印度學佛教學研究
Online ISSN : 1884-0051
Print ISSN : 0019-4344
ISSN-L : 0019-4344
57 巻, 3 号
選択された号の論文の28件中1~28を表示しています
  • ――ヴァージャペーヤおよびラージャスーヤとの比較をもとに――
    手嶋 英貴
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1143-1150
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    古代インドにおいて行われたヴェーダ祭式のうち,王権に関わりをもつものとして,ヴァージャペーヤ(Vajapeya),ラージャスーヤ(Rajasuya),およびアシュヴァメーダ(Asvamedha,馬犠牲祭)が挙げられる.「戦車走行」は,この三祭式すべてが共有する祭事要素であるが,従来は専ら前二者の間でのみ比較研究がおこなわれ,残るアシュヴァメーダについては詳しい検討がなされていない.そこで本稿は,アシュヴァメーダの戦車走行に的をしぼり,主に『バウダーヤナ・シュラウタ・スートラ』からその記述部分を紹介する.あわせて,同文献のヴァージャペーヤ章とラージャスーヤ章にある戦車走行部分を参照し,それとの比較を通して,三祭式の間にある連続と不連続の両面を確認する.その結果,アシュヴァメーダにおける戦車走行の特徴は,概ね次のように説明されうる:ヴァージャペーヤやラージャスーヤの戦車走行が「祭主の対抗者に勝つこと」や,それを通じた「戦利品(食物,家畜など)の獲得」を表象するのに対し,アシュヴァメーダの戦車走行では,そうした意図がほとんど前面に現れない.しかし一方で,その祭事形式および使用される祭詞が,一年前の「馬放ち」の日に行われた「馬の池入り」祭事とほぼ同じである.このことから,アシュヴァメーダの戦車走行が「馬の池入り」の再現という一面をもち,また「池入り」と同様に馬(祭主の代理)の象徴的再生を意図していることが窺われる.ただし,「池入り」では馬が戦車に繋がれることはなく,戦車走行は,祭馬を他の二頭の馬とともに戦車につなぐ点で固有性を示す.したがって,アシュヴァメーダの戦車走行は全体として,ヴァージャペーヤやラージャスーヤと共通する戦車使用の要素と,アシュヴァメーダ内での先行祭事である「馬の池入り」を再現する要素とが結合したものと推測される.
  • 大島 智靖
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1151-1154
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    ヴラタ(vrata-)は一般に「掟,誓い,誓戒」と解されるが,RV以降は期間限定で遵守されるべき誓戒,即ち儀礼上の祭主の「責務」として重要な意義を持つに至る.ソーマ祭を執行する祭主は冒頭で潔斎(diksa)を行い,潔斎者(ディークシタ)となり,その過程でヴラタと呼ばれる責務を果たすことが求められる.ブラーフマナ文献におけるソーマ祭の文脈では,祭主は潔斎期間中に搾ったミルクを調理しただけの質素な食事を摂ることが規定されるが,これをヴラタと呼ぶことがあり,denom.vratay-a-^<ti>により「ヴラタ[ミルク]を摂る」という意味になる.本稿では,このようなヴラタ食を巡るブラーフマナのアグニシュトーマ(ソーマ祭基本形)章の議論を扱う.潔斎者(ディークシタ)と定例の献供の関係,ヴラタ食摂取の意義解釈について,各学派の視点の諸相と解釈の幅,テキスト構成の差異を含めて考察した.潔斎者(ディークシタ)はアグニホートラを始めとする定例の献供を禁止される.定例の献供はその継続性に意味があり,中断は祭官学者達にとって大きな懸念となった.そこで彼らは,潔斎者(ディークシタ)がヴラタ食を飲むという行為が,供物を祭火の献供する行為の代替となるという解決策を編み出した.体内の生体諸機能は神々であるというヴェーダの伝統的解釈とプラーナ・アグニホートラのメソッドを踏襲し,実際の献供は「していない」が,ヴラタ食=供物を体内の神々に献供したので,且つ「していないことはない」という二重性の議論を展開する.ここで,黒YVは「潔斎者(ディークシタ)は供物である」という概念を背後に持つが,白YVではその概念は影を潜めている.各学派は各々別の視点を以てヴラタを論じており,MS/KSの議論をTSは総合し,SBは新たな視点で再解釈したというテキスト間の関係が考察される.
  • 西村 直子
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1155-1159
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    SomaはRgveda以来,月と同一視されてきた.Satapatha-Brahmanaにおいて,月の満ち欠けは神々の食物たるSomaが天界と地上との間を循環しているという理論と関連づけられる.このSoma循環理論は,「samnayyaを献供する場合の新月祭のupavasathaをいつ行うべきか」という議論の中で整備されてゆく.月が欠けて見えなくなるという現象をSomaが朔の夜に地上の草や水に宿っていると解釈し,そのSomaを牛達に集めさせて牛乳製品として献供することによりSomaは再び天界に送られ,新月として現れる.この解釈に基づき,SB,I6,4((1))では朔の夜が明けた日中にupavasathaを行って牛達にSomaを回収させるという新しい方法を提唱する.しかし,この方法は貫徹しなかったものと思われる.この問題を扱う(1)とXI 1,4((2))及びXI 1,5((3))の3ヵ所に亘って議論を検討すると,最終的には(1)の主張を覆し,従来と同じ日程で,即ち朔の夜に先立つ日中にupavasathaを行っていたことが明らかになる.その際,Somaが地上に降りてくる時期を,(1)では「朔の夜」としていたのに対し,(3)では「月が欠けてゆく半月間」に改作している.SB第I巻と第XI巻とを比較すると,後者は前者よりも新しい内容を含んでいると考えられる.更に,(2)に対応するKanva派の伝承はSBKの第III巻に収録されて(1)の平行箇所(SBK II6,2)と時代的に近接していたことを窺わせる.一方,(3)は曲SBK XIII1,2と対応し,(1)及び(2)より後に編集された部分であることがわかる.つまり,Soma循環理論は(1)→(2)→(3)の3段階を経て整備されていったことが推定されるのである.
