スポーツ社会学研究
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  • ケリー W.W., 宮原 かおる, 杉本 厚夫
    11 巻 (2003) p. 1-12,146
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    この論文は、近代スポーツに潜む深遠なアイロニーについて論じる。それは、スポーツ場面において、われわれの多くがしばしば経験する勝利ではなく負けについて、あるいは成功を味わうことではなく、敗北に直面することについてである。勝利の満足ではなく敗北の失望は、プレーヤーにも観客にも共通している。
    本論では負けることに関して大まかに3つのタイプに分ける。ひとつは絶えず必要に産み出される敗者のような「日常的な敗北」、そして、解雇、放出、辞職といったような完全な失敗としての「致命的敗北」、さらに前二者の中間にあって、負けを繰り返す「反復的敗北」である。反復的敗北は受け入れることと説明することが最も難しい敗北である。
    地域の絶大なる人気を誇るが負けてばっかりの大阪プロ野球チーム、阪神タイガースを事例として、プレーヤーとファンが如何にして反復的な敗北を捉え、調整して、そして受け入れるのかを、いくつかの要因によって分析する。これらの要因には、多くのスポーツに共通の要因、スポーツとしての野球に特有な要素、日本の野球に特有な要因と阪神タイガースに特有の言いわけを含む。著者は苦々しい敗北という結果にもかかわらず、人々はプレーし続け、また見続けるという文化的に屈曲させられた言いわけと構造的なパターンのセットを識別しなくてはならないと考える。そして、さまざまな場面で「敗北の論理」は単一の要因によって説明されるものではなく、複合的なモデルによって説明されるものなのである。
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  • 松田 恵示, 挾本 佳代
    11 巻 (2003) p. 13-21,147
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、平成13、14年度の2年間にわたり本学会において設定された「スポーツする身体とは何か」に関するプロジェクト研究報告である。
    1980年代までのスポーツ社会学では、奇妙なことに、論議のまさに焦点であるはずの身体にはあまり関心が払われずにいた。むしろスポーツは、制度的、経済的、文化的側面から研究されることが優先され、身体の問題は主に哲学に委ねられていたといってよい。ところが、1980年代に入ると状況が一変する。しかし、身体への社会学的関心が高まる一方で、身体の問題においては、多様な概念、見方が存在している。そこで本論文では、身体論の流れをフォローするというよりも、新しいパースペクティブを投げ入れることで、これまでの身体論の位置を批判的に探ってみた。
    プロジェクトメンバーのひとりである池井は、「これまでの身体論は、身体の動物的側面をとりあげてこなかった」と述べている。つまり、別な言葉で述べると、これまでの身体論では、身体を「人間的なもの」として捉えようとしてきたということである。これは1つのイデオロギーでもあり、1つの習癖でもある。これがまず第一の問題点である。
    身体論を議論する上で、もうひとつ重要な観点がある。それは生物学的、人類学的観点である。この観点を念頭におくならば、人間は生物の一種であり、いうまでもなく進化の影響にさらされる存在となる。さらに観点を広げるならば、感情や行動を作り上げる脳システムを考慮に入れる必要も生じてくる。本稿は、デカルトの二元論のように身体から精神を切り離して人間を捉えようとするのは明らかに間違いであると結論づけている。これらのことは特に第3章で展開した。
    このように、新たな身体論の構築に向けて、私たちのプロジェクトは漕ぎ出したばかりである。
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  • 黒田 勇
    11 巻 (2003) p. 22-32,148
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    1. 本学会の研究プロジェクト「日韓ワールドカップとメディア」のもとで、日韓にかかわる言説に注目し、今回のワードカップがどのようにメディアで意味づけられたのかを、研究プロジェクトのメンバーである黄盛彬と森津千尋の研究を中心に中間報告としてまとめる。
    それは、主に日韓のアイデンティティをめぐるポリティクスがワールドカップを通していかに現象したかを明らかにするものである。
    2. テレビビジネスのグローバル化の中で、サッカーがキラーコンテンツとしてビジネスの中心となり、ワールドカップもスポーツの「祭典/祝祭」という意味合いからメディアビジネスのメガ・イベントとなり、日本のメディアも大きな利益を上げた。
