インド哲学において, 認識が持つ〈真〉や〈偽〉という性質が自律的 (
svatah) か他律的 (
paratah) かという問題は, 真知論 (
pramanyavada, 真理論) という論題下で議論され, 各学派がそれぞれの定説を形成している. 本論文は, ウダヤナの著作
Nyayakusumañjali (NKus) 第2篇冒頭の真知論, 特に〈真〉や〈偽〉の発生 (
utpatti) に関する議論を対象とする.
〈真〉の発生に関する自律他律問題は,「認識の発生原因に〈瑕疵〉(
dosa) がない限り, 生じる認識は本来的に〈真〉を備えている」と見なす自律説派と,「〈真〉の発生には, 認識の原因中に〈グナ〉(guna) と呼ばれる要因が必要である」と見なす他律説派の問で,〈真〉がそれ自身の発生要因を必要とするか否かが争点となって議論される. ただし,「自律」「他律」という言葉自体が先行したため, この議論は抽象的になりがちであり, 議論の前提となるべき〈認識の原因〉・〈グナ〉・〈瑕疵〉という概念が具体的に何を指すのかについてすら, 学派・論師の間で解釈の違いが見られる. その点については, 拙稿SHIDA [2006] において, ニヤーヤ学派内の〈グナ〉の解釈の変遷を検討し, NKusがその解釈の変遷期に位置していることを跡づけた.
そこで本論文では, ウダヤナによる対論説の批判方法に焦点をあてる. ウダヤナは対論説 (〈真〉が自律で〈偽〉が他律) に対抗して, 自説 (〈真〉・〈偽〉ともに他律) ではなく, 対論説の〈真〉と〈偽〉を逆にした第3の説 (〈真〉が他律で〈偽〉が自律) を提示する. それにより, 対論説が「それと等価な異論の存在を許すこと」を意味するであろう「対抗主張の存在(*
satpratisadhanna)」という過失に陥るとして,批判している点を明らかにする.
「〈偽〉の自律説」とも呼びうる第3の説を用いた〈真〉の自律説批判は, Santaraksita の
Tattvasamgraha (TS) においても確認されるが, TSにおける第3の説は, 認識論のレベルで論じられているため, 懐疑主義的な主張になってしまっている. それに対して, ウダヤナが提示する第3の説は, 専ら存在論のレベルで語られている点に特徴がある.
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