  • 石原 美里
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1160-1164
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本研究では,Mbh 1.1.50に見られる「ウパリチャラから始まるバーラタ」という語が,Mbhのテキスト形成における重要な手掛かりになるとみなし,この語がヴァイシャンパーヤナの語りが開始されるMbh 1.54を冒頭とするMbhテキストを指したものであると推測する.一方,ヴァス・ウパリチャラ物語はMbh 1.57に語られ,そこでヴァス・ウパリチャラ王はヴィヤーサ仙の母であるサティヤヴァティーの実父,さらにクル王家の直接的な祖先として位置付けられる.しかし,Mbhの他の箇所,および他の諸資料において,ヴァス・ウパリチャラ王とクル王家はほぼ関連を持たない.この矛盾は,ヴァス・ウパリチャラ物語は元来Mbhの外の文脈に存在していたが,サティヤヴァティーの身分を王家に相応しいものとする為,さらにはマツヤ王家の正統性をも保証する為,あるMbh編者が幾分の改訂を加えた後,それをMbhの冒頭部(Mbh 1.54の直後)に挿入したと仮定することにより解決が可能である.その際,ヴァス・ウパリチャラ王の5人の息子に対する国土分割のエピソードは要約され,ヴァス・ウパリチャラ王によるサティヤヴァティーとマツヤ王の誕生のエピソードが新たに創作されたと考えられる.
  • ――灯火の表象を中心に――
    山下 博司
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1165-1171
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    聖ラーマリンガル(1823-1874)は,19世紀南インド・タミル地方の聖者の一人である.五〇年余の短い生涯に創作したタミル語による膨大な韻文作品は,浩瀚な『ティルヴァルトパー』などに纏められ,近代タミルナードゥのヒンドゥー教文学活動が極めた頂点の一つを構成している.聖ラーマリンガルは,タミルナードゥのスィッダ(シッタル)の伝統に立つ宗教者であった.彼の作品の中で,最高神は多くの場合「シヴァ」と呼ばれるが,それは宗派的な神としてのシヴァ神というより,タミル語で時に「スィヴァム」と表現されることからもわかるように,擬人的表象を超えた非宗派的な響きをもつ存在であった.本論文では,聖ラーマリンガル独自の神観念を,神の表象のしかた,とくに「灯火」による神の表現の問題に焦点をあてて明らかにし,当時の時代状況に照らしながら,その思想的・社会的意義について考察を及ぼす.
  • 李 宰炯
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1172-1176
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    パタンジャリがMahabhasya on P3.2.123において引用しているSlokavarttikaによれば,「彼は今行きつつある」(gacchati)などの現在時制定動詞形の意味は考察することなく受け入れられるべきものである.一端考察の対象となれば,それの意味である<現在行為>(vartamanakriya)の成立に種々の問題が生じ,結果そのような定動詞形の使用を説明することが困難となる.バルトリハリはVP3.9.85-90において現実世界(vastvartha)と意味の世界(sabdartha)を峻別するパーニニ文法学派の伝統的な世界観に基づきながら,その問題について議論している.彼によれば,<現在行為>が現実世界の事象とみなされるとき,以下の問題が起こる.1)<行為>は有すなわち過去に属するものか,非有すなわち未来に属するものかどちらかである.有でもなく非有でもないという第三の可能性はないから,現在に属する<行為>は存在しない(VP3.9.85).2)単一な<行為>はそれが有であれ非有であれ区分されないものであるから<行為>の本質として理解される順序や実現されるべきものという相(nivrttirupa)を持つことはできない(VP3.9.86).3)<行為>は多数の部分的<行為>の集合体(samuha)とみなされるが,人々は知覚によっても,知覚に基づく想起によっても多数の部分的<行為>を同時に認識することはできない(VP3.9.87).4)多数の部分的<行為>の内あるものは有であり,他のものは非有であるから,もし多数の部分的<行為>が単一な<行為>であるとすれば,単一な<行為>は有でありかつ非有であるものになってしまう.また,単一な<行為>は多数の部分的<行為>全体に随伴する普遍であるとしても,その場合には一つ一つの部分的<行為>は<行為>ではなくなってしまう(VP3.9.88).一方,<現在行為>が意味の世界の事象とみなされるとき上記の問題点は解決される.彼によれば,多数の部分的<行為>が志向する結果の同一性に基づいて概念的に構想された単一な集合体はそれが結果を実現しようとするものとして認識されるそのとき,<現在行為>とみなされる(VP3.9.89).或は,単一な集合体としての<行為>を認識する知が現在に属するものであることに基づいて<行為>は現在に属するものとみなされる(VP3.9.90).この議論を通じて彼が意図していること,それは現実世界の事象としての<現在行為>は存在せず,人々は概念構想としての<行為>と概念構想としての現在時性に基づいて日常生活において現在時制定動詞形を使用しているということである.従って,我々は上記のSlokavarttika意図を次のように理解することができる.「我々は<現在行為>を現実世界の事象ではなく意味の世界の事象として受け入れた上で,'gacchati'などの現在時制定動詞形を使用すべきである」
  • 江崎 公児
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1177-1182
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    仏教徒の主張する「およそ存在するものは刹那滅する」という刹那滅論をニヤーヤ学派の学匠達は盛んに批判している.彼らの批判は同学派の根本聖典『ニヤーヤ・スートラ』3.2.10-17,およびこれに対する注釈群において見られる.本稿の目的は,ウッディヨータカラによる副注『ニヤーヤ・ヴァールティカ』3.2.10-11において,彼がどのように刹那滅論を批判しているのかを示すことである.ウッディヨータカラが批判するのは,「変化に拠る論証」と言われる刹那滅論証である.これは,時間の経過に応じて身体に増大等の変化が見られることに基づいて,身体等の存在物が刹那毎に異なっていること,すなわち刹那毎に生じては滅するものであることを論証するものである.仏教徒によれば,体内で体液が刹那毎に次々と増加する時,身体は次々と増大する.そしてこのことは,各刹那において,以前よりも太った身体が生じ,痩せた身体が滅するということに他ならない.つまり,身体は刹那毎に変化しているのである.この論証に対するウッディヨータカラの批判の要点は,「変化」の解釈の違いである.仏教徒にとって「変化」とは「存在物の刹那毎の差異性」を意味するが,ウッディヨータカラにとっては,「一定期間存続する存在物の折々の差異性」を意味する.これゆえ,ウッディヨータカラは,変化の観察による刹那滅論証は不可能であることを主張する.彼にとっては,刹那滅性を前提としなくとも「変化」は別様に説明づけられるからである.たとえば,仏教徒の挙げる身体の例の場合,身体の増大は,身体の部分が,身体を構成していた以前の配列を放棄し,新たな配列を作り出すことによって成立する.「変化」の定義は各学派の存在論の違いに応じて一義的に決定され難く,「変化」は刹那滅論証の根拠として十分に説得力のあるものとは言えない.この点が,後代の仏教徒達が「変化に拠る刹那滅論証」を重視しない理由の一つであると考えられる.
