文化人類学
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83 巻, 2 号
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表紙等
論文
  • 『文化を書く』から「サークル村」へ
    竹沢 尚一郎
    2018 年 83 巻 2 号 p. 145-165
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー

    『文化を書く』の出版から四半世紀が過ぎた。他者にどう向きあい、どう書くべきかを問うたこの書は、今も人類学者に少なからぬ影響を与えている。しかしその四半世紀前に、おなじように他者に対する書き方を問う運動が日本にもあったことはほとんど知られていない。本稿は、谷川雁と上野英信というふたりの著述家が作った「サークル村」の運動を追いながら、そこでなにが問われ、いかなる答えが準備され、いかにしてすぐれたモノグラフが生み出されたかを跡づける試みである。

    第二次世界大戦が日本の敗戦で終わると、文学サークル等が各地に誕生した。なかでも異彩を放ったのが、1958年に筑豊に形成された「サークル村」であった。他のサークルが職場や地域を拠点として活動したのに対し、それは九州各地のサークルの連携をめざすことで戦後の文化運動のなかで特異な位置を占めた。

    会員の多くは、炭坑夫や孫請労働者や商店員であるか、その傍らで生活する人びとであったが、彼らはそれだけで社会の底辺に位置づけられた人びとについて書くことが許容されるとは考えなかった。彼らはどう書くかの問いを突き詰め、それへの答えを用意した。人びとの語りを最大限尊重するための聞き書きの採用、概念ではなく平易な言葉で生活世界と思想を再現すること、知識人による簒奪を避けうる自立した作品の創造、差別や抑圧を生み出す社会の全体構造を明らかにすること、である。

    エスノグラフィ記述の基本ともいうべきこれらの指針に沿って、会員たちは多くのモノグラフを生み出した。上野英信の炭坑とそこで働く労働者についての記述。女坑夫についての森崎和江の聞き書き。不知火海の漁民の生活世界と病いと、チッソや地域社会による抑圧を描いた石牟礼道子の『苦海浄土』。

    特定の地域を対象に、そこで生きる人びとの行為や相互行為を丹念に記述し、さらに差別や排除を生みだした全体構造までを書き出したこれらのモノグラフは、戦後日本が生んだ最良のエスノグラフィのひとつといえる。これらの作品を生んだ背景を追い、その成立過程を追うことで、人類学の可能性を検証する。

特集 東アフリカにおけるシティズンシップ
  • 東アフリカにおけるシティズンシップ研究に向けて
    梅屋 潔, 波佐間 逸博
    2018 年 83 巻 2 号 p. 166-179
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー
  • ある概念的考察
    ニャムンジョ フランシス
    2018 年 83 巻 2 号 p. 180-192
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー

    21世紀、随所で、国籍とシティズンシップに関するより排除的な理念と相並んで、アイデンティティ・ポリティクスが重みを増してきている。アフリカでは、シティズンシップと帰属が排斥の根拠としての強い意味を持っているのは、支配される側を差別化していった植民地時代の登録制度に由来する、古色蒼然とした排除をさらに広範に、ときに攻撃的な仕方で再確認する(例えば南アフリカにおけるような、いまだ様々なところで帰属に関わるIDが要求される)行為によって、承認と表象へのマイノリティ(少数民族、宗教的マイノリティ、移民、多国籍移動者、難民など)の熱烈な訴えが圧し潰されるということである。こうした事態の進展は、機会と経済的既得権の強調に伴う、「地元民」と「よそ者」の認識や区別の高まりと並行している。内部を外部化する(マイノリティやよそ者に社会を開放する)手段として外部を内部化することによって包含するという慣習的なやり方は、加速化する資本と移民のフローの時代の中で、経済成長の利得の既得権に関わるポリティクスによって抑圧されているのだ。本論文では、境界線の閉じた包摂の輪が縮小する世界において、モビリティの考え方や実践がどのように変化するかを問い、シティズンシップと帰属に対する理解をどのように豊かなものにできるかを探究する。相互行為のコンヴィヴィアルな形態、つまり、開放的な移民政策実践をつうじ、そして、内部者と外部者、自国民と外国人、シティズンと非シティズンの間の社会的相互行為を促進することによって、非定住的な外部者を歓待し受け入れる行為はどれほど排他的な傾向に対抗したり、あるいはどれほど、それとわかる外部者に対立する形で、架空の/構築された内部者を結束させるための基礎として活用されるだろうかということを検討する。

  • 北部ウガンダ・アチョリ地域の事例から
    榎本 珠良
    2018 年 83 巻 2 号 p. 193-212
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー

