「新歌舞伎」は現在では活字により評価されがちだが、初演当時の鮮烈な印象を観客に与え、生涯に渡り追憶させたのは、装置や照明の斬新さだった。それを皮相的というなら、日本のみならず十九世紀の演劇を語る事はできない。新時代のテクノロジイの異文化受容のなかで演劇はその性質を変え、従来の「旧劇」にも多大に影響し、今日の「古典歌舞伎」に及んでいる。それは演技や劇作法にも当然関わり、舞台全体を統括する「演出」意識も生んだ。松居松葉と岡本綺堂を中心に、当時の観客の目や耳に直接訴えたものから、今日自明化されがちな諸演劇の境界を繋ぐものを考える。
シェイクスピアが当時の社会思想を考慮して、亡霊や王殺しという問題をどのようにテキストにしたのかを考察する。
本稿の目的は、近現代の台詞劇における裸体登場の意味作用と機能を問うことにある。かつて革命的武器として導入された裸体は、今日その意義を失い、劇の新たな表現素材としての解釈を求め始めている。ここでは、①リアリズム劇における裸体の位置、②モチーフとしての裸体の性質、③裸体表現を目指すテクスト上の戦略の例としてのデュレンマット『メテオール』読解、④裸体の「外的」意味作用の影響、以上四点からの考察を試みた。
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