  • ――ウダヤナからガンゲーシャへ――
    岩崎 陽一
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1183-1187
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    新ニヤーヤ学の言語理論に関するこれまでの研究は,17世紀以降の文献を対象とするものが多く,新ニヤーヤ学の体系を確立したGangesa(14世紀)のTattvacintamani(=TC)を扱う研究は少ない.また,TCを扱う数少ない研究も,その多くは後代の註釈文献に従ってテキスト解釈を行う傾向を有する.しかし,原典の精緻な理解のためには,註釈文献に頼るよりも,TCの成立に影響を与えたと推定される先行思想の理解に基づいて解釈を行う方が有効であると思われる.本稿は新ニヤーヤ学の基盤としてのTCに着目し,その思想を解読するために,UdayanaからGangesaに至る期間の思想史展開を解明する試みの一端である.このような主旨での研究は既にいくつか為されているが,本稿ではこれまで扱われることのなかった,TC第4巻第1章前半部に於けるニヤーヤとヴァイシェーシカの議論を考察対象とする.そこで論じられているのは,pramanaとしての言葉(sabda)は推理(anumana)の一形態として推理に包含されるか,それとも推理とは異なる,独立したpramanaとして別立てされるか,という問題である.その議論の中で,ヴァイシェーシカは,文意理解(sabdabodha)のプロセスを表現する推理式を数多く提示する.そのような推理式はTCに限らず,TCに先行するニヤーヤ,ヴァイシェーシカ双方の文献にも見られる.そしてそれらの推理式を比較・検討すると,文献間の参照関係と議論の展開とが見えてくる.本稿では実際に,VallabhaのNyayalilavati,及びUdayanaのNyayakusumanjaliとKiranavaliで提示される推理式を,TCと併せて検討した.その結論として,UdayanaからVallabhaを経て,Gangesaに至る議論の連続性を明らかにした.その一方で,VallabhaからGangesaに至る期間には,今回調査した文献からは詳細を知り得ない議論の存在が推定されることも指摘した.
  • ――スチャリタの解釈を中心に――
    石村 克
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1188-1192
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は,認識の<偽>に対する懸念(asanka)の消滅のために,その認識の原因の欠陥の非存在の認識をスチャリタが自律的真理論(svatah-pramanya)に導入した根拠を明らかにすることである.クマーリラは,自律的真理論の論証において,SV 2.60で認識の<偽>に対する懸念の発生を制限するものとして,その認識の原因の欠陥の無認識(dosa-ajnana)について言及しているが,欠陥の非存在の認識(dosa-abhava-jnana)については全く言及していない.欠陥の無認識とは,欠陥が認識されないことであり,欠陥がないことが認識されるということを意味する欠陥の非存在の認識とは区別される.それにもかかわらず,残りの注釈者であるウンベーカとパールタサーラティとは違い,スチャリタは,認識の<偽>に対する懸念は,その認識の原因の欠陥の非存在の認識によって取り除かれ,それ以降,発生することが規制されるということを主張している.スチャリタがその考えがクマーリラの考えと整合すると考えた根拠は,「人為的な言葉は,話し手の認識根拠が想定されるまで,対象の認識手段として機能しない」というSV 2.167におけるクマーリラの言明に求めることができる.スチャリタは,「人為的な言葉は,話し手の認識の原因に欠陥がないことが確定され,その言葉の<偽>に対する聞き手の懸念が取り除かれるまで,認識手段として機能しない」というように,懸念の概念を用いてこの言明を説明している.このことによって,クマーリラのこの言明の中に,<偽>に対する懸念を取り除く方法として原因の欠陥の非存在の認識を導入する根拠を見いだすことができるようになる.このような原因の欠陥の非存在の認識によって<偽>に対する懸念を取り除くという考えは,スチャリタ以降,チッドアーナンダを経由して,ナーラーヤナにまで継承されることになる.
