梵文法華経(Saddharmapuṇḍarīka,SP)は初期大乗仏教経典のうちで最古の一つと見做されている.3つの漢訳経典が現存するが,このうち鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は東アジアにおいて,多くの経典・思想・文化の形成・発展に大きな影響を与えてきた重要経典の一つである.SPと漢訳法華経に関連する諸問題,とくに『妙法蓮華経』との諸問題解決や妥当な解釈等を得るためには,SPと漢訳法華経との対照研究や漢訳法華経の原語研究が不可欠である.
この原典とされるSPは,仏教混淆梵語(Buddhist Hybrid Sanskrit, BHS)の代表経典の一つであり,中期インド・アリアン(Middle Indo-Arya, MIA)語が多く見られる.ケルンとエジャートンはSP原形がMIAで編纂され,時代とともに伝承されるにしたがって梵語化されたと提唱している.辻はこの提唱を研究を深め,次の(i),(ii)を指摘している:(i) SP偈文にMIAが頻出,散文にSkt.が頻出するが,散文に若干のBHSが散見される;(ii)伝承の間に種々の程度の梵語化が起り,現存の写本が生じたものと考えられる.
筆者は以前の研究で,この議論に関連した以下の2例証を見出した:(1) 2同義語MIA krīḍāpanaka- (BHS),Skt. krīḍanaka-;(2) 3同義語MIA sāntika- (BHS),MIA santika- (Pāli),Skt. antika-.その後,同様に別の例証を見出した:3同義語MIA acintika- (BHS),MIA acintiya- (Pāli),Skt. acintya-.本稿ではKern-Edgertonの提唱と辻の指摘に関連した第3例証について検証する.
16 Saddhp校訂本を取り扱い,3同義語MIA acintika- (BHS),MIA acintiya- (Pāli),Skt. acintya-の出典言語分布の調査結果を作表した.表によると,辻の指摘(i)と(ii)を示すと考えられ,この議論の第3例証である.なお,本稿の論考だけではSP原形の使用言語がMIAのみ,Skt.のみ,MIAとSkt.との混合のいずれかであったかについて結論できない.
今後,この問題等を解決するためには,SP写本・断簡ローマ字転写校訂本の総索引等を作成することにより,SP写本・断簡間に多数の同義語を検出し,その出典言語分布について議論を展開することが必要であろう.Saddhp研究をさらに深化させることで,SPと漢訳法華経に関連する諸問題解決を見いだすことに期したい.
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