印度學佛教學研究
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54 巻, 3 号
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  • マヤ堂出土の「自然石」に関連して
    塚本 啓祥
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1113-1120
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    1992年ルンビニー開発トラスト (Lumbini Development Trust) の要請によって財団法人・全日本仏教会は, マヤ堂修復計画に着手し, 1993年から10年に亙って調査・発掘を実施した. その間に発掘の結果, 1995年にマヤ堂の中心部の真下から「自然石」が発見された. これはアショーカ王が石柱建立の際に, 釈迦牟尼世尊の生誕地を示す標識として埋置させたものと推定されている.
    発表者は「自然石」の発見に伴い, マヤ堂・石柱等の一連の寺院複合体の建立の背景と経緯を考慮して, 刻文の再考を必要と考えるに至った. よって本論においては, 従来の当該刻文の研究史を検討して, その問題点の推移を明らかにし, 法勅と自然石の関連, 及びその整合性を解明することを目的とする. これにより法勅は,
    天愛喜見王は, 灌頂〔即位〕20年に, 自ら〔ここに〕来て崇敬した.
    「ここで仏陀・釈迦牟尼が生誕された」と〔伝えられる〕自然石を〔保護する〕柵 (または壁) を伴った〔建造物を〕設営せしめ, また石柱を建立せしめた.
    ここで世尊が生誕された故に, ルンビニー村は租税を免ぜられ, また〔生産の〕1/8を支払う (六分税から八分税への減税) ものとせられる.
    と修正される. その論拠として, 法勅中の複合語 silavigadabhica を, sila'vigada-<sila+avigada-<Skt. sali+avikrta-; -bhica=bhicca<*bhi (t) tya=bhittya (ins. sg. f.)<Skt. bhitti-の派生語とみなすことを推定した. これはマヤ堂出土の自然石 (印石) と共に, 歴史的背景を論証する補完的証跡となる.
  • 河崎 豊
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1121-1125
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    白衣派ジャイナ教聖典の難解な詩句を正確に理解しようとする際, 他のインド宗教における平行表現との比較により, それら難解な詩句の意味がある程度明らかになる場合がしばしばある. 本稿は真の婆羅門のあり方について述べる『ウッタラッジャーヤー』25章の第18偈を取上げ, 他文献に見られる平行表現を指摘しつつ, その意味するところについて新たな可能性を提示した, 本偈については, 嘗て Ludwig Alsdorf 氏が注釈家の解釈を排し新たな解釈を提示したが, Alsdolf は解釈の根拠を示さなかった. ゆえに彼の解釈の正当性を検証するための何らかの素材の探求は, 本偈を検討する際の喫緊の課題である. 筆者は『マハーバーラタ』13章の2箇所に本偈c句 gudha sajjhayatavasa「自習と苦行が覆われている」の平行表現がある事を指摘し, Alsdorf の理解が正当である事を証明した. その上で, c句を比喩で表しているd句「灰に覆われた火」の比喩の意味を探った. この比喩については既に原實氏が『マハーバーラタ』の全用例を踏まえその意味するところを明らかにしているが, 筆者はそれを踏まえた上で, ジャイナ教・仏教文献でもこの比喩が『マハーバーラタ』に見られると同様,「威力のあるものが隠されているが, その力が失われたわけではなく内在している」という意味で使用されていることを指摘した. この事を踏まえ, c句の意味が「自習と苦行は隠されているが内在している」というポジティヴな意味で使用されている可能性を指摘し, 自ら積んだ功徳や行力をひけらかすことなく慎ましくしていることが, 真の婆羅門の美徳と考えられていた可能性が高いことを述べた.
  • ハリバドラスーリを中心に
    原田 泰教
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1126-1132
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    ジャイナ教白衣派の学僧ハリバドラスーリ (Haribhadra Suri, 8世紀頃) にとって, 仏教論理学者ダルマキールティ (Dharmakirti, 600-660年頃) を論難し, ジャイナ教教義の正当性を主張することは大きな関心事であった. 仏教とジャイナ教との対論はダルマキールティ以前からあったが, 彼がその著書の中でジャイナ教の多面説を批判したことによって, 議論は再燃する.
