アニメーション研究
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21 巻, 1 号
選択された号の論文の17件中1~17を表示しています
招待論文・寄稿文
  • 片渕 須直
    2020 年 21 巻 1 号 p. 3-4
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー
  • 叶 精二
    2020 年 21 巻 1 号 p. 5-16
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー
  • 木村 智哉
    2020 年 21 巻 1 号 p. 17-30
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    本稿では、東京都労働委員会での審問記録を翻刻し、その意義について解説を加えている。これは東映動画における労使紛争の一側面を示す史料である。この史料には高畑勲や、後に東映動画社長となる登石雋一の思考過程、そして東映動画の労働慣行や職員の意識など、多くのトピックが表れている。こうした史料の分析は、過去の作家や作品の分析に拠ってきたアニメーション史研究の視点と方法論の刷新をもたらすだろう。

  • 津堅 信之
    2020 年 21 巻 1 号 p. 31-35
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー
  • 氷川 竜介
    2020 年 21 巻 1 号 p. 37-44
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    この論文は高畑勲によるアニメーション映画「じゃりン子チエ」を分析した。原作は大衆に人気があり、広く知られる漫画である。高畑は作家性を抑制し、原作に忠実であろうと努力した。その結果、論じられる機会の乏しい作品となっている。しかし、漫画と映画は、表現の点で大きく異なっている。そのギャップを埋めるための高畑の方法を、具体的な映像に基づいて検証した。映画では時間と空間に関する意識が重要である。高畑勲が映画をどのようなものと把握し、構築しようとしていたか、その一端を検証考察する試みだ。

  • 横濱 雄二
    2020 年 21 巻 1 号 p. 45-50
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    本稿は、高畑勲のアニメーション作品『火垂るの墓』について、具体的な地域表象を検討するとともに、関係地を訪問する行動について、その意味づけを考察するものである。『火垂るの墓』は、強く情動を喚起する作品である。一例として、主人公兄妹の母親の死の舞台となる学校のシークエンスをとりあげる。画面内の事物の配置を現実の地理空間に置くと、あるべき鉄道の高架が画面に現れていない。この不在は、兄妹の孤立感を強調している。また、本作品の関係地訪問の事例を検討すると、アニメ聖地巡礼としてではなく、戦跡など事実に基づく土地への観光であるダークツーリズムに類するといえる。虚構作品の関係地は現実と必ずしも対応するものではなく、また作品が喚起する情動の側面も無視できない。これらについては、さらなる考察が必要である。

  • 萩原 由加里
    2020 年 21 巻 1 号 p. 51-60
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    『平成狸合戦ぽんぽこ』はスタジオジブリによって制作されたアニメーション映画で、 1994年 7月公開されている。原作・監督・脚本を高畑勲が務めている。

    本論では、日本におけるニュータウン開発が作品の中でどのように描かれているのか、またそのために高畑をはじめとするスタッフたちは、多摩ニュータウンを中心とした多摩丘陵の歴史を、どのような体験を交えながらアニメーション制作に取り込んでいったのか。多摩ニュータウンの成立過程と、それが本作にどう反映されているのかという視点から『平成狸合戦ぽんぽこ』という作品を分析していく。

  • 米村 みゆき
    2020 年 21 巻 1 号 p. 61-72
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    本稿は、高畑勲が、映像化したいと考えていた宮沢賢治の童話についてその映像的表現や特色について考察するものである。その際、アニミズム論の新しい視点を導入する。ポストヒューマンが予想される現在、アニミズム論も新たな展開をみせているためである。本章の手順は以下の通りである。

    1章では、高畑勲が宮沢賢治作品について映像化したいと述べていた発言を再考し、「非人間」との「共生」「共存」という主題を確認する。2章では、宮沢賢治『雪渡り』と『鹿踊りのはじまり』を取り上げ、後者において視覚表現と聴覚表現が交替で立ち現れる入れ子構造に着目し、重層化される「アニメーション映画」となっている様相を検討する。3章では、アニミズムの新しい観点から、『なめとこ山の熊』を取り上げ、人間と「非人間」(熊)との関係に同質性や魂の分有がある点について考察する。高畑が着目した宮沢賢治の童話は、一見郷土色豊かな土着的な話にみえるものの、〈アニメーション映画〉としてみるとき、その背後にはテクノロジーの眼が摘出されることを指摘したい。