  • 畑 昌利
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1193-1198
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    Dighanikaya第一経の「梵網経」には,一般に六十二見と総称される異見の集成が伝承される.amaravikkhepaとはそれらの中,第4番目に紹介される主張の論名である.従来の研究では,その主張内容と仏教の無記等とがしばしば比較された反面,論名やPali「梵網経」以外の資料を用いた論の考察は,未だ成し遂げられていなかった.本稿では現段階で使用可能な資料を駆使し,amaravikkhepaに関して残存する問題の提示及びそれの可能な限りの解明を目指す.まずPali「梵網経」の記述による限り,amaravikkhepaとは,「〜ではない.…でもない.」というやり方ではっきりと答えないことを意味する.一方,有部系の経典では,この「〜ではない.」という表現はamaraviksepaの1バリエーションへと成り下がり,同時に相手の主張に唯々諾々と従う態度もがamaraviksepaに含まれる.さらに後代の論書では,単に自説をはっきりと述べないことが,このamaraviksepavadaの特徴と解されていく.この様に解釈が分かれた原因は,amaraviksepaという論名自体が,テクスト伝承者にとって意味不明なものであったことを強く示唆すると考える.amaravikkhepaの原義に関しては,複合語前分のamara-の解し方が問題となった.そして種々のテクストを検索した結果,「終わりのない言葉」,「魚の名称」,「神」等の説明が為されていることが判明した.それら諸事情を念頭に置きつつamaravikkhepaの適訳を考えるに,常用される「鰻問答」や「不死矯乱論」は不適切であることが分かる.そして検討の結果,Paliテクストの用例にそぐい,かつ有部系の文献の記述とも矛盾しないPali訓註釈の第一の解釈(amara vaca)にしたがうのが最善であり,「際限ない〔言葉による〕ごまかし」,英訳:'endless equivocation'が現段階で提出できる適訳であることが明確になった.
  • Elsa LEGITTIMO
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1199-1205
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本論文は,インドまたは中央アジアにおけるEkottarika-agamaの一ヴァージョンから見た,舎利と仏塔について論じるものである.このヴァージョンは漢訳のみに残されており,四世紀に翻訳されている.この漢訳『増壹阿含經』は,パーリ聖典のAnguttara-nikayaに対応するとされているが,内容の上で両者の相違点は共通点よりはるかに多い.本論文では,『増壹阿含經』が舎利と仏塔について言及したいくつかの箇所を検討していくが,これらは二つの例外を除いて,パーリ聖典にパラレルな記述がみられない.多くの仏典と同様に,『増壹阿含經』の中には僧伽における慣例が記述されている.以下に見るように,舎利と仏塔の存在は,本経典が属したであろう部派の僧伽の中で重要な役割を果たしていたように見える.現在知られている阿含(またはニカーヤ)経典の中で,仏塔建立の「梵福(梵天に生まれる功徳)」を説いているのは,この『増壹阿含經』のみである.なお,このトピックは,アビダルマ文献でも論じられており,『増壹阿含經』とアビダルマ文献との関係性が連想される.この他,『増壹阿含經』では,仏塔を管理し,清掃することの功徳が説かれ,また,仏塔を破壊するものは阿鼻地獄に堕ちると説かれている.さらに,未来仏の弥勒の言として,舎利供養が弥勒の下生する未来に生まれる因となることが述べられている.興味深いのは,他の阿含(またはニカーヤ)経典には見られない,地・水・火・風・金剛輪のコスモロジーが本経典の中で示され,そこで,過去仏たちの舎利が金剛輪の間に存在していると述べている点である.過去仏や仏弟子たち(舎利弗や大愛道など)の涅槃の物語を説く様々な経典が,仏塔,舎利,舎利供養の関係を描いているが,『増壹阿含經』では,仏陀自身が舎利弗や大愛道の舎利を管理したとする記述がある点も,興味深い.また,本経典には,ある王子が出家をし,仏陀となり,般涅槃し,その後,父王がその舎利を祀る仏塔をたて,供養をしたという,三つヴァージョンの似通った物語が伝えられている.以上の用例から,伝承の中,あるいは教義の上で,『増壹阿含經』の保持者たちが,舎利と仏塔に重要性を見いだしていたことは,疑いの余地がないといえる.
  • 山崎 一穂
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1206-1210
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    仏陀の異母弟,難陀の出家を描いたスンダリー・ナンダ物語(SN)は,仏教徒の間で最も愛好された物語の1つであり,物語に関する伝本は南伝,北伝の仏教文献中に広く存在している.本論ではこのうちの,11世紀カシミールの詩人クシェーメーンドラが著した説話集Bodhisattvavadanakalpalata(Av-klp)所収のSNを取り上げ,それと近い関係にあるとされる根本説一切有部律雑事(MSV)所伝のSNとの関係を主として論じた.Av-klpとMSVの所伝は共に馬鳴のSaundarananda,パーリのJataka及びDhammapadattakatha所収のSNには見られない伝承を有しており,両者は大筋では同じ系統に分類することができる.しかし,Av-klpの所伝には,MSVの所伝には見られない記述,或いはMSVの所伝と相違する記述が見られることも判明した.この事実は,Av-klpの所伝がMSVの所伝に基づくものではなく,同系の異なる伝本に基づいて著されたことを示唆している.本論では考察の対象としなかったが,Av-klpの所伝は『仏本行集経』を始めとする漢訳経典中のSNとも密接に関連していると考えられる.
