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原稿種別: 表紙
1997 年 7 巻 1 号 p.
Cover1-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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原稿種別: 目次
1997 年 7 巻 1 号 p.
1-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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坂本 百大
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
2-3
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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Francois SARDA
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
4-5
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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坂本 百大, 太田 富雄
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
6-7
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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細田 瑳一, 武見 李子
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
7-8
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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武下 浩, 三川 宏
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
8-9
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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アルフォンス デーケン, 佐藤 喜宣
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
9-10
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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山田 卓生, 塚本 泰司
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
10-11
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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星野 一正, 宮野 彬
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
12-13
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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中谷 瑾子, 植村 研一
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
13-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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飯塚 理八, 高久 史麿
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
13-15
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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原 充弘, 信川 益明
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
15-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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福間 誠之, 宇都木 伸
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
16-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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藤井 正雄, 飯田 亘之
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
16-17
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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青木 清, 大井 玄
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
17-18
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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原稿種別: 付録等
1997 年 7 巻 1 号 p.
19-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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永井 政勝
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
20-24
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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有効な治療法に乏しい悪性脳腫瘍の3症例の治療体験に基づき「尊厳死」選択の基準について考察を行った。症例1は75歳男性、脳原発の悪性リンパ腫で、手術・輸血を拒否するLiving Willを提示されたため積極的治療を行い得なかったが、患者は数力月の良好なQOLの後、従容たる死についた。症例2は36歳女性、大脳基底核の膠芽腫の末期で意識障害を伴っていた。代理人としての夫の希望に沿い、免疫療法と自宅療養の後、尊厳死の終末を迎えた。症例3 13歳女児。小脳の悪性脳腫瘍の再発。本人とのインフォームド・コンセントは行い得なかったが、両親の強い希望によりターミナル・ケアのみを行った後、苦しむことなく静寂の中に死亡した。以上の3症例は安らかな死-尊厳死(積極的安楽死)を目標とした点で共通している。悪性脳腫瘍に対する現在の治療法には限界があり、治療の成功率、平均生存期間についての予測も可能である。このためとくに末期においては、尊厳死を受容せざるを得ない症例もなお多いのが現状である。このような症例では、苦しみを和らげることとQOLを重視し、十分なインフォームド・コンセントと合議によるdecision makingを前提として尊厳死を認めるべきであり、また個々の症例について、患者本人および家族の考え方の多様性に柔軟に対応して行くべきであると考えられる。
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大嶋 一泰
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
25-30
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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フリー
患者が予期に反して虚脱に陥り、心肺機能を停止した場合には、医師は原則として直ちに蘇生術を施し、患者の救命をはかるべきである。しかし、救命が成功しない場合や、一旦救命が成功しても直ぐに虚脱に陥り、心肺機能の停止を繰り返して死の転帰を取る場合もある。これらの場合には、心肺蘇生術の実施は医学的に無益であると考えられるばかりでなく、患者に耐え難い負担をかけ有害であるとさえ言える。そこで、事前にこれまでの経緯や患者の症状などから、患者がやがて虚脱に陥り、心肺機能を停止するであろうと予測され、しかもその際には蘇生術の実施は無益であり、これを差控えるべきであると考えられる場合には、医師は例外的に蘇生術を差控えるべきであるとの決定を下し、これをDNR(Do Not Resuscitate)オーダーとしてカルテに記載し、患者のケアにあたる看護婦その他の医療スタッフにもそのことを周知徹底させて置くことが望ましい。しかし、蘇生術を実施することの医学的無益性の判断やそれに基づくDNRオーダーの発行の決定は、医学的な専門知識と判断を要する医師の専権的な裁量事項に属するし、DNRオーダーの発行につき、医師が患者やその家族に説明し、その理解と同意を得るにはかなりの慎重な配慮や時間を要するので、医師は父権主義的に患者やその家族への説明と同意を要しないと考えたり、救命が成功しても患者に意味のある生存を与え得ない場合には、蘇生術の実施は無益であると一方的に決定してしまう傾向がある。しかし、患者やその家族は、蘇生術の実施により多少なりとも延命が可能であるならば、相続その他の関係も絡んで、蘇生術の実施を希望する場合があるので、医師は患者との紛争を避けるためにも、患者やその家族に説明をし、その理解と同意を得て、心肺機能停止の際の対処の仕方を決定することが望ましい。しかし、患者がやがて心肺機能の停止に至ると予測されるが、その際には蘇生術を実施しても患者に負担をかけるだけで無益であると考えられるので、蘇生術の実施を差控えたいと、患者やその家族に説明し、その理解や同意を得ることは決して容易ではない場合があるであろう。そこで、心肺蘇生術の実施やDNRオーダー発行についての医師の権限やガイドラインを定めて、患者とのトラブルを生じないようにする必要があると思う。その際、アメリカのニューヨーク州を初めとして制定されたDNR法の諸規定やその施行に伴って生じた諸問題を検討し、参考とすることが有益であると思う。
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赤林 朗, 甲斐 一郎, 伊藤 克人, 津久井 要
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
31-40
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
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フリー
アドバンス・ディレクティブ(事前指示)とは、患者あるいは健常人が、将来判断能力を失った際に、自らに行われる医療行為に対する意向を前もって示すことである。今後の日本の医療現場における患者の意思表示の具体的なあり方を模索するために、人間ドック男性受診者を対象に「治療に関する事前の意思表示」についての知識、経験、意識を問う自記式アンケート調査を行った。有効回答は210部で、81.9%の者が何らかの形で事前の意思表示を示しておきたいと回答した。意向を残しておきたい内容は、終末期の治療方針、病名の告知、臓器提供の意思などについてが多かった。また、意思表示の方法は、だいたいの方針を口頭で家族や知人に伝えておき、代理の決定者は家族または親戚とし、法的整備の必要性はあまり強く意識しない、という回答が多く認められた。最後に今後の日本における患者の意思表示のあり方についての考察を加えた。
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松本 信愛
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
41-43
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
アメリカやオーストラリア等の病院関係者のターミナル・ケアの話には、必ず「パストラル・ケア」という言葉が登場するが、日本ではまだほとんど理解されていない。現在、アメリカを中心に広がっている「病院でのパストラル・ケア」というのは、病人やその家族の「心」を専門的にケアすることである。元来、パストラル・ケアは、死に直面した人々だけを対象にしているわけではないが、特にその真価が発揮されるのは、やはり、そのような場合が多い。本稿では、筆者がアメリカの病院においてパストラル・ケアの訓練を受けたときに経験したいくつかの例を通して、パストラル・ケアというものがどのようなものであるかということを紹介し、日本の病院におけるパストラル・ケアの必要性と可能性を探ってみたい。
