スポーツ社会学研究
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21 巻 , 2 号
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特別寄稿
  • 小路田 泰直
    21 巻 (2013) 2 号 p. 3-12
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     人が社会をつくる原動力は人の依存心にある。エサをとることすら他人任せにして平気でいられるのは人間だけだ。それは人間が如何に他者依存的な存在であるかの証拠だ。生活の基本を他者に依存するが故に、人は自由であり得、自分の得手とするところの能力を自由に発達させることができる。人が様々な職能を生み、分業と交換を発達させた理由だ。
     しかし、「生活の基本は他人に依存し、自分は好きなことをやって生きる」これが人間の本質であり、人が社会をつくる原動力であるとすれば、社会は通常永続しない。誰しも他人のために生活の基本を支える側(例えば農民)には回りたがらないからである。だから社会が永続するためには、逆に、人の本質を抑え、人の自由を奪うことも必要だ。そのために、多くの人を不自由におき、差別を身分制という形で制度化した社会が、前近代社会であった。
     だが近代はその差別をなくした。人にその本質のまま生きることを許したのである。ではなぜそれを許すことができたのか。アダム・スミスのいう市場の自動調整力に全幅の信頼を置いたからであった。農業のような人の嫌がる仕事でも、需要があれば、誰かがその需要を埋めると考えることができたからであった。
     しかし市場の自動調整力への信頼は、19 世紀後半になると揺らいだ。市場の自動調整力を裏打ちする人間の力、「生きるためには欲しないことでもする」力(その持ち主が「経済人」)が、実は人に備わっていないことが鮮明になったからだ。好きなことをして生きられなければ、人は意外にあっさりと自殺する。その現実が露わになったからであった。
     そこで社会を、可能な範囲で前近代に戻そうとしたのが社会学者デュルケムであった。それに対して、スポーツのもつ教育力に期待し、人を鍛錬することによって「経済人」たらしめようとしたのがオリンピックの父クーベルタンであった。
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特集のねらい
原著論文
  • 中江 桂子
    21 巻 (2013) 2 号 p. 15-30
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、身体とスポーツがどのような近代的陥穽に陥ったか、という問題について、前近代的な視点を用いて近代を逆照射することにより、明らかにすることである。
     そこで本稿では第一に、西欧文化史の個性をいち早く作り上げたギリシャ・ローマ時代まで遡り、身体と学びの原初形態について概観した。そこでは、美しさに恍惚となるエロス的な関係性のなかに、教育的機能を含ませ、世界への知を深める営みとしての学びがあった。第二に、封建社会とキリスト教が独特の結びつきを見せた中世の騎士道において、試練や苦痛を乗り越えてこそ、その先にロマンスや幸福を獲得できるはずだという考え方が一般化していく。教育とは、苦難を乗り越えることであるという考え方の萌芽がここにある。第三に、社会的義務をみずから欲望することこそ美しい道徳であるという態度は、中世から近代へと引き継がれた。公権力によって私的なものである身体を矯正していくことに躊躇しない近代の成立の経緯を論じた。第四に、騎士の階級文化であった世界を、普遍的で理想的な身体文化として再定義してしまったのが近代であったことを示した。この結果、内発性は創出されなければならないという近代教育の核心が生まれた。そして競技は、不平等のなかに相互尊敬をつくりだすものから、平等の中に勝負によってヒエラルキーをつくりだすものへと、近代において転化したことを概観した。
     以上の議論を通じて、近代以降のスポーツと教育が抱える問題点は、近代以前にルーツがあることが多く、これを解決するには、射程の長い歴史的視点が必要であることを主張した。
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  • 石井 昌幸
    21 巻 (2013) 2 号 p. 31-50