  • 青野 道彦
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1211-1214
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    パーリ律「羯磨犍度」に説かれる七種の懲罰羯磨の適用範囲について論じる際,従来,<懲罰羯磨を「不応悔罪」に科した場合,その羯磨は違法なものとなる>という記述,及び,それに対するSamantapasadika(=Sp)の<「不応悔罪」とは,波羅夷罪及び僧残罪である>という註釈が注目されてきた.そして,懲罰羯磨は波羅夷罪と僧残罪以外の「応悔罪」について科すべきものと理解されてきた.ところで,パーリ律には,これと矛盾する<習慣的行為に関して過失がある比丘に,サンガは望むならば,懲罰羯磨を科すべきである>という記述がある.従来の研究では,Spの当該箇所にはその註釈が存在しないためか,この記述の内実について注目されなかった.しかし,apubbapadavannanaというSpの註釈方針を念頭に入れると,先行する箇所に<「習慣的行為に関して過失がある」とは,波羅夷罪と僧残罪を犯したことである>という註釈が見出せる.即ち,懲罰羯磨は波羅夷罪及び僧残罪にも科しうると言うのである.この矛盾について,復註Saratthadipanitikaが言及し,その解決法を提示している.復註は,<懲罰羯磨は僧残罪に科すことができる>という前提に立ち,矛盾する記述を整合的に説明しようと試みる.この説明を鵜呑みにはできないが,復註の<懲罰羯磨は僧残罪に科すことができる>という見方を支持する記述がパーリ律の依止羯磨の因縁譚に見出せるため,安易にその見方を排除すべきではない.懲罰羯磨の適用範囲について検討する際,従来,波羅夷罪及び僧残罪は排除されてきた.しかし,パーリ律内部の矛盾を直視するならば,我々は従来の見方に止まることはできず,懲罰羯磨が僧残罪に科される可能性も考慮する必要があろう.
  • 宮崎 展昌
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1215-1219
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本稿では,『阿闍世王経』(Ajatasatrukaukryavinodanasutra)の第11章末尾から第12章冒頭にかけての部分と『阿闍世王授決經』(大正No.509.以下『授決經』と略称)末尾部分の間において,類似した叙述が見られることを報告するとともに,両経の当該部分をめぐる編纂事情について考察した.両経の間で共通した記述とは,具体的には「阿闍世王とその王太子への授記」に関するものであり,固有名詞や数詞が一致あるいは類似していることから両経の間に編纂上の関わりがあったことは疑いない.『授決經』のほうが『阿闍世王経』よりも簡潔な表現となっていることなどから,『阿闍世王経』が『授決經』を参照にしたか,『授決經』と『阿闍世王経』の間に共通の典拠があったものと推測される.以上の考察は『阿闍世王経』の編纂過程解明の一助となるものである.
  • 鈴木 隆泰
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1220-1228
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    筆者はこれまで,『金光明経』の制作意図に関して以下の<仮説>を提示してきた.・大乗仏教徒の生き残り策としての経典:『金光明経』に見られる,従来の仏典では余り一般的ではなかった諸特徴は,仏教に比べてヒンドゥーの勢力がますます強くなるグプタ期以降のインドの社会状況の中で,余所ですでに説かれている様々な教説を集め,仏教の価値や有用性や完備性をアピールすることで,インド宗教界に生き残ってブッダに由来する法を伝えながら自らの修行を続けていこうとした,大乗仏教徒の生き残り策のあらわれである.・一貫した編集意図,方針:『金光明経』の制作意図の一つが上記の「試み」にあるとするならば,多段階に渡る発展を通して『金光明経』制作者の意図は一貫していた.・蒐集の理由,意味:『金光明経』は様々な教義や儀礼の雑多な寄せ集めなどではなく,『金光明経』では様々な教義や儀礼に関する記述・情報を蒐集すること自体に意味があった.本稿では『金光明経』のうち,世俗的利益を中心に説く連続した六章(<諸天に関する五品>および「王法正論品」)に後続する「善生王品」に焦点を当て,引き続き<仮説>の検証を行った.その結果「伝法や修行という自らの目的を達成するために『金光明経』の制作者は,『金光明経』・法師・現前サンガに対する布施による無上菩提・法身獲得を説く「善生王品」を通じ,出世間的利益を求める人々からも経済的援助を得ようと試みた」という結論を得たことで,<仮説>の有効性が一層確かめられた.また,検証の途上,『金光明経』における仏塔(ストゥーパ)信仰と経典崇拝との関係を巡る問題も再浮上してきたため,重ねて考察を加えた.
  • ――アビダルマと瑜伽行派に共通する『阿含経典』の一例――
    高橋 晃一
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1229-1235
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    近年,瑜伽行派とアビダルマの思想的関係について,様々な角度から論じられているが,『瑜伽師地論』の中でも古層とされる『菩薩地』『声聞地』「摂事分」とアビダルマの関係に言及することは少ないように思われる.本論文は,アビダルマの人無我説と深く関わっているManusyakasutraに着目し,『瑜伽論』の古層におけるアビダルマからの思想的影響の一端を示すことを目的としている.Manusyakasutraは『雑阿含』第306経に相当する経典であり,『倶舎論』「破我品」では人無我説の教証として引用されている.ところで,その描写と非常によく似た表現が『菩薩地』第17章「菩提分品」にも見られ,『菩薩地』の注釈者サーガラメーガはその記述がManusyakasutraに基づくものであることを指摘している.さらに「摂事分」にこの経典への言及が見られるほか,『声聞地』にもこの経典の一節と一致する表現が見られる.こうしたことから,『瑜伽論』の古層において,アビダルマと重要な伝承を共有していたことが分かる.これは単に両者が共通の典籍を保持していたことを示すだけではない.この経典は,「衆生」などの表現は諸蘊に対して付与された単なる名称に過ぎないと説いており,『倶舎論』に説かれるアビダルマの人無我説を端的に表している.一方,『菩薩地』で説かれる法無我説は,アビダルマの人無我説と一見して類似しており,色などの諸蘊が存在する場合に,「人」などの表現が可能となるように,vastuが存在する場合に,「色」などの諸法が表現可能となるとしている.『菩薩地』や「摂事分」では,人無我説とは直接的には関係ない文脈でManusyakasutraに言及しているが,この経典がすでに『瑜伽論』の古層を形成する部分で引用されているという事実は,早い段階から瑜伽行派がアビダルマの思想的影響を受けていたことを裏付けるものと考えられる.
