スポーツ社会学研究
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21 巻, 1 号
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特別寄稿
  • ―生成する身体からの考察―
    亀山 佳明
    2013 年 21 巻 1 号 p. 3-20
    発行日: 2013/03/20
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     E.コッブの『イマジネーションの生態学』は洞察に満ちた魅力的な書物である。その内容は二つに要約できるであろう。ひとつは、潜伏期の子どもたちはその旺盛なイマジネーションを使って、見るもの・聞くもの・触るものに〈なる〉のであるが、それは「世界づくり」という創造活動でもある、ということ。もうひとつは、そこで養われた創造力は子どもから大人になるときに要求される、個性的人格を形成するさいに必要な創造性を左右する、ということ。これら二つの洞察を説明するコッブの方法には理解しにくいところがある。そこで、コッブとは異なった説明の方法を導入することで、以上の二つの洞察を生かす道を探ってみた。身体の生成論という立場から、次のように解釈してみよう。
     第一の問題について。ベルクソンの記憶論を修正して、イマジネーションという概念をこう定義する。世界において知覚・行動するには記憶と身体とが合体する必要があるが、子どものイマジネーションにおいては、半―記憶と半―身体とが合体する、と。このために、子どもが〈なる〉ことができるのは、想像する主体と想像された対象とが相互に浸透し合って、そこに世界を成立させるからである。彼らは次々に世界を創造し、それらを生きることになる。
     第二の点について。イメージと知覚・行動が一体化するということは、主体のリズムと対象のリズムとが共鳴することでもある。二つの異なった波長をもつリズムが共鳴すると、そこには第3の波長が生じる。「世界づくり」とはこの第3の波長を生じさせることである。子どもたちがその作業を繰り返すなら、彼らのうちに創造性の源となる基盤が形成されることになる。子どもたちが大人になるときに要求される個性的な人格の創造も、この基盤を通して達成されると思われる。従って、もしもこの基盤が貧弱であったとするならば、人格の創造は困難にならざるを得ないことになる。
特集のねらい
原著論文
  • 北村 尚浩
    2013 年 21 巻 1 号 p. 23-35
    発行日: 2013/03/20
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     グローバル化が進む国際社会の中で、日本の伝統文化を尊重した教育が求められるようになった。 そして、日本の伝統文化を継承・発展させるための教育を具現化するため、武道の学習を通して、我が国固有の伝統と文化により一層触れることができるよう、2012年4月から中学校の保健体育で武道が必修化された。武道は日本の伝統文化の一つとしての側面を持ちながら、勝敗を競うスポーツのひとつの種目としての側面をも有しているが、新学習指導要領で求められる武道教育を通して日本の伝統文化の発展、継承といった目的を達成するためには、単に技能・技術教育のみならず、武道の伝統的、文化的特性の教育が求められる。これまで武道は、体育の授業の中で選択領域として位置づけられ、実施は各中学校の裁量に委ねられていた。そのような中での必修化は、現場に様々な混乱をもたらした。
     本稿の目的は、中学校で必修化された武道をめぐる様々な問題点について、筆者らが実施したアンケート調査の結果をもとに考察し、今後の展望について検討を試みるものである。
  • 中村 恭子
    2013 年 21 巻 1 号 p. 37-51
    発行日: 2013/03/20
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     日本の中学校におけるダンス教育は、1881年に始まって以来100年余りの間、女子の体育種目として実施されてきた。男女共同参画社会の流れを受けて、1989年にはダンスは男女ともに選択履修できるように改訂された。しかし、長い間女子のみの種目として扱われてきたために、男子の履修はなかなか進まなかった。そして、2008年の学習指導要領の改訂では、中学校1・2年生において、男女ともにダンスを必修で履修することが示された。一方、戦後の1947年には、ダンスの内容は既成作品や基本ステップ等の踊り方の習得学習から“創作ダンス”による創造的学習に転換した。1998年には、新たに“現代的なリズムのダンス”が創造的学習内容として取り入れられた。しかし、それはしばしば誤って、あるいは意図的に、既成の踊り方習得学習として扱われていた。
     そこで、この度のダンス男女必修化を受けて、2008年の改訂から2012年の完全実施までの移行期間におけるダンス教育の変容を明らかにするとともに、今後の課題を明らかにすることを目的として中学校のダンス授業計画について縦断的に調査した。
