本研究は、明治時代の野球史を〈遊〉と〈聖〉という視点で再検討しようとするものである。
明治初期に、西洋伝来の「遊戯」として日本に紹介された野球は、「体育」に取り入れられることとなるが、しかし、こうした〈遊〉の「快楽」の利用に対して、もう一つの〈遊〉の世界があった。
日本に野球をはじめて持ち帰った平岡熙は「遊芸」好きの人物である。彼によって始まった日本の野球は当初は江戸的な「遊芸」と同じ〈遊〉なる地平に置かれることになる。だが時代がすすむにつれ、こうした江戸的な心性が消え、〈遊〉の禁欲化が始まる。その例をわれわれは正岡子規に見ることができる。子規は野球の「愉快」を屈託なく語った人物として名高いが、その背景には平岡の「遊芸」的な世界のうち「酒色」にまつわる部分を不健全として禁欲する、そのような〈遊〉の世界の分割が確認できるのである。
こうした〈遊〉の禁欲化はさらに第一高等学校において進められる。そこにおいては「武士道野球」が発明されることになるが、明治20 年代には、まだ野球はその「愉快」さで価値づけられており、武士道化が始まるのは、明治30 年代に入ってからである。今回はその始まりを一高の校風論争に確認した。剣道部の鈴木信太郎がはじめて「武道」(そこには野球も「新武道」として含められている)による「精神修養」と「武士道振起」を語るが、それは〈遊〉が〈聖〉なる苦行の手段として位置づけられるという事態であった。
それに対して、明治末に「武士道野球」を語った押川春浪は、少し異なった場所にいる。春浪は野球を「武術」化して「精神修養」せよと語るが、しかし彼のスポーツ実践はこうした禁欲的な修練のたまものではなく、むしろ一瞬一瞬を面白く遊ぶものであった。彼はそこで武士的な実践を模倣することで武士の精神を体現する。これは「世俗内禁欲」としての〈聖〉なる武士道野球に対する対抗的な〈遊〉ぶ身体なのである。
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