スポーツ社会学研究
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18 巻 , 1 号
選択された号の論文の7件中1~7を表示しています
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特集のねらい
原著論文
  • 山本 教人
    18 巻 (2010) 1 号 p. 5-26
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     オリンピックメダルやメダリストが、メディアによってどのように描かれているのかを物語の観点から明らかにするために、1952年ヘルシンキ大会から2008年北京大会を報じた「朝日新聞」の記事を対象に、内容分析を行った。
     我が国のメダリストに関する分析から、次のことが明らかとなった。メダルの多くが体操、柔道、レスリング、水泳などの種目で獲得されていた。近年、オリンピック新種目での女子選手の活躍が顕著であった。多様な企業に所属する選手が増加傾向にあった。
     オリンピックでメダルを獲得することは、我が国の国力を世界に向けて示すことであり、メダリストの養成は国策として報じられていた。1970年代前半までのメダリストのメディアイメージは、類い希なる「根性」の持ち主であり、メダリストには超人的な存在の名が冠せられた。精神主義を介してつながる、国家と個人の関係イメージを指摘できた。
     東西両陣営によるオリンピックを通した国力の誇示、オリンピックの商業主義が進行する状況で、商業資本を利用したメダルの獲得は、ますます国策として位置づけられるようになった。この時期のメディアは、プレッシャーに負けず実力を存分に発揮する選手を理想のアスリート像として提示した。
     1990年代前半のスポーツをめぐる状況の変化のなかで、新しいタイプのメダリストがメディアに登場した。この時期の報道は、メダリストの個人情報に焦点化したものが多く、彼らをひとつのロールモデルとして位置づけているように思われた。このような報道においては、国策としてのメダル獲得と、メダリスト個人の体験はつながりを失ったものとしてイメージできた。しかし時に、選手の振る舞いや言動を通して、国家や組織から自由ではないアスリートの姿がメディアに描かれることもあった。スポーツの商業主義化やメディアの多様化は、今後、国策としてのメダル獲得とメダリスト個人の関係をますます複雑・多様化すると考えられた。

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  • 森川 貞夫
    18 巻 (2010) 1 号 p. 27-42
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     日本の全国的統轄スポーツ組織である体協(Japan Sports Association)・JOCはオリンピック大会に参加するために1911年に創立された。しかし体協・JOCは創立以来、スポーツの振興を多くのスポーツ愛好者に基礎を置いて進めるというよりは、政府・財界に寄生しながら今日まで進めてきたために未だ財政的にも組織的にも自立しえないでいる。したがって、戦前も戦後も「国策としてのスポーツ」への協力・推進と「競技力向上」に実際の活動・事業の力点が置かれてきた。
     1970年代前後の国際的な「スポーツ・フォア・オール」運動の進展に呼応するように一時日本でも国のスポーツ政策に路線の転換が行われたが、21世紀直前より再びオリンピック大会での「メダル獲得率」を目標にした「強化策」と結びついた「スポーツ立国」論という、大国主義的イデオロギーを中核にした「国策としてのスポーツ」論が幅をきかせ始めている。
     本論では、これまでの「国策としてのスポーツ」論を歴史的に追求しながら、さらに今日の「スポーツ立国論」が結局は「メダル獲得率」を目標とする「強化策」と結びつき、必然的に「実績主義」「メダル主義」に陥らざるを得なくなるという問題点を指摘し、それをどのように克服していくかの展望を「スポーツの高度化とスポーツの大衆化の統一」という視点から叙述する。

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  • 吉田 毅
    18 巻 (2010) 1 号 p. 43-58
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     本稿の目的は、オリンピック金メダリストがどのような競技生活を送って金メダル獲得に至ったのか、また、金メダル獲得は金メダリストのその後の人生にどのような影響を及ぼしているのかについて、競技者のキャリア形成の視点を踏まえ解明することであった。ここでは、冬季オリンピック、ノルディック複合団体で金メダルを獲得した日本チームの1人を事例とし、ライフヒストリー法を用いて検討した。
     氏は、スポーツ少年団で本格的なジャンプを、中学時代に複合を専門的に始めた。高校時代にはハードトレーニングに打ち込んだ結果、日本代表としてジュニア世界選手権に出場し、また、インターハイで優勝した。氏の競技者キャリアは、中学時代までは「導入・基礎期」、高校時代は「強化・飛躍期」、大学時代は「停滞期」、そして実業団時代が「仕上げ期」と捉えられる。これは、競技力養成という点で、早期には結果を求めるよりも基礎づくりが重要であることを示唆する1つのモデルとなり得るだろう。また、ピークに達する前段階での停滞が奏功したモデルともいえるが、氏はこの時期にもオリンピックに出場したいとの夢を保持していた。氏が金メダル獲得に至るまでには、金メダル獲得の追い風というべき運命的な要素がいろいろと見出された。おそらく金メダリストの競技者キャリアには、そうした運命的な要素を孕む金メダル獲得に至るストーリーがあるのだろう。 氏のこのストーリーには、さらに各段階の指導者、ならびに両親をはじめとした支援者と様々な他者が登場する。
     氏にとって、金メダル獲得は至福の体験であり、ほとんど良い意味で氏の人生を変えるものであった。例えば、世間の注目を浴び、あらゆる面で自信を得、多額の報奨金を得た。現役引退後のセカンドキャリア形成プロセスでは、学校等からの度々の講演依頼、また複合のテレビ解説依頼があり、仕事では知名度の高さが有利に働いた。

