スポーツ社会学研究
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16 巻
選択された号の論文の7件中1~7を表示しています
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  • 中江 桂子
    16 巻 (2008) p. 3-4
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
  • 川島 浩平
    16 巻 (2008) p. 5-20
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    ジョン・ホバマン著『ダーウィンズ・アスリーツ』が1997年に出版され、アメリカ合衆国の言論界で人種とスポーツをめぐる論争を引き起こしてから、はや10年が経過した。本書は、学術誌や一般誌の書評欄で取り上げられたり、テレビやラジオの番組で紹介されたりして、様々な階層の人々の注意を喚起し、少なからぬ賛同者を得た。しかし学界では、厳しい批判にもさらされた。本論では、本書の意義を考察し、批判に反論するかたちでの再評価を試みたい。第一節は、ホバマンの主張を、特にアメリカ社会で強い反響を呼んだものに焦点を絞りつつ振り返る。第二節は、本書に対する批判の内容を明らかにする。国外、そして国内のアフリカ系、非アフリカ系研究者など、学界の各方面から提起された批判のうち、ジェフリー・サモンズ、ベン・キャリントン/イアン・マクドナルド、ダグラス・ハートマンによるものを紹介する。第三節は、出版後の10年間におけるアメリカスポーツをめぐる動向のうち、人種・エスニシティ的な観点からみて注目すべきものを拾い上げて解説する。ハリー・エドワーズによる黒人スポーツの「黄金時代」が終焉を迎えるかもしれないという危機の予告、ステレオタイプを超越するかに見えるアメリカスポーツ界の動向、『プライド』、『グローリー・ロード』、『コーチ・カーター』などハリウッド映画における黒人アスリート表象、NBA (全米バスケットボール協会) による『ワン・アンド・ダン』改革などへの言及がなされる。以上の作業に基づいて、最後に本書に対する再評価を試みる。『ダーウィンズ・アスリーツ』に特徴的な因果関係を双方向的に捉える視点は、時宜にかなった、きわめて正確かつ適切なものとみるべきである。この点だけに鑑みても、本書が、人種社会アメリカにおけるスポーツの現在と未来を考察するための、確かな基盤を提供するものであることは明らかである。
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  • リー トンプソン
    16 巻 (2008) p. 21-36
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、日本のスポーツメディアにおける「日本人種」言説を浮き彫りにすることである。
    2007年に、黒人選手の身体能力に対するステレオタイプを有害な神話として批判するホバマンの翻訳本が出た (Hoberman, 1997)。この本は、人種は生物学的なカテゴリーなのか社会的なカテゴリーなのかという、欧米における人種論争を起点としている。人種に関してホールは「言説的な立場」をとる。人種とは、人類の無限の多様性を整理するための言説上の概念である、という。
    深刻な人種問題を歴史的な背景に、欧米の人種論争は主に黒人を中心として展開されている。日本において人種が話題になる場合も、その欧米の論争を反映して黒人問題が中心になることは多い。そのため、日本において主流といえる人種言説は見逃されやすい。日本における主流の人種言説とは、外国人と区別した「日本人種」を想定する言説である。
    本稿では、ホールの「言説的な立場」から人種をとらえる。本稿の目的は、いくつかの事例を分析することによって日本のメディア、特にスポーツメディアにおける一つの主流の人種言説である「日本人種」言説を浮き彫りにすることである。書籍、広告、そしてテレビ中継、多様なメディアからの事例を取り上げる。テクストに登場するスポーツ種目は欧米発祥の陸上競技と日本古来の大相撲である。テクストの分析を通して、「外国人」を対照として日本人には共通した「身体特性」があるという人種的な考えを浮き彫りにする。そしてその人種が及ぶ範囲やそれが持つ意味などは、テクスト間、あるいは同じテクストのなかにも一定していないことを指摘する。
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  • 平野 秀秋
    16 巻 (2008) p. 37-49
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は3つの章からなる。第I章は生理学的見地にかぎってホバマンの作品を検討した。その結果、結論としてこの作品はすくなくとも原文の表題にいちじるしい難点を持ち、ダーウィン進化論への誤解を生じさせる恐れがあると結論した。第II章は特に最近のDNA研究の成果を紹介しつつ、これを中軸とする応用研究にはいくたの怖ろしい陥穽があることを論じた。「ヒトの改造」が空想でなくなるからである。第III章はユーウェン夫妻の最新作の紹介を兼ねて18世紀末からの生理学は多くの無視できない疑似科学の傍流をもつことを論証した。当面は優生学の成立の内情を記述して結論に代えたが、この傍流は現在も継続しており、「ヒト改造」の危険は大量生産・大量消費のためのPRを装った世論操作や意識改造もその中に加えて、むしろより歯止めが利かなくなる可能性があると結論した。
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  • 大久保 英哲
