産を経済活動としてのみ扱うことは困難であり,私有の農地が集落などの社会集団内で,いかなる社会的役割を果しているのかを検討する必要があるといえる。
     農業の社会的役割について扱った研究では,個別もしくは複数の社会集団による共有地の管理について検討したものが多かった。これらの研究での主たる命題は,集落内部の主体間がもつ社会関係から,共有地である農地や林地,漁場の利用形態を明らかにするものであった。しかしながら現在の日本の農業において,農業生産活動をめぐる農業者間の社会関係は,集落内外に展開することは自明のものとなっている。そして近年では,このような農業者間の社会関係をネットワークとみなし,社会的ネットワーク分析を援用して,ネットワークが特定の農業生産活動に果たす役割を分析する実証研究が進められつつある。さらに,こうした社会関係が重層的に存在することによって構築される社会関係資本が,農業生産活動やそれに付随する諸現象に果たす役割を分析する必要性も,次なる課題として提示されている。
     そこで本発表では,大規模化とは異なるで,集約的に農地の有効的利用を行う地域として,三毛作農業が卓越する淡路島三原平野を事例にし,農業生産活動の形態や段階に応じて展開する重層的な農業者のネットワークを分析することから,個々の農業経営におけるそれぞれの農業生産活動にいかなる役割を果しているのかを明らかにする。
  • 淡野 寧彦
    セッションID: 204
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    _I_.はじめに
     増大する安価な輸入畜産物の影響によって,日本の畜産物産地は収益の減少や生産量の縮小を余儀なくされている。さらに近年,飼料用として海外から輸入されるトウモロコシや大豆の価格が高騰したことで,産地はさらに大きな打撃を受けた。一方,日本の食料自給率は40%前後にまで低下している。畜産物の自給率は50%強を維持しているものの,飼料の多くを海外原料に依存しているため,カロリーベースでの自給率は極めて低い。このようななかで,休耕地や耕作放棄地を利用した飼料用の米(以下,飼料米)の生産が広まりつつあり,2008年の飼料米作付面積は全国で1,611haに達した。
     本発表では,飼料米生産がどのように拡大しているのか,また飼料米を用いた畜産物生産(本発表は養豚を対象とする)がどのように行われているのかについて,後述する事例の現地調査をもとに検討する。そのうえで,飼料米の利用を通じた耕畜連携が,地域農業や日本の食料供給体制の進化に寄与する可能性について考察する。
    _II_.飼料米の供給
     飼料米として栽培されるのは,通常の食用に適さない多収量品種である。飼料米は一般的な稲作と同様の方法で栽培することができ,農機械などを新たに購入する必要もない。大豆や麦などへの転作に不向きな農地であっても栽培できることも利点である。飼料米の生産によって,2009年度では,水田等有効活用促進交付金による55,000円/10aと,需要即応型水田農業確立推進事業による25,000円/10aで,生産者は計80,000円/10aの補助を受けることができる。飼料米生産による10aあたりの収入は104,500円であり,主食米の同99,000円を上回る。
    _III_.飼料米を利用した耕畜連携 -「日本のこめ豚」の事例-
     飼料米を利用した畜産物供給の事例として,本発表では首都圏を中心に展開するP生協が販売している「日本のこめ豚」を取り上げる。この商品は2008年2月より販売が開始された。日本のこめ豚は,岩手県軽米町や秋田県鹿角市などでつくられた飼料米を秋田県小坂町の養豚グループが利用して生産されている。日本のこめ豚となる肉豚は,出荷の60日前から,飼料米を10%含む飼料を与えられる。2008年には,11haの農地で収穫された60tの飼料米を用いて2,800頭の肉豚が生産された。日本のこめ豚はP生協の扱う国産豚肉よりも100gあたり10円ほど割高であるが,組合員からは高い評価を受けており,2009年には当初の計画を上回る5,000頭の販売が見込まれている。そのためP生協は,2010年には20,000頭の販売を実現するべく,少なくとも55haの農地で生産された飼料米を2009年に確保する予定である。
    _IV_.飼料米利用の課題と展望
     飼料米生産は急速に拡大しつつあるが,同時に多くの課題も抱えている。たとえば,飼料米の販売単価は主食米の価格よりもはるかに低いため,経費や労力を削減しつつ収量増加を実現する必要がある。また飼料米の価格も,安すぎては飼料米生産者の収入が減少し,高すぎては畜産物生産者のコストが増加する。そして,飼料米生産による収入の大部分を補助金が占めるという事実は否めない。
     こうした課題の克服が飼料米生産の定着には急務であるものの,飼料米生産やそれによる耕畜連携には次のような意義を見出すことができる。まず飼料米生産者にとっては,農地の荒廃を防ぐという効果だけでなく,飼料米生産がたとえ大きな収入に結びつかなくとも,営農意欲が高まることがある。また,家畜糞尿を肥料として飼料米の農地に還元することによって,飼料米の収量増加も見込まれる。食料自給率の向上という観点からも,輸入飼料への依存体質を改善しうる試金石となろう。
     これらに加えて強調すべき点として,消費者に対する明快なイメージ提示が可能となることが挙げられる。食肉は,生体時とは全く異なる状態で消費者に供給され,その過程では処理解体など容易に公開できない作業も含まれる。一方,消費者には現在もなお,農村=水田が広がるというイメージが強く根付いている。したがって,飼料米の利用による耕畜連携を通じて,「飼料米を利用してつくった肉は美味しいだけでなく,それを食べることで,耕作放棄地が水田によみがえる」という,わかりやすく明快なメッセージやイメージを消費者に伝えることができる。すなわち,飼料米の利用による耕畜連携は,「見える」農業から「見せる」農業への進化の方法として位置づけられるものと考えられる。
  • 林 上
    セッションID: 205
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     「環境」を武器に「経済」で成功するサクセス・ストーリーは,近年,社会の中でかなり浸透するようになった。Environmental Modernization すなわち環境的現代化とよばれる社会的潮流が,こうした物語を後押ししている。しかし,これまで誰も考えたことがなく,またやったこともない廃棄済み陶磁器を再資源化して,もう一度陶磁器を生産するという試みは,そう簡単に実現できるとは思われない。生産者から消費者への一方通行が常識であったモノの流れを,リサイクルのために逆転させる必要がある。生産から流通を経由して消費に至る既存の資本主義システムに,廃棄物の回収と再生産という経路が加わることにより,人と陶磁器の関係は大きく変わる。陶磁器の色や形を単にデザインするのではなく,人間と陶磁器との関わり方それ自体をデザインし直す,すなわちリデザインへの挑戦開始である。  本研究で対象とするのは,美濃焼産地として知られる岐阜県東濃地方で始まった資源循環型陶磁器生産システムである。1997年に立ち上げられたリサイクル陶磁器の生産プロジェクトが事業化に向けて進んでいくためには,技術開発,廃棄陶磁器の回収,リサイクル食器の生産・販売など,いくつかの課題を解決しなければならなかった。本研究では,これらの課題を克服するために,生産地の製造・流通業者や消費地の消費者・自治体・ボランティアグループなどがどのように行動してきたかを明らかにする。資源循環型陶磁器生産システムの構築は,社会全体をつつむ「環境ブーム」に迎合した一過性の現象に見えるかもしれない。しかしそれは皮相的な見方であり,実際には国際的な価格競争力を弱めた国内産業の再生・強化策,生産者と消費者の相互関係や陶磁器と人間の社会的なかかわり方の見直しにもつながる重要な意義をもっている点に注目する必要がある。