    3. 日本のメディアは、日本のナショナルとしての熱狂を自明化する一方で、ステレオタイプイメージに従って韓国の熱狂を特殊化し、また、主要メディアの「韓国応援」に対し、インターネット上では「反韓」メッセージが溢れ、その中で欧州サッカーの「よき」消費者である日本のサッカーファンも、アイデンティティをめぐるポリティクスに巻き込まれていった。
    4. 韓国においてもワールドカップを韓国社会の「世界化」の契機とする戦略とそれへの市民の動員を目指すメディアの動きがあったが、「韓国代表躍進」の結果、そうした戦略の目標とは異なる韓国市民へのインパクトの兆しがある。
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  • 有元 健
    11 巻 (2003) p. 33-45,149
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、「フーリガニズム」以降のカルチュラル・スタディーズにおけるサッカー研究が、サッカーと集合的アイデンティティとの関係をどのように考察しているかを概観し、そうした問題意識が西洋のクラブチームだけでなく日本におけるナショナルチームについても重要な分析の視点を提供することを論じる。レスター派を中心とするフーリガン研究との論争からカルチュラル・スタディーズのサッカー研究は、特に労働者階級のファンたちが文化的アイデンティティを構築するときの媒介としてサッカーを捉えてきた。そして彼らは、サッカーが一次的なカーニバレスクをファンに提供し、またそこで育まれる文化が資本主義社会や管理社会の対抗文化になりうるとした。カルチュラル・スタディーズはそのようなファンの自己同一化のあり方を、ブロンバーガーの「集合的イマジナリー」という概念によって説明した。これはプレースタイルが核となってファンの人々が心に抱き、それに同一化する「わがチーム」のイメージである。しかし、そうした「わがチーム」への自己同一化は、同時に複雑な人種的・国民的な包括と排除のプロセスを含んだ節合形態として認識されなければならない。つまり「集合的イマジナリー」にはすでに特定の人種的・国民的枠組みが書き込まれているのである。カルチュラル・スタディーズのサッカー研究が提示したこの視点は、日本の社会状況を分析するときにも有効である。2002年ワールドカップにおけるナショナルチームを表象するメディアは自己や他者に対するステレオタイプ化されたイメージを流通させたが、この視点にしたがえば、それによって身体的・人種的に特定化され固定化された「日本人であること」の集合的イマジナリーが構築され、ある特定の身体図式が「日本人であること」としてファン (日本国民) の文化的アイデンティティ形成に関与したのではないかと考えられる。
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  • 田中 研之輔
    11 巻 (2003) p. 46-61,150
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    わが国の都市空間において湧出してきた若者の「族」文化は、しばしば、地域住民や警察によって管理や排除の対象にされてきた。そこで本稿は、都市空間の利用をめぐり地域住民のまなざしや警察や警備員による管理が「ストリート」でのスケートボーダーの実践を制限し、彼らを都市広場に囲い込んでいるという90年代以降の都市的現象に注目した。具体的には、スケートボーダーとして2001年5月27日に土浦駅西口に開設した広場を利用しながら重ねてきたフィールドワークをもとに、90年代以降の「族」文化としてスケートボーダーが示しつつある「巧みな実践」の意味と意義を明らかにした。
    広場設置の背景には、スケートボーダーが地元のスケートボードショップ店長と署名活動を展開し、市議会議員と協力し陳情書を提出するという試みがあった。こうしたスケートボーダーによる積極的な都市広場の獲得は、同時に彼らの実践を都市広場へと囲い込むことにもなる。
    広場の獲得と囲い込みの中で日常的な実践を続ける彼らは、広場を自分たちが楽しめる空間に創り変えつつ、再び「ストリート」へと駆り立てられていく。彼らは地域住民や警察らによる管理や排除の圧力をかわしたり、ズラしたりしながら都市空間の「隙間」を探し求めているのである。
    このようなスケートボーダーの実践は、地方自治体や警察らによる「囲い込み」とそれに対する「対抗」「抵抗」図式で捉えることができない。彼らは、管理や排除に直接的に抗うのではなく、むしろ巧みに受け入れていく。
    本稿を通じて、筆者はスケートボーダーの日常的実践に従来の「対抗」「抵抗」図式では語りきれない彼ら一人一人の生を描き出していくとともに、「支配的なるもの」の圧力を無効化していくような「巧みな実践」を続ける彼らに新たな「連帯」の可能性を見出している。