    ハリバドラは解脱論に言及する中で, ダルマキールティの刹那滅論に焦点を当て, 刹那滅論の立場では為した業が刹那に消滅してしまうため, 自業自得という最も基本的な因果関係さえ成り立たないことを指摘する. また, 再認識や想起等が不可能となるという認識論上の不都合も生じるとした. その上で, 対象の刹那滅性という一面的, 絶対的な見方ではなく, ジャイナ教徒の拠って立つ「積極的多面説」こそが解脱に至る手段として優れていることを主張する.
    本稿では, ジャイナ教独自の輪廻観, 解脱論を概観しつつ,『多面説の勝利の旗』(Anekantajayapataka) の姉妹書である『積極的多面説入門』(Anekantavadapravesa) 第5章を主たるテキストとして, ジャイナ教の多面説からの刹那滅論批判が如何にして行われたのか, その一側面を提示した. 同時に, ハリバドラと同じく多面説の立場を主張しながら, 彼に先行するサマンタバドラ (Samantabhadra, 600年頃) の著作を比較の対象とし, 刹那滅論の論拠の違いから, 想定する論敵に変化が見られることを明らかにした.
  • 因の三相の観点から
    岡崎 康浩
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1133-1138
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    本論は, アヴィータ論のシャスティタントラからウッドヨータカラにいたる展開を因の三相の観点から論じ, ウッドヨータカラのこの論に対する貢献を明らかにしようとしたものである. シャスティタントラのアヴィータ論は, 夙にフラウワルナーによって再構成されたが, 彼の再構成は, その論証式, 論証形式という点でいくつか不足している点がある. その不足部分を補って再考した場合, アヴィータの論証は五肢作法の理由・例示・適用・結論に残余法を加えたような論証形態になっており, これを後の三相説から見ると残余法の部分が余計であるように思われる. ディグナーガは残余法を除き三肢作法の理由が帰謬形式になっているものをアヴィータとして提示したが, 因の第1相と抵触するとした. これに対し, ウッドヨータカラは否定的属性も主題の属性になりうることを主張し帰謬的性格を保持したまま因の三相説の枠組みに組み入れたのである.
  • 細野 邦子
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1139-1144
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    ヴァイシェーシカ学派のプラシャスタパーダが, Padarthadharmasamgraha において, 存在性 (astitva)・表示対象性 (abhidheyatva)・認識対象性 (jñeyatva) を6つの padartha に共通する性質としてあげることは, よく知られている. しかし, プラシャスタパーダと同時代であると考えられるニヤーヤ学派のウッディヨータカラも, Nyayavarttika において, 存在者性 (sattva)・知識対象性 (meyatva or prameyatva)・表示対象性 (abhidheyatva) を無常なものおよび常住なものに共通する性質としてあげることは, あまり知られていない. 本稿は, Nyayavarttika におけるこれら3つの性質をとり上げ, 〈存在者性〉の意味, 〈存在者性〉と〈知識対象性〉の関係および〈存在者性〉と〈表示対象性〉の関係を分析することにより, 次の2点を明らかにする. Nyayavarttika において, (1)〈存在者性〉〈肯定的知識対象性〉〈肯定的表示対象性〉は基体を同一にする, あるいは外延を等しくする. (2) 存在論・認識論・意味論が直接に結びついている.
  • 丸井 浩
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1145-1153
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    Nyayaamañjari (NM) に言及され「acarya (たち) 」と 「vyakhyatr (たち)」の論争は, 文献がほとんど現存しない初期ニヤーヤの思想史解明にとって貴重な情報源であることは, Frauwallner [1936] 以来よく認識されてきた. また両者の論争はVyomavatiNyayabhusana などにも類似の議論が断片的に見出され, それらとNMとの共通の資料源の可能性や, 該当資料相互の思想史的な先後関係などが論じられてきた (Gupta [1963], Schmithausen [1965], Wezler [1975], Slaje [1983], 山上 [1999] など) . さらに両者の議論は, 素朴実在論的な特質をもつニヤーヤ, ヴァイシェーシカの認識論が, とりわけ表象主義ないし「観念論的」な仏教認識論との論争を通じて, 独自の理論の展開, 変容を遂げてゆくプーセスと深い関わりがありうることも, Schmithausen [1965] が指摘している. しかしドイツ語論文が大半であったことも関係してか, それらの質的に高い研究成果や重要な問題点の指摘が, 十分に研究者間に共有されているとは言い難い現状を踏まえ, 本論文では先行研究の再検討と問題点の再整理を行い, 中間発表として以下の点を明らかにした.