  • 波江 彰彦
    セッションID: 206
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    1. はじめに
     本報告では,近年における資源ごみの集団回収にみられる全国的特徴を提示することを目的とする。
     集団回収とは,町内会や子ども会などの住民団体が中心となって定期的に資源ごみを回収する,コミュニティ単位で行われるリサイクル活動である。回収した資源ごみは資源回収業者などに売却され,それと引き換えに団体の活動資金を得る。かつては住民団体と業者とのあいだで取り交わされる私的な活動であったが,再生資源の価格下落に伴う売却益の減少によって活動の継続が難しくなり,一方では廃棄物問題の深刻化によってリサイクルの重要性が増していく状況を受けて,行政が集団回収活動を支援するようになった。現在では,多くの自治体が集団回収活動団体や資源回収業者に奨励金を支給するなどの支援を行っている。
     後に示すように,近年リサイクルに対する行政の関与が強まっているものの,集団回収も一定の成果を上げ続けている。今後よりいっそう再生資源の回収を推進していく必要がある中で,行政によるリサイクルを補完し,また,これと協働するものとして,集団回収がもつ役割と可能性は小さくないと考える。本報告では,こうした役割や可能性について考察するための基礎的資料を得るべく,近年の集団回収の全国的傾向について整理したい。
    2. 近年のリサイクル
     2001~2006年度における日本のリサイクル関連データの推移をみると、リサイクル率の伸びは自治体資源化率の上昇によるところが大きく,1人当たり集団回収量は微増である。その結果,自治体によって資源化された再生資源の割合は65.6%(2001年度)から70.1%(2006年度)に上昇し,リサイクルに対する行政の関与が強まっていることがわかる。
     自治体による収集の割合を再生資源別にみると,金属類・ガラス・ペットボトル・プラスチック・その他は90%以上の値を示しているのに対し,古紙は40%台で推移している。このことは,古紙の過半数が集団回収によって収集されていることを意味する。
    3. 近年の集団回収
     次に,集団回収に関する分析に移りたい。データは,環境省が毎年調査・公表している「一般廃棄物処理実態調査結果」を利用した。このデータは,毎年自治体が回答するものである。したがって,このデータから得られる集団回収量は,自治体が把握しているもの,すなわち,集団回収活動支援制度を通じて住民団体等から報告を受けたデータであると考えられる。そのため,行政の支援を受けずに行われた集団回収活動によって収集された量は反映していない可能性が高いことに留意する必要がある。
     日本では,6割程度の自治体で集団回収量が記録されており,過半数の自治体で集団回収活動支援制度が行われていることがわかる。集団回収が行われている自治体とそうではない自治体とのあいだで,リサイクル率に大きな差はみられない。
     次に,1人当たり集団回収量の多少によって自治体を区分し,その違いをみてみる。自治体の5割以上は1人当たり集団回収量が45kg/人・年以下であり,リサイクル率は集団回収を実施していない自治体と同程度か,むしろ下回っている。この一因としては,集団回収が行われていない自治体で,多分別収集や資源化施設の稼働など行政によるリサイクルが推進されていることが考えられる。波江(2004)では,行政主導のリサイクルに重きを置く自治体と集団回収に重きを置く自治体を比較すると,前者でリサイクル率がより高い傾向があることを示した。1人当たり集団回収量が45kg/人・年以上の自治体では,高いリサイクル率が示されている。
    4. おわりに
     集団回収の動向をより理解するためには,集団回収活動支援制度,行政の支援外で行われている集団回収などに関する分析・調査が課題である。
    文献
    波江彰彦(2004)「ごみの排出とリサイクルみられる地域間差異―福井県を事例に―」人文地理56(2),170-185頁。
  • 高崎 章裕
    セッションID: 207
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    本報告は、熊本県球磨川流域を事例に、環境運動がどのように展開してきたか、川辺川ダム計画との関係に注目しながら、地域や政策決定に与えた影響について明らかにすることを目的とする。
  • ―子どもとつくるハザードマップの可能性―
    大西 宏治, 寺本 潔
    セッションID: 208
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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     伊勢湾台風が濃尾平野に大きな被害を与えてから2009年で50年になる。災害の記憶は年々風化していくが、災害で得られた教訓を語り継ぐのは重要な社会活動である。その語り継ぎに対して地図作成がどのような効果を持つのか「未来に継ぐ子どもとつくるハザードマップ・コンテスト」を実施し、検証した。
  • ―明治29年琵琶湖大水害を例として―
    赤石 直美
    セッションID: 209
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     本研究は、土地台帳とその付属地図である地籍図を用いて、近代における災害被災地域を復原することである。明治初期作成の土地台帳と地籍図を用いた景観の復原は、歴史地理学において多く用いられてきた手法である。土地台帳には土地一筆毎に地目や地価、所有者などが記されていることから、過去の土地利用に加え、地域の社会構造などを把握できるためである。〈BR〉  さて、自然災害によって土地が何らかの被害を受けた場合、一定の期間に限り、土地に課せられた地租が免除されていた。それは荒地免租と呼ばれ、地租条例や地租法によって定められていた。それらの記録がこの土地台帳に残されている。本研究は土地台帳に記された荒地免租の記録に着目し、土地一筆毎という詳細なレベルで自然災害による被災地域の復原を試みる。〈BR〉    本研究が着目する「荒地免租」とは、有租地が荒地になった場合、一定の期間に限って地租を免除する際に使われた用語とされる。その際の荒地とは、「荒地トハ山崩川欠押堀石砂入川成海成湖成水成等ノ天災ニ罹リタル土地ヲ云フ」と、1884(明治17)年3月15日制定された地租条例第3条で定義されている。すなわち、自然災害の被害で荒地となってしまった土地のことである。有租地が自然災害によって荒地となった場合、土地所有者からの免租年期の願出に基づき実地検査され、損害の程度、復旧の難易度などから、長・中・短の年期が認定され、荒地免租の取り扱いとされた。ただし、自然災害で被害を受ければ、いかなる土地でも免租の対象となったのかというと、そうではなかった。