文化人類学
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84 巻, 3 号
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表紙等
論文
  • 狩猟採集社会バカの子どもとbangà
    園田 浩司
    2019 年 84 巻 3 号 p. 243-261
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/02/12
    ジャーナル フリー

    本稿では、カメルーン東部熱帯雨林地域に位置する狩猟採集社会バカの、獲物の解体場で生起する子ども達の会話(ピア・トーク)に焦点を当てる。獲物の解体場では、子ども達は自らの取り分の要求を、大人を相手に、または子ども同士でよく行っている。所有者の前で取り分を要求または主張すること(bangà)は規範逸脱的振る舞いとされるが、一方で子ども達は、たとえ大人が居合わせる場面においても、そうした行為を止めようとしない。本稿では、取り分の要求が日常的対面相互行為の中で、どのように実践されているのか検討していくことを通して、当の行為が有する子どもの相互行為方略としての側面を描出する。

    分配が始まる前にあらかじめ自分の分を取ってしまう、あるいはそれと宣言するbangàの遂行に際し、話し相手の先立つ発話を、聞き手が自分の発話に援用するフォーマット・タイイングが利用される。フォーマット・タイイングは大人と居合わせる空間において、子ども同士が会話場を形成する手段として実践されているが、このように子ども達は、獲物の解体場で展開されるべき、彼ら自身にとって適切な社会秩序を構築していた。

    また子ども達は、大人達の何気ない発話に聞き耳を立てながら、子どもにとっての適切な振る舞いを確認していた。このことは、取り分の要求という行為の投げかけを契機に大人から引き出された社会規範を理解することを通じて可能になっていた。取り分要求行為は、規範逸脱的であるゆえ、成長につれて子ども達が手離す相互行為方略といえる。しかしこれは決して、単なる無秩序な振る舞いではなく、子ども同士による社会化過程形成に寄与していると、本稿では論じた。

  • ブエノスアイレスの世俗的ユダヤ人が経験する過ぎ越し祭
    宇田川 彩
    2019 年 84 巻 3 号 p. 262-280
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/02/12
    ジャーナル フリー

    本論は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生きる世俗的ユダヤ人を対象とし、家庭で行われる最重要の年中儀礼の一つである過ぎ越し祭を事例とする。特に過ぎ越し祭の晩餐に用いられる典礼書『ハガダー』に着目し、儀礼を動かす力としての「順番」と物語について論じることが本論の目的である。過ぎ越し祭は家庭で行われる晩餐を中心とし、順番を意味する「セデル」に沿って進行する。『ハガダー』は一方で、動作と歌を文字通りに進め、食事を進めるためのマニュアルである。他方でハガダーという語は元来「語り」を意味し、マニュアルであるだけでなく、出エジプトの歴史を綴る物語でもある。

    本論で世俗的として論じるユダヤ人は、自身のユダヤ性を説明する際に、その特徴は「宗教ではない」という否定形を用いる。ブエノスアイレスで可視性を高めつつある正統派のユダヤ人は、生活実践のすべてに対して厳格にユダヤ法を適用させようとする。その方法とは聖書とその解釈書に沿い、書かれた通りの指示に行為を従わせることである。マニュアルとしての『ハガダー』も、こうした役割を果たす。しかしながら、世俗的ユダヤ人にとって『ハガダー』は儀礼を進める順番を指示する典礼書としてよりは、物語としての重要性をより強く持つ。エジプト時代のユダヤ人の奴隷解放という物語は現在「私たち」が生きる物語へ、他方で神による奇跡譚は、自己が主体となる選択の物語へと読み替えられるのである。過ぎ越し祭の順番と物語は、年に一度、晩餐の食卓という場において『ハガダー』、食材や料理、食器といったモノが組み合わせられることによって実践されていくのである。

特集 日本における「看取り文化」を構想する――死と看取りをめぐるケア、選択、場所性をてがかりに
  • 浮ヶ谷 幸代
    2019 年 84 巻 3 号 p. 281-294
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/02/12
    ジャーナル フリー
  • 地域への問題提起としての看取りをめぐるケア
    相澤 出
    2019 年 84 巻 3 号 p. 295-313
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/02/12
    ジャーナル フリー