  • 小山 昌宏
    2020 年 21 巻 1 号 p. 73-80
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    高畑勲の初演出作品『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)から、その最終作品『かぐや姫の物語』(2013)に至る 45年間において、その少女像はいかに変化したのか。本論は両作品の世界観に通底するヒロイン像を比較することにより、現代社会における人間の生きる意味とその価値を問うものである。それはまた、高畑勲作品に見いだされるユートピア表現とディストピア表象を、物語世界の 2人の少女(ヒルダとかぐや)の生き方に読み込むものとなる。さらに「かぐや姫」と宮崎駿の「ナウシカ」との比較をおこなうが、これは高畑作品が示す現代社会との葛藤をより明示するためにある。この試みを通して芸術労働と産業労働の矛盾を乗り越えようとするアニメーション作品制作の営みは現実矛盾を色濃く物語りはじめる。それは、自分たちの生きる場を見つめ直し、再構成するために、一筋の光を後生に残す「希望の原理」を内包している事実を見つけ出すことになる。

  • 横田 正夫
    2020 年 21 巻 1 号 p. 81-91
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    高畑勲監督の遺作『かぐや姫の物語』は思春期の少女の心を描いており、初潮を迎えた姫が心なく迫る大人たちの行動を心理的な障壁と感じ、行動を抑制してしまった結果、生きる意欲を失った物語と見ることができる。 5人の貴公子の姫への求婚も御門の姫を攫いに来たことのいずれも、姫の心を無視した振る舞いであり、姫に耐えがたい恐怖をもたらした。そのため、姫は月に帰りたいと念じてしまった。しかし姫は、月に帰る直前に、自我に目覚め、地球に生を受け、自然を喜ぶ前向き行動力が発揮されないことが罪と悟る。

  • 桑原 圭裕
    2020 年 21 巻 1 号 p. 93-99
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー
  • 胡智於 (珠珠)
    2020 年 21 巻 1 号 p. 101-109
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    本稿は、私が以前書いたブログ記事『高畑勲(1935〜2018年)戦後アニメーションにおける卓越した存在感』(「アニメーションスタディーズ 2.0」2018年5月7日)を発展させたものである。このブログはアニメーションスタディーズ協会に属している。同協会のメンバーが編集者であるためである。ブログは、学者、アーティスト、ファンが自らの現在の考えを簡潔かつ迅速に発表できるインターネット空間となっている。そのため、関連する主題について深く洞察するには詳細に取り組むスペースは限られている。この機会を用いてアニメーションメディアとストーリーテリングの世界に対する高畑監督の貢献に対する私の認識をさらに深めたい。高畑監督のアニメーション映画に立ち戻り、戦後史における監督の経歴を再検討するが、その際、逸話でつづった記憶と彼の創造的な精神についての私の研究と理解を含んでいる。

  • 顔 暁暉
    2020 年 21 巻 1 号 p. 111-125
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    本論文は、何度も繰り返される主題や、キャラクターに観客を同一化させる固有の視覚的特徴を持たないがゆえに、十全に論じられてはいない高畑作品の美的資質に着目し、彼の作品におけるキャラクターと世界の構築方法を明らかにする。高畑作品の意味は、作品関連グッズ販売やファン活動から派生していない。それはアニメーション自体に内在している。高畑は、お手軽なジャンルの枠組みのなかに留まらずに、幸せで、感情的に満足できる結末には至らない叙述を生み出し、アニメーションの大衆的な魅力とその消費に異を唱えた。本論文は、『アルプスの少女ハイジ』(1974)、『かぐや姫の物語』(2013)、『火垂るの墓』(1988)、『おもひでぽろぽろ』(1991)のシークェンスを詳細に検討し、アニメの構造と美学に関する規範に対する高畑の挑戦が、彼の制作過程の一部であり、彼の作品を際立つものにしていたことを明らかにする。

  • スーザン ネイピア
    2020 年 21 巻 1 号 p. 127-135
    発行日: 2020/09/30
    公開日: 2021/05/07
    ジャーナル フリー

    本稿は、高畑勲の画期的な傑作である『かぐや姫の物語』を記憶、亡命、抵抗の役割の描出における観点から考察する。主として高畑の映画に焦点をあてる一方で、現代日本文学、日本のアニメーション、ディズニー映画の近年作『アナと雪の女王』の事例を取り上げ、記憶と亡命が近年の様々な文化形態においてどのように問題化されているかを示している。本稿の主要部分では、高畑が十世紀の原作の物語—故郷から仮の亡命における月の王女の物語—のほろ苦く諦めの境地を乗り越えて、真に革新的な芸術作品を創造しているのかを示す。原作に忠実であると同時に、高畑の映画はフェミニズムや環境破壊といった現代的な関心をはっきりと包含する情熱的な抵抗の核を含んでいる。高畑は、二つのオリジナルなシーンを追加することでこれを実現している。一つは、主人公が、父親の宮殿から脱出した自分の姿を幻想的に詳細に想像するときで、あからさまなフェミニストの抵抗である。第二の例では、高畑は、別の抵抗のビジョンを挿入する。この場合は音楽や子供そして歌詞を使用し、生命のビジョンや原作の物語の末尾にある運命的な諦念に感情的に挑む変更を提供している。

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