スポーツ社会学研究
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17 巻 , 1 号
選択された号の論文の7件中1~7を表示しています
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特別寄稿
  • 伊藤 公雄
    17 巻 (2009) 1 号 p. 3-12
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー
     「日本人の特異な国民性は、彼らが自らの国民性に強い関心をもっていることだ」とは、しばしば指摘されるところである。日本人の特徴という点で、戦後日本社会においてほぼ例外なく共有されているイメージに「集団主義」がある。「個人より集団を優先する傾向」としての「集団主義」という視点から、(日本人は)「個人というものが確立していない」「和を尊び、つねに集団として行動する」とする見方は、海外においても、強固なイメージとして定着している。
     スポーツを通じた「日本的集団主義」論として、よく知られた著書に、ロバート・ホワイテイングによる『和をもって日本となすYou Gotta Have Wa』(初出は1989年)がある。ホワイテイングは、こうはっきりと書いている。「集団的調和、すなわち和の概念は、アメリカ野球と日本のそれとをもっとも劇的に区分するものだ。和は、すべての日本人の生活とスポーツを貫いて作用している。『他人にかまわず思い切りやれ』とか『自分の思うことをやれ』は、現代のアメリカ社会のモットーだが、日本人の信条は、よく知られた次のようなことわざに示されている。『出る釘は叩かれる』。これは、実際、国民的なスローガンなのだ」(Whiting,1989:70 伊藤訳、翻訳書ホワイティング=玉木訳、1990:115頁相当箇所)。しかし、戦前期に書かれた比較スポーツ文化論には、「剣道、柔道にしても、二人の対抗勝負であるが、西洋の競技は多人数合同して、協同的動作を要する。…一体我が国の生活は従来は個人的であり、階級的であったから、勝負事までもそうであった」(下田、1928年)といった記述もみられる。
     本稿では、こうした近代日本における集団スポーツの構図を、歴史的・文化的文脈に沿いながら、現在議論されつつある社会心理学分野での研究成果などを参照しつつ、「日本的集団主義」の問題について考察を加える。その上で、1990年代のJリーグ誕生以後の日本のスポーツ・シーンにおける「集団性」の変容の兆を、現代日本社会における社会関係の変化と重ねることで、スポーツ社会学からの日本社会論へのアプローチの可能性について論じようと思う。
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特集のねらい
原著論文
  • 瀧澤 利行
    17 巻 (2009) 1 号 p. 15-30
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー
     体力の概念は、前近代日本の健康思想の展開においては決して一般的ではなかった。明治維新以前の日本においては、養生が健康の維持と寿命の延長に関わる基本的な思想であった。 養生は、東洋文化における生命の賦活と日常生活における摂生のための思想である。日本においても、 江戸時代(1603-1867)の間、養生論の刊行は次第に増加していった。
     明治新政府は、個人の健康維持に関わる概念として養生に代わって衛生を採用した。明治前半期の衛生思想の下では、「体力」は人々がどの程度働くことができたかを示す概念としてみなされていた。明治後半期になると養生や衛生の本質は、社会や国家の事項を包含すべく敷衍されていった。 伊東重は、『養生哲学』と題された著書を刊行し、その著書において、政府が「国家の養生」を実施すべきであると主張した。また、衛生局長を務めた後藤新平は、彼の主著である『国家衛生原理』において、富国強兵のための健康管理と衛生行政の理論を創出した。後藤や伊東に代表される明治期の衛生思想の基本原理は、主として社会ダーウィニズムと社会進化論に基づいていた。この理論の下では、個人の健康は国家経済の発展と軍事力の増大に関連するとみなされたのである。
     他方では、国民総体の健康について考えるという視点は、彼らの健康水準を平等化することを目的とした社会衛生思想を受容する契機となった。社会衛生学・労働科学の先駆者であった暉峻義等は、産業国家の発展の立場から、労働者における体力を充実させる必要性を指摘した。その暉峻は第2次世界大戦の下では、労働者が国家における人的資源であることを認識し、また、労働の体力は日本の軍事力そのものであると主張した。このように、社会衛生の理論は、次第に人間の健康を国家の資本として見なす側面を含んでいった。
