リストのピアノ編曲、《ベートーヴェンの交響曲 ピアノ・スコア》は、27 年の歳月にわたって―厳密には 1837 年と 41 年、そして 1863-4 年の二つの時期に―取り組まれた。1838 年にリスト自身によって書かれた編曲の理念表明は、 1840 年の第 5、6 番の出版譜序文として、原文の仏語とともに出版社による独訳で掲載された。そして 1866 年の全 9 曲出版の際には、日付のみが「1865 年」に変更されたその序文が一語一句変わらぬまま、再び版の冒頭を飾った。その四半世紀以上もの間、リストは本当にこれらの編曲に対する考えを変わらず維持していたのだろうか。本論は、それぞれの編曲成立の過程と取り組みの目的、そして手法を検証することによって、リストの編曲観は決して一様ではなく、これらの年月の間に大きく変化したことを明らかにする。
本稿の目的は、ジャン・シベリウスの《交響曲第 3 番》作品 52 における創作概念と表現手法の考察を通して、同交響曲に認められる新たな様式的方向を明らかにすることにある。民族ロマン主義からの芸術的飛躍を試みた中期創作期のシベリウスは、古典的作風の内に堅固な音楽的論理の確立を求めた。そこにおいて重要な鍵となったのが「交響的幻想曲」の創作概念である。《交響曲第 3 番》においてシベリウスは、伝統的なソナタ様式への斬新なアプローチ、そしてスケルツォとフィナーレ的要素の融合という独自の表現手法を拓いたが、それは自由な形式と堅固な論理の両立を求めた同時期のシベリウスの新たな創作概念に基づくものであったといえる。
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