入門講座「結晶学の原典を読む」の第1回目は, 異常分散の問題です.現在大きな脚光を浴びる構造生物学の分野で, タンパク質結晶学は極めて重要な役割を果たしています.未知のタンパク質の結晶構造を解く, すなわち位相問題を解決するには, これまで重原子同型置換法が唯一一の方法でした.これには重原子誘導体結晶の調製という試行錯誤を伴う困難なステップが, 常につきまとっていました.近年のンクロトロン放射光の出現と遺伝子工学の進歩は, この位相問題の解決に新しい道を開くことになりました.それがMAD (Multiwavelength Anomalous Dispersion) 法 (多波長異常分散法) です.シンクロトロン放射光は自由に波長を選んで異常分散を最も効果的に測定することを可能にし, 遺伝子工学はメチオニンのイオウをより効果的な異常分散原子であるセレンに置き換えたセレノメチオニンを導入したタンパク質を作ることを可能にしました.その結果, 重原子誘導体結晶を調製することなしに, 複数の波長でセレノメチオニンタンパク質結晶の回折データを測定することで, 結晶構造を解くことができるようになったのです.このようなタンパク質の結晶構造決定に画期的な進歩をもたらしたMAD法の原点は, 我が国の結晶学者が大きな貢献をしたX線の異常分散に関する研究にあったのです.今回はそのような歴史的背景を踏まえて, この問題についてやさしく解説していただきました.
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