質的心理学研究
Online ISSN : 2435-7065
9 巻, 1 号
選択された号の論文の9件中1~9を表示しています
  • 松尾 純子
    2010 年 9 巻 1 号 p. 6-24
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    本稿は,原爆体験者たちがその後の人生を生きる中で,どのように原爆体験を語り始めたのかについて検討したものである。これまで原爆体験の語りが社会文化的側面から分析された場合,政治やナショナリズムと関係づけられてきたが,本稿では,体験者それぞれのライフストーリーにおけるアイデンティティに注目した。その上で,語り始めた理由について,体験者の個人的要因と環境的要因の 2 つの要因に注目して語りを分析した。その結果,被爆による心身への影響と体験を語り始める時期はゆるやかに相関しており,原爆がアイデンティティに混乱をもたらした程度が大きいほど,語る時期が早くなる傾向が見出された。また,語り始める時期の違いによって,それぞれに異なる 4 つのタイプの語りが存在することもわかった。すなわち,1950 年代に語り始めた体験者に特徴的な《被害者としての自己の語り》,1960 年代~1970 年代における《被害者ではない他者への語り》,1980 年代における《被害者である他者のための語り》,1990 年代以降における《次世代のための語り》である。これらは,それぞれの時期の特徴―時代性,体験者のライフステージ,体験者をとりまく社会的環境―を反映しながら聞き手との対話の中で生じたものである。すなわち,原爆体験を語り続けることは,体験者が新しいアイデンティティを見出し,原爆の語り手―被爆者―としての自己表現を獲得する過程である。
  • 小児医療における「頑張れ」という言葉の意味
    大西 薫
    2010 年 9 巻 1 号 p. 25-42
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    本論文は,小児がんの子どもが治療上,決して避けることはできない苦痛の強い検査を受ける前から終了するまでの過程を観察し,「頑張れ」という言葉がどのように使われているかに着目して分析した。従来の研究では,遠い将来に向けてかけられる「頑張れ」という言葉を,「ここのいま」から離れ全体を俯瞰する視点で捉えていたのに対し,本論文では,「ここのいま」の視点から,目の前の差し迫ったなかで交わされる「頑張れ」について捉えた。その結果,同室の子ども同士では「頑張れ」を用いることはほとんどなかったが,日常生活では子どもに「頑張れ」と言えないと話す親でも,検査のときには「頑張れ」と言っていることが認められた。痛みは個人的なものであるにもかかわらず,医療者や親は子どもが感じている痛みに無関心ではいられず,巻き込まれながら痛みの渦中にいる子どもに身を重ねるようにして「頑張れ」という言葉をかけていた。このような結果を受け,①頑張るということ/引き受けるということ,②検査に対する否定的態度と病気を理解すること,③渦中を生きるということ/未来を展望すること,の 3 つの視点から考察を行い,痛みをめぐる時間性と共同性について明らかにした。
  • ビジュアル・ ナラティヴ「人生のイメージ地図」にみる,前進する,循環する, 居るイメージ
    やまだ ようこ
    2010 年 9 巻 1 号 p. 43-65
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    心理学において時間は「前進的時間概念」「計測可能な実体的時間概念」という 2 つの前提に基づいていた。本論では,この 2 つの前提を根底から問い返し,心理学の時間概念を多様化することをめざしている。「前進的時間概念」では,時間は「矢」のように一方向的で不可逆的で前進的な流れとして考えられてきた。それに対して本論では,「人生のイメージ地図」研究から「循環する」「居る」時間イメージを提出した。「循環」イメージは,「かえる(反る・復る・帰る)」時間や逆行する時間を含むが,これはリフレクション,反復とリズム,再生・再起のイメージとつながる。また「居る」イメージは,「とどまる」「待つ」「静観」の価値に注目させる。「実体的時間概念」に対しては,時間イメージをナラティヴ,特に狭義の言語によらない視覚イメージによるビジュアル・ナラティヴによってとらえる立場を明確にし,その理論的位置づけを行った。そのために時間概念を整理して,A系列(人称的時間),B 系列(物量的時間),C 系列(配置的時間),D 系列(生成的時間)に分けた。そしてビジュアル・ナラティヴと C 系列の時間概念の連関を論じた。循環する時間イメージは,21 世紀の自然科学においても共通する重要なイメージになるだろう。
