色や形,大きさを表現する言葉,音色や声色や動物の鳴き声を表現する言葉,触り心地や固さを表現する言葉,味を表現する言葉といったように,視覚・聴覚・触覚・味覚にはそれぞれの感覚モダリティを人間が感じた時の刺激対象の表現方法が存在し,それゆえに,その刺激対象の特徴を他者に伝達することができる.しかし,嗅覚に関しては,嗅覚モダリティ特有の表現方法が存在しないことがその特徴とすらなっている.
しかし,香りは私たちの日常生活で食べるものや使用するものには欠かせない存在であり,食品や香粧品業界では商品の香りを社内で検討する必要があり,またそれを消費者に伝える必要もある.悪臭が発生している場合にも,どのような悪臭が発生しているのか報告する必要性も生じる.調香師には調香師仲間で用いる共通言語があり,ワインのソムリエにもそのような言語体系があるが,調香師やソムリエは自分のオリジナルの言語をこの共通言語に通訳して用いているとも言われている.
また,あるにおいを「何のにおい」と一旦表現してしまうことで,その「何」に対する一般的な知識や価値からそのにおいに対する好き嫌いや快不快までもが左右されてしまうことがある.反対に,「バラの香り」と言われ,期待して嗅いでみたら,自分のイメージとはまったく異なっていてがっかりするようなこともある.においを言葉で表現することは上述のように必要である一方,様々な問題を生じさせることにもなる.
少し話題がそれるが,最近,訳書として出版された「アノスミア」(勁草書房)には,感受性豊かで聡明な著者がシェフを目指すべく,有名レストランで修業を積み,様々なにおいを覚えていくが,ある日交通事故に遭い,頭部を強打することで,嗅覚を失ってしまう「物語」が描かれている.完全なノンフィクションであるが,劇的にストーリー(状況)が展開し,興味深い記述が次々と出現する.彼女は頭部外傷により嗅覚神経系がばっさりと切断されてしまったと思われる.通常,このような状態に陥った後に嗅覚を回復することは滅多にないのだが、様々な奇跡が重なり,彼女は次第ににおいの感覚を取り戻していく.しかし,嗅覚を失う前までは,様々なにおいを自分の体験に結び付けて生き生きと記述しながら覚えることができたのに,嗅覚が回復し,「においがする(においが知覚できる)」ようになっても,なかなかそのにおいが何のにおいであるのか表現することができないという状況に陥る.思い余って,フランスのグラースに出かけ2週間の調香教室に通うのだが,ひたすら努力をすることで少しずつにおいを言葉で表現できるようになっていく.においを言葉で表現するということはここまで難しいことなのかと,人間の嗅覚システムの神秘について改めて考えさせられる著者の経験談である.
今回の特集では,広く様々な観点から「においを表現する言葉」について執筆をお願いした.
鈴木氏(高砂香料(株))には,経験を積まれた調香師の目線からにおいの言葉に関する様々な問題点を幅広い観点でとらえていただいた.これこそがこの特集の巻頭言と言っても過言ではない.調香師ゆえの,においを表現する言葉へのこだわりが強く伝わり,言葉の重要性を再認識させられる.喜多氏((株)島津製作所)には,におい分析のお立場から,何百種類も存在するにおいを網羅的に表現するのではなく,「相対的」に表現するユニークな発想をご提案いただいた.斉藤氏(斉藤幸子味嗅覚研究所)には,悪臭を表現する言葉について,ご自身の2つの研究をご紹介いただいた.古い研究であるとお断りされているが,このような詳細を積み重ねた研究は時代を経ても色褪せることなく,私たちに貴重な示唆を与えてくれる.「悪臭」であっても,一言では片付けられないほど多様であることは日常的にも経験することではあるが,データとして見せていただけることは興味深い.中野・綾部(筑波大)は,ここ数年取り組んできた,一般の人向けににおいの質を伝える際に,より感覚的な表現であるオノマトペの適用可能性について,その限界とともに紹介した.そして,後藤氏(酒類総合研究所)には,「生き物」であり,さまざまな要因をうけるワインの香りを評価する言葉についてご紹介いただいた.ワインを楽しみながら自分自身で香りを表現するのはかなり難しいことではあるが,ご紹介いただいた「香り」を,次回ワインの香りから探し出してみたいと思う.
