9世紀末にカシミールで活躍した文人ジャヤンタの主著『ニヤーヤ・マンジャリー』(=NM.脚注の少ないKashi Sanskrit Series 106の版で600頁)は,全12章(ahnika)の中で,sabda-pramana論(sb論)に4つの章(第3〜6章)を割き(256頁),pramana論(380頁)の中の約63%,NM全体の中でも43%弱に相当する.したがってsb論の構成を解明することはNM自体の構成解明につながり,ひいてはニヤーヤ哲学史の中でのNMの位置づけを伺う意味でも重要なテーマであるが,これまで研究対象となることはなかった.そこで本論文ではまずsb論の構成全体を概観し((1)〜(27)に区分.第6章最終詩節(28)はpramana論全体の結語.),sabda(信頼すべき教示),特にVedaの,pramana(認識手段・知識根拠)としての妥当性・権威(pramanya)の論証を主題とする前半(第3〜4章)と,単語の指示対象,文章の中核的意味,文意認識のプロセスといった言語理論の諸問題を扱う後半(第5〜6章)に二分できることを確認する.その上で後半冒頭の,言葉の意味は実在しないもの(観念の構築物)であるから,sabdaは実在と結びついていない(arthasamsparsinah sabdah)と先に述べられた批判に対して,これから答えよう という趣旨の第5章の書き出しに注目し,「先に述べられた批判」のありかを辿ると,sb論の冒頭に近い箇所の,「sabdaはそもそもpramanaたりえない」という異端色の強い一連の批判を展開する一連の14詩節(すべてsloka),特に第2詩節に直結していることが判明する.しかしこの14詩節からなる批判は単に後半の冒頭説明と接続しているのみではなく,14詩節全体と,その後に展開するsb論全体((3)〜(27))とが非常によく呼応しており,この14詩節からなる批判の各論点に逐一応答していく形でNMのsb論のほぼ全体(14詩節以前は,Nyayasutra 1.1.7のsabdaの定義の注釈部分,およびsabdaはanumanaの一種ではないかとの反論とその応答)が構成されていることが明らかとなる.言いかえれば,NMのsb論はsabdaのpramanaとしての妥当性,特にVedaの権威(vedapramanya)を論証することが主題となっており,このことはsb論が,「以上のように,さまざまな難点を理由にして,悪魔の雄叫びを捏造する無教養な(アーリアの人々ではない)輩たちは,[聖典=sabdaが]虚偽の言葉であることを声高らかに主張してきたが,それらの難点はすべて排斥された.したがって,聖典の権威は何ら支障なく確立したのである.」という最終詩節(27)で締めくくられていることによっても裏付けられる.かくしてニヤーヤ哲学の目的は,強固な論理によってVedaの権威を論証し,一見手ごわそうに見える異端派のVeda批判を粉砕することにあると,NMの冒頭でジャヤンタが表明していたニヤーヤの存在意義についての彼の見解と,NMのsb論は見事に呼応関係にあると結論付けることができる.他方,14詩節の一連の批判の趣意が「sabdaは実在と結びついていないのでpramanaたりえない」であるにも関わらず,それに対する正面からの批判がNMのsb論の後半に回されたのは,Vedaの権威を自律真知論(svatahpramanya)にもとづいて弁証しようとするミーマーンサーの諸議論に対する批判をまず先行させ,Vedaの権威は「信頼しうる方(=全知者たる自在神)によって語られた言葉であること」(aptoktatva)という論理的根拠によって他律的に証明されなければならないという形で,バラモン思想界での理論的基盤を盤石にする必要がある,とのジャヤンタの判断にもとつくのではないかと推測される.
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