     その結果、以下のことが明らかになった。2012年には、ほぼ全ての学校でダンスが男女必修で行われるようになっていた。ダンスの授業数が倍増し、女性教員だけでなく男性教員もダンスの指導を担当するようになった。70%のクラスが男女別習で計画され、70%の男子クラスは男性教員が担当していた。しかし、多くの男性教員はダンスの実技経験も指導経験もなかったため、非常に困惑し、ダンスの授業は混乱した。生徒が興味を持っているという理由から、70%以上のクラスで“現代的なリズムのダンス”が採択されていた。しかし、その学習内容についてしばしば誤った解釈がなされており、授業の質の低下が危惧された。
     以上の結果から、教員の指導力養成と“現代的なリズムのダンス”の教材研究が課題であることが示唆された。
  • 樋口 聡
    2013 年 21 巻 1 号 p. 53-67
    発行日: 2013/09/30
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     武道とダンスが中学校の保健体育で必修になった。その必修化が、学校教育に何をもたらすのか、武道とダンスを学校教育で教えることでどのような教育的可能性を考えることができるのか。その展望を示すことが、本稿の目的である。
     まず、武道とダンスの必修化をめぐって、武道やダンスの研究者や学校現場の教員によってすでになされている議論を、『体育科教育』(大修館書店)の特集号で概観した。体験の楽しさの探求、生徒の知的好奇心の刺激、歴史学習の大切さ、道徳教育・人間教育の方向性が、関係者によって論じられ、共有されていることが明らかになった。次に、文化の伝承の問題を、武道とダンスのそれぞれについて検討した。特に武道について、我が国固有の伝統と文化の強調が、必修化の背景にあると考えられるからである。「型」の文化の学びと、西洋近代のメカニックな合理性からずれた身体運動技法との出会いが、武道・ダンスの文化の伝承の契機として指摘された。そして、武道やダンスを学校教育で教えることの根源的意義として、「身体感性の学び」の生成についての議論が提示された。武道もダンスも、感覚・感受性、表現、技能、主体性といった身体感性の学びの場として捉えることが、学校教育で武道やダンスを必修化することによってもたらされる可能性であることが明らかになった。武道とダンスの必修化の結果、学びの広がりに応じて、教科の枠組みの融解がより一層進む可能性も示唆された。
  • ―明治末期~昭和初期の「青年らしさ」「純真」の言説に注目して―
    西原 茂樹
    2013 年 21 巻 1 号 p. 69-84
    発行日: 2013/09/30
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、明治末期から昭和初期にかけての甲子園野球関連言説を読み解き、当時において「甲子園野球」という独特の対象が構築されていく有様を明らかにすることである。
      「純真」は1920~30年代の甲子園野球関連言説において頻繁に使用された用語である。これは当初は主催者である新聞社により、選手や関係者が努めて遵守すべき「標語」として位置づけられており、必ずしも甲子園野球のあり方そのものを表現するものではなかった。しかし1920年代半ば以降、様々な論者が最高峰たる東京六大学野球と対比しつつ甲子園野球を言説化していく中で、「純真」は六大学野球とは一味違うこのイベントの魅力を表現し得る用語として捉え直され、その結果、それを核として定型化された一連の「物語」が構築されることとなった。
     そこから窺えるのは、存続の危機に晒された明治末期の野球界が生き残りをかけて確立させた「規範」としての「青年らしさ」が、草創期の甲子園大会の運営においても重要な前提となっていたこと、そして昭和初期に商業化の一途を辿る六大学野球への批判が拡大する中で、「青年らしさ」を正しく体現し得る「他者」として甲子園野球を捉える見方が定着し始めたことである。
  • ―名古屋市若宮大通公園を事例に―
    山崎 貴史
    2013 年 21 巻 1 号 p. 85-100
    発行日: 2013/03/20
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     1990年代以降、わが国における日雇労働市場の縮小は、多くの失業者を生み出し、都市の公共空間で居住する野宿者が急増した。駅舎・公園・道路などに起居した野宿者は、90年代から絶えずクリアランスの対象となってきた。そして、そのいくつかにはスポーツが大きく関連している。たとえば、2010年の宮下公園、2012年の竪川河川敷公園では、スポーツ施設の設置によって、野宿者の強制撤去が行われた。では、なぜ野宿者の排除にスポーツが用いられるのだろうか。そして、公園におけるスポーツ施設の設置はそこで暮らす野宿者にとって、どのような問題を孕んでいるのだろうか。
