かつてハイデガーは、近代性の一帰結としての全体主義への思想的対決の中で技術論を展開し、技術の本質を世に匿されている存在を、開示に導く作用としての「開蔵」にあるとした。そして、近現代の技術社会の本質は、わけても「集立」という開蔵にあり、その挑発的作用は自然を、端的な資源などに切り詰める「用象」化を招くと鋭く看破した。当該概念は、日本近代における鍼灸技術の歴史的変遷に良く合致しており、本論の概念装置として最適と考えられた。近代技術への依存が増し、その用象化が加速するなかで、鍼灸を擁護した三宅秀は、「鍼灸技術をいかに解釈したのか」というトピックを解釈的な史的考察によって検討することで、「日本鍼灸のアイデンティティとは何か」という問いに、応答しようと試みた。
従前の研究では、独医学採用から明治7(1874)年の医制制定以降、漢方医学全般が廃絶の危機に瀕したとし、この要因を極端な欧化主義による近代医学一元化に求め、鍼灸の近代化では奥村三策や杉山流関係者の功績を中心に語られてきた。本論では、先学の研究で言及の乏しかった三宅の各種演説の証言を対象として検討した。結果として、浅田宗伯の漢方医医学存続嘆願書がしたためられる前年の明治14(1881)年に、すでに三宅自身の鍼灸技術尊重の姿勢と近代科学に立脚した研究の不足が主張されており、その主張は以降の各証言でも、首尾一貫していたことが判った。
三宅は、近代医学も日本鍼灸も同じ「医学」として解釈していた。しかしながら当時の社会的拘束性のなかで、鍼灸を制度化し、医として自己保存を保つには、生理解剖及び病理を移入させ、気の思想を置換することは断行すべき命題であった。ここで重要なのは、三宅が当時の医界の流れに逆らってまで、鍼灸技術を用象化して廃棄することを留保し、鍼灸技術の経験的かつ歴史的価値とその治療効果を確信して擁護し得たことである。三宅の鍼灸解釈の根源は、何より、その技術的価値への確信にあった。それは、三宅自身の歴史性の尊重姿勢に基づくと考えられ、これが、鍼灸技術の用象化に一定の制限をもたらし得たのであると考えられた。
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