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塚本 泰司
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
44-49
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
近年、医師-患者関係において、インフォームド・コンセントがキーワードとして叫ばれ、徐々にその浸透が見られることは、歓迎すべき事であろう。しかしICを倫理規範のみならず法的規範とする、すなわちICを米国のように法理として医療現場に強制することには私は疑問をもつ。本邦でも、説明義務違反を問う医療訴訟が増え、IC法理に添うような判決がみられる。私の専門の脳外科領域でも、脳血管障害の手術に関する裁判例が、平成に入り7件が法律誌上にみられる。このうち5例で説明義務違反が争点になり、3例において義務違反が肯定されているが、その判決趣旨は、必ずしも統一されておらず、我々外科医を困惑させるものもある。医師には患者の自己決定権の尊重のみならず、その安寧を保つという義務もある。ICを法的義務として強調しすぎると、医師は患者に自己決定を強い、患者によっては医師-患者関係が損なわれる可能性があろう。ICを法的義務とする場合には慎重な配慮が望まれる。
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宮脇 美保子, 足立 みゆき, 井山 壽美子
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
50-54
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
看護婦とは誰か、看護とは何か。看護婦は看護を必要とする人々のために存在する。特に、人々の生活の中で最も深刻な、そして情緒的に混乱した状況に直面している人々を援助する。ここ数年、生命倫理は医療従事者の中の重要な論点となっているが、それは教育においても同じである。しかし、生命倫理に関する教育は、学生に単に講義するだけでは効果はない。そこで、今回「生命の質」について考える授業で、学生の動機付けと自己思考力を高めるために「安楽死事件」のビデオテープを教材として用いたところ成果が得られたのでその結果を報告する。
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宮野 彬
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
55-60
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
オランダの埋葬法の改正(法案22572号)の機会に同国の安楽死の実情についてわが国のテレビ局が紹介したことにより、安楽死問題への関心は、俄に高まった。オランダの安楽死についての熱い視線は、カナダでも同様であって、それがカナダのモデルになるかどうかについて、カナダは、1992年に、マニトバ大学において、オランダの弁護士と医師を招いて国際会議を開催している。安楽死の基本原則として、「最後の頼みの綱としての医療上の手段」および「患者のオートノミーの尊重」の二点が指摘される。とくに、後者の部分は見習うべき点といえよう。問題点としては、精神的な苦痛も安楽死や自殺幇助を認める理由になりうるか、安楽死や自殺幇助の要求は、末期の状態に至らなくても認められるか、が中心となろう。これらの点については、すんなり受け入れることはできない。緩和ケアの在り方や社会的な文化の背景がかなり異なる。日本的な答を用意すべきである。
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熊倉 伸宏
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
61-67
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
ホスピスや在宅ケアにおいて患者は、単に延命に始終する治療を拒否し、いかに死ぬかを自分の意志で選ぶことができるようになってきた。この目的のために「死ぬ権利」が、患者の自己決定権を根拠として導入された。しかし自己決定権の原型は、Mill JSが「自分自身、その身体とこころに対しては個人に主権がある」とした点にある。ここに新たな問題が生じてきた。もし「死ぬ権利」が「死の選択権」を意味するのならば、耐えがたい心理的苦痛から逃れたい者が、論理的に「自殺する権利」を主張できる可能性が生じたからである。そのような考えから「自殺する権利」が主張され、致命的薬物を使用し、あるいは「自殺マシーン」を用いて自殺幇助する医師が登場した。この論文では、「死ぬ権利」を持続的植物状態、末期状態、自殺の3つの臨床類型に分けて比較検討し、その構成概念と正当化論理の異同を論じ、「死ぬ権利」の現在的な定式化を試みた。結論的には、1)医療行為として主張される「自殺する権利」と個人への医療の不可侵性としての「死ぬ自由」を区別する必要性を示し、2)「死ぬ権利」を「死の選択権」としてではなくて、「死が切迫した状況下において疾病過程によって患者の主体消滅が不可避な場合に、死に方を選択する権利」と定式化して論じた。この定式化によって、安楽死と自殺幇助の間に想定すべき明確な差異について論じた。
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坂江 千寿子, 上見 幸司
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
68-74
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
本研究は、人々が脳死移植について考える際に、入手できる情報の-つである新聞を取り上げ、内容分析の手法を用いて近年の報道内容を明らかにする試みである。研究の対象は、見出し文に「脳死」と「臓器移植」の両者を含む(読売新聞社、1987年〜1995年、著作権交渉中の記事6件を除く)114件の記事とし、漢字語のソートプログラム(JSORT)を用いて(1)漢字語の経年変化、(2)特徴的な増減を示すキーワードの推移を明らかにした。次に、漢字語のみでは解釈に限界があるため、BGREPプログラムを用いてキーワードを含む文字列を検索し記事本文に遡って分析した。本研究では、キーワード「意思」を検索し、何を対象にした誰の意思がどのように言及されているかについて分析した。その結果、(1)「脳死体」や「忖度」などの特徴的な増減を示したキーワードを特定し、(2)「脳死体」や「脳死患者」などのように、生か死かの判断を迷わせるような造語の出現と、(3)「意思」の主語の多様性などを指摘することができた。そして、キーワードとしての「意思」の主体者が(4)本人から「家族あるいは遺族」に拡大し、また近年では、(5)「本人」の「意思」を「忖度」することの是非が報じられていることが判明した。
