法制史研究
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61 巻
選択された号の論文の51件中1~50を表示しています
論説
  • 松江藩郡奉行所文書を手がかりに
    橋本 誠一
    2012 年 61 巻 p. 1-50,en3
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー

    筆者は、別稿において、明治初年(王政復古の大号令から廃藩置県までの時期)における中央政府の聴訟事務(民事訴訟)について検討した。本稿は、それに引き続き、当該時期における地方の聴訟事務を分析する。明治初年の裁判・法、とくに地方の聴訟事務は、法制史研究にとって一つのミッシング・リンク(missing link)といえる。かつて石井良助は、司法職務定制(明治五年八月三日)が定められる以前の裁判手続について、「この当時の民事訴訟法の実体は全くといってよいほど不明であった」と述べた。その後の研究の進展にもかかわらず、そうした状況はいまも基本的に変わっていない。そこで本稿は「松江藩郡奉行所文書」を利用して、当該時期における松江藩の裁判機構と民事裁判手続の解明を試みようとするものである。その課題を達成することで、近世法と近代法を一つの流れの中で連続的かつ実証的に把握することできるだろう。本稿は、民事裁判手続を解明するに当たって、二つの民事裁判例を取り上げた。一つは田地売買差縺一件(明治三年)、もう一つは煮売旅籠代銭滞一件(明治三~四年)である。それら裁判例の分析を通して、本稿は、とくに〈近世法と近代法の連続〉という点に関しては次のような仮説を提示した。第一に、大阪・松江間の金銭債権訴訟(金公事)では、明治新政府の諸法令にもかかわらず、近世大坂法が依然として実体法的・手続法的に機能していたという事実を踏まえ、大阪府庁を中心に近畿・中国・四国地方では近世以来の大坂法が一つの相対的に独立した「法圏」として存在し続けていた可能性を示唆した。第二に、近世大坂法における金銭債権訴訟の召喚手続は、藩当局の介入の下で内済成立に向けた処理(返済金の調達、分割弁済案のとりまとめ、家財処分などの強制執行手続など)を行うものでもあったという事実を踏まえ、それは明治期の勧解制度の直接的起源といえるものではないかと指摘した。

叢説
  • 「当知行」の効力をめぐって
    松園 潤一朗
    2012 年 61 巻 p. 51-81,en4
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー

    本稿では、室町幕府の安堵と施行の制度について、「当知行」の効力という観点から検討を加える。日本中世の土地法において「当知行」(占有)は、「安堵を受ける効力」と「知行保持の効力」を有したと指摘される。しかし、右の効力は中世を通じて等しく見られたわけではなく、政権ごとの法制の相違という視角が重要である。
    建武政権は、鎌倉幕府が譲与安堵の制度を整備したのに対し、当知行安堵を広く実施した。また、所領への妨害行為(「濫妨」)に対し、当知行安堵の施行や「濫妨」停止命令という形で「知行保持」の手続を行った。建武政権では、「当知行」に基づいて安堵と施行(「知行保持」)がなされる体制であった。
    室町幕府の足利直義・義詮期には、安堵は譲与安堵等が中心となり、施行とは基本的に切り離される。所領への妨害については、「知行保持」に加えて、所領の回復を行う「知行回収」の手続も行われたが、手続では訴人の主張する所領知行の本権の確認がなされた。
    足利義満期には武士・寺社本所への安堵の発給が増加する。安堵の根拠は譲与・公験等が中心だが、応永年間(一三九四~一四二八)以降、当知行安堵の発給が増加する。また、義満期から足利義持期の途中まで、所領の当知行・不知行にかかわらず「安堵」が発給され、それに基づく施行・遵行もなされた。「安堵」施行の実施の背景には将軍(室町殿)の認定を示す「安堵」の法的効力の増大があった。
    足利義持期の応永二〇年代には、当知行安堵の発給が原則化される一方、応永二九年の法令で「安堵」施行は停止される。「安堵」施行が所領回復に利用されることを防止するためである。同じ時期に、幕府法廷での訴訟手続の整備がなされ、一方的に「知行回収」を命じる文書は大きく減少する。法制の変化は、訴人の所領回復の重視から当知行保護の重視への政策転換を意味する。また、守護も当知行安堵を発給し、各地で当知行安堵が行われる体制が形成された。
    足利義満期に築かれる「安堵」施行の体制は、「安堵」に強い効力を付与する点で特異なものである。また、「当知行」の効力は中世を通じて見られるが、各政権の法制への作用の仕方はそれぞれ異なる。政治的な認定行為である「安堵」との関係を見ていくことで、中世の知行について議論を深めることが可能になる。