    (1) Wezler [1975] は注釈書 Nyayamanjarigranthibhanga に依拠しつつ,“acaryah”と“vyakhyatarah”は敬意を表しての複数形で, 共に個人の思想家 Acarya と Vyakhyatr を指すという従来の解釈を疑問視し, 文字通り複数の思想家群「acarya たち」と「vyakhyatr たち」を指すはずだ, ―と主張したが, Jayanta にとって最も敬意を表するべき Aksapada 仙が, いずれも単数形で呼ばれていることは, この主張を指示する有力な根拠となるだろう. (2) ただし敬意を表す複数形という解釈のもとでは,“vyakhyatarab”と主張が重なる“pravarah”は, Pravara という一人の思想家を指し, Vakhyatr と同一の人物が敬意の複数形になっていると判断できるが, 文字通り複数の「vyakhyatr たち」を指すと考えた場合, NM中に一回だけ登場する“pravara (h) ahuh”は,“pravara (h) ahuh”に訂正しなければならない. (pravara を普通名詞に解釈することは, pravaramata の用例から考えて困難.) (3) しかしそもそもNMというテキストを, 埋もれた思想史再構築のための「情報源」として, 新旧の資料断片に分解してゆく近代の研究方法自体も問題なしとはしない. いろいろな「過去の」学者たちの議論を, 巧みに配置し, まるで戯曲家が論争劇のように仕立ててゆく Jayanta の意図を, テキストに忠実に追跡する意味も忘れてはならないだろう.
  • 鈴木 隆泰
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1154-1162
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    「吉祥天女品」は『金光明経』の中で, 呪句の使用や世間的利益を求める儀礼の執行が最初に表明された章である. そこに見られる儀礼は,「仏教儀礼を応用したもの」と「ヒンドゥー儀礼を導入・受容したもの」の二種に大別され, どちらの場合も,『金光明経』の編纂者や護持者たちが従来実践していた諸儀礼を, 攘災招福を目的として応用, あるいは導入・受容したものとなっている. 防護呪パリッタを発達させた南伝仏教との比較や「吉祥天女品」に見られる在家者への意識, そして「この『金光明経』には世・出世間, 仏教・非仏教を問わず, 様々な教義や儀礼があり, しかもこの『金光明経』が一番勝れている」という『金光明経』「四天王品」の記述等も考慮に入れた結果, これまで便宜的に「〔大乗〕仏教の自立の模索の表れ」と仮定しておいた『金光明経』の持つ諸特徴を,「〔大乗〕仏教の生き残り策」と想定することが本研究を通して可能となった.
    『金光明経』の編纂者たちは, 仏教に比べてヒンドゥーの勢力がますます強くなるグプタ期以降のインドの社会状況の中で, インド宗教界に生き残ってブッダに由来する法を伝えながら自らの修行を続けていくために, 仏教, 特に大乗仏教の価値や有用性や完備性を, 在家者を含む支持者たちに強調しようとしたのである. 覚りの伝承を旨とする出家者であっても, 支持者たちの支援, 特に在家者の経済的支援がなければ, 修行を継続したり, 伝法の使命を果たすことはできない. このように,『金光明経』をはじめとする種々の儀礼を説く経典は, 律文献と同様, インド仏教の実像に迫るための有用な資料ともなりうるのである.