免租の対象となるか否かは、自然災害によって地形が変えられたことが条件となっていたのである。洪水によって家屋が破壊され流された、あるいは浸水のため作物が腐敗してしまっても、土地が原型をとどめていれば、免租の対象とはならなかった。したがって、荒地免租を認められた土地は、自然災害によって何らかの被害を受けた土地であることを意味するといえる。そこで本研究は、土地台帳の荒地免租の記録に着目し、自然災害での被災地域を土地一筆毎に把握し、その復原を試みる。荒地免租地は水害や地震、津波の被災地で散見されるが、本報告では自然災害のなかでも水害に注目し、水害常襲地である琵琶湖における明治29(1896)年の大水害を取り上げた。〈BR〉  その結果、明治29年の大水害により、琵琶湖沿岸地域では荒地免租の対象となった土地がいくつか見られた。例えば湖西の大津市下阪本地域では、荒地免租地が湖岸に点在し、土地台帳の沿革欄に「三十年一月七日許可二十九年ヨリ迄三十一年迄二ヶ年荒地免租年期」と記されていた。すなわち、1897(明治30)年の1月7日に免租が許可されたこと、災害のあった明治29年から免租されたことが読み取れた。免租が許可された日は共通していたが、免租の期間に関しては土地ごとに異なっていた。免租の期間は1年~3年までみられ、被害の程度で免租期間が設定されていたことから、年期の違いは被災程度の違いを示すものと推察される。ただし、大津市史によれば、この洪水で当該地域のほとんどの家屋が浸水したと記録されているにも関らず、荒地免租の対象となったのは一部の土地のみであった。浸水だけでは荒地免租の対象とはならないことから、浸水はしたものの、被災地の多くは地形が変わるほどの被害を受けなかった可能性がある。このように、土地台帳における荒地免租の記録から、水害による浸水被害でも、その程度の違いを一筆毎に検討することができるのである。〈BR〉  土地台帳に記された荒地免租の記録を基に、今後は荒地免租地と地形との関係、免租期間から復旧期間の分析、さらに被災地域の災害後の土地利用変化の有無、所有者の状況などについても検討する必要があろう。また、土地台帳の内容を分析する一方で、可能な限り聞き取り調査を実施し、現在のように人々がどのように災害に対応していたのか、その実態を知らなければならない。文書資料とそれら経験談が統合されてこそ、近代の災害史が明示されてくると考える。
  • 山下 亜紀郎
    セッションID: 210
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     本研究では,長野県の松本盆地を対象に,関連自治体の防災施策について調査するとともに,山麓集落の社会特性をGIS(地理情報システム)を用いたデータ解析により明らかにすることを目的とする。
     松本市の自主防災組織は各町会ごとに存在し,昭和57年設立のものがもっとも古いが,現時点で未結成の町会もある。平成18年に「松本市地域福祉計画」が策定されたが,その中でも自主防災組織の活性化が盛り込まれており,福祉と防災が一体となったまちづくりを推進している。自主防災組織活性化に向けた取り組みとしては,平成16~18年にかけて,城北地区(市街地),本郷地区(浅間方面),里山辺地区(山間地)の3地区において,先進事例創出事業(市民意識調査やリーダー研修会,要援護者に配慮し,福祉と連携した減災活動の推進)を実施してきた。平成18年からはさらに,安原地区(市街地),芳川地区(郊外住宅地),四賀地区(旧四賀村)の3地区で各6回の事例事業(地域防災力の強化を図る事業)を実施した。平成19年からは,事例地区をさらに6つ増やした。各地区には地域支援プロジェクトチームが存在し,総合防災課,福祉課,健康づくり課の本庁職員の各地区担当が横断的に連携し,1地区あたり10人程度で構成されている。
     安曇野市は,平成17年10月に旧豊科町・穂高町・三郷村・堀金村・明科町の5町村が合併して誕生した。安曇野市には,要援護者(独居老人や障害者)支援に関する情報を掲載した災害時住民支え合いマップが,各行政区で作成,保管されている。市内83の行政区のうち30は既に作成済み(市へ提出済み)であり,全体の5~6割くらいが既に作成に着手している。緊急時の連絡手段としての防災無線は,トランシーバー型の双方向通信可能なものが,平成23年までに市役所と市内に180ある避難場所全てに設置予定である。同報型としては,すでに市内の全戸に音声受信機が設置されている。屋外スピーカーも市内70箇所に設置されている。自主防災組織は,83の行政区のうち75行政区で設置されている。毎年1回防災訓練を実施したり,防災資機材の備蓄もしている。自主防災組織がもっとも早く設置されたのは豊科地区で,10年以上前である。一方,いまだ設置が進んでいないのは三郷地区である。安曇野市は過去に大きな災害に見舞われた歴史がなく,地区によって防災意識には温度差がある。住民の中には,災害時には市役所や警察・消防・自衛隊などの公的機関がすぐに救助に来てくれると思っている人もいて,行政に依存している傾向もみられる。
     朝日村は松本盆地の南西部,鎖川上流域の谷あいに位置する人口約5,000の村である。朝日村では,平成17年1月に朝日村自主防災組織村民用防災マニュアルを作成した。それに合わせて村内5つの行政区に自主防災会を組織した。行政区の区長(任期2年)が自主防災会の会長を兼ねている。自主防災会の下に各地区ごとの防災部会が置かれており,防災部会の中に消火班,救護班,連絡班などがある。平成17年からは各自主防災会が主催して避難訓練や要援護者の確認などを実施している。要援護者については,お助けマップとお助け台帳を自主防災会で作成・保管し,把握している。その他,自主防災会では防災資機材の購入も行っている。防災無線については,戸別受信機を平成21年4月から全戸に設置した。これと並行して,屋外スピーカーも村内35箇所に設置した。そのうち13基には,親局への通話機能も付いている。
     社会特性の分析事例として,女鳥羽川上流域の松本市稲倉地区と三才山地区,薄川上流域の松本市里山辺地区と入山辺地区(写真1),鎖川上流域の朝日村古見地区,小野沢地区,西洗馬地区,針尾地区について取り上げる。表1に事例地区の高齢人口と高齢世帯の状況を一覧化した。それによると,市(村)全体の平均と比べて,事例とした山麓集落で相対的に高齢化がより進展している様子がうかがえるが,里山辺地区と古見地区はそれほどでもない。稲倉と三才山,里山辺と入山辺を比較すると,それぞれより上流域に位置する三才山と入山辺の方が,高齢人口率,世帯率ともに高い。朝日村の4地区では,総人口の少ない地区ほど高齢化が進展していることが分かる。
     結論としては,松本盆地の各自治体では,災害時において高齢者や障害者などの要援護者の避難を支援する施策の整備が行われている。しかし,過去に大きな災害に見舞われたことがないこともあって,地区によって防災意識や取り組みには温度差がみられる。特に山麓集落は,地域社会自体が脆弱化しつつある事例もみられ,行政も住民もより重点的,積極的に地域防災力向上に努める必要があろう。
  • 今井 英文
    セッションID: 211
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     まず,フィールドワークに関する用語の定義と種類について検討する。そして,それをふまえたうえで,学習指導要領にみるフィールドワークに関する記述の変化について考察する。
  • ―自地域学「会津学」の活動から―
    久島 桃代
