浄土真宗とキリスト教についての比較研究は,これまでも多くなされてきており,中でも<罪人や悪人の絶対者による救済>という構図が,両者の共通点としてしばしば指摘きれている.たとえば聖書においては山上の垂訓や,マタイ伝の「我は正しき者を招かんとにあらで,罪人を招かんとて来たり」というイエスの言葉等にそのような構図を見出すことができるが,悪人や罪人をもっと前景化し,彼らこそが救済の対象なのであるという,より強いメッセージを放つのは,やはり『歎異抄』の第三条「善人なほもて往生をとぐ.いわんや悪人をや」の一文であろう.唯円によって語られた逆説的な,それゆえに凝縮されたこの言説は,末法の世のみならず,現代においてもなお強く響く.この宗教的パラドックスを,小説というジャンルにおいて浮かび上がらせるのが,Graham Greene (1904-1991)である.さながら中世のアレゴリカルな宗教劇を彷彿とさせるその筆致は,独自の世界に我々を引きこんでいくのであるが,そこで中心に据えられるのもまた,自らの罪に懊悩する人間である.それは,自殺という大罪を犯す男の物語The Heart of the Matter (1948)のエピグラフに,Charles Peguiの「罪人こそがキリスト教の中心にいる.罪人ほどキリスト教について知っているものはいない」という言葉を掲げたことに,端的に,かつシンボリカルに示されていよう.『歎異抄』とグレアム・グリーンの世界,この二つに通底するものを考えてみたい.
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