  • 畑 昌利
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1163-1166
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    初期仏典に伝えられる外道思想は, 六十二見と六師外道の教説とに大別できる. そして前者の六十二見関連の経典の一つとして, MN第102経の「五三経」が挙げられる. この経に伝えられる未来に関する見解を検討することで, 六十二見に関して新たな情報を指摘することが, 本稿の目的である. まず, 経の特色を一点述べておく. それは経の冒頭部に見られる, 未来の見解五種を三種に分ける分類法である. この分類に従えば, 死後有想論・無想論・非有想非無想論の三種が, 死後存在を説く論 (注釈によれば永続論) として一纏めになるので, 未来に関する見解は永続・断滅・現世涅槃に分けられることになる. 次に, 如来による各論論難の箇所からは次の様な点が判明する. まず, 本経では, 各論の内容の矛盾を, 他経の記述を引用したり前提とすることで指摘する. この手法には, 如来の超越性を他経の記述によってより確固たるものにするという意図が窺える. ただしその様な所謂「経典武装」は, あくまで矛盾の指摘に留まるものであり, 相手の主張の本質であるアートマン云々には言及しないものである. また, 相手の矛盾の指摘に自前の経典を用いるという手段は, ある意味肩透かしを受けた様な観がある. 以上の点から, 如来は相手と対等の立場で論じておらず, あくまで自らの土俵で自己の超越性を示していることが分かる. さらに説示の過程からは,仏教の所謂「常断中道」の立場を確認することができる. ただし本経の伝える内容は単なる常断中道に留まらない. というのも, 常断に属さない現世涅槃の主張もが俎上に上げられるからである. 経が一貫して超越を説くことを考慮に入れれば, 外道説に対する仏教の立場とは, 単に永続や断滅といった両極端に属さないのみならず, 両端以外のものにも属さない, 別次元のものであったと考える.
  • 生野 昌範
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1167-1170
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    ヴィナヤにはアディカラナと言われるものが規定されていて, しばしば「諍い」を意味すると理解されている. 本論文ではパーリ文献に資料を限定し, アディカラナが「諍い」であるのかどうかを検討した. アディカラナには, vivadadhikarana-, anuvadadhikarana-, apattadhikarana-, kiccadhikaranarana- という4種類のものがあるが, その内の apattadhikarana- に焦点を絞って考察した. 先ず, apattadhikarana- の定義では, 5つや7つの罪のグループそのものが apattadhikarana- なのであって, 罪のグループに関する「諍い」が apattadhikarana- なのではない. 次に, apattadhikarana- に対する一つの鎮静方法では, 犯した罪に関して「諍い」が起きていることを必須条件とするという記述は全く述べられていない. さらに, 註釈はニッサギヤ・パーチッティヤ第一条に違反した場合に apattadhikarana- に対するその鎮静方法を行うように説明しているので, アディカラナがもし「諍い」でず諍いを起こしていることになってしまう. しかし, そのような記述は全く述べられていない. 以上のように, apattadhikarana- の定義と鎮静方法を考察する限り, アディカラナが「諍い」を意味しているとは考えられない. 次いで, アディカラナの語義を検討した. 先ず, アディカラナは vatthu- で説明されているので,「論点・問題」の意であると考えられる. 次に, 註釈では「諸々の鎮静によって目掛けられる (管理される) べきことである」と述べられているので,「目掛けられること, 管理されること」の意であると考えられる. さらに, 文脈上アディカラナは, 明らかに僧団組織全体に関わることである. 従って, アディカラナはパーリにおいて「(僧団組織全体に関わる) 論点・問題, 目掛けられること・管理されること」の意である.
  • 藤本 晃
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1171-1175
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    釈尊自身が色界四禅定 (jhana) に順次入定してから解脱した例に見られるように, 禅定は, 仏教では悟りへの道において重要な役割を果たしている. 第一禅定への入定の仕方がパーリ経典に明示されるが, それは悟りに必要な信・精進・念・定 (samadhi)・慧の五力の順に沿って説かれている. 修行者は, まず如来の教法を聞き, 如来に対する信を得る. 法を聞き法に随い (随法), 如来に対する信 (saddha) を持つ (随信) ことは, 悟りに向かう者が正しく踏み出す第一歩である. 仏教において入定次第は, その始めから, 禅定体験自体を目的とするものではなく, 悟りに導くプログラムに組み込まれている. 修行者は次に戒律によって身業と語業を守り (精進), 仏教独自の観 (vipassana) 瞑想に基づく念 (sati) という修行法によって意業を守る. 念とは, 眼耳鼻舌身意の六根から入る刹那毎の現象を次々にただ感受したままに確認し, 思考や, それから生じるあらゆる感情・煩悩をはたらかせない行法である. 念が身に付くと, 修行者は禅定に入るために結跏趺坐し上半身を垂直に保ち, 念を正面に据える. 五力の中の定 (samadhi) である. 定 (samadhi) は未だ禅定 (jhana) に入ってはいないが, 念を一点に集中する止 (samatha) 瞑想という行法である. 念を一点に定めていると, 智慧 (pañna) が現れるのを妨げている五蓋と呼ばれる煩悩が次々に取り除かれる. この智慧の現れが悟りの第一歩である. 智慧が現れると, 必然的に第一禅定 (jhana) に入定する. パーリ経典では, 止瞑想を仏道修行に取り入れることで, 集中力や禅定との相乗効果によって悟りがより確実にスムーズに得られるようにプログラムされていた.