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     「スポーツマンシップ」という言葉は、ながいあいだスポーツの社会的・教育的価値を示す際に重要な意味を持ってきた。この言葉の近代的語義の成立について従来の研究は、パブリックスクールにおける競技スポーツ熱の高揚により、それまで「狩猟の技量」のような意味であったスポーツマンシップに「競技の倫理」という意味内容が加わり、それが競技の普及とともに一般化したと理解してきた。本研究は、19世紀の新聞・雑誌を大量に収録したデータベースを使用して、スポーツマンシップの語の使用頻度と意味内容を分析することで、そのような従来の理解を再検討したものである。
     その結果、次のようなことが分かった。この言葉は、1870年代半ば頃から競技スポーツに関して使用される例がいくつか見られるものの、80年代なかばまで依然として狩猟や銃猟に関するものが大多数であり、その意味はなお多様であった。すなわち、19世紀を通じて「スポーツマンであること」を漠然と指す用語であり、それがもちいられる文脈のなかで、「技量・能力」、「資格・身分」、「倫理・規範」などを意味する多義的で曖昧な言葉のままであり続けた。
     倫理的ニュアンスがコンスタントに見られるようになるのは1880年代半ばからであるが、その際にそれは、スポーツマンシップの「欠如」を批判する文脈のなかで多く見られた。欠如を指摘されたのは、大部分が労働者階級や外国人・植民地人であった。同じ時代に、スポーツはこれらの人びとにも急速に普及し、ジェントルマン=アマチュアは、彼らに勝てなくなってきていた。労働者階級が参政権を獲得しようとしていたこの時代、ステーツマン(為政者)であることだけでなく、スポーツマンであることも、もはやジェントルマンの特権ではなくなろうとしていた。スポーツマンシップの語義変化は、そのような社会変化を反映したものだったと考えられる。
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  • 鈴木 秀人
    21 巻 (2013) 2 号 p. 51-62
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     一般的には、現在行われている体育授業の直接的な起源は、19世紀後半に成立した「体操」の授業と考えられている。しかしながらここでは、英国のパブリック・スクールで課外活動として行われていたスポーツを、現在の体育授業の1つのルーツと措定する。なぜなら、現在の体育カリキュラムにおける内容の大半は「体操」ではなく「スポーツ」であり、かつ英国パブリック・スクールにおいて、それらのスポーツは単なる身体の規律訓練を超えた教育的な価値を見出されたからである。
     本論文の目的は、英国パブリック・スクールに焦点を当てながら、体育科教育の過去を把握し、その過去に規定されていると思われる体育科教育の現在を描き出し、さらには、その超克を志向するという方向で体育科教育の未来を展望することである。
     スポーツ活動が教育として承認されていく過程は、3つの段階にわけることができる。まず最初に、教師たちがスポーツを抑圧したり禁止したりした18世紀後半から19 世紀初頭の時期があった。次に、教師たちが校内の規律を維持するために、生徒たちの協力を得ることをねらってスポーツを公的に承認した19 世紀初めから半ば頃までの時期があった。そして第3番めに、教師たちが生徒の人格形成に役立つというスポーツの教育的な価値ゆえに、スポーツを積極的に奨励するに至った19 世紀半ば以降の時期があったのである。
     最も重要な段階は第2番めの段階である。この時期のスポーツ活動の特徴は、教師たちにとっては社会統制の1つの手段であったスポーツも、生徒たちにとっては純粋に「遊び(プレイ)」であったに違いないということにある。我々は、教育としてのスポーツの出発点が、生徒たちの自発性によって導かれたというこの事実に注意を払うべきである。
     このような体育科教育の歴史を振り返ると、これまでの体育科教育は運動を行う側にとっての根本的な意味、そこにある面白さを十分に考えてはこなかったことに気がつく。そういった視点からすると、運動のプレイとしての要素を重視する「楽しい体育」という体育授業論の可能性は、体育科教育の未来にとって1つの方向性を示しうる。
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  • 磯 直樹
    21 巻 (2013) 2 号 p. 63-78