    セッションID: 212
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    自地域学活動における地域住民の地域誌づくりに着目する。文化地理学の視点から、会津の地域住民が描く会津の姿を、彼らの生活と照らし合わせながら考察する。
  • ―PI地名辞典を用いた試み―
    平松 晃一
    セッションID: 213
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    本報告は、空間が変化する中で、「ここに・ここで何があったのか」を記録し、保存、提供するための方法について、再開発地区における資料収集を通じて考察する。空間の過去を残す上での様ざまな課題を踏まえ、現実的制約の中で保存し得ないもの、保存の過程で排除、無視されるものを、少しでも多く、確実に残し伝える一つの方法として、以下にその手順を示す。
    1.対象とする空間で“何が行われたか”“どのような感情を持っているか”など、生活、業務の様相を示す資料を収集する。
    2.対象とする空間の物理的環境を示す資料を収集する。
    3.1・2の資料を一体的に保存し、空間を軸とした検索手段を提供する。まず、アーカイブズの手法に基づいて整理し、EAD形式で目録をとる。つづいて、資料から、PI仕様に準じた地名辞典を作成し、資料目録の地名典拠として機能させることにより、“ここ”に関する情報を、多様・多量の資料から集積することができる。また、一つの資料からでは、“どこ”かわからなかった地名も、地名辞典を介して、他の資料とリンクされることにより、その位置や概要が把握できる、といった“地名そのものを保存する”役割も果たす。
    目録と地名辞典とのいずれも国際的な相互交換が可能なデータ形式をとっており、本事例にとどまらない応用が可能である。
  • ―大阪釜ヶ崎における事例を通じて―
    平川 隆啓, 寺川 政司, 四井 恵介
    セッションID: 214
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    社会的条件不利地域である大阪市南部に位置する釜ヶ崎で取り組まれている、1960年代以降の地域の古写真を活用したプロジェクトに関する研究である。
第3会場
  • 堀内 千加
    セッションID: 302
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    1990年以降の神戸市における人口とマンションの開発動向について発表する。 分野としては都市地理学に該当すると思われる。
  • ―千里ニュータウンの公営住宅と分譲マンションを題材として―
    香川 貴志
    セッションID: 303
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    【分野】都市地理学 【概要】少子高齢化時代にあって、親子の居住地や往来頻度などの居住関係を研究することは、今後の居住政策を練るうえで重要である。本研究では、千里ニュータウンの桃山台住区において、アンケート調査をもとに分析を進めた。対象は、高齢化が著しい公営住宅、そして老夫婦の子ども世帯の居住が予測される分譲マンションである。分析の結果、親子間では親世帯と子世帯の双方で、同居よりも近接別居への志向性が高いことを知りえた。
  • 西山 弘泰, 小泉 諒, 川口 太郎
    セッションID: 304
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では,1970年以降東京都心から25~30km圏に立地するアパートに着目し,その居住者の実態を明らかにすることを目的としている.本研究の対象地域は東京都心から25km,埼玉県南西部に位置する東武東上線鶴瀬駅半径1kmを範囲とした住宅地である(図2).当地域は埼玉県富士見市,三芳町の一部で,小規模な戸建住宅や共同住宅,商店などが混在している.都市計画法による用途地域は,第1種中高層住居専用地域(建蔽率60%,容積率200%)が主ある.東武東上線鶴瀬駅から池袋駅までの所要時間は約30分と比較的都心へのアクセスは良い.鶴瀬駅周辺の住宅地開発は,1957年の公団鶴瀬第一団地,1962年の公団鶴瀬第二団地の開発に端を発し,その後地元や東武東上線沿線の中小ディベロッパーを中心とした小規模な戸建住宅地開発,農家や地主のアパート建設が中心である.アパートの建設は1970年以降増加し,1980年代から1990年代前半にかけて増加が著しい.これは鶴瀬駅の南隣にあるみずほ台駅の土地区画整理事業が完了し,そこに地権者がアパートを建設したことや,農家や地主が地価の上昇によって不動産収入が必要になったこと,共同住宅建設に住宅金融公庫の融資を受けられるようになったことなどが要因と考えられる.2005年の国勢調査によると対象地域においてアパートに居住する世帯は3,266世帯である.本研究では2009年3月,対象地域に立地するアパート3,000戸にポスティングによるアンケート調査を実施し,135票(回収率4.5%)の郵送回答を得た.対象者の世帯の種類は,単身世帯が72世帯,夫婦のみの世帯17世帯,夫婦と子からなる世帯が26世帯,片親と子からなる世帯が13世帯,その他の世帯が7世であった.単身世帯が半数以上を占めているものの,世帯構成以外に,年齢,職業,学歴,出身地などは多様で一括りにすることは困難である.単身者は40歳未満が40世帯,40歳以上が32世帯で平均年齢41.8歳であった.住居の間取りは1Kや1DKで,一戸当たりの平均延べ床面積は27.0_m2_であった.また築年数は10~19年,駅から徒歩10分のアパートを4万円以上6万円未満で居住するというのが平均的である.単身者の仕事は,37人が正規の職に就いており,17人がアルバイト・パート,派遣・嘱託といった非正規労働に従事している.その他,学生が6人,無職・家事が12人であった.40歳未満の若年単身者の居住期間が約3年と短いのに対して,40歳以上の単身者は7年と永い.夫婦のみの世帯は,40歳未満の比較的若い層が17世帯中11世帯と多かった.住居の間取りは,2DKや2LDKで,一戸当たりの平均延べ床面積は46.5_m2_,家賃は6万円以上8万円未満が最も多かった.転居の意向をみてみると,40歳未満の世帯で転居予定の世帯が多かったのに対して,40歳以上の世帯で不明確な回答が多かった.夫婦と子からなる世帯も夫婦のみの世帯同様40歳未満の比較的若い世帯が大半を占めていて,第一子も小学校就学前が多くなっている.間取りや延べ床面積,家賃については,夫婦のみの世帯と類似している.40歳以下の世帯では転居志向が強く,転居先は近隣の戸建住宅を購入することを希望している.一方,夫が40歳以上の世帯では居住年数が平均12年と長くなっていて,転居意思が低いのが特徴である.最後に,片親と子からなる世帯では,1世帯を除いた12世帯が母子世帯であった.家賃は6万円以上8万円未満と6万円未満が同数であった.築年数をみてみると他のグループと比べ築年数が経過しているアパートに居住する世帯が多いのも特徴である.明確な転居意思を持った世帯は皆無であり,滞留傾向が強くなっている.以上のように,若年の単身者やファミリー世帯においては,転居意思や居住年などから従来のようにアパートが仮の住まいとして認識されていることがわかる.一方で,比較的年齢の高い層や片親世帯などはアパートに滞留する傾向がみられることが指摘できる.