  • 死に逝く者との対話を通して
    近藤(有田) 恵, 家田 秀明, 近藤 富子, 本田(井川) 千代美
    2010 年 9 巻 1 号 p. 68-87
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    「生の質」をその本源に還って捉えなおすとはどのようなことだろうか。生の質を問われる場として終末期医療の現場がある。「質」という言葉は価値観と深く結びつくため,①どのような基準や価値によっての質か,②誰の視点による質か,③誰のための質か,についての議論が臨床現場において絶えることはない。そこで本研究では,終末期を生きる人にとって,その生の質とは一体何かという問いの本源にもどり,インタビュー(対話)と「関与・観察」により,終末期を生きる人の世界に寄り添い,①終末期を生きるその人の基準や価値から,②終末期を生きる人の視点による,③終末期を生きる人のための質とは何か,について明らかにすることを第 1 の目的とした。本稿では一人の末期癌患者との対話を通し,緩和医療という医療現場で人生の最期を迎えようとする人の生の質は必ずしも従来の臨床研究が明らかにしてきたような心身の安楽さを求める,あるいは,生への思いから死を受け入れるという一連の動きを踏むものではないことが明らかになった。また,その「生の質」とは,これまでのその人の生き方と深いつながりを持つことであることが明らかとなった。
  • 人生観への統合的アプローチにむけて
    浦田 悠
    2010 年 9 巻 1 号 p. 88-114
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    人生の意味についての心理学的研究には,一定の知見の蓄積はあるものの,いまだ哲学的な理論背景と実証研究を統合するような包括的な理論モデルは見られない。そこで本論文では,やまだの質的データからのモデル構成の方法論を参考に,人生の意味についての統合的なモデルの構成を試みた。ここでは,Ⅰ基本枠組・Ⅱ基本要素・Ⅲ基本構図の 3 つのモデルを構成した。構成プロセスとしては,哲学・人間学・心理学の理論から理論的な枠組を構成する一方(Ⅰ基本枠組の構成),心理学における先行研究で見られている様々な意味の類型に関するデータをまとめて分類した(Ⅱ基本要素の構成)。そして,最終的にこれらの基本要素と基本枠組を媒介し,包括的に関係づける構図を構成した(Ⅲ基本構図の構成)。モデルでは,人生の意味の 4 つの基本的な原理として,「個人的意味」「関係的意味」「社会的/普遍的意味」「宗教的/霊的意味」を提示した。これらの原理は,「個人的意味」から「関係的意味」へ,さらには「社会的/普遍的意味」から「宗教的/霊的意味」へと展開する入れ子構造として捉えられた。最後に,意味システム・アプローチによって事例の分析を試みた。このモデルによって,これまで曖昧であった人生の意味の「幅」や「深さ」といった概念をより明確化するとともに,個人の多様な人生観を捉える新たな方法論やモデルを生成する可能性を模索した。
  • 関根 和生
    2010 年 9 巻 1 号 p. 115-132
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    本研究では,発話と共に生じる自発的身振りの機能を明らかにするため,幼児の説明場面において産出された発話と身振りを検討した。特に,マクニール(McNeill)の成長点理論に依拠し,文脈との対比に基づいて作られる身振りが,発話生成にどのように寄与しているのかを事例をもとに吟味した。その結果,幼児期の子どもは,複数の行為が関与する事物を語る場合,しばしば自分の意図とは反する表現をしたり,出来事の中心的情報から語り始めたりすることが明らかになった。こうした語りにおいて,身振りの産出自体が,出来事を正しく,生起順に表現するための手がかりを話者に与えていることが示唆され,これまで見過ごされてきた身振りの 2 つの機能,すなわち視覚的フィードバック機能と文脈創造機能を指摘することができた。視覚的フィードバック機能とは,身振りの可視的性質が話者自身にとって表現の生成や修復のリソースとして利用されることを指し,文脈創造機能とは,身振り自体が一つの対比的な文脈を作り出すことをいう。これらの身振りの機能が,文の構築に寄与していること,また身振りが発話構造の発達を捉える有効な指標になることが示唆された。