  • 田村 昌己
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1236-1240
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    中観派の学匠バーヴィヴェーカ(ca.490-570)は,世俗における諸法の有自性性を認める一方,勝義においてその有自性性が否定されることを論証している.その論証の一例として,「【主張】色は勝義において眼根の把握対象ではない.【証因】八事が集合したものだから.【喩例】声のように」(『中観心論』第3章第40偈)という論証がある.この論証は「およそ八事が集合したものは勝義において眼根の把握対象ではない」という遍充関係を前提とする.確かに色と声は共に八事の集合したものであるが,「声は眼根の把握対象ではなく,色は眼根の把握対象である」ということが経験的に知られている.本稿は,いかなる論理を通じて声という喩例からこの遍充関係が導かれるのかを明らかにした.『思択炎』によれば,その論理とは「ある二者が共通の性質を有するならば,その二者は互いに区別され得ない」という論理である.色と声は八事の集合である点で等しいが故に,声が眼根の把握対象でないならば,色も眼根の把握対象ではないことになる.チャンドラキールティによれば,上記論証式に則して言うならば,色の属性<八事の集合性>と声の属性<八事の集合性>は区別できないこと,属性保持者である色・声とその<八事の集合性>という属性は存在のレベルで不異であることがこの論理のポイントである.色と声は区別されない<八事の集合性>と不異であるため互いに異ならないと見なされる.この論理は,有自性論を否定する帰謬法の論理として,古くは『方便心論』に見られ,ナーガールジュナやアーリアデーヴァ,チャンドラキールティ等の中観派の学匠たちによって用いられている.よって,バーヴィヴェーカは,彼の無自性性論証において,このような中観派に伝統的な帰謬法の論理を用いていることになる.ただし彼は世俗における諸法の有自性性を認める.その同じ彼がこの論理を用いるならば,「色は世俗において眼根の把握対象ではない」という不合理な帰結が彼自身に生じてしまう.この問題を回避するために,彼は論証に二諦説を導入し,「勝義において」(paramarthatas)という限定句を用いたのである.
  • 石田 尚敬
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1241-1245
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    仏教認識論・論理学の創始者Dignagaの著作は,その多くが散逸し,一部が不完全なチベット語訳,漢訳を通してのみ,現在に伝えられる.そのため,現存するサンスクリット語諸文献におけるDignagaへの言及,あるいはその著作からの引用を収集し,Dignagaの学説の再構成を試みることは,先行研究の主要な課題のひとつとされてきた.本稿もまた,Dignagaに帰せられる新たなテキスト断片を紹介することを目的としている.8世紀,カシミールで活躍したDharmottaraは,その著PramanaviniscayatikaにおいてDignagaの所説に言及するが,その引用は必ずしも十分ではなく,それに対する解説も与えられていない.しかしながら,それを手掛かりとして,ジャイナ教白衣派の思想家Haribhadra(8世紀)の著作,Sastravarttasamuccayaに,より完全な形の引用を見出すことができる.本稿で提示されるテキスト断片の重要性は,これまで翻訳を通しても知られていないDignagaの作品の一部と考えられること,さらには「刹那滅論」に関するDignagaの所説の一端を初めて窺い知ることができる点にあろうかと思われる.
  • ――伝説と歴史,地理的考察――
    山野 智恵
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1246-1252
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    チベットの諸伝がNagarjunaの居住地として言及しているdPal gyi riは,通常,Sriparvataと還梵される.1920年代,Nagarjunakondaの発掘調査によって当地がSriparvataと呼ばれていたことが判明して以降,NagarjunakondaはNagarjunaの故地と見なされてきた.しかし,SriparvataとNagarjunaの関係を伝える文献がいずれも12世紀以降に成立しているという事実には注意を要する.インド文学の世界においてSriparvataはMahabharataの時代より,Sivaの聖地として言及されてきた.ことに7世紀以降は,SriparvataとSiva教のタントラ行者たちとの関わりを説くものが散見されるようになり,当地がタントラ行者たちの聖地として知られていたことがわかる.長生術と復活を主題にしたNagarjunaの伝説が,Sriparvataにまつわる霊験譚として語られた背景を探っていくと,Sriparvataがnathaやsiddhaと呼ばれたタントラ行者たちの聖地であったことが見えてくる.後に,Siva教のnatha/siddhaの伝統において,NagarjunaはRasayana(長生術)の大成者,Rasasiddhaとして知られるようになっていく.アンドラ地方のクリシュナ河岸に位置するSrisailamは,中世を通してnatha/siddhaたちの宗教活動を育む土壌として機能し続けてきた.ことに当地が,Rasayanaを実践するための適地として見なされ,また,しばしばSriparvataとも呼ばれていたことは注目に値する.以上のことを考慮するならば,チベットの諸伝がNagarjunaの居住地として言及したdPal gyi riは,natha/siddhaたちの間でRasayanaの地として知られたSrisailamであった可能性が高いといえるのである.
  • 望月 海慧
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1253-1260
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    Dol po paShes rab rgyal mtshan(1292-1361)の著作の中には,Theg pa chen po rgyud bal ma'i bstan bcos kyi 'grel pa legs bshad nyi ma'i 'od zerと言うRatnagotravibhagaに対する注釈書がある.コロフォンによると,二人の弟子であるdPal ldan brtson'grusとPhun tshogs dpal(1304-1377)による請願に基づいてJo nangで著されたものである.注釈スタイルは,多くのチベット仏教文献においてなされるように,詳細なシノプシスに分類される形で著されたものであり,その各項目にRatnagotravibhagaの偈頒が対応し,根本偈に言葉を補足する形体で注釈がなされている.そこには,先行する注釈書に対する言及や自らの「他空説」などにより論を展開することはない.従って,本論では各注釈部分の内容を通して彼がRatnagotravibhagaの偈頒をどのように読んでいたのかと,このシノプシスの構成を分析することにより彼が同論の全体構造をどのように理解していたのかが解明できるだけの注釈書である.他の文献への言及については,NagarjunaのDharmadhatustava 11のみが引用されている.Maitreyaの五法に対する言及もないのに,本論が引用されることは,独自の思想を確立するために,同論が重要な役割を果たしていたことを裏付けるものでもある.しかしながら,その注釈文には「他空説」や「大中観」への言及はないことから,本注釈書は彼のそのような思想を確立する前に著されたテキストなのかもしれない.彼の主著であるRi chos nges don rgya mtshoにはRatnagotravibhagaに基づいて独自の思想を展開するコンテキストが多く見られることから,本注釈書はそれに先行して著されたものと思われる.