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  • 小坂 美保
    11 巻 (2003) p. 62-74,151
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究は, 明治政府が,「国民」としての統一性を前提とした近代化を推し進めるために, その秩序が内在化できるような身体の形成装置として都市や公園を捉えていたという都市と身体の関係に関する基本的な分析視点を明らかにするとともに, その諸相の一端を序説的に展開することを目的としている。
    特に, 明治・大正期に都市計画とともに整備された公園に焦点をあて, そこでの人びとの身体が, 次のようなことから秩序づけられていく可能性をみることができた。それは, 公園内の運動場や体操器械, 園路といった施設=モノや, 公園内の人びとの〈見る/見られる〉という視線が, 人びとの行為の限定や秩序の受け入れに有効に機能している点である。
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  • 谷口 雅子
    11 巻 (2003) p. 75-86,152
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究は、スポーツが移入された明治・大正期に注目し、規範の生成という観点からみた、スポーツの場におけるジェンダーの生産・再生産の過程を明らかにすることを目的とする。
    その際に、これまでのセックス/ジェンダーという二元論的思考ではなく、男あるいは女というカテゴリーの生成自体を歴史的・政治的出来事として捉え、むしろそれが起きた状況やその効果を分析の対象とする。そして、そもそも男と女という区別は、妥当/非妥当という形で他者から教育されたものと考える。妥当/非妥当の形式による区別の操作という意味での規範の生成過程については、身体どうしのコミュニケーションから超越性が生じ社会的な意味や規範が定まっていくというプロセスに関する大澤理論に依拠している。
    分析の結果、スポーツの逸脱性を抑制する上で男女を差異化する必要性が増した時、それぞれの行為を限定する言説が形成され、ジェンダーが生産されていった過程が明らかになった。また、スポーツを教育的に行うことは、他者との直接的コミュニケーションから生じる志向性の連鎖から、行為の妥当性を一致させることが容易になり、ジェンダーが再生産されていく非常に有効な場となり得ることが明らかになった。
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  • 西村 久美子, 山口 泰雄
    11 巻 (2003) p. 87-101,153
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究は、定期的に運動・スポーツを実施していない中年期女性を対象として、非実施にいたる過程を明らかにすることを目的としている。
    関西在住で、(1) 定期的な運動・スポーツの非実施者、(2) 既婚女性、(3) 職業、(4) 年代、(5) 子供の有無、を基準に有意抽出をした21名を対象者して個人面接を行い、その中から15名を事例として採用した。面接では、対象者の3つのライフステージにおける運動・スポーツ実施の状況ならびにそれに影響を及ぼした様々な要因、特に (1) 時間的要因、(2) 性役割、(3) 快・不快経験ならびにそれにより形成される運動・スポーツへの態度について確認した。また非実施の理由として、運動したいと思っているが積極的な実施にはいたっていないもの (潜在群) と運動したいとは思わない、もしくは無関心なもの (拒否・無関心群) を分類し、それぞれの特徴について分析を行った。
    これらの分析の結果、以下のことが明らかとなった。
    まず時間的余裕は潜在群と拒否・無関心群で明らかな違いが認められた。潜在群ではほとんどの事例が非実施の理由の一つにあげていたが、拒否・無関心群では時間があってもやらないとするものもあった。
    次に性役割は両群において差はなく、「女だからするな」といった直接的な規制もなかったが、妻・嫁・母となることで実際上実施が困難になっていく過程が認められた。
    三番目の快・不快経験の有無とそれにより形成される運動・スポーツへの態度については潜在群と拒否・無関心群で明らかな違いが認められた。拒否・無関心群では、就学期やそれ以降の人生において十分な快経験がなく、同時に不快経験の影響が今も残り、実施に影響を及ぼしていることが認められた。
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  • 高峰 修
    11 巻 (2003) p. 102-114,154
