体力の概念は、前近代日本の健康思想の展開においては決して一般的ではなかった。明治維新以前の日本においては、養生が健康の維持と寿命の延長に関わる基本的な思想であった。 養生は、東洋文化における生命の賦活と日常生活における摂生のための思想である。日本においても、 江戸時代(1603-1867)の間、養生論の刊行は次第に増加していった。
明治新政府は、個人の健康維持に関わる概念として養生に代わって衛生を採用した。明治前半期の衛生思想の下では、「体力」は人々がどの程度働くことができたかを示す概念としてみなされていた。明治後半期になると養生や衛生の本質は、社会や国家の事項を包含すべく敷衍されていった。 伊東重は、『養生哲学』と題された著書を刊行し、その著書において、政府が「国家の養生」を実施すべきであると主張した。また、衛生局長を務めた後藤新平は、彼の主著である『国家衛生原理』において、富国強兵のための健康管理と衛生行政の理論を創出した。後藤や伊東に代表される明治期の衛生思想の基本原理は、主として社会ダーウィニズムと社会進化論に基づいていた。この理論の下では、個人の健康は国家経済の発展と軍事力の増大に関連するとみなされたのである。
他方では、国民総体の健康について考えるという視点は、彼らの健康水準を平等化することを目的とした社会衛生思想を受容する契機となった。社会衛生学・労働科学の先駆者であった暉峻義等は、産業国家の発展の立場から、労働者における体力を充実させる必要性を指摘した。その暉峻は第2次世界大戦の下では、労働者が国家における人的資源であることを認識し、また、労働の体力は日本の軍事力そのものであると主張した。このように、社会衛生の理論は、次第に人間の健康を国家の資本として見なす側面を含んでいった。
日本における社会衛生から公衆衛生への主潮の変化は、予防医学と健康教育に重点を置いていたアメリカ合衆国の公衆衛生政策の影響を受けた。それは次第に国際的な公衆衛生運動としてのヘルスプロモーション運動に展開していった。その過程で、体力の問題は、生活習慣病の予防と個人的な活動的な生活の文脈に向かって個人化されてきた。 そのような状況の下では、体力の社会的かつ文化的な側面から再考することが不可欠である。
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