  • Sudan Shakya
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1176-1180
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    Mañjusrikirti 著 Aryamañjusrinamasamgititika (Tohoku 2534=Tika) はNamasamgiti (NS) を瑜伽タントラの立場から解説した最大の註釈書である. NSの第78偈に「法螺貝(dharmasankha)」という語がある. Mañjusrikirti はその語を説明するために,「法螺貝の三摩地 (Tika, 213a4-214a1=Dh-samadhi)」という「観法」を紹介している. それは以下の八項目に分けられる.
    [1] 水輪の観想; Mam字所変の文殊を観想及び我慢 [2] Kham字所変の螺貝の観想 [3] マンダラを描く方法 [4] 供養 [5] 無量光仏としての我慢 [6] 収斂 [7] 拡散 [8] 観法の功徳
    以上を検討した結果, 以下の二点に纏められる.
    (1) 螺貝と音声を発生する器官である喉との類似性から, Mañjusrikirti が音声の発生の構造を Dh-samadhi の中で解釈していると推定される.
    (2) Tika で「観法」として説かれている Dh-samadhi と殆ど同内容が, Sadhanamala (SM) に Dh-sadhana(SM No. 81) として収録されていることが判明した. この Dh-sadhana のチベット語訳 (Tohoku 3474) は, Grags pa rgyal mtshan 訳 * sadhanasagara のみに収録されており, 梵本・チベット語訳ともに著者名が伝えられていない. しかし, 内容上の類似及び * Sadhanasagara の翻訳年代から見て, * Sadhanasagara 編纂の時点で, Tika から Dh-samadhi の部分だけを抜き出し独立した儀軌として扱おうとする仕方があった可能性が強い.
  • 井上 博文
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1181-1186
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    諸律に記される第一結集記事において, アーナンダは重要な役割を果たす. しかしそれぞれの第一結集記事を見比べてみるとアーナンダの役割に関して, 少しずつ相違点が見られる. 第一結集記事において共通して記されるアーナンダに関する話題は,「アーナンダの罪」という項目がある. しかし, それぞれの記事においてアーナンダの罪状及び数が異なっている. また罪状は一致していても, 彼の「言い訳」の部分が異なったり, あるいは大迦葉によって再度反論を受けたり, あるいは『摩訶僧祇律』のように部分的に罪を認めたりと, 極めて多様な様相を呈する. このことは「アーナンダの罪」という第一結集記事共通の構成要素が, それぞれの部派の裁量で『涅槃経』を中心とする自らの聖典を参照しつつ, 独自の解釈が加味されていった結果と考えられる. この理由として, 次のものが指摘できる.
    (1) 小々戒廃棄問題の場合,『涅槃経』のブッダの文言に対するアーナンダの無反応に対して, 各部派ごとにその無反応に対する解釈に相違点があった.
    (2) アーナンダがブッダに水を与えなかったという罪に対する言い訳の相違に関して, これは元になった『涅槃経』の記述自体に相違があり, 第一結集記事がそのまま引用し, アーナンダの言い訳を形成した結果となる.
    つまり自部派内の『涅槃経』に記述があればそのまま採用し, なければ自ら解釈するという構造が見える. よって, 元の『涅槃経』の記述に部派ごとに相違があるならばそのまま反映される. これは律における第一結集記事が『涅槃経』を下地に構築されたことを意味すると考えられる. ただし,『雑事』は『涅槃経』を参照していないと見られる箇所 (小々戒廃棄問題) と参照したと見られる箇所 (濁った水を与えた) があり, 必ずしも一様でない.
  • 岡本 健資
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1187-1191
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    アシュヴァゴーシャ (馬鳴) 作である釈尊の伝記 Buddhacarita (紀元後1~2世紀頃; 以下, BCと略) と, 仏教説話集 Divyavadana の第26~第29章を形成する一連のアショーカ王の伝記 (=Asokavadana, 紀元後2~3世紀頃; 以下, AAと略) は編纂時期が接近し, 更に, 釈尊の今生の全生涯を覆う仏伝をまとまった形で内包するという共通点を有している. ここから, 相互の密接な関係を予測し得る. 実際, 一つの平行偈と幾つかの平行表現が存在することを, A. Gawronski 氏が指摘している. しかしその後, 両作品の比較は十分になされず, 相互の関係についての問題は放置されたままになっている.