    近代西洋的な人間とシティズンの像に対して20世紀を通じて強まった批判は、1980年代以降には国際関係論の研究や実務者による政策論議にも浸透した。そして、国際関係論においては、国民国家のシティズンと見做されずシティズンシップを否定される人々を疎外しないようなシティズン概念の形成や、人間中心のコスモポリタン的倫理・価値の実現が提唱された。さらに、1990年代に形成された人間の安全保障概念には、国家に規定された安全保障概念を超越することが期待された。こうしたなかで、国民国家に規定されたシティズン概念の限界を克服し、国家主権を超越する人道的規範を形成し、人間中心のコスモポリタン的価値の実現に貢献しうるものとして、グローバル市民社会への注目が高まった。

    本稿では、まず、人間の安全保障に含意されるシティズンと人間の像に関する先行研究を概観し、一定の整理を行う。次に、グローバル市民社会としての役割を期待され人間の安全保障を謳う実際のアクターの言動に顕れたシティズンと人間の像を、2000年代のウガンダにおける「平和と正義」論争の事例から考察する。そのうえで、本稿は、この事例においてグローバル市民社会を称した人々の言動に表出したシティズンと人間の像が、彼らと対峙したアチョリのアクターに必ずしも共有されなかった可能性を指摘する。それとともに、アチョリのアクターが概して「グローバル市民社会」から切り離されていたからこそ、政治の主体として自らの社会における善を見定め、その達成に向けた戦略を構想することが可能だったことを論じる。

  • カンパラのバーガールのシティズンシップとその「主体性」への再考
    森口 岳
    2018 年 83 巻 2 号 p. 213-232
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー

    本稿で取り扱うのはアフリカの貧困女性たちのウガンダ、カンパラの都市社会において、家族的なものと性的なものの二つのシティズンシップと、その二つの領域を行き来するバーガールたちの「主体性」をめぐる諸実践についてである。

    カンパラの郊外・スラムにおいて、女性の貧困問題はその社会の「シティズンシップ」の構成要素と密接に関連している。なぜならば、国家の社会保障が確立されていないウガンダの都市社会においては、親族・家族などの関係性に女性は大きく依存し、経済活動も独身か既婚かなどの女性の社会的地位に左右されるからである。そのような女性たちのシティズンシップは家族的なもの(familial citizenship)を通して、社会的発言や保障が実現されるが、その一方でその状況は独身女性(途中で学校教育をドロップアウトした十代の女性も含む)や離婚女性などに特に抑圧的に働き、女性を家族的なシティズンシップ内でどうしても従属的なものとする。だが、その一方でカンパラの貧困女性たちはその性的なプレゼンスを(性を家庭内のみに封じこめようとするパターナルな抑圧に対抗しながらも)発揮し、ある種の性的なシティズンシップ(sexual citizenship)の領域を創り上げている。

    そのため、本稿では東アフリカの女性を取り巻く社会環境(特に都市部)と、彼女たちの誘惑と自己決定の問題に焦点をあて、セクシュアリティとシティズンシップの関係性について考察を述べていきたい。特に本稿で取り上げる「踊り」は、主体と客体の、能動と受動の間を誘惑することで戯れる一つの事例としてある。そのため本稿の目的は、「女たちが踊る」シーンを取り上げることで、彼女たちの「踊り」の実践の自己決定性を問い、シティズンシップの希求を内包するエージェンシーのあり方を吟味することである。

  • ウガンダ共和国のアルル人におけるリチュアル・シティズンシップ
    田原 範子
    2018 年 83 巻 2 号 p. 233-255
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー

    本稿は、アルル人の死者祈念の最終儀礼をとおして、死者と生者の交流について論考するものだ。死者祈念の最終儀礼は、死後10年くらいまでに、死者のクランが、他のクランを招待して饗宴をもつことで完了する。2つのクランは、笛と太鼓と踊りに3夜連続、興じながら、死者のティポ(精霊)を祖霊の世界へ送りだしてきた。ところが、ウガンダ共和国ネビ県においては、死者祈念の最終儀礼は1987年が最後であった。このまま儀礼が消滅することを案じた筆者は、パモラ・クランのウヌ・リネージの人びとに協力し、2009年より準備を重ね、2012年3月に簡略化した死者祈念の最終儀礼を行った。