  • 久間 泰賢
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1261-1267
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    Jnanasriに帰せられる『金剛乗に関する二つの極端な見解の排除(rDo rje theg pa'i mtha'gnis sel ba)』は,密教思想とそれ以外の仏教学説(とりわけ中観学説)との関係について論じた小品である.この著作においては,密教思想がそれ以外の仏教学説よりも優越していることが,11種の方便善巧(thabs la mkhas pa,^*upayakausalya)の観点から詳説される.しかしその一方で,著作の冒頭においては,密教思想が従来の伝統的な仏教の枠内にあることも,いくつかの経典を引用することに基づいて主張されている.本論においては,『金剛乗に関する二つの極端な見解の排除』の経証において,(a)'Phags pa yons su mya nan las 'das pa (^*Aryamahaparinirvanasutra,『大般涅槃經』),(b)'Phags pa gsan ba lun bstan pa'i mdo(原典は不明),(c)'Phags pa lhag pa'i bsam pa bskul ba'i mdo (^*Aryadhyasayasamcodanasutra,『大寳積經發勝志樂會』)の3種が用いられていることを指摘した後,これらがBu stonのrGyud sde spyi'i rnam文献のいくつかにおいても,多少の文言の出入りはあるものの,ほぼそのままのかたちで用いられていることを示した.またそれと同時に,『金剛乗に関する二つの極端な見解の排除』の経典引用の方法が,後代のチベット仏教に影響を与えた可能性についても示唆した.
  • 根本 裕史
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1268-1272
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本稿の目的はゲルク派の学者達が「常住(rtag pa)」という概念をどのように理解しているか明らかにすることである.同派の学者達はサキャ派の見解と対照的に,常住な物の存在を積極的に認める立場に立っている.ツォンカパやチャンキャ・ルルペードルジェはダルマキールティのPramanavarttika II 204cdに依拠して,「常住」とは「それ自体が消滅しないこと」を意味すると解釈した.ゲルク派の学者達によれば,「常住」を「常に存在すること」の意味で捉えるのは毘婆沙師と非仏教徒の劣った見解に過ぎず,経量部などその他の仏教学派の見解では常住な物は必ずしも常に存在するとは限らない.例えば壼に限定された法性(空性)は「一時的にのみ存在する常住者(res 'ga' ba'i rtag pa)」であるとされる.なぜなら壺の法性は壺の存在時にのみ存在し,なおかつ,消滅の作用を受けない存在だからである.ここで「消滅」という語が「なくなること」ではなく,むしろ「変化すること」の意味で用いられている点には注意を要するであろう.壺の法性は壺が存在しなくなれば壼と共になくなるが,そのことは壺の法性が消滅したことを意味しない.ゲルク派の学者達によれば,常住な物には未来(未だ生起していない状態)も現在(現に生起している状態)も過去(既に消滅した状態)もない.それは非時間的(dus bral)な存在である.時間的変化とは無縁の存在のことをゲルク派の学者達は「常住」と言い,「無為法」と言う.そして,それは彼らにとって「法性」や「涅槃」といった仏教教義を語る上でなくてはならない存在なのである.
  • ―― 'Jam-mgon Kong-sprul Blo-gros mtha'-yas(1813-1899)著Shes bya kun khyabを通して――
    熊谷 誠慈
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1273-1277
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    Nagarjuna(ca.150-250)の弟子たちにより"中観派"が形成されて以後,自立論証あるいは帰謬論証に重きを置く立場など,空性論証形式の多様化により様々な立場が生じた.後代には,これらの立場を中観派の分派として分類する傾向が現れてきた.インドでは,中観区分はあくまでプリミッティブなものにすぎなかったが,チベットにおいては非常に複雑化していった.すでに,Ruegg氏や御牧氏の研究により,9〜18世紀の文献中に見られる中観区分の歴史は整理されている.しかし,19世紀のチベットでは,"無宗派運動"(Ris med)という一大宗教改革が始まり,それまでの伝統教学にとらわれない新しい教義体系が誕生し始めていた.その最中に,この中観区分も大きな変化・発展を遂げていたことが分かった.本稿では,その1例として,'Jam-mgon Kong-sprul Blo-gros mtha'-yas(1813-1899)著Shes bya kun khyabに見られる中観区分を扱う.Kong-sprulは,それ以前には見られない広範かつ詳細な中観区分を試み,我々が唯識派や密教徒と位置づける論師まで,論書を限定した上で中観派の一部に位置づけている.もちろん,彼の中観区分の見解をインド文献に適用する際には多くの注意を払う必要があるが,インド中観派に関する我々の理解を補助するという点で大変有益であることには何ら疑いはない.