    そこで本稿では, 両作品の内に更なる三つの平行偈 (BC: 第28章第64~66偈, Johnston ed., Buddhacarita, 1936, Lahore [New Enlarged edition, Delhi, 1984]=AA: p. 380, 11. 26-29; p. 381, 11. 19-22; p. 381, 1.26-p. 382, 1.2, Cowell and Neil ed., Divyavadana, 1886, Cambridge [Reprinted 1987, Delhi]) が存在することを指摘し, これら両作品の関係が更に密接であることを示す. これらの平行偈は殆ど逐語的に一致するため, テキストの対照によって, これまで難解とされてきた語句の幾つかを理解可能な形に訂正し得る. 更に, BC当該箇所の梵文は失われているが, AAの梵文から, その殆どを復元することが可能となる.
  • 松田 訓典
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1192-1196
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    Mahayanasutralamkara (MSA,『大乗荘厳経論』) 第XI章に説かれる幻 (maya) の喩えは, 同論書の三性説の論述に関して主要な役割を担うものであるが, 本論文ではそれに対する諸註釈, さらに当該論書と同じく初期瑜伽行派に属する諸文献, 特にMSAと思想的関連の深い Madhyantavibbaga における幻喩の用例を含めて詳細に再検討する. その結果として以下のことが指摘できる.
    MSA においては, maya に (a)「迷乱の根拠」という側面と, (b) 顕現はしているがその通りには存在しないものという側面が見られる.
    その中でも (a) の観点を取り入れる解釈はMSAに特徴的であると言える.
    同時にMSAは (b) の観点からも abhutaparikalpa を位置づけているが, この解釈の方が初期瑜伽行派におけるより一般的な理解であって, 註釈家たちもMSAの表現を尊重しながらこちらに沿った形で, 統一的に解釈しようとしたと考えられる.
  • 高橋 晃一
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1197-1204
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    三相説 (三性説) に言及する最古の文献とされる『解深密経』では, 依他起相は縁起として説明されている. 従来より『解深密経』の三相説は唯識思想を必ずしも前提としていないとの指摘がなされており, より詳細な研究によれば,『解深密経』の依他起相は samskaranimitta という概念に置き換えることができるとされている. 本論文ではこの samskaranimitta という概念に着目し,『解深密経』の三相説の思想背景を考察している.
    『解深密経』は「第七章」で依他起性を samskaranimitta と言い換える. そこではこの概念についての詳細な説明はないが,『解深密経』「第一章」によれば, samskaranimitta は言語表現の基体としての vastu を表していると考えられる. また, samskaranimitta という術語は『般若経』「弥勒請問章」でも用いられており, 所遍計, 所分別, 法性の三様相を説明する際に重要な役割を果たしている. 「弥勒請問章」では, この術語は諸法の三様相を説く直前で詳細に説明されており, その内容は『瑜伽師地論』「摂決択分」で説かれる五事説と類似している. 一方,『解深密経』の samskara-nimitta についても五事説との関係が指摘できる上に, 敦煌出土の『解深密経』のチベット語異訳では, 西蔵大蔵経所収のものとは異なり, 三相説の定義の中で nimitta という語が用いられている.
    以上のことから,『解深密経』の三相説は五事説を前提としているとしても, 五事説のように vastu の分析を目的とするのではなく, vastu の上に展開している現象的世界を説明することが主眼となっており, それは三相説が唯識思想と関連する可能性を示唆していると考えられる.
