日本土木史研究発表会論文集
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ISSN-L : 0913-4107
3 巻
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  • 稲松 敏夫
    1983 年 3 巻 p. 1-7
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    筆者はさきに第2回日本土木史研究発表会に於て, 電力土木の変遷と, 電力土木に活躍した人びとを中心に全国にわたって各河川別に水力開発の変遷をまとめる中, 総論と神通川水力開発の変遷について申し述べたが, 今回は第3章常願寺水力開発の変遷より, 手取川, 九頭竜川等の北陸地方の水力開発の変遷と, それらの開発に活躍した人びとを取纒めた。
  • 山本 廣次
    1983 年 3 巻 p. 8-15
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    中央構造線は、天竜川を平行に南下し、渥美帯島から西に九州まで延びております。豊川は、その構造線にそって、愛知県東部を流れる流域面積721km2の一級河川である。洪積世時代に、基盤の第三紀層を貫いて鳳来寺山が噴出し、付近一帯が1000m級の準平原を構成した。そのため、三河湾に流入していた天竜川A= 4900km2は反転して南方に突出、豊川は分離して現在の河状になったと考えられる。天竜川の流変で上流域は幼年期の地形、豊橋港の浚渫礫は赤石系、伊良湖の中山の残留地下水も天竜系だそうだ。
    中央構造線に沿って発生した道路は、塩の道として上さから開け、縄文文化は北から、弥生文化は西から影響をうけ、豊川は、言語・風俗・習慣・食生活など、日本の東西文化の交接点であるといはれる。
    平安時代には、豊川の下流は、飽海川の一里の渡しで東海道随一の難所、志賀須香を歌枕に、多数の歌が万葉にのっている。元亀・天正の戦国時代には、豊川を中心に今川・武田・織田・徳川の興亡が行なはれ、豊川は江戸と都の中間に位して交通も盛んであった。
    豊川は、台風の通路に当るため、洪水流量が非常に大きく、流域の林相は良好で降雨量も豊かであるが、渇水量は異常に少さく干魍が起り易く、慣行のかんがい面積は、流域面積の1/34に過ぎない。豊州の絵水は徳川時代に始まり、日本でも代表的といはれる9ケ所の霞堤と1ケ所の越流堤が工夫され、明治37年の大洪水は、絶妙な治水効果があった。霞堤内の堆砂による機能の低下に伴い、明治・大正時代に2回の河川改修が行はれ、更に豊川の放水路は昭和40年に完成した。
    天竜川に佐久間ダムの設置を機に、豊川用水事業が、昭和43年に完成し、豊絹流域外の渥美半島と蒲郡・湖西地区の上・工・農水に補給され、受益地は大きく発展し、香川・愛知用水と共に立派に成功した。豊川の流域は、日本の中央に位し、気温温暖、交通は至便であるが水資源が不足し、これといった産業、特に工業の発展がない。豊川用水は、天竜水系からの分水で、絶対量が制約され、受益者は増量の希望が多い。豊川は放水路は完成したが、計画洪水量が増大し、上流で洪水をカットする必要がある。
    幸に、豊川上流には絶好のダムサイトがあり、ここにできるだけ大きなダムを設置すれば豊川の治水は完壁となり、渇水補給も容易となり、現在の用水路を利用して、人口200万人の大三湾市となり、豊川の水資源が日本の国力に大きく寄与できると想定される。
  • 澤田 健吉
    1983 年 3 巻 p. 16-23
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    前回は“庄屋豪農の日記類における洪水と普請お記録” と題して藩政時代の農民が河川工事の重要さをどの程度に意識したかを, 農村側に残る記録によって調べた。今回は逆に藩側から出た文書の中に出水や勧農川除普請に関係した記述がどの程度目出せるかを課題として、藩法や農村法と云われるものの中から関係する条文を抜き出してコメントを加えた。しかし徳島藩の場合だけを取り挙げ纏めるのは資料不足で全体の理解が困難なため、先ず紀州藩の場合を参考にして体系を整えた。そので徳島藩によって編纂された「元居書抜」を取り挙げ、その2800あまりある条文の中で郡制、普請奉行と分類された条文から関係深い記述を抜出した。この結果想像以上に具体的な記述や規定の多いのに驚いた。次に上の当然の、むしろ社会的モラルと云えるような規定に縛ばられた出先が如何なる対応をしているかを知るため、また郡代が農村を如何に見ていたかを分析するため、郡代の現地報告とも云える「御郡代御用手掛申上書」を調べた。これにより藩側の第一線の郡代の動きは狭い徳島藩の中でも決して一筆ではなく、藩側の指示に姑息に抵抗する者も、また案外現在の感覚にも通ずる積局的な動きをしている者も居る興味ある事実を知ることが出来た。
  • 中川 武夫, 川本 憲夫, 古池 久, 石田 郁喜
    1983 年 3 巻 p. 24-31
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This paper is concerned with the water system and water utilization around the Kanazawa castle in Edo era (1603-1867). The water system consists of rivers, moats, and channels. The castle lies between the Asano-river and the Sai-river, where the former is on the north side, whereas the latter on the south side. The castle is surrounded in double by moats, viz., Sogamae-bori, from the east and west sides.There are four smaller moats inside Sogamae-bori, and eight channels outside it.
