スポーツ社会学研究
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24 巻, 2 号
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特集のねらい
原著論文
  • ―祝祭からスポーツへ―
    西村 秀樹
    2016 年 24 巻 2 号 p. 5-20
    発行日: 2016/10/05
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー

     大相撲は、スポーツらしからぬ部分を持つ。その最たるものは、「立ち合い」である。「阿吽の呼吸」で立つとか、「合気」で立つというように、当事者同士の相互主観的な一致の「とき」に、立ち合いは成立する。近代スポーツに見られる判定の客観的合理化の流れとはまさに逆行している。この点は、大相撲の伝統的「芸能性」と関連している。
     スポーツらしからぬ部分は、明治・大正から昭和の戦前にはもっと多くあった。それらは近代的スポーツとしての未成熟さをあらわすと言えば、確かにそうであるに違いないのだが、大相撲がスポーツとして公正な勝負の論理を志向したのではなく、「祝祭」であったことが考慮に入れられなければならない。当時の国技館は、まさに「祝祭空間」であった。その「祝祭性」の充満には、近代スポーツからすればまさに未成熟に他ならないルールの「曖昧さ」や、力士の賤視される「芸人」としての身分が寄与したのである。これらが、観客を能動的な主役として熱狂させたのである。
     この「祝祭」としての大相撲が「スポーツ化」していくプロセスは、興味深い。中世のヨーロッパ各地でおこなわれたフォークゲームとしてのフットボールにおいては、その近代的スポーツとしての発展の経緯は、広範囲での大規模な国際的な試合を可能にするために統一組織・統一ルールが出来上がるという内的発展の論理に求められる。それに対して、大相撲の近代化は外的・社会的状況によって推進されたのである。協会の財団法人化による品位向上・天皇賜杯認可による権威づけと、天皇制ファシズム推進による国民生活全般の「厳粛化」のなかで、大相撲の礼儀作法や観戦態度が「神聖化」されていく一方、取組や裁定にあった「曖昧さ」は排除され、公正な勝負の論理が支配的になり、ガチンコ勝負としてスポーツ化が推進されたのである。

  • ―遊戯・武士道と押川春浪―
    鈴木 康史
    2016 年 24 巻 2 号 p. 21-39
    発行日: 2016/10/05
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー

     本研究は、明治時代の野球史を〈遊〉と〈聖〉という視点で再検討しようとするものである。
     明治初期に、西洋伝来の「遊戯」として日本に紹介された野球は、「体育」に取り入れられることとなるが、しかし、こうした〈遊〉の「快楽」の利用に対して、もう一つの〈遊〉の世界があった。
     日本に野球をはじめて持ち帰った平岡熙は「遊芸」好きの人物である。彼によって始まった日本の野球は当初は江戸的な「遊芸」と同じ〈遊〉なる地平に置かれることになる。だが時代がすすむにつれ、こうした江戸的な心性が消え、〈遊〉の禁欲化が始まる。その例をわれわれは正岡子規に見ることができる。子規は野球の「愉快」を屈託なく語った人物として名高いが、その背景には平岡の「遊芸」的な世界のうち「酒色」にまつわる部分を不健全として禁欲する、そのような〈遊〉の世界の分割が確認できるのである。
     こうした〈遊〉の禁欲化はさらに第一高等学校において進められる。そこにおいては「武士道野球」が発明されることになるが、明治20 年代には、まだ野球はその「愉快」さで価値づけられており、武士道化が始まるのは、明治30 年代に入ってからである。今回はその始まりを一高の校風論争に確認した。剣道部の鈴木信太郎がはじめて「武道」(そこには野球も「新武道」として含められている)による「精神修養」と「武士道振起」を語るが、それは〈遊〉が〈聖〉なる苦行の手段として位置づけられるという事態であった。
     それに対して、明治末に「武士道野球」を語った押川春浪は、少し異なった場所にいる。春浪は野球を「武術」化して「精神修養」せよと語るが、しかし彼のスポーツ実践はこうした禁欲的な修練のたまものではなく、むしろ一瞬一瞬を面白く遊ぶものであった。彼はそこで武士的な実践を模倣することで武士の精神を体現する。これは「世俗内禁欲」としての〈聖〉なる武士道野球に対する対抗的な〈遊〉ぶ身体なのである。

  • 清水 諭
    2016 年 24 巻 2 号 p. 41-51
    発行日: 2016/10/05
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー

     2000年代に入り、国際オリンピック委員会(IOC)と国連などの国際機関が連携して、スポーツによる開発と平和(Sport for Development and peace: SDP)が展開してきた。2016年リオ・オリンピックの開会式においても環境保全や人権保護への貢献活動が強くアピールされた。本論文では、J.J.MacAloonの文化的パフォーマンスの理論から、オリンピックという文化的パフォーマンスの体系を示したあとで、R.Robertsonのグローバリゼーションの理論を下敷きにして、SDPが生起する背景を考察した。そして、SDPの歴史的経緯を追い、その可能性を探究した。筆者は、SDPの潮流について、以下のことを指摘している。 1)スポーツのすべての側面がプラスと評価されるのではないこと 2)新自由主義的側面と関係していること 3)西欧の「人権文化(human rights culture)」を普遍主義的に捉えないこと。そして各事例においてナイーブかつ対話をベースにした実践的アプローチが求められること 4)SDPがこれまでの開発支援の限界性を払拭し、またスポーツの領域にとどまらず、病気、飢餓、紛争と難民の創出などの問題にアプローチできているかを批判的に評価すること 5)グラスルーツに伝統的に存在してきたパワーバランスを混乱させないよう注意を払うこと。

  • ―複線的スポーツキャリアを形成した元カーレーサーのライフヒストリー―
    吉田 毅
    2016 年 24 巻 2 号 p. 53-68
    発行日: 2016/10/05
    公開日: 2016/10/13
    ジャーナル フリー

     本稿の目的は、中途身体障害者の車椅子バスケットボール(以下「車椅子バスケ」)への社会化に関する研究の一環として、交通事故に遭い受傷した後に車椅子バスケとともに他種目への参加というキャリア、言わば複線的スポーツキャリアを形成していった元カーレーサーが、受傷してから車椅子バスケへの社会化を遂げていくプロセスで寄与した主な具象的な他者について解明することであった。それにあたり困難克服の様相にも着目した。方法はライフヒストリー法を用いた。ここでは、対象者へのインタビューで得た語りを基にライフヒストリーを構成した。主な知見は次の通りである。
     対象者は受傷したことにより、障害との闘いをめぐる困難及びレース活動からの現役引退をめぐる困難を経験した。氏が前者を克服していくプロセスで寄与した主な他者としては、〈かけがえのない他者〉(父親)及び〈寄り添う他者〉(親友)が見出され、これらは〈親密圏〉を築く他者とも捉えられた。また、氏は車椅子バスケとともに、受傷前に貴重であったレース活動をレクリエーション的に継続することで後者を克服していった。氏にとってはいずれも貴重であり、車椅子バスケへの社会化を遂げていくプロセスはそれらが並行する様相を呈していた。このプロセスで寄与した主な他者としては、車椅子バスケへと〈誘う他者〉(入所仲間)及び〈導く他者〉(車椅子バスケクラブの先輩)、車椅子バスケ活動の精神的支えとなる〈寄り添う他者〉(親友)、それにレクリエーション的なレース活動へと〈つなぐ他者〉(レース仲間)が見出された。これらのうち〈誘う他者〉以外は親密圏を築く他者とも捉えられた。

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