明治44 (1911) 年に新聞紙上で繰り広げられた「野球害毒論争」は我が国の近代スポーツの受容に際して, 多数の教育家・知識人がそのあり方について意見をたたかわせた歴史的意義を有する論争である.
本稿はこれまで野球史上に位置づけられて論じられることの多かったこの論争を,我が国の教育制度を特徴づける学歴主義の整備・拡張という文脈からとらえ返す試みである. 本稿では以下のような考察を試みた.
第一に, この論争の背景を当時の教育制度の整備・拡張というコンテクストに結びつけて論じた. そこでは進学の困難さと智育 (試験) 重視のメカニズムが一つの教育問題として議論されていたことを示した. その一方で, 運動を行うことが学業との関係から弊害として認識され, 野球が管理・統制の対象として把握される背景を明らかにした.
第二に, 論争は官・私の対立という側面をもち, 官立の教育者による野球排斥論は, 当時台頭していた私大への批判の論理から展開されていたことを明らかにした. これに対する私学の応戦は, 学歴主義の制度化に抗う一つの差異化戦略であったことを示した.
以上のように, 論争はP. ブルデューの文化的再生産論の視角から, 文化の「正統性」をめぐる象徴的闘争という側面をもつ「教育論争」として定立していたことが論じられた.
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