    16 巻 (2008) p. 50-70
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究は、旧制高等学校の活動形態やスポーツマインドが具体的にはどのような過程で形成されていったのかを、大正3 (1914) 年から昭和21 (1946) 年までの分が残されている旧制第四高等学校柔道部の練習日誌『南下軍』の記述をもとに、「部員たちの意識や行動を丹念にフォローする」なかで明らかにしようとするものである。
    まず第1に、四高柔道部が最も過酷な練習を行ったとされる昭和2~3 (1927~28) 年の練習日誌の内容を分析した結果、寝技主体のきわめて過酷な長時間練習が通年にわたって行われており、作家井上靖の言う「修道院」的柔道部実態が明らかとなった。
    第2に、最初の練習日誌である大正3 (1914) 年の内容を検討した結果、練習は試合の3ヶ月前から開始され、練習時間も1時間と、きわめて常識的合理的な、いわば牧歌的練習が行われていた。
    第3に、練習日誌の通年化の開始を検討すると、それは柔道部の全国高専大会敗退と重なる大正11 (1922) 年からであった。すなわち、修道院化の背景には柔道部の勝利と敗退が関係していると考えられる。
    なお、四高柔道部に見られる旧制高等学校の寝技中心の柔道は「高専柔道」と呼ばれ、それまでの立ち技主体の講道館柔道とは異質なものであり、講道館と対立した。これは旧制高等学校が既成のスポーツ組織や文化とは異なった独自のスポーツ文化を作り出したことを意味する。こうした新たなスポーツ創造の観点からも旧制高等学校におけるスポーツ史研究は意義を持っている。
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  • 菊 幸一
    16 巻 (2008) p. 71-86
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、スポーツ社会学における身体論の認識論的特徴を明らかにし、その問題点から肉体論的アプローチの可能性を探ろうとすることである。
    そのため、スポーツ社会学会設立時における身体論への期待や社会学における身体論の取り上げられ方の特徴をレビューした。また、その背景を探るために、体育社会学や体育学の領域における身体のとらえ方を歴史社会学的に議論した。そして、現在のスポーツ社会学における身体論の認識が、そのような期待や背景の特徴によって形成されていることを踏まえて、これとは異なる認識論的特徴を持つ肉体論的アプローチの可能性を探ろうとしたのである。
    その結果、スポーツ社会学における身体論が、当初から人間らしさを前提とする文化や社会の概念を同語反復する性質を持ち、それは文化としてのスポーツや社会制度としてのスポーツを通じた身体観を形成していることが理解された。その背景としては、体育学や体育社会学が教育的枠組みのなかで完成された身体を認識論的な前提としていることや社会学が構造主義や機能主義への批判から身体論に人間らしさを期待し、身体を精神に代わるものとして想定したことが指摘された。そのような認識論的な特徴を持った身体論は、スポーツ社会学において身体の主体性を重視する現象学的方法論に偏った解釈学的アプローチが主流となる傾向を導く。このようなスポーツ社会学におけるパラダイムの無意識的な身体性こそが反省されなければならないのである。本稿では、そのような問題解決の1つの切り口として、肉体論的アプローチの可能性を示唆し、その課題を提示するなかで、現代スポーツの見方それ自体に対する認識論的な変更が求められていることを指摘した。
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  • 森山 達矢
    16 巻 (2008) p. 87-99
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿のテーマは、武道の「身体技法」がどのように伝えられるのかということである。武道の身体技法の習得において重要なのは、その外面的「型」だけではなく、「内部感覚」、すなわち「身体感覚」を身につけることである。しかし、この身体感覚は、デジタル情報のように、完全なコピーを指導者から学習者に伝達することは出来ない。
    本稿では、筆者自身のフィールドワークに基づき、この感覚を伝達する実践の記述をおこなう。筆者は、合気道の稽古を実際におこなっている。本稿では、合気道の技の基礎を成している「呼吸力」に焦点を当てている。この呼吸力は、普段われわれが意識せず使う力とはまったく異なるため、発揮するためにさまざまな稽古が必要である。
    筆者がフィールドとしている合気道の流派は、この呼吸力の習得に重点を置いている。この流派では、呼吸力は、開祖植芝盛平の精神、すなわち合気道の精神を体現したものとして捉えられている。
    この呼吸力を発揮するための「身体技法」がいかに伝えられるのか、その独特の感覚をいかに伝えるのかということ。これが本稿の論点である。この問題に関して、伝達実践において使用される言葉に着目し、感覚を「学ぶ」という側面と感覚を「教える」という側面から、感覚伝達の実践を記述する。
    感覚伝達の実践においては、稽古者が自身の感覚に対して注意を向け、さらに自分の身体感覚についてより微細に感じることが可能となるような稽古体系となっていることを指摘する。そして、技遂行時の感覚が、師範が示している世界観に基づいて意義づけされることによって、指導者から学習者へと伝達されていることを指摘する。
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