環境中に存在する「におい」は,いったいどの程度のにおいなのか.ヒトの嗅覚を客観的な尺度として捉え,あらゆる議論に乗せていくためには,少なくともにおいを数値化する必要がある.
においを数値化するためには大きく分けて2つの手法がある.1つは実際に人の鼻を使ってにおいの強さ,嗜好性,広播性等を測る嗅覚測定法,もう1つは機器を用いて物質の濃度を測る機器分析法である.
臭気物質の機器分析方法は,公定法として定められている悪臭防止法の特定悪臭物質の測定方法を始めとして,測定対象とする臭気物質の種類や測定目的に応じて様々な方法が用いられてきた.従来より臭気物質の分析法として主に採用されているクラマトグラフィーを原理とした分析手法は,イオンクラマトグラフィーや検出器としての質量分析計の発展により,ますます重要な手法となっている.
また,ガスクロマトグラフィーの成分分離機能と質量分析計の同定機能,さらに嗅覚による臭質および臭気の強さの評価を組み合わせて複合臭を詳細に分析する,におい嗅ぎガスクロマトグラフ質量分析計や,機器分析法でありながら嗅覚に近いにおい評価を目指した,複数の半導体センサを用いて測定を行う分析機器も実用化されるなど,においの機器分析技術は,日々更なる進化を遂げている.
本特集では,臭気物質の機器分析に関する知見を有する4名の専門家に表題で示した学会での講演内容を柱として,機器分析を中心とした臭気の測定技術について詳細にご執筆頂いた.
先ず,高野氏(株式会社島津テクノリサーチ)には「悪臭の測定とにおい分野への測定技術の応用」と題して,悪臭防止法に基づく特定悪臭物質測定や臭気指数測定の概要と留意事項および,におい分野への測定技術の応用について執筆頂いた.豊富な現場経験から得られた臭気測定における重要なポイントを交えて記述されており,実際に悪臭測定を行ううえで非常に参考になる内容となっている.また,複合臭であるにおいを機器分析で評価するにあたっての課題を提示されるとともに,近年,においの評価に積極的に取り入れられるようになった機器分析と官能評価を組み合わせた測定法,機器分析でありながらにおいの質や強さを表現する測定法について紹介されている.
次に,守安氏,嵯峨根氏,田辺氏(株式会社東レリサーチセンター)には「イオンクロマトグラフィーによる硫黄化合物臭気の高感度分析」と題して,繊維製品の消臭性試験に適用するためのイオンクロマトグラフを用いた硫化水素およびメチルメルカプタンの高感度分析法の開発結果について執筆頂いた.捕集の難しい硫化水素およびメチルメルカプタンガスを,いかにイオンクラマトグラフィーで分析するための試料として効率的に捕集するかの検討を軸とし,併せて,精度良く定量分析するためのイオンクロマトグラフ分析条件を提示されている.稿末では,同手法を更に高感度化し,環境試料の分析へ適用するための検討事項が挙げられている.今後の更なる検討にも非常に期待される所である.
下村氏(住江織物株式会社)には「金属酸化物半導体センサを用いた繊維製品の消臭性能評価方法」と題して,複数種の金属酸化物半導体センサを搭載した測定機器(におい識別装置)を用いた模擬不快混合臭の評価方法の開発結果について執筆頂いた.実際の臭気は多成分からなる複合臭である.におい識別装置で測定することにより,構成する臭気成分個別の評価ではなく,複合臭としての情報を得て評価を行うことが可能となる.今後,においを客観的に捉えるための測定手法としてますますの発展が見込める技術である.
最後に,榎本(著者)が「排ガス・室内環境・作業環境等における悪臭物質の測定技術」と題して,悪臭防止法以外の分野で特定悪臭物質に該当する物質の測定方法として採用されている方法について公定法を中心に紹介し,特定悪臭物質測定技術としての適用の可否を考察した.特定悪臭物質の機器分析法として最新の測定技術の適用が検討されるきっかけとなり,また,読者が多様な臭気物質の評価を検討する際の一助になれば幸いである.