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伊藤 幸郎
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
75-79
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
脳死からの臓器移植問題を論じるための出発点は脳死臨調全員の一致点「自分が脳死状態になったら進んで臓器を提供したいという意志を明確に表明している善意の人がいた場合、第3者が臓器提供を阻止することはできない」である。脳死を人の死とすることへの反対論は依然根強い。しかし脳死を人の死としない場合は脳死者の死亡時刻を臓器摘出時とせざるを得ず、レシピエント側の抵抗感が強い。そこで現在国会に提出中の臓器移植法案の「死体(脳死体を含む)」の文言はこの法律の適用範囲(臓器移植)の場合に限るという但し書きをつけることを提案する。また医師へのガイドラインに「脳死判定は次にとるべき行動(臓器提供または尊厳死)が明らかな場合にのみ行う」と明記する。それ以外の場合は家族の感情を重視しつつ「とりあえずの処置を行う」ことを続けてよい。脳死は未然に予防すべきで、脳死からの臓器移植も将来はゼロにすべき過渡的医療である。
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高木 美也子
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
80-83
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
The ability to secure property interests in technological processes, products and know-how encourages development of technology. One factor to evaluate competitiveness in biotechnology is intellectual property law. The intellectual property law most relevant to biotechnology are those dealing with patents. The patents relating to the protection of biotechnological inventions and related know-how were compared and contrasted in Japan and the United States. The major differences are as follows. 1) Japanese patent excludes method inventions in the field of therapeutic or diagnostic treatment of humans, although patent protection can be obtained for them in the US. 2) The patented process may be used in other countries to make the same products, which can then be imported into the U.S. and compete with the product made by the owner of the U.S. process patent. Although Japan defines this action as infringement of that process patent, the U.S. does not. 3) A grace period between the date of any publication by the inventor relating to the invention and the filing of a patent application, is for 1 year in the U.S. and for 6 months in Japan.
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木田 盈四郎
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
84-88
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
私は女子短大生に、講義で若干説明した後、1.「私のうちは両親とも健康で、血のつながったものも全て健康である。従って私に悪い遺伝子はない。」2.「遺伝病のヒトが全部子どもを作らないようにすると、地球上から遺伝病のヒトはいなくなるはずである。」と言う質問をした。1.の正解率は254/377(67.3%)で、2.の正解率は314/377(83.8%)であった。この事実は、-つ-つの疾患の「良い悪い」の判断は、誰が何時どのような権限で行なうことが出来るのか。遺伝病は全部なくさなければいけない「悪いもの」であるか。「人為的淘汰」によって遺伝病はなくすことができるか。人工妊娠中絶を社会が強制する必要があるか。そうした問題は当事者である患者本人を含めた社会一般の人の意見を聞かないで、専門家と役人だけで決めてよいものなのか、などという現在の人類遺伝学者が避け、議論しない「生命倫理学」の課題に対し「優生思想」の根深さを示している。優生思想は、1885年にイギリスのゴールトンが提唱した概念で「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良のものを保存することを研究する学問でヒトラーが悪用した」。ヒトゲノムの研究者は同じ轍を通ってはならない。
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内田 宏美
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
89-94
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
