法制史研究
Online ISSN : 1883-5562
Print ISSN : 0441-2508
最新号
選択された号の論文の44件中1~44を表示しています
論説
  • 上田 理恵子
    2013 年 62 巻 p. 1-34,en3
    発行日: 2013/03/30
    公開日: 2018/04/04
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は、一九世紀後半のオーストリア民事訴訟立法作業において口頭主義の導入をめぐる動きを明らかにするとともに、弁護士層が新民事訴訟法の「批判者」であるという従来の評価を見直すことにある。
    フランス革命以降のヨーロッパ大陸諸国における民事訴訟立法では、自由で自律した市民が自身の言葉と責任で権利のために闘争するという自由主義的な訴訟観に支えられ、審理における口頭主義が公開主義とともに大原則の一つとなった。一八七七年に成立したドイツ帝国民事訴訟法は、その集大成であると位置付けられる。
    このドイツ法にならって、オーストリア=ハンガリー二重君主体制下のオーストリアでも自由主義的な民事訴訟立法が数度にわたって試みられるが、いずれも失敗に終わる。ようやく一八九五年に成立した民事訴訟法の口頭審理には、訴訟の迅速化、真実発見のために大幅に制約が課せられていた。その基礎にあったのは、訴訟は個人による権利のための闘争というよりは、社会的に弱い当事者を保護するための福祉政策の一環であるという、起草者フランツ・クラインによる訴訟観の転換であった。
    新民事訴訟法に対して、ドイツの著名な民事訴訟法学者であるアドルフ・ヴァッハやウィーンの弁護士イグナツ・コーンフェルトらは、市民の自由を尊重する立場から、口頭主義の制限を批判した。
    オーストリアの弁護士団体も、長年にわたり、口頭主義や公開主義を原則とした民事訴訟法の制定を要求してきたため、一八九五年の新民事訴訟法に対しては批判者とみなされることが多い。
    しかしながら、法律専門雑誌に寄せられた各地の弁護士から寄せられた記事を吟味すると、従来から口頭審理の導入に対して、実務に即して憂慮してきた声も散見される。さらに、新民事訴訟法に対する批判点は、専ら具体的に弁護士の利益に反する規定に対してであって、新しい民事訴訟制度全体に対しては、むしろ協力を惜しまない姿が浮かび上がってくる。

  • 鈴木 秀光
    2013 年 62 巻 p. 35-84,en5
    発行日: 2013/03/30
    公開日: 2018/04/04
    ジャーナル フリー

    本稿は、官僚制末端の州県官の上司との関係に着目して、清代の刑事裁判における州県官の対応や州県官に存在した選択肢の広がりを解明するものである。
    清代の刑事裁判において州県官が行う主要な手続段階として、「通詳」、「法廷審理」、「刑罰の判断」が存在する。これらについて淡新檔案の盗案の科刑事案より確認すると、まず通詳については、事件発生自体のでっち上げの可能性を否定できない場合や処理の見通しが立っている場合には行われず、事件が発生して捜査が必要となる場合に行われるものであった。またそれは、覆審の手続や未解決による処分可能性を考えれば、上司との関係において下僚が求められる手続という要素が強いものであった。法廷審理について、その中心は犯罪者や関係者への訊問であるが、そこで得られる供述もまた下僚の上司との関係において規定されるものであった。犯罪者にとって戦略的になされている供述であるが、それを整合性ある形で取り揃えて当事者親族が共有できるストーリーを形成することは上申のためであり、上司が介在しない事案においては共有ストーリーを形成する必要もなかったし、罪状自認がなされている必要もなかった。刑罰の判断については、自理事案の場合は成文規範に依拠すべきと考えられる鎖帯石■注1や死刑でもそれを確認できない一方で、上司の関与する事案では成文規範に依拠していたことを確認できることからすれば、成文規範への依拠もまた上司に対して行われる手続と見なし得るものであった。
    このような淡新檔案から得られる知見については、当時の主要な官箴書からも読み取ることができるため、清代中国において一定程度の普遍性を有していたと見なすことができる。しかしその一方で、当時の刑事裁判において官僚が遵守すべき法や制度が存在していたこともまた事実である。ここより、当時の刑事裁判における手続の大勢、また官僚が法や制度を「守る」ことの実態とは、法や制度を尊重して必要な限りで依拠するも、より適切な結果が生じる手段が存在すればそれを選択することであったと考えられる。そしてこのことは、より優れた者が高位に立ち適切な判断ができるとする官僚制の理念的構造の反映と見なし得るものである。またこうしたあり方を刑事裁判において州県官に存在する選択肢の広がりへと還元した時、まず大きくは上申か自理かという選択肢が存在し、その先に法や制度に依拠することを含め様々な選択肢が存在していたと考えられる。そしてそれらはいずれも官が行う行政作用の一環であって、そこにおいて民衆は裁判の対象として存在するに過ぎなかった。

    注1: 石偏 (いしへん)に敦

叢説
  • 大貫 俊夫
    2013 年 62 巻 p. 85-115,en7
    発行日: 2013/03/30
    公開日: 2018/04/04
    ジャーナル フリー

    シトー会修道院の保護形態は、かねてより中世史研究の中で最も重要な研究対象であり、とりわけドイツ語圏の歴史研究において頻繁に議論された。その礎を築いたのは法制史家のハンス・ヒルシュとテオドール・マイヤーである。彼らの研究成果は三つの観点から整理することができ、それらは後世の研究者に強い影響を与えた。しかし、これまでの領邦国家形成と結びついた議論には一定の論理の飛躍が見出される。シトー会士の庇護者は、自分のdefensio(庇護)の下にある修道院を、初めから自らのランデスヘルシャフトに引き入れるために保護したわけではない。というのも、領域的・制度的に安定した支配権は一四世紀になって初めて把握されるからである。そこで本稿は、これまで詳しく考察されてこなかった一二~一三世紀のシトー会修道院の保護形態を分析する。
    この問題に取り組むにあたり、題材としてトリーア大司教区内にある二つのシトー会修道院オルヴァル(Orval)及びヒメロート(Himmerod)を採り上げる。第一章ではオルヴァルとシニ伯、ヒメロートとトリーア大司教の法的関係を分析した。そこでは、トリーア大司教の司教裁治権を除き、法的関係について明確な規定は見出されなかった。それゆえ、シニ伯とトリーア大司教の庇護者としての排他的な地位は確認されない。それとは対照的に、そうした排他的な地位は第二章で分析した霊的関係から導かれる。シニ伯とトリーア大司教のみが、修道院から継続的に修道院内における埋葬と修道士による周年記念を享受していたのであった。
    第三章では、両シトー会修道院のフォークタイ問題が考察される。修道院創建から半世紀後、フォークタイは修道院と地元中小貴族の間に勃発する係争の主要因となった。シニ伯は一二二六年の家門断絶ゆえに、そしてトリーア大司教は一一八三~一一八九年のシスマゆえに効果的な保護が果たせなかったため、両修道院は庇護者の代替を求める必要があった。このことから、庇護という保護関係には脆弱性が備わっていたことが分かる。
    以上の分析に基づき強調されねばならないのは、シトー会士は自らの霊的な役割を実に的確に果たしていたということである。これによって彼らは、庇護を代行する諸権力の支援を獲得できた。シトー会修道院はこの霊的営為を駆使し、領邦君主のみならず、旧来のフォークタイ的支配の慣習から決別しきれていない中小領主層までもを庇護という画一的な法観念に巻き込んでいった。ここに、新しい修道運動が引き起こした国制的ダイナミズムが看取されよう。

書評
feedback
Top