障害者スポーツをめぐっては現在のスポーツが抱える問題点がもっとも顕在化する場として、また近代スポーツのオルタナティブについて思考する場として議論が蓄積されてきた。そのため今まさにスポーツを実践している「障害者」の姿や経験が議論から遠景化してしまっていたことは否定できない。
本稿はこうした問題意識から、車椅子バスケットボールチーム、選手への調査をもとに、「障害者スポーツ」、「障害者」カテゴリーが実践当事者にとってどのように把握されているのか、また、スポーツを実践する彼らにとって、自己の「障害」や他の「障害者」がどのように把握されているのかを明らかにする。
彼らは、身体条件の平等性という前提が崩れていることを知りながら、あえて競技スポーツの中でスポーツを実践していた。また支配的社会から押し付けられた「健常者/障害者」カテゴリーのなかで、選択的に「にせものの障害者」という位置を占めてもいる。さらに、車椅子バスケットボールを健常者社会の押し付ける「障害者スポーツ」ではなく「スポーツ」としてカテゴリーをずらし、「健常者/障害者」という恣意的なカテゴリーを行き来する姿が、車椅子バスケットボール選手へのインタビューから明らかになった。これは彼らのスポーツの実践のなかから、スポーツとともに生み出された「スポーツにおける障害者観」ということができる。
だがこのとき彼らの実践が、自ら選択的にカテゴリーを「ずらし」、カテゴリーの自明性を崩している一方で、「重度者」を「障害者カテゴリー」として実体的に措定するという、極めて両義的な性格を有していることも明らかにした。
スポーツ社会学領域における障害者スポーツ論は「障害者」と名指されて生きざるを得ない彼らの生にとって、さまざまな生活の一断片に過ぎないスポーツ場面における経験が何をもたらしているのかを詳細にみていくことが求められていることを指摘する。
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