1994〜1996年度の国立K医療短大看護学科2回生延べ233名の、「あなたの声が聞きたいpartll」と「尊厳死を求めた家族の記録」のVTR鑑賞後のレポートから、対象の人間観・生命観と生命倫理上の問題を分析した。遷延性意識障害者へのケア選択の姿勢から、対象群には命のかけがえのなさや生存の権利を主張する生命尊重派に対して、自己決定の優先性を主張する意志尊重派がやや優勢な傾向がみられた。さらに、自分と家族の場合でのケア選択を比較すると、両派とも同レベルで自分には尊厳死を求める傾向を示し、意志尊重派では家族にも尊厳死を求める傾向がみられた。このことから、生命観の如何に関わらず、意志の捉え方に多様性がなく、無意識に、人間性をもつ人格だけを尊重するパーソン論の立場をとっている可能性が示唆された。以上より、医療者として自己の生命観・人間観を意識化することが重要だと考える。
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菅原 スミ
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
95-102
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
本研究は、看護婦の日常的な看護活動の中に起きているジレンマについて、臨床経験4年以上の、いわゆる中堅看護婦(25名)に半構成的質問用紙に基づいたインタビュー調査を実施し、ジレンマの倫理的な構造を明らかにすることを目的としたものである。看護婦が感じている問題状況の中から、倫理的ジレンマと考えられる場面を著者が選択し、延べ52場面を考察の対象とした。これらの場面では、倫理的原理が並存・対立していると解釈できるがそうした原理として、エンゲルハートの「自律」の原理と「恩恵(善行)」の原理、さらには看護婦の職業倫理により次のように分類された。(1)「自律」と「善行」の原理の対立によるジレンマ(2)「自律」の原理の不徹底により生じるジレンマ(3)「善行」の原理の不徹底により生じるジレンマ。これらは、人間関係において生じているが、さらに看護婦の職業倫理の問題も複雑に絡み合っていることが明らかになった。また、看護婦はこれらの問題を倫理的問題という自覚はしていないため、個人的な力量や問題状況という捉え方をしてしまっていることが分かった。また、これらの問題の分析視点としてエンゲルハートの生命倫理原理が活用できることが確認できた。
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浅井 篤, 福井 次矢
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
103-108
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
臨床現場で患者の診療に当たっている医師は、日常的に多岐にわたる倫理的問題にしばしば直面している。この論文では、筆者らが実際に経験した2つの症例を提示し、13項目のジレンマ検討のための枠組みを用い、倫理的分析を試みた。この枠組みには、(1)何が問題となっているか、(2)誰が問題としているか、(3)どのような医学的状況か、(4)医療関係者の判断はどのようなものか、(5)患者の解釈モデル、希望は何か、(6)家族の希望はどのようなものか、(7)感情的、利害問題の有無、(8)関係者間のどこに不一致があるのか、(9)いかなるジレンマ解消の努力がなされたか、(10)どのような意思決定がなされ、その根拠はなにか、(11)関係者は納得しているか、(12)関係者は満足しているか、(13)下された判断の倫理的妥当性はどうか、が含まれている。また、どのような倫理原則に従った判断が妥当であるかも考察した。
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奈良 幸一
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
109-113
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
In Japan people are engaged in the search for terminal care that specifically addresses the current situation in this country, but medical care practitioners seem hardly at all disposed to seek cooperation from people of religion. At the root of this situation we find a narrow conception of religion that attempts to separate from quite ordinary Japanese people what is broadly seen as"religion"in present-day society, and apply special significance to it. As a matter of fact, there are not a few medical care practitioners who understand religion to mean having"a certain belief, "point out the tenuous connection between religion and the Japanese, and evince doubts about collaboration with religion. But since ancient times the Japanese have had a looser relationship with religion, in which people combine a variety of elements from certain religions as the sustenance in their everyday lives instead of believing in a certain religion. The view of religion needed in Japan's terminal care should presume this tenuous relationship between the Japanese and religion, and assume a broad-based form that can take into consideration the religious sense of the Japanese, which comprises elements compounded from various religions, instead of a narrow view of religion that suits only a mere handful of people.