  • 久保 倫子
    セッションID: 305
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     本研究は,幕張ベイタウンにおいてマンション居住者の特性を踏まえて,現住地選択に関する意思決定過程を明らかにすることを目的とする.幕張ベイタウンは,幕張新都心として千葉県企業庁によって東京湾の埋立地に開発された.調査方法は,幕張ベイタウンに居住する112世帯への質問票を用いた対面インタビュー(2009年4~7月)による.幕張ベイタウン居住者の多くは,親の代に郊外での住宅購入を経験している郊外第二世代であり,彼らの探索地域は親の居住地と就業先への近接を好む傾向がある.また,幕張ベイタウンの初期の入居者の探索範囲は東京大都市圏内に広範囲に分布しているものの,分譲時期が新しくなるほど千葉市内およびその周辺市町村での探索に限定された.
  • 花岡 和聖
    セッションID: 306
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     これまでに地理学においても,所得の地理的分布パターンが明らかにされてきた。しかし,他分野と比較して,所得を扱った地理学の研究論文数は限定的である。その背景として,住宅・土地統計調査や所得再分配調査,国民生活基礎調査などの公的な統計資料では,全国単位か都道府県単位での集計結果しか公開されていない点が指摘できる。
     そこで本研究では,空間的マイクロシミュレーション(以下,空間的MS)と呼ばれる手法を用いて小地域(町丁・字等)単位での就業者の所得分布の推定方法を提案する。これによって,詳細な地理情報と個人属性の組合せ情報を考慮した精緻な方法で,都市内部における所得の地理的分布を把握できると考える。なお,本研究の対象地域は京都市に設定する。

    データ
     合成ミクロデータの作成には,平成12年度京阪神都市圏パーソントリップ調査(以下,PT調査)の個票データと平成17年国勢調査小地域集計の統計表を使用する。PT調査の調査項目との整合性を考え,国勢調査の小地域集計から5つの統計表を選定する。

    分析・結果
     本研究では,合成ミクロデータの生成に焼きなまし法を用いる。焼きなまし法を用いてPT調査の個票データを繰り返し交換することで,制約条件とする国勢調査の統計表にほぼ整合する新たな個票データの組合せ(=合成ミクロデータ)が得られる。合成ミクロデータと国勢調査の整合性は,国勢調査の統計表と同じ表を合成ミクロデータから作成し,両者のセル度数ごとの絶対差の和(TAE: Total Absolute Error)を求め判断する。
     焼きなまし法の最大反復回数を10万回と設定し,計5回の試行を町丁目毎に実施した。最終的に5回の試行のうちTAEが最も低い試行結果を採用した。その結果, TAEが20未満の町丁目が70%以上を占め,国勢調査と高い精度で整合する合成ミクロデータを得られた。ただし,一定値以上のTAEを示す地区について,最大反復回数を100万回に設定し,計3回の試行をさらに実行した。1回目と同様に,計3回の試行のうちTAEが最も低い試行結果を採用した。
     次に,就業者(農林漁業を除く)の年間所得を推定する。使用するデータは,平成17年度賃金構造基本統計調査である。
     所得推定の手順は,まず賃金構造基本統計調査の性別年齢別職業別の調査結果をPT調査の個人属性に当てはめて所得を推定する。次に,役職や生産労働者による賃金差を考慮するため,性別や年齢を調整した上で,役職と生産労働者の補正係数を求めた。最後に,京都府の性別年齢別賃金に一致するよう推定結果を比率調整した。
     平均所得は,京都市左京区と右京区,西京区の一部で高い平均所得を示す地区が確認できる。また上京区と中京区,下京区では高い平均所得と低い平均所得を示す地区が混在してみられる。直接,比較できる統計資料はないが,概ね現実的に妥当な所得分布が得られた。

    まとめ
     本研究では,空間的MSを用いて,小地域単位での所得分布を推定する手法を提案した。同手法のメリットを提示し,本研究のまとめとする。
     第一に,所得推定において,個人属性の組合せ情報を活用できる点にある。そのため集計データのみを利用した所得推定よりも精緻な推定が可能になる。  第二に,複数の統計資料を組合わせることで,既存のミクロデータの地理情報を細分化でき,単独のデータでは把握困難であった都市内部の所得の地理的分布を推定できる。
     第三に,推定結果は個票データの形式で得られるため,所得と交通手段とのクロス集計を作成するなど,分析目的に応じて新たな集計や地図作成が可能になる。また世帯単位で個票データを集計することで,世帯所得や世帯人員所得を考慮した分析を実施できる。
     今後の課題として,小地域単位での所得推定精度をより高めるためには,職業別や地域別の所得分布を組み込んだ高度な統計モデルの採用が考えられる。さらに,就業者以外の所得を推定することで,交通行動や購買行動,地震防災などの都市空間分析において,所得の地理的差異を踏まえた分析が可能になるであろう。
  • 小泉 諒
    セッションID: 307
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     東京大都市圏の空間構造とその変化については,都市地理学でも福原(1977)や富田・河野(1990)など,1980年代までを対象にした研究が取り組まれてきた.1990年代以降の動向については,むしろ都市社会学で研究が蓄積されており,社会地図や地域区分など地理学的な手法を用いながら,おもに「世界都市論」や「階層分極化」の視点から取り組まれている.たとえば,1975年から1990年までの東京圏を対象に,各種指標を地図化した倉沢・浅川(2004)は,従来はセクター状に分布していた社会階層が,同心円構造を明確化する方向に変容していると指摘した.1990年と2000年の国勢調査結果を分析した浅川(2006)は,外周部でのブルーカラーベルトの形成によってその傾向が強まっていることを確認し,その背景には,都心からの距離による住宅地の序列化と,経済的合理性を徹底した土地利用の追求があるとしている.
