スポーツ社会学研究
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22 巻 , 1 号
選択された号の論文の7件中1~7を表示しています
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特集のねらい
原著論文
  • 加野 芳正
    22 巻 (2014) 1 号 p. 7-20
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
     2012年の暮れに、大阪市立桜宮高校に通う一人のバスケット部の生徒が、顧問教師の激しい体罰に耐えかねて自殺した。この事件をきっかけに、運動部活動における体罰が社会問題となった。
     日本の学校教育では、明治12年に出された〈教育令〉以降今日まで、法的に見ると、ほぼ一貫して体罰は禁止されている。しかし、体罰はしばしば生徒を統制する手段として用いられてきた。とりわけ戦前においては、教育に体罰は必要であるという前提に立って体罰は語られた。それが戦後になると、なぜ法律で禁止されている体罰が学校教育において行使されるのかという問いのもとに議論されるようになり、体罰事件は「教師の行き過ぎ」として描かれるようになった。そして、1990 年代になると、体罰は暴力であり、暴力はいかなる理由があろうとも許されないという言説が支配的となった。
     100年以上も前にE.デュルケムは、人間的陶冶の中心たる学校が、また必然的に蛮風の中心たらざるをえなかったのは、いったいなぜだろうという問いを立てた。彼は体罰の発生を、学校が生徒をして自然の成長に任せるわけにいかず強制的な介入が不可欠なこと、そして、知識・技術の上で自分より劣っている生徒と接しているうちに知らず知らずのうちに抱く教師の誇大妄想癖の、二点に求めた。しかし、彼の議論は体罰発生の必要条件を説明していても、十分条件を説明していることにはならない。この欠点を補って亀山佳明は、R.ジラールの欲望の三角形モデルを用いて、学校における暴力の発生を説明した。彼の野心的なところは、「体罰」「対教師暴力」「いじめ」という学校で生起する三様の暴力を射程に収めている点である。「体罰」と「いじめ」は別々の問題であるが、共通する部分も少なからずある。
     教室における体罰の発生は、教師の権威の低下を前提として説明できる部分が大きい。しかし、運動部活動における体罰を、同じような背景によって説明できるかについては、疑問も残る。
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  • 鈴木 明哲
    22 巻 (2014) 1 号 p. 21-33
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、日本スポーツ界における暴力的指導に関して、体育・スポーツ史研究及び教員養成の観点からいくつかの問題提起をすることである。
     本稿による提言は以下のようにまとめられる。
     1)注意すべき最も重要な点は、スポーツにおける暴力的指導に対して我々が「自己反省」の意識をもつ必要があり、これらの問題に関する全ての発端が体育やスポーツの内部に由来しているという認識をもつ必要があるということ。
     2)日本のスポーツ界における暴力的指導が軍隊のシステムに由来しているという説明がなされている。が、しかし、この説明は歴史的史料に基づいておらず、実際にいつ、どのようにして学校の体育やスポーツに入ってきたのか、その過程についてはほとんどわかっていない。それゆえ我々は、史料に基づいた歴史的事実の提示をしなければならない。
     3)スポーツにおける暴力的指導に関する歴史的研究が進展してこなかった理由は、問題史研究という手法に注目してこなかったからであり、我々はこの研究手法に注目する必要がある。
     4)体育やスポーツのあらゆる分野で暴力のない新しい、創造的な指導法を構築するために、我々は体育やスポーツについて全く知らない多くの人々と意見を交換しなければならない。
     5)教員養成系大学における学生たちの受講態度に留意することは、カリキュラム改革よりも重要である。
     最後に重要な点として、本稿では以下の点を強調しておきたい。日本のスポーツ界から暴力的指導を排除することはおそらく困難であろうと思われるが、我々は、そのためには、相当に長い時間を要することを覚悟しなければならないということである。
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  • 奥村 隆
    22 巻 (2014) 1 号 p. 35-50
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
     「スポーツと体罰」という本稿のテーマは、「スポーツを教える/学ぶ空間」における「スポーツを教える身体」から「スポーツを学ぶ身体」への暴力、といいかえることができる。ここには、「スポーツする身体」と暴力という問題系と「教える/学ぶ身体」と暴力という問題系のふたつが重層しているだろう。本稿はこのふたつの問題系をいったん切り離して、前者についてはノルベルト・エリアスによる「文明化」理論に基づく議論を、後者についてはグレゴリー・ベイトソンによる「学習」と「ダブル・バインド」についての議論を参照して検討し、その後この両者を結びつけて考えたい。
     本稿は、文楽の人形遣いの名人・吉田文五郎が語る芸の伝承の事例を軸にしながら、とくにベイトソンがいう「学習Ⅲ」を生む「治療的ダブル・バインド」の状況に着目する。「学ぶ身体」が従来の「学習Ⅱ」では成功できず、新しい習慣に跳躍しなければならないこの状況において、「教える身体」もダブル・バインドに晒されている。また、そこで「学ぶ身体」が身につけるべき「スポーツする身体」は、スポーツと暴力をめぐる構造的なダブル・バインドのなかに置かれている。こうした困難さのなかで、「スポーツを教える身体」が暴力をふるうことがあるだろう。そして、多くの「学ぶ身体」は「学習Ⅲ」に飛び移ることに失敗する。この「敗者たち」を遇する文化を「スポーツを教える/学ぶ空間」がいかに蓄積してきたか、これをどう育てうるかが、「スポーツと体罰」というテーマにとって重要な課題となるだろう。