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曽根 宣雄
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
114-118
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
ターミナルケアにおける医療関係者の基本的な取り組みは、「(1)患者に努力を要請する立場」と「(2)患者のありのままを受け入れる立場」の二種類に分類することができる。この問題を仏教(宗教)と関連づけて考察したのが本稿である。まず私達は、人間とは悩みや苦しみにさいなまれた弱い存在であることを再認識すべきである。ターミナルケアにおいては、人間の実存的な姿こそ問題にすべきであり、そこより論じられるものでなければ、本当の意味でのケアとはならない。凡夫である私達には、「母性的宗教」や「救いの宗教」という言葉で定義されるような無条件的な包容性こそが必要とされるのである。
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松田 正己
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
119-124
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
日本において生命倫理を担う人間(バイオエシスト)の課題と可能性を、3人(谷中輝雄、石川左門、丸地信弘)の地域活動の先覚者に学び、今後の日本の文化に根差した生命倫理の実践・教育・研究の指針を考察した。
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長瀬 修
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
125-129
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
フリー
ろう児への人工内耳手術が論争を呼んでいる。人工内耳手術とは内耳に小さな電極を挿入し、音を電気信号に変換、聴神経に直接、電気刺激を伝える不可逆的な手術である。ろう者の組織の多くは各国でろう児への人工内耳手術に反対する運動を繰り広げ、95年の世界ろう者会議は「ろう児に人工内耳手術を勧めない」と決議した。手話を確固たる言語として認識する動きと、ろう文化の主張が背景にある。日本でも93年の「Dプロ」の結成を契機にろう文化運動は上げ潮である。ろう児への人工内耳手術に対しては、(1)現技術レベルの人工内耳は中途半端であり、音声言語、手話言語共に身につかないという批判と、(2)聴者である親が本人の自己決定抜きで、ろう者を聴者に変えようとするのは許されないという倫理的な批判がある。ろう者としての独自の世界があることを、聴者の親に伝える努力が求められている。ろう者自身の組織から、ろう児の親への積極的な情報提供、相談の役割が期待される。
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深津 宜子, 赤林 朗, 甲斐 一郎
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
130-135
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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日本の一般病院における倫理委員会の設置状況および倫理的問題への対応の現状を把握することを目的として、病院長宛の郵送による自記式質問紙調査を行った。全国の大学病院を除く300床以上の一般病院(全数調査、n=1455)、および100〜299床、20〜99床の病院(20%を無作為抽出、それぞれn=785、n=848)、計3,088病院を対象とした。回収率は44.3%であった。倫理委員会の設置数は、300床以上の病院においては181病院(24.3%)で、300床未満の病院にも少数ながら倫理委員会が設置されていた。全体の13.2%の病院は宗教上の輸血拒否患者の治療について、何らかのガイドラインを持っていた。個々の症例の倫理的問題に対しての助言・判断は、全体の75.6%が「必要がある」と回答した。そのうち20.1%の病院からは「助言・判断は、専門の委員会の仕事の一部として行われたらよい」と回答が得られた。今後は、医学部・医科大学、行政組織、医学系学会、職業集団組織など、様々なレベルにおける委員会組織との相互の関連性を包括的に検討した上で、医療現場での意思決定における倫理委員会の役割を明確にしていくことが必要であろう。
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原稿種別: 付録等
1997 年 7 巻 1 号 p.
136-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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玉井 真理子, 加部 一彦
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
137-141
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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新生児医療に携わっている医師580名(産科および小児科)の羊水検査に対する態度を、質問紙によって調査した。設問には、「第1子がダウン症だった場合に次の妊娠に際して羊水検査をすすめるかどうか」という事例を用いた。305名分の有効回答が分析の対象とされ、その結果、約70%の医師が、説明はするが検査を受けるかどうかはクライアントにまかせると回答した。一方、クライアントに検査をすすめるという回答も約20%ほどみられた。また、これらの回答は、医師の専門性によって影響を受けていた。医師の個人的な資質や倫理観に頼るのではなく、遺伝カウンセリングを整備する必要がある。
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山田 秀敏
原稿種別: 本文
1997 年 7 巻 1 号 p.
142-146
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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脳死状態の人はなぜ死んでいるのかを説明するとき、必ず出てくる二つの議論がある。有機体統合説と最重要臓器説である。しかしながら、それらの二説をもっても未だ脳死議論に決着がついたとは言い難い。その理由はそれら二説は全体性の観点から必ず反論されるからである。拙論では、これら二説によるのみでは脳死議論は論理的に言っても決着がつかないことを説明した。なぜなら、これら二説は全体性からする脳死反対論の反定立にすぎないからである。従って、拙論では、こうした量的な議論はやめて、質的な議論をすべきではないかと提唱した。それは減少と絶滅との間の質的差異に思いをいたすということである。
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原稿種別: 付録等
1997 年 7 巻 1 号 p.
147-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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原稿種別: 付録等
1997 年 7 巻 1 号 p.
148-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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原稿種別: 表紙
1997 年 7 巻 1 号 p.
Cover2-
発行日: 1997/09/08
公開日: 2017/04/27
ジャーナル
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