  • 党系統の情報機関と司法機関の連繋
    三橋 陽介
    2012 年 61 巻 p. 83-114,en6
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー

    本稿は、党国体制下の司法制度の底流になる「司法の党化」に着目し、その現れの一つである党系統の情報機関が関与した反省院―政治犯を矯正する特殊な教育施設―の設置の経緯と人事を検討することで、中国国民政府初期における中国国民党と司法機関の連繋を明らかにするものである。
    党国体制下の司法当局は、国家の富強が個人の自由に優先するという考えの下、敵対する勢力(中国共産党)を取締まる特別法を設けて中国国民党政権の維持に資する司法制度の構築をはかりつつ、憲政に備えた「近代化」を模索していた。前者に比重を置いた「司法の党化」を推進する勢力は、立憲主義の確立を目指す勢力と鬩ぎ合いながら、「司法は党の決定する政治の下にあるべきである」とする方策を引継いで司法機関を運営していった。
    一九三二年に司法院から行政院に司法行政部の所管が変更されると、司法院は全国に赴任する司法官の人事権と司法経費などの権限を失った。そして、司法行政部部長の羅文幹によって人権と自由権が重視されると、これまでの「司法の党化」の路線は抑えられた。司法院の要職をほぼ独占し、党と政府の要職を一定数占めた旧西山会議派と、党系統の情報機関を任された陳立夫を中心としたCC系は、それを不満として司法行政部を司法院に回帰させ、部次長人事に介入して、司法官の党員化を積極的に進めた。
    一九二七年四月の清党後、旧西山会議派の沈玄蘆を院長に、浙江省に浙江反省院が設置された。司法行政部は、浙江反省院の修正草案を参考に「反省院条例」(一九二九年一一月二五日)を制定し、反革命犯を感化するための反省院を設置した。院内は総務、管理、訓育の三科に分かれていたが、一般の監獄とは異なり、訓育科が中心となる特殊な教育施設であった。反省院には数多くの中国共産党員が収容された。
    当初、反省院院長には、高等法院院長が兼任し、司法機関側が実権を掌握していた。一九三三年に「各反省院を中央の直轄に改める案」が出されると、党系統の情報機関が反省院の実権を掌握し、徐々に勢力を伸ばしていった。
    党国体制下の司法機関と党系統の情報機関の連繋の裏には、中国国民党中央執行委員会における、旧西山会議派とCC系による有形無形の支持があったことを提示する。

  • 苑田 亜矢
    2012 年 61 巻 p. 117-150,en8
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー

    本稿は、二重の危険〔の禁止〕の原則の歴史的起源を辿る際に必ず言及されてきたベケット論争における二重処罰禁止原則に焦点を当て、二重処罰禁止原則がカンタベリ大司教トマス・ベケット自身によって主張されたとする、従来の研究においては自明視されてきた点を、再検討するものである。
    ベケット論争とは、一二世紀後半にイングランド国王ヘンリ二世とトマスとの間で生じた、主として裁判管轄権をめぐる争いのことである。この論争の一契機となったのは、ヘンリ二世によって成文化された一一六四年のクラレンドン法であり、特に問題となった条項の一つが第三条である。第三条は、犯罪を行なった聖職者に対する世俗裁判権の行使を宣言しているとともに、教会裁判所における有罪判決に基づく聖職剥奪という制裁後の世俗裁判所における処罰を定めている。それ故にトマスは、聖職者の特権と二重処罰禁止原則を主張して、これに反対したとされている。
    従来の研究において、トマスが二重処罰禁止原則を主張したとする根拠として用いられてきた史料のほぼ全ては、トマスの死後に作成されたトマス伝等であり、それらはどれもトマス自身の手によるものではない。そこで、トマス自身の書翰の分析を試みたところ、トマスは、二重処罰禁止原則ではなく、例外なき聖職者の特権を主張したとみることができることが判明した。
    このトマスの主張は、当時の教会法理論と合致するものではない。というのは、ベケット論争開始から一一七〇年のトマス死去までの間、ボローニャ学派であれ、アングロ・ノルマン学派であれ、彼らの教会法理論の中では、二重処罰が容認されているからである。また、トマスの死後、教会法理論の中からは二重処罰容認の考えが消えるが、それに変わって登場するのは二重処罰禁止原則ではなく、聖職者の特権の主張である。
    二重処罰禁止原則を採用して主張する考え方は、ベケット論争当時、ボローニャ学派のみならず、イングランドでは、アングロ・ノルマン学派においても、国王においても、トマスにおいても、そして(大)司教達においても見られない。それが見られるのは、イングランドにおいては、トマスの死後に作成されたトマス伝等においてのみである。この点が、二重の危険の原則(或いは二重処罰禁止原則)の歴史的起源の文脈でベケット論争に言及する場合の注意点である。

