スポーツ社会学研究
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  • 池井 望
    14 巻 (2006) p. 3-8,116
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    芸術と技術とは、近代科学による「技術」が成立するまでは、ほとんど同義のものであり、おおくの民族の言葉でも同じ語を使って呼ばれる。ところが近代科学による「技術」は、過去にみられた技・芸とは完全に異質の存在である。後者が以心伝心という神秘的修練によって習得されるものであるのにたいして、前者は言語化し、論理化し、そうすることによって万人に普遍化しようとすることを特徴としている。この二つの相違は本質的な相違であり、むしろ対立ともいうべきものである。一方で他方を解釈したり、置きかえたりすることはできないものであることを、しっかり明確にしておくことが必要である。
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  • ロイ ジョン・W, 平野 秀秋
    14 巻 (2006) p. 9-14,117
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    この論文でわたしは、オリンピック大会を開催しつづけることに価値があるかどうかに、あえて疑問を呈する。具体的にわたしが疑問視するのは、オリンピックの道徳的妥当性、スポーツにとっての妥当性、および実用的 (経済的) 妥当性、という三点である。このうちの道徳的妥当性に関しては、オリンピック大会に付きまとう「プロリンピズム」、グローバリゼーション、「全体主義化」、および腐敗という観点から疑問視する。次に、スポーツにとっての妥当性に関しても、ほとんどのスポーツに別の世界選手権大会が開催されていること、多くの種目に世界中の最高の競技者が参加しないこと、そして多種多様な種目が寄せ集められていること、などによってその妥当性が損なわれている。さらに、大会の総費用、特に誘致合戦の費用、保安対策費、ドーピング・テスト費用、インフラストラクチャの建設費用などを考えると、実用的 (経済的) な妥当性も疑問とせざるを得ない。結論として、わたしは「オリンピック大会は、それに費やされる経済的・人間的コストにふさわしいといえるか」ということに疑問を投じる。
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  • ドネリー ピーター, キッド ブルース, トンプソン リー
    14 巻 (2006) p. 15-24,118
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本論文で、われわれは国際オリンピック委員会 (IOC) が主張するスポーツに対する道徳的権限を考察し、それがスポーツに明白で建設的な影響を与えた領域を特定する。また、われわれは1999年を改革の重要な時期とみなし、それ以来の進歩的な改革の勢いに則って、スポーツが直面する重要な問題に取り組むことによってIOCはその道徳的権限をより確かなものにすべきである、と提案する。その重要な問題とは、IOCの運営に関する内部の問題と、スポーツとオリンピック大会に関する外部の問題に分けられる。提案される内部の改革は、IOCの民主的組織 (特に委員資格や地域の代表制や説明責任に関するもの)、IOC会員の男女公平、オリンピック・ソリダリティの試み、そして国内オリンピック委員会の責任に関するものである。提案される外部改革は、スポーツ界における児童の公正な扱い、スポーツ・ユニフォームや用具の製造過程における公正な労働慣行の導入、選手の健康と安全への一層の関心、そしてオリンピック大会の開催地への影響と公平さについての独立した評価の導入、に関するものである。
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  • 清水 泰生, 岡村 正史, 梅津 顕一郎, 松田 恵示
    14 巻 (2006) p. 25-45,119
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、平成15、16年度の2年間にわたり、本学会において設置された「スポーツとことば」に関するプロジェクト研究報告である。
    最初にテレビのスポーツ実況中継の特長について整理をした。そして、札幌オリンピックと長野オリンピックの純ジャンプ競技の中継を文字おこししたものを基に両者に違いがあるかどうかを調べた。札幌は文の形 (主語+述語) がしっかりしているのに対して長野は述語の反復の表現が目立つなどの違いが見られた。このことを踏まえて考えると1972年から1998年の間に実況中継に変化があったと考えられる。
    次に、この変化を説明するために、プロレスと「古舘伊知郎」という問題に着目してみた。プロレスはスポーツにとって周縁的な存在である。近代スポーツが真剣勝負を追求することによって抜け落ちた要素を体現したからだ。古舘伊知郎は1980年代初頭にプロレスの虚実皮膜性を過剰な言葉で表現し、それ自身虚実皮膜的な「古舘節」を創った。プロレス実況を辞めた後の彼は主として芸能畑をフィールドとしたが、舞台でのトークショーの試みの中で新境地を開き、今ニュースキャスターとして、「古舘節」を抑える日々を送っている。
    そして最後に、我々は1980年代における新日本プロレスブームと古舘節の、ポストモダン的文脈について考察した。周知のようにプロレスは80年代に再びテレビ文化の主役に踊り出たが、それはかつての力道山時代ような大衆文化としてではなく、若者を中心としたサブカルチャーとしてであった。そして、1980年代における状況は、その後のポストモダン状況に比べればほんの入り口に過ぎず、東浩紀も指摘するように、日本の若者文化は1996年以降、ポストモダンの新たなる段階へと突入する。そうした中80年代型スノッブ文化の申し子とも言うべきプロレスは埋没し、古舘節だけがプロレスという本来の文脈を離れ、スポーツ観戦のサブカルチャーにおける、ある種の「萌え要素」として機能することとなったのである。
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  • 中江 桂子
    14 巻 (2006) p. 47-58,120
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿では、スポーツの発生に関するエリアスの文化社会学的分析のなかでは、論じられていない中世のスポーツ、馬上試合 (tournament) について考察する。近代イギリスで発明されたとされるスポーツおよびスポーツマンシップの文化的源流は、このスポーツの中で醸成された。