    In addition to the military purpose, it is realized that the water in Kanazawa has been used for drink, fire fighting, snow melting and clearing, irrigation, garbage dump, sewerage, brewage, paper making, enjoyment and dyeing.
    It is concluded that the wide variety water usages in Kanazawa have been made possible by the high quality water in large amount and intelligent persons who could develope new ways of the water usage skillfully. It is suggested that the possible interaction of these persons and the clean water running in the system has enhanced the birth of artistic handicrafts and philosophies, representing our society.
    This study may uncover some useful knowledges buried for a long time concerning water resources, disaster prevention, construction and environmental problems.
  • 青木 治夫
    1983 年 3 巻 p. 32-37
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    辰巳用水は、1632 (寛永9) 年に9ケ月ほどで造られた金沢城中用水である。我が国で、始めて用水路に隧道を用いて地形を克服した赤穂用水・五郎兵衛用水につづくものである。辰已用水の延長は10kmで、そのうち隧道は3.3kmもあり、両用水に較べて著しく長い。現在、隧道部分ば4.3kmになっているのは、寛政大地震 (1799) による崩壊と天保期 (1836) に水の流れをよくするため、隧道に改造したためである。この隧道は、僅かな支保木と幕末以後に行われたらしい切石巻立によっただけで、360年前のツルハシ刃先跡を明瞭に残した素掘区間が2km以上もある。
    この区間で、寛永期の掘削工法や近世初期の測量術の水準を調べ、併せて用水の末端で、水圧が10mもかかる逆サイフォンについて述べる。
  • 小野 芳朗, 宗宮 功
    1983 年 3 巻 p. 38-47
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    京都市水道は明治45年 (1912) に京都市三大事業の一環として敷設され、琵琶湖疏水を上水源とした。明治期における都市の水道建設の動機の例にしたがい、京都も古来より豊富良質とされていた地下水の汚染がコレラ等の伝染病流行の原因になったためとされる。
    ところがわが国には明治以後、上水道技術とともに下水道技術も同時に伝来し、いつれを先に建設すれば都市衛生上好結果をえられるか、という議論がなされている。京都においては、他の都市に比較すれば良質なる地下水を飲料水とし、市民の水道への関心はむしろ薄く、衛生上、下水道建設の要望が強かった。上水下水選択論争は、水力電力増強の目的も兼ねた琵琶湖第二疏水建設の計画の登場により、上水道工事優先が決定され、下水工事の着手は昭和に至るまで待たねばならなかった。
  • 神吉 和夫
    1983 年 3 巻 p. 48-54
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、わが国における近代水道以前の水道の一つである近江八幡水道の施設構造と水利用形態、創設年および管理運営などについて考察したものである。本水道は、滋賀県近江八幡市の旧市街にあり、井戸を水源として竹などの樋管で導水、各戸の井戸 (溜桝) に貯留利用する複数系統の水道 (地元では水道といわず取井戸あるいは単に井戸と呼ぶ) の総称で、各水道の利用者は仲間・組合を作り、規約を定めてその管理運営を行なってきた。本水道については「滋賀県八幡町史」(八幡町、1940年刊) にその概要が詳述されている。本稿は、「滋賀県八幡町史」を基礎に、現地で得た若干の関係文書・絵図などと本水道の利用者を対象に1982 (昭和57) 年10月実施したアンケート調査結果の一部にもとづいて考察を行なっている。施設構造は扇状地扇端部の砂礫層の浅層地下水を穴を開けた埋設樽で集水、竹などの樋管で導水し各戸の井戸に貯留利用するもので、幹線樋管は単純な樹枝状が多い。浅層地下水利用のため、渇水時には水位が低下し、梅雨期の大雨時には各戸の井戸でオーバーフローを生じる。本水道の基本構造は高野山水道に近い。創設年として「滋賀県八幡町史」では開町当初を強調しているが、ここではその論拠の一部を否定する資料を示し、創設年の再検討を行なう。管理運営では施設の改修、井戸替えおよび料金について触れる。料金で興味深いのは、水源地の村に涼料と呼ぶ源水料ともいえるものを払つていることで、地下水を私水とみる考えによると思われる。本水道は1953 (昭和28) 年近代的上水道の布設により利用が滅り、多くの組合は自然消滅している。しかし、一部の組合は現在も存続し、雑用水を主体とした水利用が行なわれている。