  • 東西二系統の写本・版本の比較検討を通じて
    加藤 弘二郎
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1205-1211
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    『解深密経』の10を超える写本・版本の比較検討を行い, さらに漢訳あるいは一部回収可能なサンスクリット語原文を参照しつっ, 現段階で考えうる最良の『解深密経』テキスト作成の指針を示すことが, 本論文の目的である. 今回は, 同経第5章に見られる“paryupayoga”という語に焦点を当てる. この語に関しては, チベット語の写本・版本の東系統と西系統で, 与えられる訳語がまったく異なる. 直訳すれば東系統は「結びつきが見られない」, 西系統は「完全に尽きるとは見られない」とある. 文脈から考えて, 西系統の訳語が適当であるが, 現在まで我々の目に触れる機会の多かった北京版・デルゲ版等を擁する東系統の訳語についてもそれなりの根拠がうかがわれる. これら両系統において, なぜ上記のような訳語の不統一が起こるのか. これは, サンスクリット語の辞書に未登録の“paryu-payoga”という語の意味が元々明白でないことに起因する. 玄奘訳では ,同語に「受用滅尽」という両者の意味を持たせて訳す. このことから, ひょっとすると“paryupabhoga”からの転訛であるとも考えられる. 以上のサンプルの解読を通して,『解深密経』の校訂テキストを作成するには, 最低でも 1) 東系統の諸写版本 2) 西系統の諸写版本 3) 敦煌写本 4) 玄奘訳を初めとする諸漢訳 を見開き1ページに配置し, なおかつ異読を分かりやすい形で載せる必要があることが分かる. この基礎作業を経れば, よりサンスクリット原文の文意に忠実な解釈を探し当てることが可能となり, 現時点でもっとも有益な『解深密経』テキストの作成が可能となる.
  • 斎藤 明
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1212-1220
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    バーヴィヴェーカ (Bhaviveka, 490-570頃) は,『中観心論』第5章において, 唯識無境説および遍計所執性 (構想分別された性質) 批判に関連して, 世俗の立場からという限定つきながら, 自らの知覚論と意味論を展開する. その知覚論によれば, 元素の集積したものが認識対象 (alambana 所縁) となり, それはまた, それに似た顕現をもつ知の原因 (tadabhamatihetu) でいうかたちあるという (kk. 35-36). 視覚の対象は色形 (rupa) であり, それはまた, 音声や香り等の色形でないものから区別された, 基体 (vastu) として顕現する知の活動対象 (gocara) であるともいわれる. そのような色形はまた, ―縄を縄として認識するような―分別知の対象として存在する.
    本論文は, このようなバーヴィヴェーカの知覚論の特色に焦点をあて, かれが後代に得た「経 [量部] 中観派」という呼称との関連を考察する. その上でまた, 知覚論の視点からみた説一切有部, ディグナーガ, およびダルマキールティ説との連続性と異質性の一端を跡づける.
  • 赤羽 律
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1221-1225
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    8世紀初頭 Jñanagarbha によって著作された『二諦分別論』(Satyadvayavibhanga) は,チベット語訳でしか現存していないため, 不明な点が数多く残されている. それら不明な点を解決する手段の一つとしてチベット人による注釈書の活用が考えられる. 今回, 19世紀に活躍したチベット僧 Ngag dbang dpal ldan によって著作された仏教四大学派の二諦説に関する論書 Grub mtha' bzhi'i lugs kyi kun rdzob dang don dan pa'i don rnam par bshad pa を活用することで,『二諦分別論』に関する以下の三点を明らかにした. 1.『二諦分別論』第9偈bcはチベットにおいて異本がよく知られているが, 正しいのは本来の『二諦分別論』に見られる偈であること. 2.『二諦分別論』の Eckel 氏のテキストにおいて, bsnan という語が二箇所見出されるが, これは brnan と修正されるべきであること. 3. Ngag dbang dpal ldan は同論書の中で, bDen gnyis kyi day tika という名前のみとしてしか知られていない Dar ma rin chen の『二諦分別論』に対する注釈書を6回引用するが, その中の一箇所が, 別に引用されている bDen gnyis kyi rnam bshad snying po gsal byed と呼ばれる『二諦分別論』の注釈書の内容の一部と一字一句違わず一致する. このことから, bDen gnyis kyi dar tikaとしてこれまで知られてきた Dar ma rin chen の『二諦分別論』の注釈書の正式書名は bDen gnyis kyi rnam bshad snying po gsal byed であると想定されること.
  • 大正蔵T602における「経」と「注」との区別の試みとして
    釋果暉(洪鴻榮)
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1226-1231
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    『仏説大安般守意経』の研究は, 最初期の中国仏教あるいは格義仏教を解明する最も重要な手がかりになる.『仏大安般守意経』の研究の画期的な展開をもたらしたのは, 大阪河内長野市にある金剛寺所蔵本『安般守意経』の発見である. しかも, 同寺に発見された安世高訳の『仏説十二門経』『仏説解十二門経』が同時に『仏説大安般守意経』の解明にも大変役に立つ.