    調査対象の社会に対して、こうした働きかけをすることに迷いがなかったわけではないが、消えゆく儀礼を若い世代へ継承する一助になればという気持ちがあり、映像化を試みた。また、対話的に儀礼を生成する過程をとおして、当該社会の意思決定過程や社会関係を学べるのではないかと考えた。人びとと共に死者祈念の最終儀礼の再興を模索する過程で、パモラ・クランの人びとがコンゴ民主共和国の人びとの支援を受けたり、ウガンダ国内の異なるクランの人びとから助けられたりする状況が明らかになった。この儀礼は、日常生活では関係を密にしない生者たちが再会し、音楽と踊りを楽しみ、共に飲み、共に食べることをとおして、友好関係を再確認する場でもあった。本特集に執筆しているニャムンジョの言葉を借りれば、死者祈念の最終儀礼とは、一過的で集合的なコンヴィヴィアリティを構築する場であった。

    本稿では、こうした死者祈念の儀礼空間に、緩やかな連帯関係にあった生者が参入し、儀礼を共同して構築すること、この一時的で流動的な共同性を、リチュアル・シティズンシップと名付けた。それは、死者という存在によって生者たちが構築する共同性であり、死者と生者が交流する場に現れるシティズンシップである。従来、シティズンシップにかかわる研究は、生者を中心に行われてきた。なぜならシティズンシップの根幹には、法的・政治的・経済的、すなわち現世的な権利や義務の制度があり、そこに死者の存在は勘案されることはなかったからだ。しかし死者や祖霊の存在は、私たち生者の日常生活に深く根をおろしている。本稿では、死者という存在を含めた共同性を考察するために、従来のシティズンシップ概念に死者を含めるリチュアル・シティズンシップという新たな概念を提唱した。その概念を使用することにより、死者祈念の最終儀礼の記述をとおして、アルル人のクラン間の緩やかなつながりを考察し、生者の共同性の底流にあるものを明らかにすることを試みた。

  • 波佐間 逸博
    2018 年 83 巻 2 号 p. 256-273
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー

    普遍的平等は理念的には公式のシティズンシップを通じて成し遂げられる。しかしこの規範的定義にもかかわらず、シティズンシップの実相は異なる地域的、歴史的文脈において多様に発達してきた。政治・経済・文化・社会のナショナルな同型性を追求して生業牧畜を抑圧してきた、植民地政府から独立後のウガンダ政府に至る中央権力は、カラモジャ地域の牧畜民たちにとって日常的な家畜の略奪者であり、国家共同体のシティズンシップの主張は不可能だった。したがって、グローバル化にともなう国家権力の脱中心化を背景に、ウガンダ・ケニア・南スーダンの周縁に対して欧米諸国の監視の目が向けられ、中央政府と連携して強制的武装解除・定住化開発が暴力的に推進されたとき、カラモジャ地域の牧畜民が、シティズンシップの規範的観念に訴えるのではなく、生活世界の防衛と支配秩序への抵抗のためにエスニック・シティズンシップの実践を自身で起動させたのは当然だった。権力との直接的な対決が一方的な暴力の加害・被害関係を固定化することを知悉する人々は、シティズンシップに関連する実践のレパートリーを発達させ、共同市民である家畜の 抵抗に共鳴して遊牧生活の持続を承認させるという方法をとったのである。

  • 「2016年ウガンダ総選挙」に働く死者のエージェンシー
    梅屋 潔
    2018 年 83 巻 2 号 p. 274-284
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー

    This paper argues the effectiveness of a strategy by President Museveni's campaign for reelection to conduct a series of government re-burials of or commemorative ceremonies for great men with West Nilotic origin who had been murdered by then-President Idi Amin. The attempt is to describe the attitude of the Western Nilotic peoples in Uganda towards a series of events, and to confirm how individuals with voting rights are inseparably connected to the identity and sentiments of their ethnic group. The re-burials clearly show that modern presidential elections in Uganda have an emotional aspect as well as a civic one. The series of events, and the strategic effectiveness displayed, force us to rethink the universality of the idea of the concept of "citizenship." That concept—as with all concepts of Western origin believed to be universal—has been interpreted and appropriated reasonably within an autochthonous cosmogony, and might be seen to be interwoven with autochthonous concepts in Africa and other areas after being imported from the West.

    Because of the series of events, the people of Western Nilotic origin, or at least those who can assert to have some connection, supported President Museveni as he honored the great dead men of their ethnicity. This time, the reburial was an epoch-making strategy to address the issue, and even successfully managed to integrate people based on their ethnicity, even though the late Oboth-Ofumbi was not especially beloved by all his neighbors. Another issue was the role of religious and spiritual dimensions in peopleʼs voting behavior. The government's honoring of the dead positively affected people in neighboring communities. It can be said that the dead thus demonstrated agency to the living, having intervened in the actions of the living. In a sense, they—ontologically, the dead—shared a social space with the living in terms of personhood, which, for people of Western Nilotic origin, inevitably includes those who have already died. A consideration of the state of the dead can thus greatly influence their voting behavior.

    (View PDF for the rest of the abstract.)

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