     日本における社会衛生から公衆衛生への主潮の変化は、予防医学と健康教育に重点を置いていたアメリカ合衆国の公衆衛生政策の影響を受けた。それは次第に国際的な公衆衛生運動としてのヘルスプロモーション運動に展開していった。その過程で、体力の問題は、生活習慣病の予防と個人的な活動的な生活の文脈に向かって個人化されてきた。 そのような状況の下では、体力の社会的かつ文化的な側面から再考することが不可欠である。
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  • 内海 和雄
    17 巻 (2009) 1 号 p. 31-44
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー
     環境破壊が人類の生存を外的に危うくさせている。そればかりでなく、いま、人体の内的な環境、つまり体力問題から、人類の危機が警告されている。
     体力問題はあちらこちらで政策の対象となるが、体力の概念自体が不明確である。身体論はここしばらくブームであるが、体力の社会科学的な検討は殆どなされていない。それでも、体力とは「多種多様な人間活動の基礎となる身体的能力」と規定されている。このことから、体力とは個人でも年齢や発達段階あるいは性差、体格差などでも異なる。勿論、職業によっても。また体力には2つの側面がある。抵抗力を示す「防衛体力」と、行動力を示す「行動体力」である。後者は前者を内包しているが、現在、行動体力の低下のみならず子どもたちの防衛体力さえ脆弱化していると、指摘されている。
     成人の行動体力の低下はメタボリックシンドロームや糖尿病をはじめとする生活習慣病の増加などで示される。これらはひとえに摂取するカロリーが必要以上に増え、一方消費するカロリーが必要以下に減退すること(「過剰摂取:過少消費」)によって引き起こされたものである。人類の歴史は例えば「摂取=消費2200Kcal」を生物的法則として形成した。そしてそのカロリーの「過少摂取:過剰消費」の歴史、つまり恒常的に欠乏状態を長い歴史の中で経験してきた。近代国家の国民養成の一環として、国民全体の体力養成が国家的政策課題となったが、それでも未だ基本的には「過少摂取:過剰消費」の状態であった。しかし、高度経済成長を遂げた先進諸国では「過剰摂取:過少消費」状態となり、これがカロリーバランスに人類史上の根本的な構造変化をもたらし、危機の原因となっている。勿論それらは社会構造に規定されている。
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  • 佐伯 年詩雄
    17 巻 (2009) 1 号 p. 45-57
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー
     北京五輪では近未来型のスポーツ的身体を予兆させる2つのイノベーションが注目された。スピード社の「レーザー・レーサー」と障害者スプリンター、オスカー・ピストリウスの「カーボン義足」である。前者は、水の抵抗を減少するだけでなく体型をスイミング用に変形する装置であり、後者は、健常者の下肢よりも優れた疾走機能を発揮する機器である。このイノベーションの導入は、肉体とテクノロジーを融合したアンドロイド・アスリートやサイボーグ・アスリートの誕生を暗示し、そこには「体力とテクノロジーのこれから」を考える重要な問題が隠されていよう。
     スポーツ的身体の歴史的変容を概括すると、古代ギリシャの軍事テクノロジーによる武装化した肉体を誇る「闘技者」、道徳のテクノロジーによって教育化した肉体をレスペクトする「スポーツマン」、そしてテクノロジーによって目的合理的に肉体をスポーツ化した「アスリート」が浮かび上がる。このスポーツ的身体のメタモルファシスに注目するとき、そこにはテクノ化した肉体に隠されている理想化した身体のイデオロギーが見えるのである。
     そもそも「体力」という概念は、抽象的労働力と抽象的兵力という標準化身体の需要に対応する概念であり、身体検査と徴兵検査という肉体を近代化するためのフォーマット装置によって実体化した。この概念化の成功は、「技能」の概念を死語とすることによって具体的な作業から肉体を引き離し、肉体をテクノロジーに順応する資源とした。つまり肉体のためのテクノロジーではなく、テクノロジーのための肉体である。アスリートのスポーツ化身体は、最も具体的な肉体でありながら最も抽象的(意味喪失)な肉体であることによって、現代における体力とテクノロジーの関係の近未来を予兆するのである。