  • 山崎 達雄
    1983 年 3 巻 p. 55-62
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    近世において, 河川管理上の問題として取上げられた塵芥処理も, 安政年間のコレラの流行を契機に, 公衆衛生上の問題として捉えられるようになり, 1869 (明治2) 年の告諭では, 伝染病予防の点から塵芥処理の必要性が説かれている。また, 近世においては, 塵芥処理の上で果した機能についても疑問があった塵芥捨場についても, 1869 (明治2) 年, 1870 (明治3) 年と設けられ, 更には, 1872 (明治5) 年には, 京の町の代表である総区長から, いくつかの小学校区毎に自から選定した塵芥捨場について設置請願がだされるなど, 京都における塵芥処理の上で欠くことのできない存在となってきている。
    明治初期における京都の塵芥処理で注目されるのは, 1875 (明治8) 年に化芥所が設置されたことである。化芥所は, 殖産興業・文明開化の世相を背景に, 塵芥の再資源化を目的として設置されたものである。化芥所による塵芥収集の方法は, 現代における一般廃棄物の収集システムと大差はないが, 化芥所が目的とした塵芥の再資源化については多様なことが計画されているが, 堆肥以外, その実態は確認できていない。その後, 化芥所については, 1882 (明治15) 年に民間に貸下され, 明治20年代まで存続し, 京都における靡芥処理に果した役割は小さくないが, 1890 (明治23) 年の「塵芥採取請負人心得」の制定まで塵芥処理は, 町の仕事として行われているのである。
  • 島崎 武雄, 山木 滋, 首藤 伸夫
    1983 年 3 巻 p. 63-73
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    三陸沿岸は、有史以来、90回に及ぶ津波災害を受けている。明治、以降でも、明治29年 (1896)・昭和8年 (1933)・昭和35年 (1960)・昭和43年 (1968) と大きな津波被害が発生している。昭和8年津波は、日本における近代的研究体制が整って初めての津波であったため、津波に関する数多くの調査研究が行なわれるとともに、その成果に基づいて被害町村の復興計画がたてられ、多くの集落で復興事業が実施され、三陸沿岸における津波防災の骨格が作られた。今日の津波防災対策の実施に当って、昭和8年三陸津波後の復興事業の考え方から、学ぶべき点は、次のようである。
    (1) 地域計画的対応を中心とし、これに防災施設・防災体制の整備を組合せ、地域総体として総合的に1事波に対処する。
    (2) 集落を漁農集落と都市的集落に分類し、漁農集落においては高地移転を主たる対策とし、都市的集落においては市街地整備と防災施設整備を主たる対策として津波に対処する。
    (3) 津波警戒・津波避難・記念事業など防災体制の整備に常に留意する
  • 林田 博, 佐々木 秀郎
    1983 年 3 巻 p. 74-82
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本報告は、運輸省港湾局環境整備課が行っている「港湾修景計画基礎調査」の中の、港湾文化施設に関する調査の結果を紹介するものである。調査の結果、全国の246港湾 (漁港等を含む) に803の港湾文化施設が存在していることが分った。これらの港湾文化施設について、種類・時代・地域という3つの軸で整理した結果と、保存・利用等の現状とを、港湾文化施設の全般的な現況として示した。さらに、具体的な例として、尾道港、福浦港、手結港、三国港の4港の港湾文化施設を示した。
  • 山下 正貫, 島崎 武雄, 野倉 淳
    1983 年 3 巻 p. 83-91
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    高知県夜須町にある手結港は、江戸時代初頭、承応1年 (1652) から明暦1年 (1655) に土佐藩の家老、野中兼山によって建設された掘込港湾である。経世家、野中兼山は、土佐藩の経済的基盤を整備し、殖産興業を進めるべく、土佐地域の総合的な開発事業に取り組み、物部川の山田堰、仁淀川の八田堰、鎌田堰等を設置して水路を開削し、新田開発を行なったり、その拠点として後免、土佐山田、野市、新川等の新都市を建設した。また、運河開削と一体となった津呂港、室津港等の築港事業も手掛け、陸路と連関した海上交通路の整備を進めてきた。手結港は、その一環として整備されたもので、その技術的意義、大規模性が高く評価され、しかも、特筆すべきこととして保存が良好であることが指摘される。江戸時代初頭の土木構造物が、ほぼ創建当初の状態で保存されていることは、全国でも稀有のことである。
    小論では、江戸時代の建設の経緯、明治・大正・昭和期における港勢の変化と改修の経緯に関する調査結果を報告するとともに、現状の問題点、地域住民の意識と要望、今後の保存・利用・整備の方向について論及するものである。
  • 米谷 民憲, 竹谷 寛, 清水 浩志郎