最後に,本特集を企画するにあたり,ご多用の中にもかかわらず執筆をご快諾いただいた著者の方々に,本紙面をお借りして,深く感謝申し上げます.
においを表す語彙の少なさについてはよく知られている.しかし,香料開発の現場を始めとして,かおりやにおいの分類や表現にさまざまなことばが使われているのも事実である.本稿ではそうしたことばが使われる場面や目的を,同定,記憶,描写,評価に分けて考察し,分類用語を含めた言語表現の具体的な機能について考察する.また,共感覚表現やオノマトペが多用される意義や,評価において特徴的に見られる,ネガティブ要素の探索という行為が,においのことばを生成するのみならず,嗅覚感度に影響を与える可能性を検討する.
におい感覚のうち,どこまでが客観的な感覚かについて考察を行った.また,その客観的なにおい感覚をうまく定義するためには,適切な言葉表現が重要であることを述べた.この言葉表現を利用してにおいの違いを表現するにあたり,QDA(Quantitative Descriptive Analysis)法的な表現が有効であろうことを説明し,その実例として偏位臭という概念を説明した.
さらに,この偏位臭の概念が,妥当かどうかを調べるために希釈混合装置を用いた簡易官能評価装置を利用した官能評価を行った.さらにその方法を延長させマスキングが定量化できることを示した.
臭気公害における臭気質の評価は,苦情や快不快と関わりのある課題であるが,まだ十分な対策が検討されていない.本稿では,先ず,提示した悪臭を言葉で表現した場合の特徴について,次に,98のにおいの記述語に基づく日本の日常生活臭の類型について述べる.前者では,悪臭の表現には大きな個人差があることが示され,共通の記述語の選定が望まれた.後者では,悪臭も含む日本の日常生活臭の類型の数が,4から19まで階層的に得られ,臭気質の新たな評価軸として「安全—危険」が導かれた.最後に,環境臭気の臭気質評価のための記述語の選定方法について言及した.
本論文では,においの質を言語化する際に生じる問題点について概観し,形容詞を用いてにおいの印象評価を試みた先行研究の知見を踏まえた上で,オノマトペの感覚形容語としての利用性を検討した研究内容について報告した.オノマトペを用いてにおいの質を評価したところ,先行研究と同様に「角がある-丸みがある」という図形的次元と,「ポジティブ-ネガティブ」という情動的次元が抽出された.においの知覚経験とオノマトペの連合学習は成立する可能性が見られたが,その学習内容は未学習のにおいに対しても般化される傾向は示されず,学習直後は逆に干渉を受ける可能性も示された.また,二者での会話によるにおいの情報伝達を行う場合には,送り手から発話された情報を基に,受け手が知覚経験を合わせていくような,役割分担型のコミュニケーション方略が有効であることも示された.
ワインには非常に多くの種類がある.多彩なワインの特徴を消費者に伝えたり,専門家が品質を評価したりするには,様々な評価用語が使用される.有名なワインのアロマホイールは,ワインの香りを認識し,表現するための標準的な用語を提供することを目的としている.一方,品質評価用語では,その原因を示す用語が多いことが特徴と言える.ワインの香りは,原料ブドウ,発酵,貯蔵・熟成など,種々の要因の影響を受ける.ワインの香りにはまだ解明されていない点が多くあるが,これまでに明らかにされている成分についても紹介する.
本研究では,香り分子の抗菌活性を検討するに当たり,大腸菌を検定菌とした寒天気体法を試みた.測定する香り分子によっては,阻止円の外周にあたる部分(非阻止円部)においても菌の増殖が阻害される現象が見受けられ,一概に阻止円の面積だけでは評価できないことを見出した.そこで,このような現象が生じた場合でも,正しく抗菌活性を評価するために,寒天をくり抜き,くり抜いた寒天の表面上の菌数を直接測定する方法を考案し,非阻止円部の増殖抑制の評価法を検討した.さらに,本方法を用いて2種の香り分子を組合せて抗菌活性を測定した結果,例えば,酢酸リナリル単独では抗菌活性をほとんど示さないが,リナロールと混合することによって,お互いの抗菌活性を向上させる可能性が示唆された.