     事例としたのは、1997年と2004年に〈ホームレス〉対策としてスポーツ施設が設置された若宮大通公園である。この公園では、〈ホームレス〉対策として、スポーツ施設が設置されていった一方で、公園内で野宿者は居住を続け、ゲートボール場では炊き出しが行われている。本稿の事例からあきらかになったのは、第一に、スポーツ施設は公園内のオープンスペースを「スポーツする場所」に利用を限定することで、野宿者にとって、居住地を制限するものとして立ち現れる点である。 第二に、野宿者と支援者はスポーツ施設による居住や活動の制限を受けながらも、スポーツ施設を利用して居住し、スポーツ施設を居住地や「野宿者支援の場所」として意味づけしなおしていた点である。
     このことから、最後に公園といった公共空間にスポーツ施設が設置されることの是非は、そこをどのように管理するかではなく、どのように利用されているかという視点から捉える必要性を指摘した。
研究ノート
  • 藤田 智博
    2013 年 21 巻 1 号 p. 101-110
    発行日: 2013/03/20
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、Jリーグのサッカー移民の特性を欧州との比較の視座から明らかにすることにある。 サッカー移民とは、サッカーを職業とするために、出身国を離れ、別の国のクラブに雇用されるプロサッカー選手のことである。Jリーグは、1993年の開幕当初から、サッカー移民が果たす役割の重要性が認識されながら、先行研究においては十分に考察されてこなかった。そこでJリーグにおけるサッカー移民の特性を、欧州の事例に基づいた先行研究を踏まえ、明らかにすることを試みた。まず、南米出身選手、旧ユーゴスラビア諸国出身選手、アフリカ出身選手の割合が高い欧州と同様の傾向がJリーグにも認められるかどうか、もう一つは、開幕当初とそれ以降ではサッカー移民の構成や年齢の高さという点で変化が見られるかどうかを検討した。分析のためのデータは、リーグ開幕前に発売される選手名鑑を用い、1993年から2011年までサッカー移民の出身国・地域と年齢のそれぞれについて、シーズンごと、チームごとに取得した。
     データ分析の結果、ブラジル人選手と旧ユーゴスラビア諸国出身選手割合が高いことが明らかになった。これは欧州におけるサッカー移民と類似した傾向である。他方で、韓国人選手の割合が高いこと、アフリカ出身選手が少ないことが明らかになった。これは日本独自の傾向である。また、開幕当初と比較して、出身地域・国の多様性が縮減していること、平均年齢が下がっていることが明らかになった。これらは、Jリーグが欧州と同様、重要なサッカー移民の受け入れ国になっていると同時に、日本独自の傾向が見られることを示唆している。今後、ますますグローバル化するサッカーを考察する上で、サッカー移民の全体像に迫るために、中心地とされる欧州のみならず、それ以外の周辺的な地域における研究も視野に入れていかなければならない。
  • ―広島県西部のトライアスリートの事例から―
    浜田 雄介
    2013 年 21 巻 1 号 p. 111-119
    発行日: 2013/03/20
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     近年、マラソンやトライアスロンなど長時間、長距離にわたる苦痛によって特徴づけられるエンデュランススポーツ(endurance sports)は多くの人々に親しまれるようになっている。概して、スポーツ社会学の分野においてエンデュランススポーツは日々の練習の積み重ねや苦しみに耐え抜くことによる達成感、自己肯定感などをもとに、複雑化、不安定化した社会状況下で人々が自らの生き方を再統合する個我の実践としてみなされてきている。またそのなかで、いくつかの定性的研究はエンデュランススポーツを通じた他者との共同性が上記のような実践の支えになることを論じている。
     上記のような先行する議論を踏まえて、本稿では広島県西部のトライアスリートの互いの実践を支え合う重要な他者である「仲間」関係の事例を対象とした参与観察と聞き取り調査から、他者との共同性に根差したエンデュランススポーツの体験の有り様を辿った。そしてそれらの体験が対象者の生き方の再統合のプロセスのなかでどのように位置づけられるのかを考察した。
     調査結果から、「仲間」の頑張りに刺激を受けたり、応援されることで苦しくとも脚が前に出たりといった、トライアスロンという消耗と苦痛に耐え抜く究極的な個人競技において他者に触発される間身体的体験が描き出された。またこのような体験にもとづいた主体的な自分の実感は、対象者が自らの生き方を再統合していくための前意識的な契機としてみなすことができた。最後に、本稿の事例を今日の社会に拡がったとされる自己の再帰性に新たな論理を付与しうるものと結論し、その理論的検討を今後の課題として挙げた。
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