スポーツ社会学研究
検索
OR
閲覧
検索
18 巻 , 2 号
選択された号の論文の6件中1~6を表示しています
    • |<
    • <
    • 1
    • >
    • >|
特集のねらい
原著論文
  • 岡田 桂
    18 巻 (2010) 2 号 p. 5-22
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     本稿では、スポーツがジェンダー/セクシュアリティ研究の対象として浮上してきた1970年代から現代までの約40年間について、研究と理論の変遷を概観し、後半部分では、その理論と対応する現実のスポーツ界での出来事を解説する。この際、スポーツをジェンダーおよびセクシュアリティ研究で扱う大きな意義として、以下の二点を前提とした。
     1.スポーツという文化が、その当初より男性による実践を前提として発達してきた強固な男性ジェンダー領域(ホモソーシャルな領域)であること。
     2.スポーツが、身体そのものを用いたパフォーマンスによって、その能力の優劣を可視的に提示するという、現代に残された数少ない身体を中心とした文化であること。
     これらの特徴は、特に1990年代以降、クィア理論によって従来のジェンダー理解が覆されていくことで重要度を増している。即ち、スポーツがホモソーシャルな領域であると仮定すれば、従来「男性ジェンダー」領域とされてきたスポーツは、その“男らしさ”の定義の中に既に(ヘテロ)セクシュアリティの要素も含み込んでいることになる。また、 セックス(身体)とジェンダーの連続性が恣意的であり、ジェンダーがその絶え間ない身体的パフォーマンスの結果だとすれば、スポーツもまたその身体パフォーマンスのイメージによって仮構される男性ジェンダーの理想像を形作ってきたことになり、そのジェンダーの理想と身体を結びつけてきた神話も失効することになる。
     これらの理論を踏まえた上で、現実のスポーツ界におけるジェンダー/セクシュアリティを巡る状況が、そのアイデンティティの普遍化/マイノリティ化(本質化)の間を揺れ動いていることを紹介し、理論や研究の流れと一致していることを示して結びとする。

    抄録全体を表示
  • 來田 享子
    18 巻 (2010) 2 号 p. 23-38
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     本稿は、女性の競技スポーツの普及について、2つの変化を通して読み解こうとするものである。具体的な検討の対象として、複数の競技種目において世界のトップパフォーマンスが競われるオリンピック大会と国際オリンピック委員会(以下IOC)における議論をとりあげる。検討する変化の第一は、オリンピック大会の参加者数、オリンピック大会で実施可能だと承認された競技や種目についてである。第二の変化は、性カテゴリーの解釈と性別の取り扱いに関する変化である。ここでは、IOCが「身体的性別とは何か、その境界はどのように設けることができるのか」について探求した事例として、二つの議論を中心に検討する。二つの議論とは、1960年代後半からの性別確認検査の導入に関するものと2004年から承認された性別変更選手の参加に関する議論である。この研究の目的は、女性の競技スポーツの普及と拡大は、性カテゴリーの解釈の変化と相互に関連するものであったことを示すことである。
     戦後、女性の競技スポーツの拡大と普及は、戦前には「女性向き」の改変が必要であるとされた競技が社会に承認されることによって前進した。この前進は、IOCが1960年代後半以降に性別確認検査の導入を検討した時期と重なっていた。また、「男性向き」の競技であるとされ、女性が実施できなかった競技には、1960年代以降に女性たちが挑戦をはじめた。彼女たちの挑戦がオリンピック大会において認められ、女性のための競技スポーツが拡大したのは、1990年代であった。 これと同じ頃、性別確認検査の廃止と性別変更選手の参加承認が決定された。これらの決定は、競技スポーツ界が1)性カテゴリーの境界は医学的に決定が困難で曖昧なものであること、2)性カテゴリーは越境可能であること、という2点を認めたことを意味する。これらの決定は、スポーツと「性別」をめぐる状況をより複雑にしている。競技をする身体にとって、実際のところ重要なのは、競技のパフォーマンスに有利さをもたらすようなテストステロン等の性ホルモン分泌量や骨格などのいくつかの諸要素のどこに線引きをするかだという現実を医学的検査はほのめかしつつある。その意味で、性カテゴリーを峻別した競技とは、もはやフィクションに過ぎないのかもしれない。