学界動向
  • 松田 恵美子
    2012 年 61 巻 p. 151-169,en10
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー

    本稿は現段階での日本における台湾法制史研究について、土地法研究という観点から分析をなすものである。そしてそれは近代日本の土地法研究と中国法制史分野での土地法研究の議論を整理し、得られた知見に基づいて行なう分析である。
    分析の結果、台湾の土地法制の歴史的展開や土地との関わり方の意識について、日本との類似性が認められることがわかった。また戦後の台湾において土地問題に関して様々な法的議論がなされている点にも共通性を感じる。
    この点から、日本統治下台湾での土地法制の展開や、その中で見られた議論の更なる分析に基づき、類似性以外に、制度面での特殊性、また土地法観念などの特徴を明らかにすることが、台湾法制史研究の更なる発展につながるのではないかと思われる。そしてそれはまた法制史学、法社会学、民法学の結節点としての研究の展開を意味するのである。

  • 高橋 直人
    2012 年 61 巻 p. 171-210,en11
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー

    本稿は、主に二〇〇〇年以降のドイツにおける近代刑法史研究の動向を取り上げつつ、そこから日本におけるドイツ近代刑法史研究のいっそうの深化への手がかりを得ることを課題とするものである。近年のドイツの学界には、以下の注目すべき動向が見いだされる。①「近代刑法史」に特化した通史という従来みられなかったタイプの著書が、フォルンバウム氏によって公にされ、なおかつ同書は近代刑法史研究の本格的な方法論の提示を含んでいる。②ドイツ近代刑法史の基本的な部分(例:フォイエルバッハの刑法理論や「学派の争い」)を批判的に再検討しようとする動きが徐々に高まっている。③学説史や立法史のみならず、いわゆる「学問史(Wissenschaftsgeschichte)」の手法や、刑法(学)の担い手およびその活動の実態にも注目する社会史的な手法など、研究上のアプローチの多様化が進んでいる。④ドイツの近代刑法史を、他のヨーロッパ諸国(特にフランスやイタリア)との関係の中で扱おうとする作品が増えつつある。⑤関連史料の公刊が大幅に進展している。これらの動向を参考に日本の現状を見直すと、以下のような示唆が得られる。まず日本においては、権力批判・現状批判という問題意識のもと、ドイツの先行研究における以上に啓蒙期の刑法(学)の輝かしい功績が強調され、とりわけフォイエルバッハの刑法理論については「近代刑法」の理想のモデルとしてその歴史的意義が浮き彫りにされてきた。このような取り組みそのものは現在も重要である。ただし、近年のドイツの研究成果をふまえていえば、現状批判のための理想像であるはずの初期の「近代刑法」それ自体が、まさにその批判されるべき現状をいずれ生み出すことにつながる側面を同時に胚胎しているのではないか、という悩ましい問題にもわが国の研究はいっそう向き合っていかねばならない。また、「近代刑法」の実像をより多面的・重層的・動態的に理解していくため、学説史や立法史にとどまらない多様な切り口(学問史や社会史の手法等)を取り入れていくことも有効である。そして、一方でドイツの研究動向を参考にしつつも、他方で特に「近代化」との関わりにおいて明治以降、さらに戦中から戦後への日本の歴史的経緯の中で、わが国の先行研究が育んできた独自の問題意識や方法論をふまえつつ、その理解と省察の上にたって今後の研究のあり方を模索していく必要がある。

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