  • 畑中 千紘
    2010 年 9 巻 1 号 p. 133-152
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    本研究では,「聴く」ことを通した聴き手の関与のあり方について,聴き手の「聴き方」と,語り手と聴き手の相互作用という 2 つの観点から検討した。語り手が 2 つの話を語り,それが「どんな話だったか」を聴き手に語り直させたとき,語り直されたテキストが基本テキストから変形を受けた程度と,その際に表れたパフォーマンスの揺れの程度を基準とし,3 つの事例を選択して検討を行った。基本テキストからの変形が最も少なかった事例 Aでは,言葉をそのまま尊重するという聴き手の基本的態度が示されたが,うつし返された言葉が二重性をもたない限り,語り手に動きをもたらすことが難しいことが示唆された。心理的混乱が最も高く示された事例 B では,語りそのものよりも目の前の語り手に意識を向けるという関与の仕方が示された。想起の際の変形が最も顕著に示された事例 C は,今回の調査を通じて語り手が最も話を「聴いてもらった」と感じた事例であった。聴き手が語りに飛び込み,内側から語り直すという語りに対する深い関与が,元の語りを違うものにしてしまう危険性を越えて語り手を動かす力をもつことが示された。
  • アンサンブルの授業における教師と子どもの音楽の生成
    桂 直美
    2010 年 9 巻 1 号 p. 153-170
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    本稿は,一人の音楽教師による表現教育を主題としたアンサンブルの授業を取り上げ,そこで採られている授業方法とそれを支える授業の原理を統一的に捉えることにより,学校の授業という時空間内で,表現主体としての生徒の「学び」がどのように構築されるかについての,一つのあり方を示そうとするものである。小学校でのアンサンブルの授業を,アイスナーの「教育的鑑識眼と教育批評」(Eisner, 2002/ 1st ed., 1979)の方法によりながら記述・解釈することを通して,教師が近代学校の秩序の及ぶ教室空間内に自律的な表現者共同体をつくり出し,そこに一人の熟達者として参加する形で,「文化的実践への参加」としての学びを実現していること,またそこでは,教師がモデル性を帯びた一人の熟達者として,子ども自身の価値判断を促していることが示され,子どもたちの主体性を喚起しながら音楽性の深化が追求されていることが評価された。このような「学び」を学校において創出する意義は,教師-生徒の垂直的な関係を抜け出し,多様性を重要な原理とすることで力量の差は大きくても対等に対話でき,個々の存在を互いに認めあう関係性がつくられている点に見いだすことができた。
  • ジェローム・ブルーナーと認知研究におけるナラ ティブ・ターン
    David R. Olson
    2010 年 9 巻 1 号 p. 171-185
    発行日: 2010年
    公開日: 2020/07/07
    ジャーナル フリー
    本論文は,ナラティブ・アプローチと論理主義との関係を明らかに示すことを目的としている。特に,ブルーナーの取ったナラティブ・アプローチの重要性について,カーネマンとトヴァースキー,スタノヴィッチらの認知理論による(ナラティブに対する)否定的な評価に対抗する形で議論を展開している。ナラティブ・アプローチが意味の微妙な差異を把握する道具であるのに対して,認知理論は理性的な活動を同定する道具である。後者は,就 中 なかんずく,西欧の科学的言説に用いられる特化した形式論理(例えば,「かつ(and)」,「または(or)」で結合される厳密な論理式による表記)に意味を狭く限定してきた。それに対してナラティブ・アプローチは文脈を敏感に反映する豊かで開かれた意味を表現する優れた形式を維持しているのである。
feedback
Top