     しかしながら,これらの研究のほとんどが市区町村単位のデータを用いており,空間的パターンの把握については厳密さに欠けるところがある.また,1990年以降の東京大都市圏の人口動態については,都市地理学でも研究が進められており,郊外化の終焉や都心回帰の動きが指摘されている(富田2004, 江崎2006, 長沼ほか2006, 川口2007)が,そうした変化との関連性は明らかになっていない.そこで本研究では,1995年と2005年の地域メッシュ統計を用いて,職業階層からみた東京大都市圏の空間的パターンと変化を厳密に捉え直すとともに,人口動態との関連でその背景を探ることを目的とする.
     本研究では,前述の社会学者の主要な論点とされたホワイトカラー率とブルーカラー率を採用する.分析にあたっては,可変単位地区問題を検討するため,先行研究の多くが採用してきた市区町村単位と地域メッシュ単位とで分析結果を比較する.また,空間的なパターンを客観的に把握するために,隣接関係で重み付けした近傍指標による空間的自己相関指標(ローカル・モラン統計量)を用いる.
     1995年と2005年における職業階層変数の空間的分布パターンを分析したところ,両年次で市町村単位では,東京都心から南西方向と北東方向に広がるホワイトカラーベルトと,中川低地沿いと外周部に延びるブルーカラーベルトが見出された.しかしメッシュ単位での結果は,東京23区に相当する15km圏内はセクター状であるが,それ以遠では鉄道沿いのホワイトカラーベルトとその間に延びるブルーカラーベルトが交互に現れる放射状のパターンがみられた.
     全体的な分布傾向を計量的に捉えるために,二時点におけるモランのI統計量を比較すると,市町村単位では,職業階層からみた分布の偏りは拡大したが,これをメッシュ単位でみると,やや平準化したと示された.このように,1995年から2005年にかけての職業階層からみた住み分けの変化は,単位地区の設定によって異なる傾向が現れる.
     二時点での各比率の変化の空間的パターンを分析すると,市町村単位とメッシュ単位で異なる傾向がみられた.ホワイトカラー率の変化は,市町村単位では都心部で上昇し,郊外で変化が小さい同心円パターンとなる.しかしメッシュ単位では,15km圏内では都心部ほど増加が顕著な同心円パターンであるが,15km以遠では鉄道沿いに増加地帯が延びる放射状パターンとなる.こうしたメッシュ単位の変化の背景について,1997年と2006年における国土数値情報の土地利用割合から検討したところ,ホワイトカラー率の上昇が大きいメッシュは,大規模な住宅地開発が行われた地域であることがわかった.
     以上の結果から,市町村単位のデータから得られる空間的パターンは,集計単位を細分化してメッシュ単位で分析し直すと,やや異なる結果が得られることが明らかになった.とりわけ東京大都市圏の場合,東京23区に相当する15km圏とその外側では,異なる空間的パターンが現れる点が特徴的である.これは市街地の形成時期や産業構成の違いによるものと考えられる.
     本研究でとりあげた社会経済的地位を表す職業構成については,市区町村単位のデータについては倉沢・浅川(2004)や浅川(2006)がいうようなセクターパターンから同心円パターンへの変化がある程度認められた.メッシュ単位での分析でも,東京都心から15km圏内と外周部については,これと同様の傾向が確認されたが,これは東京都心部での住宅供給の増加によるホワイトカラー層の人口回帰を反映したものと考えられる.しかし,15~30km圏については,鉄道路線に沿った放射状パターンがみられ,鉄道からの距離による職業階層の違いが強まってきている.これは,市区町村単位での分析では見いだせなかった傾向で,郊外住宅地の多様化と分極化が同時進行していることを示唆している.
  • 日野 正輝, 三宅 孝司, 佐竹 泰和, 佐藤 歩夢, 落合 加奈子, 野口 菜生, 山田 恵, 渡邊 彩
    セッションID: 308
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    都市地理学 1990年代後半以降、地方中枢都市、県庁所在都市における賃貸オフィスビルの空室率が増大し、高止まりの傾向にある。それには、当該都市における支店集積がそれまでの増大傾向から縮小に転じたことが大きく影響していることに起因する。発表では、まずこの点を説明する予定です。次いで、仙台市と郡山市の現在のオフィスビルの入居状況を紹介し、今後地方主要都市においてもオフィスビルの利用転換の必要性があることを提起したい。
  • ―ドイツの事例―
    SCHLUNZE Rolf D.
    セッションID: 309
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     本調査の目的はドイツの仕事環境と日本人マネジャーの異文化能力の関係、経営的成功と異文化能力は立地によって異なるという考えを検証することである。そのため、全く異なるビジネス環境を持つデュッセルドルフ、ウォルフスブルグ、ベルリンの3都市で調査を行った。 インタビュー調査に用いた6つのカテゴリーから主な研究結果について述べたい。 1)国際コミュニケーションをうまくするためには、共通の言語を見つけ、文化的距離の橋渡しをし、現地のシステムに順応することが大変重要である。デュッセルドルフとベルリンでは共通の言語は英語であったのに対し、ウォルフスブルグではドイツ語であった。ウォルフスブルグのマネジャーは現地のネットワークに最も溶け込んでいた。 2)デュッセルドルフのマネジャーはみな、生活は快適であるといっているが、同時に職場以外でドイツ人社会に溶け込んだり、ドイツ人と情報を共有したりするのは難しいと感じている。他の立地のマネジャーは、様々な困難を克服してきているため、ドイツ人に対して深い理解を示していた。 3)日本の企業文化についての知識も異文化能力に影響する。日本人マネジャーは大使としての役割を真剣に考える必要がある。 4)3つの立地のビジネス文化は大きく異なる。  デュッセルドルフは日本人が非常に集中している結果、日本人個人はドイツの環境に適応する努力をあまりしていない。  ウォルフスブルグでビジネスをするということは、日本人はドイツの職場で働かなければならない、という意味である。このためマネジャー個人は現地の経営スタイルに適応することになる。  ベルリンでビジネスをするということは、多文化の職場で働くということであり、それによって異文化経営のスキルが高められている。 5)日本人マネジャーは、英語ができて現地市場をよく理解しているドイツ人スタッフを頼りにしている。よりよい生活のために働く、という共通のコンセプトを持つことで、文化的な距離をつなぐことができる。 6)日本人のためのインフラは海外駐在の日本人マネジャーにとって重要。情報サービス、日本人学校、日本語のできる店員のいるショッピング施設、日本食レストラン、といったインフラはドイツにおいてデュッセルドルフにかなう立地はない。  さらに、立地選好とマネジャーの個人的ネットワークについても調査した。 企業環境 日本人マネジャーは人事管理が最も重要であり、次は職場の雰囲気であると答えているが、ウォルフスブルグのマネジャーだけは、多国籍企業ネットワーク内での協力が最も重要であると答えている。 