    1983 年 3 巻 p. 92-99
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    Hachiro-Gata is located about 20 kilometers to the north of Akita City, and had an area of 22, 024 hectares.It was the largest lake in Japan next to Lake Biwa.
    The reclamation of the polader Hachiro-Gata has been undertaken as a national work in 1957.There were many difficult matters for the civil engineering, and the civil engineers were faced some unusual problems.This is because of the fact that Hachiro-Gata differed previously reclaimed polders in Japan by its muddy soil depth (50m) and its size (22, 000 ha).It is worth mentioning that this work can be considered as a significant event in the world's history of civil enginnering.
    After 7 years, Ogata-mura was born as a new model farm village in 1964.The census of the 1982 gives the population of the village as 3, 318, and the farming population is 2, 882.
    The aim of this study is to make clear some characters of the reclaimed works from view point of the civil enginnering, and to grasp some social effects of Ogata-mura upon neighboring farm society.
  • 天野 光三
    1983 年 3 巻 p. 100-105
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国における近代土木事業の黎明期である明治初期~中期の土木事業が、どのような経済的・財政的背景のもとに推進されてきたのかについて考察する。またとくに明治23年に完成した琵琶湖疏水事業を例として, 125万円という当時としては破格の工事費の捻出方法と, 利水事業による償還の経過について考察する。
  • 宮村 忠, 石井 忠二郎
    1983 年 3 巻 p. 106-110
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治16 (1883) 年、民営移管した浅野セメント深川工場は、製造機械の改良に応じて降灰が社会的関心を強めた。隅田川を中心に、工業地帯造成に有利な河川と水路網を生かしマ工場立地が選択された。河川と水路網は、すでに近世から市街地の形成を生んでいた。既市街地と新興工場との対応は、近年の地域開発、都市計画と無線ではない。本論ては、浅野セメント深川工場の成立と、降灰事件の発生、および降灰事件への工場、住民の対応を検討したものである。
  • 盛岡 通
    1983 年 3 巻 p. 111-118
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    ブラジルにおける (日系入の最初) の計画開拓地であるジストロのまちづくりには、通史的に見てエポックがある。蜜ず、開発会社海興による植民管理的、状況対応主義的なまちづくりがなされた。つぎに、1930年頃には植民自治団鉢郷を主体としてむら社会の秩序をともなったまちづくりがなされた。むらびとのほかにも、街の商人、海興の勤め入や青年達のつきあいが広がり、市街地解放とともにさらに商店も増加し, 社会施設も整備された。
    このブラジル社会のまちびとは戦後のまちづくりにも活躍した。それはRBBCというソシエダーデを核として、まち隨一の会路やスポーツ・センターをつくり、農村電化事業などをも推進したことである。現在は行政によるまちづくりが主であるが、それも日系人のまちづくりの履歴に影響されているところが少なくない。
    伊系、独系移民都市と比較すると、日系移民都市では学校、自治組織の寄合所、産業組合などが街の中核施設となり、つきあいも多重的階層型であったのが特徴である。また、つきあいの社会化とそれにともなう都市施設の建設はどの都市でも共通するが、日系移民者肺においてはむら組織とその影響がまだ残るソシエダーデを通じて関与してきたことが見落せない。
  • 木村 俊晃
    1983 年 3 巻 p. 119-125