    馬上試合は、中世封建社会においては特別な社会的関心を集める唯のスポーツであり、その試合の変容は、騎士道的倫理の成熟および、騎士にたいして暴力の制御を強制するメカニズムを作り出した過程と合致する。本稿ではこの過程を社会史的に考察する。命にたいする配慮、私欲の放棄と公共への奉仕、弱者の保護などを特徴とする倫理的世界は、中世封建社会の現実を改革する影響力はさほど持たなかったことは認めなければならない。しかしそれは、宮廷風恋愛という特殊な恋愛の形態を生み、さらに騎士物語と馬上試合の大流行によって、ヨーロッパ文化のなかに深く刻まれ、中世が終焉した後にまでヨーロッパ的精神のなかに生き続ける。そしてイギリスジェントルマン階層が、そのアイデンティティを確認する必要に迫られた近代イギリスの特殊な政治文化的状況の中にあったとき、馬上試合の中でかつて夢見られた倫理的世界は、近代的な時代に合わせたかたちで再発見され、再構築されることになる。
    結論として、スポーツマンシップが特殊ヨーロッパ的なものであることが明らかになる。スポーツマンシップが決して普遍的な理念ではないので、多様な文化的背景をもつ身体文化が、安易にスポーツマンシップの倫理を援用することにたいしては警戒する必要があることを示す。
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  • 高尾 将幸
    14 巻 (2006) p. 59-70,121
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    〈身体〉が権力の対象となることを、近代への転換のメルクマールとしたのは、他ならぬミシェル・フーコーの功績だった。体育・スポーツもまた、彼の指摘する規律=訓練権力の一端を、国家の制度的教育として担ってきたのだった。しかしフーコーが切り開いた〈身体〉の政治技術に関する議論は、抽象的なものに終始するのではなく、近年の政策的動向や人々の実践を踏まえたうえで再考される必要があるのではないだろうか。
    こうした問題意識から、本稿では「健康」とスポーツが交差する地点として高齢者の健康増進施策における事例調査を行った。
    健康増進施策から誕生したT会の人々は、単に健康不安に煽られ、メディアの提示する公準や理想的な「健康」観を追い求めているのではなかった。そこでは、参加者の暮らす地域の歴史性や構造的要因が存在し、それは同時に参加を規定する要因ともなっていた。また、〈身体〉に病や「老い」を生きる彼らは、同時に教室に「楽しみ」を見出していた。薄れていった共同性への郷愁、自らの〈身体〉をお互いに確認しあう場として運動教室が存在していたのである。しかし、それは同時に彼らの「隠す」という行為と表裏の関係にあった。そして、こうした人々の実践が、現在の政策的動向を支えていくことを示した。
    結論として、〈身体〉の政治についての視角として、フーコーの提示した「生-権力」論を敷衍させつつも、変動する政策的動向と、それを支えていく人々の歴史や関係性の記述から再考することの必要性を論じた。
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  • 坂本 幹
    14 巻 (2006) p. 71-82,122
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究は、ガーナの農村におけるサッカー活動について、フィールドワークに基づき経験的に描くことを目標にしたものである。具体的には、サッカーを通じて形成された社会関係が、「約束金」というローカルな試合システムを通じて、スポーツの場のみならず、日々の職探しや食物の相互提供といった生活保障システムに組み入れられていくダイナミズムに焦点を当てた。
    このことを明らかにする理由は二つある。一つは、スポーツのような文化的活動が生活どころか「生存」レベルの危機を抱えている社会において行われることは稀であり、また仮に行われることがあっても、それは生活の根源的諸問題とは位相を異にした単なる娯楽活動であるとする、これまでの第三世界スポーツ論に通底した認識を打破するためである。
    もう一つは、従来第三世界のスポーツ活動を扱った研究が、スポーツの実践されている場のみを対象化したものであり、その場を構成する人々が同時に生活の諸問題を抱え、それに対処していく「存在」であることを等閑視してきたことにある。しかしながら本稿で実証データから明らかにしたのは、村のサッカー選手たちが、グラウンドでの「最高の気分」と「生活不安」の双方を携えて生きていることであり、スポーツの活動が生活の場と密接につながっているばかりか、むしろ大変重要な機能を備えているということである。
    本稿では、こうした生活保障システムを支える、人々の「生活の論理」について、人類学者のJ. スコットと松田素二の議論を参照し、それをガーナの村落における若者達のサッカー活動から検討する。
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  • 迫 俊道
    14 巻 (2006) p. 83-93,123
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    これまでに生田久美子は日本の芸道の修行過程を研究してきた。日本の芸道の修行過程の特徴は「非段階性」であると生田は主張している。しかし、生田は世阿弥の稽古に関する理論などを援用している。世阿弥の理論においては、芸道の稽古の過程は段階的であると綴られている。また、生田が芸道の身体教育の意義を提示している説明文においても段階性を示唆する表現が認められる。
    本論文の目的は、芸道の身体教育の段階性に関する生田の議論の矛盾点を指摘し、世阿弥、ヘリゲル、西郷らが記した文献を中心として取り上げ、それらの記述の中において、芸道の身体教育に特有な段階性があることを明らかにすることにある。その上で、生田が光を当ててこなかった、芸道における身体教育の段階性の意義を提示することにある。
    芸道において段階が創造される際には、指導者が学習者の段階の生成過程を見極め、次の段階への橋渡しをしていくという「段階的指導」が行われている。生田が想定した「段階性」とは、現代の学校教育等に象徴的に見られるような静的なものである。だが、芸道の身体教育における「段階性」は、ダイナミックに流動するものであるだろう。芸道における身体教育の段階性の意義は、指導者と学習者の間で展開されていく、複雑な生成過程を経ることを通じて、段階が創造されていくことを示唆している点にあると思われる。
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