市場環境 デュッセルドルフとベルリンのマネジャーにとって、市場機会がもっとも重要であるが、ウォルフスブルグのマネジャーはフォルクスワーゲン社との共同開発がもっとも重要であると考えている。デュッセルドルフでは、政府の協力も重要であると考えられている。 住環境 住みやすい環境に加え、ベルリンとウォルフスブルグに住むマネジャーは現地の情報ネットワークを特に重要と考えているのに対し、デュッセルドルフでは多様な都市生活が重視されていた。 仕事と生活のための立地選好 仕事の立地としてはデュッセルドルフが日本人マネジャーから好まれているといえる。ただし、ベルリンのマネジャーの中には、ベルリンがよいという人もいた。 行動志向 デュッセルドルフのマネジャーはリスクをとるタイプが圧倒的に多く、日本の方式を適用することに強い自信を持っているが、ウォルフスブルグのマネジャーは現地のビジネス習慣に適応する努力をしている。 経験と課題 多くのマネジャーは現地子会社の意思決定に積極的にかかわっているが、異文化シナジーの創出に成功していると答える人はほとんどいなかった。 調査結果から、日本人ネットワークがないという不利点は現地の情報ネットワークを広げ、文化的情報提供者として機能する現地人マネジャーとの関係を強めるという利点に変えることができるということがいえる。 デュッセルドルフはドイツでビジネスをする初心者にとっても経験者にとっても便利であるため、短期任務にも長期任務にも適している。ウォルフスブルグはドイツの自動車産業の技術と経営について学ぶためにはよい立地であるといえる。また、ベルリンは異文化マネジメントスキルを鍛えるために適した立地であるといえる。 結論として、日本人に対するサポートが充実しているほど、異文化能力を高めるのは難しいといえる。
  • 水野 勲
    セッションID: 310
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    新古典派経済学と経済地理学が最も接近したP.クルーグマンとA.プレッドの研究を取り上げ、この2人のモデリングの方法の差異を論じることで、経済地理学のモデリングの可能性を考察する。
  • 西原 純
    セッションID: 311
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    行政分野  今次の平成の大合併によって誕生した超広域自治体で、政令指定都市制度を採用した自治体について、浜松市を事例として合併後の行政の実情を明らかにすることを目的とした。  浜松市は、2005年に周辺11市町村を編入合併し、2007年に政令指定都市となったが、合併後の行政の実情・評価を、旧12市町村連合自治会長らへのインタビュー調査、旧浜松市・旧天竜市・旧水窪町の住民へのアンケート調査によって把握した。  自治会長へのインタビュー調査・住民アンケートによって、編入市町村ほど合併に不満が強く、窓口サービスの低下が顕著であった。さらに、新市や区についての帰属意識もまだ醸成されておらず、一つの自治体として機能するためにはかなりの時間が必要である。
  • 高橋 眞一
    セッションID: 312
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    いわゆる少子化は,結婚率と有配偶出生力の低下によって生じる。しかし,それらの要素変動は地域によって随分異なり,地域的な分析を必要とする。そこから少子化の本来の取り組みの一端が明らかになるであろう。
  • ―日本版総合的社会調査(JGSS)データによる分析―
    村中 亮夫, 中谷 友樹, 埴淵 知哉
    セッションID: 313
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
     花粉症はスギやヒノキなどの花粉をアレルゲンとする季節性アレルギー性鼻炎の一種である。この花粉症の症状はアレルゲンへの曝露によって引き起こされるが,その重症度は人体のアレルゲンに対する曝露量とともに個人属性や生活環境によって影響を受けている。
     こうしたアレルギー性鼻炎のリスク要因の分析について,これまで空間分析的な観点からは,(1)居住地や通勤・通学先の周辺環境や,(2)人間の空間的な行動の軌跡に着目し,アレルギー性鼻炎発症のリスク要因を考察する研究が行われてきた。しかし,これらの研究は,特定地域における事例分析がほとんどであった。
     この問題について,(財)日本アレルギー協会と国立公衆衛生院疫学部は3歳~79歳の日本国民10,920人に対し,2001年に質問紙法によるスギ花粉症の全国疫学調査を実施した。この調査によると,日本国民の19.4%程度が有病者であると推定された(奥田2002)。また,全国12地域ブロック別にスギ花粉症の有病率をみると,北海道では4.8%,沖縄では2.7%と,地域的にも有病率の明確な差が存在することが示された。
     これらのような全国規模のデータを用いた花粉症有病率に関する研究では,スギ人工林の面積割合が相対的に低い北海道・沖縄では花粉症の有病率が低いなど,スギ花粉の飛散量に起因する花粉症有病率の各地方間の差異が指摘されてきた。しかし,花粉症に関する全国規模のデータは少なく,全国規模のデータを収集した場合でも市区町村単位より詳細な地理的情報を分析に反映させる調査デザインが採られることはほとんどなかった。 そこで本研究では,花粉症を発症するリスク要因を検討するのに際して町丁目レベルでのジオデモグラフィクスによる社会地区類型に着目した。具体的には,調査年次に満20-89歳となる日本全国の個人を対象に標本調査を実施した日本版総合的社会調査(JGSS: Japanese General Social Surveys)を資料とし,花粉症の自己申告データに基づいた花粉症の有病率を,被験者の居住する社会地区類型と関連付けながら分析する。

    II 分析資料
     本研究では,全国規模で花粉症に関する自己申告データおよび,花粉症と関連する変数が利用可能な,2002年~2006年に実施されたJGSSデータを利用する。JGSSは大阪商業大学JGSS研究センターが実施主体となり,調査年次に満20-89歳となる日本国民に対して実施される,時事問題を含む社会意識・価値観等に関する総合的社会調査である。
     このJGSSデータは,大阪商業大学JGSS研究センターがデータを寄託している東京大学社会科学研究所附属社会調査・データアーカイブ研究センターに利用を申請することで一般に公開データセットが利用できる。しかし,この公開データセットからは,各標本の居住地について,最も詳細な空間単位として都道府県が識別できるにとどまる。そこで,本研究ではJGSSデータの追加データ・情報を利用し,JGSSデータの調査地点情報と,アクトン・ウインズ社が提供しているジオデモグラフィクスであるMosaic Japanとをリンクさせ,町丁目・字レベルでの地区類型情報を付加したJGSSデータを利用した。

    III 結果
     2002-2006年に実施したJGSSデータにける花粉症の自己申告データを見ると,当該設問への有効回答8,989名のうち花粉症の自己申告者が1,726名を占め,約19.2%の被験者が花粉症の症状を持っていると訴えている。