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  • 石原 豊一
    18 巻 (2010) 1 号 p. 59-70
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     グローバル化に伴うスポーツの世界的拡大の中、野球も資本との関わりの中、北米トップ・プロリーグMLBを核とした広がりを見せている。本稿ではその拡大における周縁に位置するイスラエルに発足したプロリーグであるイスラエル野球リーグ(IBL)の観察から、スポーツのグローバル化をスポーツ労働移民という切り口から探った。
     IBLの現実はプロ野球という言葉から一般に想像されるような華やいだ世界ではない。ここで展開されているのは、ひとびとが低賃金で過酷な労働を強いられている周辺の世界である。しかし、IBLの選手の姿は、搾取される低賃金労働者というイメージともすぐには結びつかない。それは、彼らが自ら望んでこの地でのプレーを選んだことに由来している。特に先進国からの選手の観察からは、本来労働であるはずのプロとしてのプレーが、一種のレジャーや社会からの逃避に変質を遂げている様さえ窺えた。
     この新たなプロリーグに集った選手たちへのインタビューを通じた彼らのスポーツ労働移民としての特徴の分析は、スポーツのグローバル化が経済資本の単一的な広がりというよりは、選手個々の背景や動機が絡んだモザイク的な拡大と浸透の様相を呈している現状を示している。
     従来の世界システム的観点から見たスポーツの地球的拡大の文脈においては、プロアスリートの国境を越えた移動もその要因を経済的なものに求めがちである。アスリートの移籍理由を経済的要因以外に求める研究もなされてはいるものの、本稿での事例分析の結果得られた「プロスペクト」型、「野球労働者」型、「バケーション」型、「自分探し」型というスポーツ移民の分類のうち、先進国からの「バケーション」型、「自分探し」型は従来の研究の枠組みには収まりきらないものである。このことはスポーツのグローバル化がもたらした人間の移動要因の変質という点において、今後のグローバリゼーション研究に新たな地平を開拓する可能性を持つ。

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  • 高尾 将幸
    18 巻 (2010) 1 号 p. 71-82
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     1990年代後半以降、日本における健康増進政策は、「生活習慣」の改善による疾病の「一次予防」を重視するそれへと大きくシフトしてきた。そして、改正を向かえた介護保険制度も、「予防重視型システムの確立」を明確に打ち出し、筋力トレーニングを含む「運動器の機能向上サービス」を介護費削減の目玉の一つに掲げた。
     本稿では、こうした政策的動向に対しミシェル・フーコーによる「統治性論」の視角を援用することで、今日の私たちの身体と健康がどのような政治のただ中にあるのかを分析した。従来のスポーツ社会学領域において、身体の政治学をめぐるフーコーの「規律権力論」は大きな影響を及ぼしてきた。そこで主流をなしたのは、身体とその表象が既存の規範的な社会関係を維持するという枠組みであった。しかし、統治性論へのフーコーの展開は、集合的な身体である人口をめぐる安全性のメカニズムと、個別的身体への規律的介入との接点が、「正常性」の導出と「規範」の変化・生成に関わっているという新たな論点を含意するものであった。
     この視角を援用することで、本稿では高齢者の身体活動施策を事例に、保険制度への保健事業の組み込みを分析した。そして、保険者機能の強化の一環とされた身体活動を含む予防的保健事業が、保険者の財政的ガバナンスを維持するツールとして、さらに財の負担と配分の公平性を担保する指標として機能している点を明らかにした。
     私たちの健康をめぐるリスクと責任は、リスク・テクノロジーによる統計的数値が先行することで、個人だけではなく、健康保険組合や自治体といった組織的取り組みを介して解決されるべきものになりつつある。だが、果たして現在進んでいる保険制度下での予防的保健活動は、それに携わる専門職やサービスを受ける人びとが望む健康や福祉のあり方に資するものなのだろうか。最後に、この点について実証的に問い直していく作業を今後の課題として提示した。

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  • 乗松 優
    18 巻 (2010) 1 号 p. 83-94
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     中国が日本と米国との間の関係改善をするきっかけとした卓球世界選手権(1971年)から溯ること14年前、フィリピンと日本の間でもスポーツを中心とした交流が、外交の切り札として重視されたことがある。この文化を通した信頼回復とでも呼べる例は、ガルシア大統領と岸信介首相の間で「国際間の協力の基礎」と位置づけられるほど、大きな注目を集めた。
     1960年代初めまで日本は外貨不足に悩まされており、政府は莫大な外貨資金を必要とする国際競技大会に否定的だった。この方針を転換したのが、1957年に首相の座に就いた岸だった。彼は同年、東京で東洋選手権の国別対抗戦として開催された「東洋チャンピオン・カーニバル」に外務省後援を与えるだけでなく、自ら関係者を接待して政府の積極的姿勢を示した。吉田茂が結んだ不均衡な対日安全保障条約の再考をアメリカに迫り、東南アジアへ経済の足がかりをつけようとする岸政権にとって、この時期にアジア諸国間で行われた国際戦は外交戦略上、無視できない存在だった。
     一方で、外貨割当の優先順位において分の悪いプロスポーツは、強力な後ろ盾がなければ国際大会の開催が危ぶまれた。そのため、真鍋八千代はカーニバルが果たしうる「友好」や「親善」を言葉巧みに売り込んだ。この真鍋は後年、球史にその名を刻む天覧試合(1959年)を正力松太郎と共に運営するほど、財界の実力者だった。
     東洋選手権が担った政治的役割は、国際競技を日本とアジアの友好関係として演出することにあった。その理由は、戦禍を被った国々では通商再開を急ぐ日本に不信感が生まれており、政府は国益を追い求める他に、国際親善という大義名分を果たさねばならなかったからである。

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