かつて論じたように,『法華経』は仏舎利塔(ストゥーパ)と仏舎利なしの塔(チャイトヤ)を明確に区別した上で,『法華経』実践の場にストゥーパではなくチャイトヤを起てよと繰り返し命じている.『法華経』の実践とチャイトヤ建立によって,その場に如来の全身が実現されるため,仏舎利を納めたストゥーパの建立は不要であり,むしろ,『法華経』実践の場に建立されたチャイトヤこそが真のストゥーパであると主張しており,ここにわれわれは,「『法華経』の実践+チャイトヤ建立=真のストゥーパ建立=如来の実現」という<『法華経』のブッダ観>を確認することができる.実現される如来は,「如来寿量品」を受け継ぐ「分別功徳品」においては一人称視点で「私」(=話者である釈尊)と記され,『法華経』の実践とチャイトヤ建立を通して実現し感得される如来が,他ならぬ釈尊その人であることが表明されている.『法華経』においては,「『法華経』の実践」と「チャイトヤ建立」は不可分に結びつきながら,永遠の釈尊を感得するための手段,方法ともなっていたのである.ところが「薬王品」は,仏滅後にチャイトヤの前で焼身することと,『法華経』を受持することを勧奨している.もしこれが「ストゥーパ」であったとしたら,"仏滅後にストゥーパを供養したいなら焼身しなさい.でも,『法華経』を受持すればその必要はない"という,「ストゥーパ崇拝から経典受持へ」という,初期大乗経典に共通する文脈の上に置くことができるが,チャイトヤを使用する「薬王品」はその文脈からも,また,『法華経』の中心テーマの一つである永遠の釈尊を巡る文脈からも逸脱していることになる.以上の点に鑑み,『法華経』同時成立説という想定は困難だと思われる.また,現在までに『法華経』の教説に基づいて起てられたチャイトヤは,インドでは一つも確認されていない.過去には存在していたが残らなかったのだ,と想定することも不可能ではないが,「薬王品」の制作者たちですら,『法華経』の教説に基づいて起てられたチャイトヤを見ていなかった可能性が非常に高い以上,「『法華経』実践の場に起てられたチャイトヤなど,インドにはそもそも存在しなかった」と考えた方が自然である.「薬王品」における「チャイトヤ」の記述は,「『法華経』同時成立説」に対する反証の一つとなるのみならず,インドにおいては,『法華経』の教説に基づいた修行実践は実質的には「書写行」のみに限られ,『法華経』はテクストとしてのみ存在していたことの傍証とも考えられる.
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