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は、スポーツ実施者との比較を通じてウォーキング実施者の特性における性差を明らかにし、その性差をジェンダー・イデオロギーの視点から解釈することである。体育に対する態度、過去のスポーツ参加経験などの要因に関してウォーキング実施者とスポーツ実施者の比較を行った。1998年に1,535人の日本成人に対して郵送法による質問紙調査を実施し、1,047人から回答を得て、そのうち369人 (女性163名、男性206名) を分析対象とした。ウォーキング実施者とスポーツ実施者をロジスティック回帰分析を用いて男女別で比較し、さらに男性と女性における分析結果を比較したところ、女性においては“体育に対する態度が非好意的な人”、“高校卒業後にスポーツに不参加だった人”がウォーキングを実施している傾向が確認された。こうした人々のウォーキング実施は、「競争性」「スキル」「ルール」といった近代スポーツに特有の男性原理によって説明することができた。これらの男性原理は女性をスポーツから排除していたと思われ、こうした男性原理をウォーキングが持たないが故に、女性はウォーキングに取り組み易いのだと考えられる。
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  • 石坂 友司
    11 巻 (2003) p. 115-127,155
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    明治44 (1911) 年に新聞紙上で繰り広げられた「野球害毒論争」は我が国の近代スポーツの受容に際して, 多数の教育家・知識人がそのあり方について意見をたたかわせた歴史的意義を有する論争である.
    本稿はこれまで野球史上に位置づけられて論じられることの多かったこの論争を,我が国の教育制度を特徴づける学歴主義の整備・拡張という文脈からとらえ返す試みである. 本稿では以下のような考察を試みた.
    第一に, この論争の背景を当時の教育制度の整備・拡張というコンテクストに結びつけて論じた. そこでは進学の困難さと智育 (試験) 重視のメカニズムが一つの教育問題として議論されていたことを示した. その一方で, 運動を行うことが学業との関係から弊害として認識され, 野球が管理・統制の対象として把握される背景を明らかにした.
    第二に, 論争は官・私の対立という側面をもち, 官立の教育者による野球排斥論は, 当時台頭していた私大への批判の論理から展開されていたことを明らかにした. これに対する私学の応戦は, 学歴主義の制度化に抗う一つの差異化戦略であったことを示した.
    以上のように, 論争はP. ブルデューの文化的再生産論の視角から, 文化の「正統性」をめぐる象徴的闘争という側面をもつ「教育論争」として定立していたことが論じられた.
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  • 池本 淳一
    11 巻 (2003) p. 128-133,156
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    近年、スポーツ社会学において、マクロな理論的視点から引き出された問題をスポーツの事例研究によって考察する、といった新たな傾向が存在する。しかしながら、その多くが歴史的文献を用いた研究であり、エスノグラフィーを用いた研究は少ない。
    このような状況の中で、J. Sugden のボクシング研究は、マクロ-理論的視点からの問題をエスノグラフィーを用いて考察している、数少ない研究の中のひとつである。本論文は、彼の主著『Boxing and society: An international analysis』を参考に、スポーツ社会学におけるミクロ-マクロリンクのための方法論を提示することを目指している。
    本論文においては、以下のことが考察される。
    第一に、本論文は、彼が最初に手がけた、アメリカ・ゲットーにおけるプロボクシングクラブのエスノグラフィーが、当時のボクシング研究上の問題に適切に答えていることを指摘する。
    第二に、本論文は、彼が次に手がけた北アイルランド -そこはセクト主義的抗争に満ち溢れた地である-におけるアマチュアボクシングクラブのエスノグラフィーは、Sugden のマクロ-理論的問題 -国家無き社会における秩序維持について- に適切に答えていることを指摘する。
    最後に、本論文は、我々がマクロ的な問題関心に基づいてエスノグラフィーを用いるさいには、コンテキストの異なるいくつかのエスノグラフィーを比較検討することが不可欠である、ということを示す。
    以上の作業を通じて、本論文は、スポーツ社会学においてエスノグラフィー的手法によるミクロ-マクロリンクを達成するための、ひとつのモデルを提示する。
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