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  • 亀山 佳明
    17 巻 (2009) 1 号 p. 59-71
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー
     この論文の目的は、文部科学省が発行した『小学校学習指導要領』(2002年版)にみられる「生きる力」という概念を新たに解釈しなおすことにある。とりわけ、「生きる力」と「道徳」および「体力・健康」の三者がどのように関係するのか、を改めて捉えなおすことである。このような新しい解釈を行うために、われわれはまず学習指導要領と中教審答申の両者を検討し、そこで「生きる力」がどのように定義されているか、を把握することから始めた。それによれば、「生きる力」の定義それ自体のうちに既に「道徳」と「体力・健康」の両概念が含まれていたのであるが、これら三者の関係についてはなお曖昧さが見られた。そこで、社会学的人間学の知見である「生命エネルギー」と三つの志向性(a.超越的志向・b.道具・結合的志向・c.溶解的志向)の概念を導入することによって、先の三者の関係の解釈を試みることにした。aは現状の自己を超越していこうとする力であり、bは自己の利益を図るために他者と結合しようとする力である。さらにcは自己のウチとソトとを分ける境界を消失して両者が溶解し合う力を表している。われわれはaとbとが合わさった力を「生活力」と、またaとcとが合わさった力を「生命感」と名付けた。そして、「生活力」と「生命感」の両者を合わせた力を改めて「生きる力」と定義した。この新たな定義と比較すると、『要領』のいう「生きる力」は主に「生活力」を意味していたことが明らかとなる。子供たちの社会化において、これら二つの力を媒介する存在が教師である。教師の役割は次の三つのタイプに分けることが可能である。①「生活力」を「監視する他者」、②「生活力」を「育成する他者」、そして③「生命感」を「育成する他者」である。『要領』では①から②へのシフトを促していたが、われわれの視点からすれば、現代においては③の役割こそが重要であると結論づけた。
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  • 浜田 雄介
    17 巻 (2009) 1 号 p. 73-84
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー
     長時間の苦痛を乗り越えるエンデュランススポーツは、人々に自己肯定感をもたらす重要な実践の1つとされる。本稿が対象とするトライアスリート(トライアスロン競技者)も、それぞれに固有の目標や取り組み方をもって、日々の実践に励んでいる。そしてそのような対象者の実践の基底となっていると考えられるのが、「仲間」と呼ばれる他者関係である。しかしながら、彼ら/彼女らのあいだに組織的秩序や成員性はなく、クラブやチームなどへの加入およびその設立には消極的である。したがって、彼ら/彼女らを結びつけている包括性を外的に見出すことはできない。
     それではいかにして「仲間」関係は築かれ、拡がっていったのか。このことを考える方法論的視点として、本稿ではトライアスリートの相互行為、特に大会での競技者への応援など他者の実践を支援し合うようなあり方を、関係の形成と安定に資する「互酬」と措定し、対象者間に固有な実践の記憶とその蓄積を辿ることで、「仲間」関係における紐帯の具体相を明らかにすることを目的とした。
     結果として、個々の競技に対する志向の多様性を認め合うことのできる持続的な他者関係が、エンデュランススポーツの自己肯定感をもたらす意義ある実践として継続されるうえで重要となることが示された。このことから、本稿はトライアスリートの「仲間」関係を、個々に固有な価値観や規範に沿おうとする意味での、孤立とも他者への追従とも異なる「自律」した主体を立ち上げるための共在の実践として結論した。そのような「仲間」関係の特徴からは、今日における様々なスポーツ活動への肯定的な参加要因としての他者関係のあり方をも説明できるような論理展開の可能性が期待される。
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