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    昨昭和57年度の「その1対称論」では、崇神・応神・仁徳陵古墳など大和朝廷の主要古墳を含む「大和計画」、箪者が新らたに提案した仁徳天皇の難波高津宮を含む「仁徳計画」の存在を地形図による遺跡等の位置関係 (地点間の方向と長さ) の分析によって明らかにし、これらの各計画が大阪湾沿岸一帯の山地地形 (とくに400~500mの等高線の形状) の対称性を把握した上で驚くべき高精度で設定されていることを示し、古代日本における高度測地技術の存在を推定した。
    その際、正しく東西に向いた総延長約43.3kmの大和計画中心線からは29, 60cmのいわゆる唐尺、南北に対して26.5°傾斜し総延長約34.0kmの仁徳計画中心線からは新規に31.37cm尺を検出し、とくに後者は崇神陵から石舞台古墳まで大和朝廷の主要古墳の基準尺となっているらしいことを提示した。
    今回は、「その2尺度論」として、大和朝廷ゆかりの前方後円墳の長さ・後円部直径および前方部幅などについてさらに詳しく分析し、31.37cm尺が大和朝廷の尺度系の基本となっていることをさらに明確にするとともに、その年代的・地域的変遷を解明し、さらにエジプト・ペルシャ・ギリシャ・ローマ・中国など古代世界の尺度系との深い関係を論じて、「大和尺」ともいうべき31.37cm尺の世界史的意義を明らかにした。
  • 西野 保行, 小西 純一, 淵上 龍雄
    1983 年 3 巻 p. 126-135
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    Development of Railway rail used in Japan (1872-1930's) is traced by verifying the rolled mark and the cross-section of individual rails remaining in various forms and in various places. In this 2nd report, rails used by railways other than the national railways are described: rails of private railways, tram rails, light rails, imported used rails and others. Most of these were imported from overseas until 1920's: from U.S.A., U. K., Germany, Belgium and other countries. As for cross-sectional design, the American practice had been widely accepted until the Japanese original sections 40N, 50N and 50T were proposed and adopted as the standard in 1961.
  • 森杉 寿芳, 橋本 有司
    1983 年 3 巻 p. 136-142
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国の明治以降の急速な近代化について考えたとき、鉄道はその比類なき輸送力において、経済成長の最大の原動力となったと言ってもよかろう。本研究は鉄道網形成が、実際にどれほどの効用を個人に与えたか、またどれほどGNPに寄与したかを貨幣タームで測定するための理論モデルの作成と、その適用結果について述べたものである。
    このため、個人は効用最大化行動、企業は利澗最大化行動をとるとの仮定のもとで、簡単なモデルを作成する。そして、鉄道路線長がL0からL1へ、旅客運賃がrp0からrp1へ、貨物運賃がrf0からrf1へ、変化した場合の代表的 (平均的) 個人の効用の変化を測定する。このとき、効用の変化を貨幣タームで測定するために等価的偏差 (Equivalent Variation以下、EVと呼ぶ) の概念を導入する。ここにEVとは、鉄道網整備というサービスをあきらめるために補償してもらいたいと考える必要最低額を言う。本研究では、さらにEVを福祉効果と所得の増大効果とに分け、それぞれについて計算を行う。
    実際の明治29年における計算の結果は、福祉効果が5億3千万円で、これは当時のGNP28億円の2割弱である。これより、個人は鉄道サービスによりかなり大きな満足を得たと推定できる。さらに所得の増大効果について言えば5億2千万円であり、これもGNPの2割弱である。GNPに対する直接の影響も大きなものであったと言えよう。
  • 君島 光夫
    1983 年 3 巻 p. 143-154
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The rapid transit railway network in Tokyo consists of thirteen lines.This network in based on a conception at the dawn of a new age before 1945 when the developrent plan of five or seven subway lines was fomed.
