日本の大学のすべてに体育が必修科目として義務づけられたのは, 第2次世界大戦以後のことである. 日本は敗戦後, 復興を目指して教育改革を行なった. その一つに新制大学の誕生があり, それにともなって新しく必修科目として体育が登場したのである. アメリカ占領軍のCIEの示唆により, 大学基準協会は大学基準を決定してきたが, それにともなって大学における保健と体育をどのように位置づけるかについて, 体育保健研究委員会がつくられ, 東京大学がその委員会の世話をすることになった. 幸いに, 東京大学の学生課長をしていた私にこの委員会の世話を委された. 会議は5回ほど開催され, 正課体育の設置を主張することが決定し, 中間報告として大学基準協会に提出した. 同協会の基準委員会では簡単に通過し, 講義及び実技4単位が決定された. その詳細を第2章, 第1節に述べた. 大学の正課体育は体育家の熱望から直接生れたものではなく, 偶然体育保健研究委員会の主張に基づいて出来たものである. この当時, 大学の体育教官を養成する機関もなく, 大学の体育教官の多くは, かつて学生時代に運動選手をしてきた者, 或いは旧制高等専門学校の体育教師が当った. 大学基準協会は「新制大学における一般体育科目設置の参考資料」を作成し, その準備にカを入れたが, 何分指導教官に適当な人を得ることが困難な状態にあったので, 種々苦しい事態に遭遇した. その間「大学における保健体育の在り方」を大学基準協会と連絡して大学保健体育協議会が発行したが, これは研究の成果を示した立派なものであった. これらは第2章第2節に述べてある. しかしながら, 一般体育に対する攻撃は大学の中に起こった. その第1は体育とすべきか, 或いは保健体育とすべきかという名称の問題である. つづいて起こった問題は, 体育を正課としての単位制度からはずすという日本学術会議の勧告であった. これらの問題は, 大学基準協会の「保健体育の在り方」, 国立大学協会の一般教育の研究討議, 中央教育審議会の決定などにより,体育は従来の位置を保つことができた. 第3章では, 1970年の中央教育審議会の中間報告によって, 体育を正課としての地位からはずすという勧告が, 体育界に大きな動揺を起した. 私はそれを機械文明による運動不足, 大学生の体力減少という点からとらえ, 中央に働きかけ, やっとことの混乱を避けることができた. その際, 大学体育の在り方についての私見を記載した.
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