  • 洪 鴻栄
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1278-1284
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    1999年に発見された新出『安般守意経』の内容は,大変複雑で研究がなかなか進まないのが現状である.新出『安般守意経』は,安世高によって「数息品」をもとにして『陰持入經』の文を加え,新たに編集されたものとの拙論が2007年の印仏学会で出ていた.新出『安般守意経』の四果に関する段(金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究p.192,243-272行)は,その文脈,用語などから『陰持入経』の四行者福(cattari samannaphalani)に関係する二つの段落(T603,p.178a16-22&T603,p.179c7-p.180a6)から引用して新たに編集されたものと考えられる.また,両テクストにおけるsattatimsa bodhipakkhika dhamma内容の用語から,『陰持入経』は新出『安般守意経』より前の時期に訳されたものと見られる.とりわけ,新出『安般守意経』中の第三果(par.2),第四果(par.4)の段は『陰持入経』中の第三果(par.1),第四果(par.3)の段と非常に類似するため,この二段の内容は『陰持入経』からの引用と思われる.par.1「為得道弟子.便解下五結已畢.何等為五.一為見身是非.二為解疑.三為不惑不貿戒.四為不望.五為不恚.是為五結已畢.便得道弟子.不復還世間.」(『陰持入經』T603,p.179c13-16)par.2「阿那含名爲不還世間.阿那含福爲何等.五下結已盡.何等爲五.貪欲,瞋恚,見身,轉戒本願,爲疑.是五爲无有已.」(『金岡寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』p.194,258-260行)par.3「令為解捨上五結.何等為五.一為色欲.二為不色欲.三為癡.四為憍慢.五為不解.已上五御足.為已捨五結.便無所著.」(『陰持入經』T603,p.180a2-5)par.4「阿羅漢名爲无所著.阿羅漢福爲何等.上五縛與盡.何等爲五上.色欲.无有色欲.无有婬.驕慢.愚癡.」(『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究p.194,266-268行)
  • 渡邊 寳陽
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1285-1292
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    日蓮は,一二六〇年に『立正安国論』を鎌倉幕府の前執権,最明寺入道時頼に奏進した.打ち続く天災地変は,正しい精神によって国が治められていないためであるという,鎌倉幕府の宗教的良心と目される枢要な人物への諫言である.日蓮の諫言はあくまで仏典に尋ねた結論に従った宗教的行為として終始した.その後,日蓮は法難を受け,『立正安国論』は予言の書としての意義を重くしていく.法華経の行者として,四大法難を体験した日蓮は,末法に展開すべき法華仏教の内観の世界を『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』として著す.一見,対比的に見られる両書だが,宗教的救済の現実化の側面と,仏法の内面化の側面とを,それぞれの論述のうちに共有していることに注意を要することを指摘する.
  • ――ブルーノ・ペッツオルトと富永半次郎による比較文化研究(1) ――
    小谷 幸雄
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1293-1299
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    本稿は昭和前半期における二人の人物による佛教とゲーテの,二重義の比較文化研究である.B.ペッツオルト教授(元一高)・元天台宗大僧都(1873-1949)にとつてヨハネの福音書に影響されたゲーテにはキリストは「宇宙の眞理の總括」であつた.一方,粹人求道の民間學者・富永半次郎(1883-1965)は宇宙の中の人間の在り方と日本人としての在り方との調和を目指して古今東西の典據を模索する.その途上で『法華經』の<一>に遭遇するも,羅什譯に慊らず梵文原典からゲーテ形態・發生學の方法でそれの原型を摘出したのが自稱「根本法華」である.同教授はゲーテの<原現象>を眞言のマンダラに,<兩極性>・<高昇>は,『大乗起信論』にそれぞれ親縁であるとし,華嚴・天台の眞如・無明の不二一元形而上學の前段階であるとする.自著『ゲーテと大乗佛教』の中の『ファウスト』書齋の場での主人公による『ヨハネ傳』冒頭の<Logos>の譯語<行爲>を,教授は<無明-行>と對比する.教授が板書した「天上の序言」の「人間は努力する限り迷ふ」と,人間理性の濫用へのメフィストの椰揄を早くから好んで引用した富永は其の「自我錯覺のサンカーラが正に五執蘊の正體」とする一方,サンカーラの圓熟・徹底・正観こそがrddhyabhisamskara(「サンスカーラの完成」・法華涌出品;cf.羅什譯<神通力>)であり,更に釋尊末語のvaya-dhamma samkhra(譯ナシcf.傳統解:<諸行無常>)である,として後者を多年無言念稱により實習し,四十五年を距てるガヤー正覺とチャーパーラー正覺のそれぞれの心理過程を文學化した.富永老師による,今日まで問題にされて來なかったゲーテ最晩年の不安・『ファウスト』創作頓挫と打開・成功の經緯(『釋迦佛陀本紀余論』)の紹介解説は次回に讓る.
  • Tanto Sugeng
    原稿種別: 本文
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1300-1306
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    16世紀,古代ジャワ語で天地創造について書かれたPurwaka Bhumiは,1974年にC. Hooykaasによって英訳されたが,このテキストに関する研究は充分になされていない.その時代,ジャワ島において万物の創造に関する概念は,インドから影響を受けているが,テキストからはインドから影響を受ける以前の独自の信仰を見ることができる.たとえばAdi Sunya,Sang Hyang Widhi,Sang Hyang Sukmaといったインドには見られないジャワ起源の神々が,インドにおいて有力であるシヴァ神やヴィシュヌ神などを創造したと記されている.これは,ジャワ起源の神々の優位性を示したかったものと思われる.当時はSang Hyang Widhiが最も優勢な神として位置づけられ,続いてジャワ起源の神Bhattara Guru,そして最後にシヴァ神,ヴィシュヌ神などのインド起源の神々が位置づけられた.本研究ではPurwaka Bhumiテキストに書かれている,神々,人間,動物,夜叉などの関係とそれぞれの役割を示し,Purwaka Bhumiテキストに見られるインド・ヒンドゥー文化のジャワにおける変容を明らかにした.
  • 原稿種別: 文献目録等
    2009 年 57 巻 3 号 p. 1307-1432
    発行日: 2009/03/25
    公開日: 2017/10/31
    ジャーナル フリー
feedback
Top