    This article enurerates chronologically the charge of the develognent plan for rapid transit railway network in Tokyo and private plans based on researches and investigations of pioneers at the dawn of a new age from 1906 to about 1940, describing the background of those days in the conception.
  • 鈴木 哲, 大熊 孝, 米内 弘明, 桐生 三男
    1983 年 3 巻 p. 155-163
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    除雪技術のハードおよびソフトの形態や機能は、社会の変化とともに量的にも質的にも変化する。降雪地域の過去の除雪技術がどのようであったか、それがどのような社会的変化にともない、どのようなインパクトを受けながら変化してきたかを、主として流雪溝を中心にして述る。
    自給宮足の経済、生活だった時代には、冬季に短時間で大量の雪を処理すべき社会的必要はなかった。鉄道が敷設され、道路が整備されるにつれ、降雪地域の経済。生活様式は急速に外部交流依存型に変わり、冬季においても外部との交流確保が不可欠となり、短時間に大量の雪処理が必要となった、流雪溝という技術に限ってみれば、まず国鉄で開発された。次いで自然条件の恵まれた地域の市街地で、流雪溝が昔からの水路利用という形で開発され、やがて、自然条件の恵まれないところにもポンプ揚水による流雪溝ができた。更に鱈できないような少量の水でも融雪処理できる消融雪溝が開発された。降雪地域の社会的変化と社会的要求に対応して対雪技術も発展が促され、それによって降雪地域の冬季生活は大きく変わりつつある。
  • 篠原 修, 天野 光一, 二上 克次
    1983 年 3 巻 p. 164-172
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は, 国道4号草加バイパス, 国道6号水戸バイパス, 国道20号甲府バイパスの3路線を対象として, 供用後のバイパス景観の変遷を景観タイプの変化として追跡し, 変遷パターンの類型化, 各バイパスにおける変遷期の位置づけ, 景観保全要因の抽出を行なったものである。調査に先だって関東地建管内の国道バイパス25路線の写真撮影を行ない (340葉余), このなかから66葉の写真を選んでアンケート調査を実施した (被験者81名)。この結果を統計処理した結果, バイパス景観を7つのタイプ (より詳細には10のタイプ) に分類できた。又, 評価実験の結果, この景観タイプは道路緑地の如何とともに, 評価の主要因であることが判明した。景観の変遷把握にはこの結果を用いている。開発プレッシャーがかかるバイパスでは, 田園型, 住宅地型が評価の低い混在型, 自動車関連型に推移するのが大勢であり, 後二者は変遷のクライマックスとなって・それ以降安定期に入る。変遷パターンは, 非変化の保全型, クライマックス型, 変化の混乱化型, 特化型の4つに類型化できた。保全型の要因には, 開発プレッシャーの他, 土地利用経営の高度化, 道路構造が挙げられる。
  • 大島 光博, 中村 良夫
    1983 年 3 巻 p. 173-176
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    In 1932, the urban road system in Tokyo, which had been destroyed by an earthquake, was constructed according to Shinsai Fukko Plan.This is the first large scale construction of the modern urban street system in Japan.
    This paper deals with the road-side planting plan in Shinsai Fukko plan.It was espacially discussed that the relation between the road-side planting-plan and thedesign of the bridge.
  • 樋口 忠彦, 松下 英志
    1983 年 3 巻 p. 177-180
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    山梨県笛吹川水系に架けられている約600の橋のうち, 第二次世界大戦前に架設された近代橋は16橋現存している。このうちの9橋については設計者を明らかにすることができた。設計者にたいするインタビューと実地調査を通して明らかになった16橋のデザイン上の特微は、次のとおりである。桁にハンチが、床版端にモールヂングがほどこされ、橋脚と橋台の上縁部にコーピングがほどこされ、橋に力感を生み出していること。親柱や高欄等人目に触れる部分に装飾的デザインがなされていること。高欄の小柱, 持ち送り, 垂直補剛材, 橋脚を鉛直にそろえ、スパンごとにまとまりのあるデザインになっていることなどである。さらに, 土木技術者と建築技術者とが役割分担して設計していたこともあきらかになった。
  • 鈴木 恒夫
    1983 年 3 巻 p. 181-189
    発行日: 1983/06/24
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
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