最後になりましたが,本特集の企画にあたりご多忙中にも関わらず執筆に御協力頂きました著者の方々に,本紙面を借り深く感謝申し上げます.
我が国の悪臭防止法では,ガスクロマトグラフを使用した特定悪臭物質の測定の方法と人の嗅覚を使用した臭気指数測定が採用されており,悪臭規制に利用されている.
また,室内空間のにおいの測定ではにおい嗅ぎガスクログラフ質量分析計やにおいセンサが使用される.
本報では悪臭防止法に基づく悪臭の測定方法の概要とにおい分野への測定技術の応用について述べる.
繊維製品の消臭性を簡便に,かつ,高感度で評価することを目的として,硫黄化合物臭気の機器分析による試験方法の開発とそれらのISO国際標準化を目指した取り組みを行った.対象臭気成分として硫化水素およびメチルメルカプタン,分析法としてはインピンジャー捕集/イオンクロマトグラフィーを用いた.その結果,官能試験と同等レベルの感度を有する機器分析が可能となった.両成分の定量下限値は,いずれも0.005ppmであった.
日常生活で遭遇する不快臭を軽減する消臭繊維製品がある.しかし,消臭性能を客観的に評価する方法は標準化されておらず,効能を正しく評価することが難しい.これまでの国内の性能評価試験方法は,においを構成する単一成分毎に消臭試験を行っている.混合臭であるにおいを想定した模擬不快混合臭を用いて,応答性の異なる金属酸化物半導体センサを検出器とした測定機器で消臭繊維製品の消臭性能を評価する試験方法を開発した結果を報告する.
日本では昭和47年より悪臭規制手法の1つとして特定悪臭物質濃度による規制が採用されており,その測定方法は環境省の告示により定められている.一方,近年の測定技術の進展は目ざましく,告示に定められた測定方法以外にも悪臭物質の測定に適用が可能と考えられる様々な測定技術が開発されている.そこで,排ガス測定や室内環境測定および作業環境測定等の悪臭規制とは異なる分野において公定法として採用されている悪臭物質に該当する成分の測定技術を中心に紹介する.
加熱脱着GC-MS/Olfactometry(TD-GC-MS/O)法は,複合臭中のにおい成分を特定するための有用な手法であるが,におい成分は化学的に不安定なものも多いため,分析の各過程における成分の熱分解や酸化等が懸念される.そこで,各過程における成分の変質を最小限に抑制するため,濃縮,熱脱着および分離などの各段階の測定条件をそれぞれ最適化し,成分分析をより正確に行うための手法について検討した.本報では,吸着剤として多用されるTenax TAの新品時の固有臭(Tenax臭)に着目し,分析条件の最適化を試みた.Tenax臭の分析において,主要成分の同定を行いながら,最適な加熱脱着温度評価,分析時のにおい質変化の有無評価,特定されたにおい感知時間の妥当性評価を試みた.検討の結果,TD-GC-MS/O分析過程において3種類の試験を行い,分析条件を最適化することによりにおい成分の特定を進められることを示した.
ヒトを対象とした嗅覚研究において,臭気強度の時間依存性がどのように推移した場合を順応と呼ぶのかについて言及した報告は少ない.また,順応の定義に関して研究者の間で合意が得られているとも言い難い.このような状況を踏まえ,我々は時間経過に伴って臭気強度が指数関数的に減少した場合を順応と定義することとした.本研究では9種類の臭気物質を用い,持続提示臭気に対する臭気強度の実時間評定を実施した.取得した時系列データを「順応型」もしくは「非順応型」に定量的に分類するため,まず各時系列データを指数関数モデルで近似した.続いて,近似式への適合度および臭気提示区間における理論値の時間的推移を基に,各時系列データを順応型もしくは非順応型に分類した.更に,各臭気物質における順応しやすさを定量的に表現するため,両群の時系列データ数の比率に基づく指標(「順応指標」)を提案した.