     次に,社会地区類型別(11類型)に花粉症の自己申告者の割合を見てみると,「20 代,30 代を中心とした小さな子供のいる家庭が多い,大都市の郊外や小都市にある現代的なマンション,新興住宅地域」であるとされる「入社数年の若手社員」地区で24.7%,「ある程度の社会的な地位を手にした人たちが住む地域」であるとされる「会社役員・高級住宅地」地区で24.2%と高い割合を示している。
     一方で,「過疎地域」地区で8.8%であり,これに「農業従事者が多く住み,都市の周辺部,あるいは地方都市からそれほど遠くない地域」であるとされる「農村及びその周辺地域」地域を含めると,これら2つの農村的地区で花粉症の自己申告者の割合は13.6%であった。
     さらに,北海道・沖縄県居住者の花粉症の自己申告率の割合を見てみると,北海道居住者では7.2%,沖縄県居住者では1.1%であった。
     以上,地域的な指標にみる花粉症の自己申告率の分析結果からは,(1)社会地区類型からみると花粉症の自己申告率は,主に大都市圏内の郊外でみられる住宅地域類型で高く,農村地域類型において低い傾向が認められる,(2)スギ人工林の面積割合が相対的に低い北海道・沖縄では花粉症の自己申告率が低い傾向が認められた。

    文献
    奥田 稔「スギ花粉症の疫学―全国調査の問題点―」,日本醫事新報4093,2002,17-24頁。
  • ―人口・駅とバス停・交通ダイヤに基づく分析―
    国府田 諭
    セッションID: 314
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、日本の全市区町村を対象に公共交通機関へのアクセシビリティ(近接性・利用可能性)を試算したものである。2005年国勢調査での町丁目別人口に、土地利用メッシュデータ、駅・バス停の位置と運行本数を組み合わせ、5段階の公共交通アクセシビリティランク別に居住人口割合を算出した。その結果、638市区町村においてアクセシビリティが最も低いランク1の地域に居住する人口割合が100%となった一方、最も高いランク5の地域に居住する人口割合が10%以上の市区町村は203都市あった。さらにデータと算出手法を改善することで、コンパクトシティなど公共交通の役割を重視する政策の定量的評価に資すると考える。
第4会場
  • ―東アジアにおけるホームレス問題を考察する―
    コルナトウスキ ヒェラルド
    セッションID: 401
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    東アジアの先進国でのホームレス問題は近年の現象であり、日本の地理学において、欧米の多くの研究成果に学びながら、ホームレス問題の実態をどう把握するべきかを考察する。 都市社会地理学
  • 全 泓奎, 水内 俊雄, 稲田 七海, 全 昌美, 南 垣碩, コルナトウスキ ヒェラルド, 本岡 拓哉
    セッションID: 402
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    住宅困窮層への居住及び生活ニーズに対し、民間の潜在的な資源を活かした居住支援策の有効性を検証する。
  • 齊藤 知範
    セッションID: 403
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    先行研究の問題点
     先行研究によれば、犯罪不安とは、「犯罪や、犯罪に関連するシンボルに対する情緒的反応」、被害リスク知覚は、「犯罪被害に遭う主観的確率」とそれぞれ定義することができ、別々の構成概念として捉えることが可能である。
     阪口(2008)が用いている、2000年のJGSS(日本版総合社会調査)における分析指標は、「あなたの家から1キロ(徒歩15分程度)以内で、夜の1人歩きが危ない場所はありますか(1 ある、0 ない)」である。アメリカのGSSが”afraid”という言葉を用いて「夜の1人歩きが不安な場所があるか」と尋ねており犯罪不安の指標に近いのに対して、JGSSの指標は「夜の1人歩きが危ない場所はあるか」と尋ねているためリスク知覚に近く、犯罪不安の指標としては不適切であると考えられる。先行研究においても、犯罪不安を測るためには、JGSSの指標を今後「夜の1人歩きが不安な場所があるか」という指標に変更することも検討すべきであるといった重要な問題点が指摘されている(阪口 2008:475)。阪口(2008)などの先行研究においては、犯罪不安を測る上ではワーディングをはじめとする調査設計に大きな問題点があり、データの制約上、犯罪不安の要因構造に関して充分な検討をすることが困難である。さらに、犯罪不安に関する調査設計や分析に際して、地理的な観点は、これまでわが国の諸研究においてはほとんど考慮されてこなかった。

    本研究のアプローチ
     これに対して、本研究においては、住民調査を実施し、犯罪不安に関する指標を心理的な側面と行動に関する側面とに切り分けて測定することにより、分析に使用する。行動に関する側面については、具体的にどのエリアに対して犯罪不安に由来する回避行動を取っているかを、白地図を用いて記入してもらう調査を併用している。
     住民調査についての概要を記す。神戸市須磨区のニュータウン地区と既成市街地地区からそれぞれ2小学校区、3小学校区を任意に選定し、これら5校区の20歳から69歳までの成人住民の縮図になるように、住民基本台帳にもとづき、確率比例抽出法によってサンプリングした。1つの調査地点につき50名ずつを抽出し、50の調査地点の合計2500名を対象に、2009年1月から2月にかけて、郵送法により調査を実施した。回収率の向上を目的とする、督促とお礼状を兼ねたリマインダー葉書は、1回送付した。1086票が回収され、回収率は、43.4%であった。回答に不備のあった4票を除外し、1082票を分析対象とした。
     当日は、その分析結果の一部について報告し、社会学的、地理学的視座から、いくつかの考察を加えることとしたい。
  • ―和歌山県紀南地方を事例に―
    本岡 拓哉, 柴田 剛, 藤井 幸之助, 全 ウンフィ
    セッションID: 404
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    和歌山県紀南地方における在日コリアンの生業である養豚業の廃業に関わる土地利用調整のプロセスを通してマージナルな空間の変容過程を探る。
  • ―和歌山県新宮市における横断的生活支援実践から―
    稲田 七海, 島崎 雄貴, 舩槻 信也, 森山 隆行
    セッションID: 405
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    和歌山県新宮市は、2006年の旧熊野川町との合併に伴い、コミュニティ構成が多様化した。4つの小学校区からなる旧市街、それぞれ1つ地域ずつの周辺地域と山間地域の他、旧熊野川地区における山間の32の集落の多くが限界集落であり、地域コミュニティにおける福祉課題も多様化している。本研究では、こうした多様なコミュニティのニーズに対応した地域福祉コーディネートと社会資源の活用の実態を明らかにし、地方都市における地域福祉推進の可能性について検討する。
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