    高麗蔵の奥書に示されているように,『仏説大安般守意経』の全文には経文と註が大変混沌たる構文で溢れており, 如何に「本文」と「註」を見分けるかは, 大変困難な課題である. 両経の関係を明らかにするには, 一文字一文字の対応する関係のみを見るのではなく両経の内容から精査されなければならない. また, 謝敷の『安般序』と道安の『安般注序』には『仏説大安般守意経』(あるいは『小安般経』) と深い関係のある『修行道地経』が言及されている. さらに, 荒牧典俊 (1993) の『出三蔵記集訳注』からも「大小安般経」は竺法護訳『修行道地経』の「数息品」に相当する禅観を説いたもの, という重要な示唆があった. したがって,『仏説大安般守意経』を研究するためには,『修行道地経』を重視しなければならない.
    そこで本発表では新発見『安般守意経』に類似する『仏説大安般守意経』の箇所を「本文」とし,「本文」に対する解釈を「註」と仮説設定し,『安般守意経』,『仏説大安般守意経』『修行道地経』という三つの経の内容を論究することによってこの仮説を検証する.
    『修行道地經』《數息品》(T. 606, p. 215c21-216a1)
    「(1) 何謂修行敷息守意求於寂然. (2) 今當解説數息之法謂數息. (3) 何謂為安. 何謂為般. 出息為安. 入息為般.」
    『佛説大安般守意經』(T. 602, p. 165a3-6)
    「(1) 道人行安般守意欲止意. 當何因縁得止意. (2) 聽説安般守意. (3) 何等為安. 何等為般. 安名為入息. 般名為出息.」
    『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』(p. 188, line 61-62)
    「何等為安. 何等為般. 何等為安般守意. 入息為安. 出息為般」
  • Sanja JURKOVIC
    2006 年 54 巻 3 号 p. 1232-1236
    発行日: 2006/03/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
    弘法大師空海の主著である『秘密曼荼羅十住心論』及び『秘蔵宝鑰』は, 真言密教の立場から菩提心の諸相を扱う著作であると解釈しえる. そのような観点から, 空海が構想した心の十種の様相の中で,「他縁大乗住心」という法相の教えにあたる第六住心の意味や功用を考察して行きたい.
    1.「他縁大乗住心」は,『秘密曼荼羅十住心論』の主な典拠である『大日経』の「住心品」における「無縁乗心」という概念にもとづくのではなく,『大日経疏』に説かれている梵語の“apara”の「無縁」と「他縁」の二つの意味の中の「他縁」の義にもとづいて名づけられている. 第六住心を大乗の定型的な「世俗菩提心」の意義を持つ「他縁乗心」の概念で強調する理由は, 小乗に対して「他」に対する慈悲や菩薩の行願を非常に重要な精神的な展開を表すためと思われる. 十住心の中に第六住心の功用は, 次の段階において, 深甚に空性を悟り, さまざまな方便にもとづく行動ができるように, 堅固な菩薩の基本的な心の功徳を形成することである.
    2. このような構成において, 空海は, 法相の教えを伝統的な菩薩行の代表者として取り扱い,『成唯識論』や『十地経』等を以て, 三無数劫を経る菩薩行の典型としている. 法相宗の阿頼耶識や三性等という認識論的・存在論的な概念は言及しない. 空海は, 法蔵や澄觀等の中国華厳の諸法師と同じように, 法相の教理は主に現象世界を分類し, 三論等の教理は主に実相として空という第一義諦を説くと理解しているといえよう. そこで, 法相を実践的な側面から解釈し, 最初の大乗法門として第六住心に相当することにしたと思われる.
    3. 第六住心の箇所において,『菩提心論』にもとづいて三無数劫を経る菩薩の波羅蜜等の修行を批判し,「即身成仏」を標榜する真言理趣の優位性が示される. 具体的に第六住心の「普遍大慈発生三昧」の密意を挙げ, 大乗住心等において初めて, 修行者自身が菩提心の多様な顕現であるという『秘密曼荼羅十住心論』の深意が示されると言える.
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