日本の栄養政策における公衆衛生院・国立公衆衛生院・国立保健医療科学院の貢献の歴史的変遷について文献から解説した.次の 5 つの時代にわたる研修及び研究を追跡した.1第二次世界大戦前(1931〜1938年),2第二次世界大戦中(1939–1946年),3戦後復興期(1947~1960年),4高度経済成長・バブル期(1960~1989年),5バブル後・リーマンショック・新型コロナ感染症拡大期(1990~2020年).
1)第二次世界大戦前(1931〜1938年):この時期の主な健康問題は,母子の栄養失調,結核であった. 1937年,戦前の保健所法が制定され,その任務に「栄養の改善に関する指導を行うべき」が定められた.1938年,厚生省(現在の厚生労働省)が創設された.公衆衛生技術者の養成訓練を担う公衆衛生院(現在の国立保健医療科学院)が設立され,臨地訓練のために,都市保健館(後の東京都中央保健所),農村地区保健館(後の埼玉県所沢保健所)がつくられた.
2)第二次世界大戦中(1939–1946年):公衆衛生院において栄養士への研修が実施され,講義・演習・保健所での臨地訓練によるカリキュラムが開発された.修了生は地方自治体において栄養改善活動を行った.戦争が激しくなり,郊外での臨地訓練が困難になった為,研修生を帰郷させ「家庭の食物消費状態の実際の 3 日間調査」を実施し,このときの調査方法と結果は,戦後,全国的に実施される「国民栄養調査」の資料となった.
3)戦後復興期(1947~1960年):戦後,公衆衛生院は,公衆衛生技術者の養成訓練を第一義とし,国立公衆衛生院として研修及び研究を開始した.栄養学部が設立され栄養士の再教育が行われた.栄養士法が公布された.国立公衆衛生院では,都道府県「モデル保健所職員への研修」が行われた.修了生は各都道府県において全保健所に対し受講内容を伝達し,その後も中心となり,栄養対策の推進に重要な役割を果たした.栄養改善法が制定された後は,地区組織の育成を通した食生活の改善に焦点を合わせた研修と効果を検証する為の研究が行われた.
4)高度経済成長・バブル期(1960~1989年):日本における疾病構造等が変化し始め,日本人の食生活は,いわゆる日本型から欧米型へと移行していった. 厚生省は,生活習慣病の予防の為に「国民健康づくり運動」を策定し,健康診断,市町村の保健センター機能を強化し,保健師・栄養士のマンパワーを確保した. 国立公衆衛生院の研修では,自治体と協力し,調査データを用いた健康課題の解明と取組提言を行う多職種での合同プログラム「合同臨地訓練」を開始した.また栄養士への研修の為に新たなカリキュラム開発の研究を行った結果,「公衆栄養研修」を開講した.この研修を通し公衆衛生における栄養領域は「公衆栄養」と呼ばれるようになった.
5)バブル後・リーマンショック・新型コロナ感染症拡大期(1990~2020年):保健所法から地域保健法への改正が行われた.2001年,厚生省は労働省と統合され厚生労働省となった.2002年,国立公衆衛生院は,国立医療・病院管理研究所,国立感染症研究所口腔科学部と統合し「国立保健医療科学院(科学院)」が発足した.「健康日本 21」が策定され,栄養改善法にかわる健康増進法が制定された.日本の人口の高齢化による低栄養等の問題が発生し健康格差が確認された.そうした健康課題及び政策に伴い,科学院では 2 つの新たな研修,1「健康日本 21における自治体の栄養施策の推進,2「自治体の健康栄養調査の技術向上に関する研修」が行われ,研修ツールの開発に関する研究が進められた.2020年,新型コロナ感染症の感染拡大予防の為,リモートによる遠隔研修が実施された.
まとめ:公衆衛生院・国立公衆衛生院・国立保健医療科学院における公衆衛生人材の育成は,自治体における現場ニーズに根差しており,「地域住民が主体となる保健システムを構築する研修内容の開発」が肝要である.効果的な研修方法の開発と実践の為には,研修と研究との両輪体制が有効であり,両輪体制の重要性を確認する仕組みづくりを模索してきた.今後も継続されるであろう.
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