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  • 西山 哲郎
    22 巻 (2014) 1 号 p. 51-60
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
     本稿では、日本のスポーツの場に根強く残る体罰の問題について、直接的な批判ではなく、体罰容認論からアプローチして解決の糸口を考えてみる。世界的に人権意識が高まり、日本でも教育の場で体罰容認論を主張することはほぼ不可能となっているのに、スポーツの場ではコーチ側だけでなく、選手やその保護者の側にも許容論がなくならない。その理由は、ここ日本でスポーツ活動を通じて達成が期待されている「人間の成長」や「社会化」が、諸外国とは違った発展を遂げてきたからではないだろうか。
     日本のスポーツの場で、体罰が容認される際によく見られる言説は2種類に分類できる。ひとつは「礼儀作法や上下関係を守るため」で、もうひとつは「選手個人では乗り越えられない壁をコーチとの共生関係を利用して乗り越えるため」である。両者に共通するのは、競技スポーツでの業績達成より組織の維持を優先する〈集団主義〉と、自他の境界を曖昧にして、言語より身体的コミュニケーションを発達させる〈心身一元論〉であった。
     日本の体罰容認論は単に伝統的なものではなく、平成時代に入ってからの高校や大学受験におけるスポーツ推薦入試枠の拡大の影響でむしろ強化されてきた。しかし、グローバル化の深化などによって、社会で求められる人材像に変化が見られる今、日本のスポーツ界も体罰を許容しない育成制度を模索し始めている。
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  • 小林 勉
    22 巻 (2014) 1 号 p. 61-78
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
     近年、国連をはじめとする各国際機関でスポーツを貧困削減へ向けた、いわゆる「開発」のプロセスの中で活用していこうとする「開発を後押しするためのスポーツ:Sport for development and Peace(以下SDPと表記)」の潮流が台頭してきた。ただ、日本での援助や国際開発の議論に目を向けると、SDPへの活動や議論への関心が世界で高まりをみせているのとは対照的に、スポーツがその領域にいかなる接点を持ちえてきたのかということが十分に議論されることは少なかった。本稿では、日本でこれまで大きく見過ごされてきたそうしたSDPの展開を焦点化し、近年のスポーツ援助をめぐる国際的な動向と課題について明らかにすることを目的とする。具体的には、スポーツを通じた社会開発の活動の変遷とスポーツ援助に関する議論の系譜を跡付けながら、開発の現場でスポーツに対する見方がいかに変化してきたのかについて検討した。スポーツ援助に対する研究者側からの問題提起を出発点としながら、貧困削減に向けたスポーツの展開をめぐり、途上国の現地側が求めるものと先進諸国側が求めるものとの差異を焦点化することで、SDPをめぐり開発を推し進める側、それを受け入れる側にはどのような問題が伏在するのかを浮き彫りにした。スポーツ援助によって活気付いたSDPの展開は、先進国の体制化したスポーツによって成し遂げられてきたが、スポーツの領域から南北問題を是正しようとするなら、そこにはスポーツが本来的に有していたコロニアリズム的要素に対する壮大な挑戦が待ち受けていることを常に視野に入れておかなければならず、その評価には、従来の定量化された指標を累積的に評価(summative evaluations)していく方法よりも、形成的な評価(formative evaluations)の方が適合的であることを指摘した。
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研究ノート
  • 高橋 豪仁
    22 巻 (2014) 1 号 p. 79-88
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
     「スポーツ基本法」において、法文上初めて「スポーツ権」が明記されたことは、憲法13条の幸福追求に対する国民の権利がスポーツの次元においても存在することを根拠づけるものではあるが、その保障内容については議論の余地がある。本研究では、下記の訴訟事件を、スポーツを見る側の権利の観点から検討し、この裁判の過程で問題となったプロ野球の公共性について考察を加えた。 また、こうした私設応援団の排除や応援不許可を、単に反社会的勢力の排除の一環であるという表層的な見方で説明するのではなく、その背景に存在するスタジアムにおける管理・監視システムの視点から検討する。
     プロ野球暴力団等排除対策協議会は、2008年3月、ある私設応援団に所属する26人に排除命令、7つの応援団から構成される1団体には特別応援許可を出さないことを決定した。これに対して当該の応援団は、2008年6月、名古屋地方裁判所にNPB と12球団らを相手取り、入場券販売拒否と特別応援不許可の撤回を求める訴訟を起こした。
     原告らはプロ野球の公共性を根拠に「スポーツ権」を主張したが、プロ野球は営業の自由や契約自由の原則が適応される私的事業の領域であるとの理由でプロ野球の公共性は否定された。公的セクターには公共性があり、私的セクターにはそれがないとする判断であり、現在社会におけるスポーツのあり方を説明するには一面的である。また被告側の応援団や観客への関係性には自由な討論の場も公開性もなく、ハーバーマスの言う「市民的公共性」の観点から批判することができる。ここで取り上げた訴訟事件は、興行主である日本野球機構や球団が、プロシューマーである私設応援団を、データベース化と自己規律化に基づく管理によって、自らの生産活動の中に囲い込んでいるという構造を顕在化させている。
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