    抄録全体を表示
  • 山口 理恵子
    18 巻 (2010) 2 号 p. 39-52
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     「ジェンダー論的まなざしと身体のゆらぎ」を主題とする特集の一論考に位置づけられる本稿は、まず、スポーツ・ジェンダー研究がこれまで「まなざし」を直接的にどのよう論じてきたのかを明らかにするため、スポーツのメディア表象を対象とした先行研究を手がかりとする。スポーツ・ジェンダー研究のメディア批評は、これまでメディアの送り手を「男の眼差し」と措定し、女性アスリートの女性性を強調するメディアのジェンダー・バイアスを批判してきた。この「男の眼差し」は、「見る男性」と「見られる女性」という非対称な関係図式に基づくものであるが、インターネットの普及やスポーツ・マーケティングの席巻などにより、「男の眼差し」を論拠とする視座では捉えきれない現象――消費し「見る」女性、「見られる」男性――が広がっている。多様な現象を捉えず、スポーツ・ジェンダー研究が「男の眼差し」を採用するならば、それは皮肉にも、男女の非対称な二元化を批判してきたスポーツ・ジェンダー研究が、その二元化に固執しているという「まなざし」を詳らかにしてしまう。
     今日のスポーツ界は、多様化し、錯綜し、階層化している。それを顕著に例証しているのが、セクシュアル・マイノリティの位置づけである。一部のセクシュアル・マイノリティは、厳密な条件の下にオリンピックへの出場が許可されるようになった。しかしそれは、セクシュアル・マイノリティを包摂する規定のようでありながら、物質的な身体の改変・加工を強要するものであった。またそれは、政治的、文化的、経済的な力によって左右され、セクシュアル・マイノリティの階層化を招く可能性がある。ジェンダーとそれ以外の因子とが複雑に絡まり合ったスポーツ界を批評するために、ジェンダー論的「まなざし」の重要性と精緻化がこれまで以上に求められている。

    抄録全体を表示
  • 山岸 智子
    18 巻 (2010) 2 号 p. 53-66
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     イランにおいては、20世紀前半から「健全な精神は健全な肉体に宿る」という考え方が広まり、学校体育と女性解放のための諸政策が導入された。女性のスポーツは、健全な社会と家族の健康のために必要と認められたが、女性の身体は繊細で優美なものであるべきとする身体観や家父長主義的な価値観も維持された。
     1970年代からのイスラーム復興は、イラン・イスラーム共和国の樹立をもたらした。イスラーム復興は、それ以前の近代化を見直し、ジェンダー平等についても独自の対応をめざしている。イスラーム体制下でも、1991年ファーイェゼ・ハーシェミーはイスラーム女性スポーツ連盟を創設し、4回のイスラーム女性競技会などを開催した。
     イスラームの命じる男女隔離と女性の頭髪や体を覆うヴェール(ヒジャーブ)をどのように実施するかについて、イランで政治問題化する一方、フランスなどでは公の場所でのヒジャーブ着用が規制されるようになった。こうしたヒジャーブをめぐる社会= 政治的環境において、イランの女子サッカーチームのユニフォーム問題が生じたのである。FIFAが認められるのはうなじの見えるキャップまでとされ、イラン体育協会はキャップをイスラーム的に適正とは認めがたいとした。その結果イランの女子サッカーチームは2010年ユースオリンピックへの参加が危ぶまれる状況にまで追いこまれた。この例はスポーツ機関をめぐる政治=社会的環境が、国際試合への参加をめぐる対立にまで至りうることを浮き彫りにしていると理解できる。

    抄録全体を表示
  • 後藤 貴浩
    18 巻 (2010) 2 号 p. 67-78
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     本研究の目的は、生活者としての障害者とスポーツの関係について明らかにすることである。第一に、生活構造分析を用いて障害者とスポーツの関係について全体像を明らかにする。第二に、ライフヒストリー分析を手掛かりに、地域生活における障害者とスポーツとの出会いについて具体的な知見を得ることとする。
     生活構造分析の結果、以下の点が明らかになった。
     1)障害者は階層的に下層に位置し、移動性が低かった。また、健常者と同様「私化・同調」の傾向にあった。
     2)スポーツを実践している障害者は、障害者全体の中では、上層に位置し、移動性が高かった。 また、公共化の志向が強い傾向にあった。 ライフコース分析の結果、以下の点が明らかになった。
     1)生活構造分析で明らかになった障害者のスポーツ実践に関わる「階層性」「移動性」「公共性」の影響が確認された。
     2)障害者とスポーツの出会いに関して、「主体の行為力の差異」「偶発的な出来事」「現実的な生活レベルでの人間関係の存在」の3 つのカテゴリーが生成された。
     障害者の階層性や移動性の状態は、「社会的位置」を示すものであり、それがスポーツ実践における「主体の行為力の差異」として現れる。さらに、主体の行為力が実践へと結び付く際には、スポーツに関する外部の「偶発的な出来事」のタイミングに反応することが必要である。一方で、日々の暮らしの中で「現実的な生活レベルでの人間関係の存在」が、障害者とスポーツの出会いを基礎づけていることが示唆された。

    抄録全体を表示
    • |<
    • <
    • 1
    • >
    • >|
feedback
Top