    日本社会においては、今日もなお、病院での死亡率が高い水準にある。対照的に、自宅での看取り、特別養護老人ホーム(以下、特養)での看取りは低い水準に止まっている。こうした傾向から、日本社会において死は医療化され、施設化されていることがうかがわれる。これまでの研究でも、「看取り文化」が日本の近代化とともに失われた、あるいは衰退したと言われてきた。そのため、在宅での医療や介護が推進されている今日、看取り文化の再構築という論点が、研究者、医療や介護の専門職の間で注目されている。本論文では、秋田県能代市二ツ井町の、社会福祉法人二ツ井ふくし会の看取りのケアと「ホームカミング」が、看取り文化を地域コミュニティのなかに再構築する可能性を考察している。二ツ井町域では、人が病院で亡くなることが自明視され、地域住民の常識の一部と化している。しかも、二ツ井にはその病院が存在しない。それゆえに病院死は、地元住民にとって住み慣れた地元である二ツ井からの離別を意味する。こうした地域にあって二ツ井ふくし会は、二ツ井町で、生活の場での看取りを推進している。特養と自宅とで、二ツ井ふくし会は看取りのケアに取り組んでいる。その延長上で、ホームカミングの企画も実行されている。二ツ井ふくし会の取り組みでは、ホームカミングは、本人が自宅に戻る機会を捉えることを意味する。多様なホームカミングの企画のなかには、看取りと結びついたホームカミングもある。ホームカミングと結びついた看取りとそのケアの経験は、地域住民としての二ツ井ふくし会職員、それ以外の地域住民の常識を変えつつある。既存の常識からはずれたホームカミングの経験は、地域のなかで話題となり、集合的記憶となる。この集合的記憶は地域のなかに、将来、看取りをめぐるケアの新たな伝統の文化的な土台をつくりだす可能性をもつ。

  • 神奈川県藤沢市UR住宅の小規模多機能ホーム〈ぐるんとびー〉の取り組みから
    浮ヶ谷 幸代
    2019 年 84 巻 3 号 p. 314-330
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/02/12
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は、自宅で看取るという伝統的な「看取り文化」は既に失われている現代日本において、医療・福祉・介護の専門家だけでなく本人や家族、友人、近隣の人たちとのかかわり合いの中で「看取り文化」が生成される可能性について描き出すことである。欧米社会では高齢者の大型施設への批判からAging in Place(住み慣れた場所でいつまでも)という概念が生まれた。これは、高齢者の症状別施設の間での転居をなくし、居住空間の変化やサービス提供者の変化によるストレスを回避することを意味している。さらに、この概念には高齢者を介護の対象者という一方的な受け身の存在から、暮らしの場で生き生きと生きる主体へと変換することが内包されている。これらの動きを受けて、厚生労働省はAging in Placeを基盤として地域包括ケアシステムという政策を掲げている。Aging in Placeの理念に共通性を見出せる、神奈川県藤沢市のUR住宅内に開設された小規模多機能型居宅介護施設〈ぐるんとびー〉は、高齢者のやりたいことを応援し、高齢者が生きる主体を取り戻すことを前面に押し出している。〈ぐるんとびー〉は利用者の老老介護の限界と経済的負担に対処するためにUR住宅のルームシェアという方法を採用する。本稿はルームシェアに至るまでのプロセスとその後のプロセスを追い、高齢者本人と家族、そこにかかわるスタッフとの間にある葛藤とそれへの対処の仕方を描き出し、そこから見出したケアの連続性とあいまい性、最期を迎える場所の選択と居住空間について検証している。なかでも、高齢者が最期を迎える場所には本人や家族の歴史や本人とかかわる人たちとの関係性が埋め込まれているという「場所性」の議論に着目することで、「看取り文化」の生成の可能性について考察している。

  • タイ・プラバートナンプ寺における看取りの考察
    鈴木 勝己
    2019 年 84 巻 3 号 p. 331-348
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/02/12
    ジャーナル フリー

    本稿は、タイ社会における公的な医療や福祉の制度に組み込まれていない、仏教看護におけるケアの実践とその関係性に着目する論考である。タイ・プラバートナンプ寺におけるエイズ療養者の看取りには仏教の教えが根付いている。本稿では、エイズという苦悩への向き合い方と死を考察の材料とし、ケアの実践とその基層となる関係性を扱う。仏教看護の「何もしないケア」は、看護者から一方的に押し付けられる看取りではない。死にゆく療養者が仏教徒として望む死をつくりだしていく能動性が確認されるからである。タイ社会においてエイズによる死は不名誉なこととみなされる。だが、療養者は蔑まれたまま失意を抱えて死んでいくのではない。療養者は仏教徒としての誇りを取り戻し、来世への輪廻転生を期待しながら最期を迎える。療養者と看護者は、仏陀に代表される「第三者」を中心に据えたケアの三者関係において、「赦し(アホシカムahosi-kamma)」を実践していく。療養者の「赦し」は、エイズに関わる差別や偏見、臨床上のあらゆる苦しみを甘受しながらも、仏教の教えに基づいて自己を抑制し、一切を忘れていこうとする実践である。仏教徒として生きる療養者と看護者は、「赦し」の関係を築いていくことで能動的に死に対峙していく。このケアの三者関係と「赦し」は、寺院の看取りを読み解く鍵となっている。「何もしないケア」は、その基層としてケアの三者関係があり、その三者の関係性は「赦し」の技法によって維持されている。

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