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     本稿は、一つの柔道場を通じてフランス社会を照射する試みである。私が調査を行った場所はパリ郊外の柔道場である。ここは、移民系住民が中心の貧困地区である。ここでの調査の過程には、反省性の実践が伴われた。この「反省」とはブルデューによって提起され、ヴァカンらによって継承された社会学の方法であり、対象化する主体である研究者自身を対象化することによって、科学的方法を洗練させ、対象の記述の質を高めることを可能にする。本稿では、このような反省性を実践することによって、調査者である私自身の強襲被害を対象化し、フィールドであるF 地区における暴力と社会的境界の関係を分析した。フランスの他の柔道場と同様に、この地区においても柔道家のほとんどは子どもである。そこでは、柔道場は孤島のような場所になっており、閉鎖的な共同体に近いその地区で尊重される価値とは別の価値、つまりフランス社会一般で通用するそれを教えこむ場であった。この地区は「ゲットー」と称されることも多いが、ここにおける柔道実践とは、結果的にそのような地区から子どもが将来的に抜け出せるようになることを意味している。私はこのような結論を、自ら被った強襲事件を契機に導出することができた。
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研究ノート
  • 笹生 心太
    21 巻 (2013) 2 号 p. 79-88
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     本研究では、高度経済成長期(1955年~1973年)における労働者のスポーツ参加格差について分析した。当時の労働者にとって、職場スポーツ施設はスポーツ参加のために重要な役割を果たしていた。しかし労働省による調査の結果から、企業の規模や職種によって職場スポーツ施設の整備に偏りがあったことが明らかになった。また同時に総理府の調査から、中小企業労働者、自営業者、家族従業者は十分にスポーツに参加していなかったことも明らかになった。
     こうした状況について、今後「社会福祉モデル」と「余暇選択モデル」という2つの立場からの説明が可能だろう。前者はこうしたスポーツ参加と職場施設整備の偏りを問題視し、なぜこのような社会状況となったのかを追及していく立場である。この立場に立てば、企業社会論のような諸研究を参照しながら、我が国の社会福祉の特殊な構造が生まれたのはなぜかを論じる必要がある。
     そして後者の立場は、このような偏りに問題性を見出さず、なぜ特定の労働者たちは余暇時間にスポーツを選択しなかったのかを説明する立場である。この立場からの分析は、当時の労働者の労働時間や労働強度、そして余暇選択について分析していく必要があるだろう。
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  • 木村 卓二
    21 巻 (2013) 2 号 p. 89-96
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」の2に記されるように、「人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進すること」は、オリンピズムの目的の1つである。また、環境問題は、オリンピックにとって重大な議事項目の1つとなっており、2012年ロンドン大会は、「世界初の持続可能な大会」の開催を標榜した。
     2010年7月、国際オリンピック委員会(IOC)は、ベトナム戦争の際に使用された枯葉剤「エージェント・オレンジ」の製造、1984年にインドで発生した世界最悪の化学工場事故「ボーパール化学工場事故」の責任など、環境問題と人道的問題の責任を問われる化学製品メーカー、ダウ・ケミカル社と、オリンピックのスポンサー契約を結んだ。これに対し、被害者、政治家、人権団体、選手という多次元のアクターが、IOCとダウ・ケミカルとの提携に反対の意を表し、抗議運動を展開した。2012年オリンピック開催都市ロンドンの市議会は、大会開会直前、ダウ・ケミカルとの契約見直しをIOCに求める動議を可決した。
     オリンピック憲章には、「環境問題に関心を持ち、啓発・実践を通してその責任を果たす」ことが「IOCの使命と役割」として明記されている(規則2の13)。逆説的だが、IOCは、ダウ・ケミカル社との契約で数多くの抗議運動を巻き起こしたことにより、環境問題の啓発を促進した。
     企業には、営利活動を超えた、企業の社会的責任(CSR)が問われている。表層的な環境への配慮を示し、環境領域でのCSRの低評価を覆す、「グリーンウォッシュ」という戦略がある。CSRに照らした企業の倫理的責任の評価をIOCが蔑ろにする限り、オリンピックはグリーンウォッシュの舞台として利用され続ける可能性を有している。ダウ・ケミカルのスポンサーシップに対する世界規模の抗議運動は、IOCに対し、倫理的規範に照らしたスポンサー評価を迫っている。
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