土木史研究
Online ISSN : 1884-8141
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10 巻
選択された号の論文の36件中1~36を表示しています
  • 花安 繁郎, 五十嵐 日出夫
    1990 年 10 巻 p. 1-12
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    In Japan, the collection and compilation of statistical data on occupational accidents were officially initiated after the promulgation of the Japanese Factory Law in 1911. Since then the data acquisition system for the occupational accident statistics has been developed into a more elaborate and sophisticated system. This report presents a brief historical outline of the data acquisition system for the occupational accidents in Japan. In addition, an international review and comparison of the occupational accident indicators is presented. This analysis is based on the investigation of resolutions of the International Conferences of Labour Statisticians, which is promoted by the International Labour Organisation. Furthermore, necessary cares to be considered in the use of the accident statistics and another development needs in relation to the occupational accident data acquisition system are recommended.
  • 中岡 良司
    1990 年 10 巻 p. 13-23
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This paper presents a new database for the history of civil engineering. This database for personal computer enables the user to compile various chronological table.
    This database covers almost all of the chronological tables of the history of civil engineering provided by Japanese investigators, and contains more than 3000 items which are classified by subjects. Through the function of data-processing available in a personal computer, choosing some keywords or some specified theme, various chronological table can be made easily.
    This paper shows some examples of the chronological tables and attempts to describe the history of civil engineering from a new aspect.
  • 高橋 彌
    1990 年 10 巻 p. 25-32
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    日本3大急流の一つに数えられる富士川の下流部は、1500年代までは左岸岩本山下から東に向かって流れ、現在の田子の浦港方向に乱流し、扇状地を形成していた。しかし、1621(元和元)年から1674(延宝2)年まで、実に53年の年月を要して、総延長約3, 000mに及ぶ大堤防が建設された。この堤防によって富士川東流は岩本山と水神の森間で締切られ、流れは現流路方向で固定された。工事は古郡氏3代にわたる執念とも言うべき努力と洪水観察を含む当時の最新土木工事の成果であり、雁堤として現存し、逆L字の特異な形状で知られている。
    この成果は富士川左岸一帯の地域を洪水から守り、加島平野として豊かな田園地帯とする事を可能にした。これはまた、誕生間もない徳川幕府が全国支配のため企画した重要施策実現の一環となった。本工事完成により可能になった施策と影響は次の通りである
    第一に元和偃武、即ち、武士帰農の一助になり、多くの入植者を迎え入れることができ加島新田6, 000石の開発が可能となり、新旧37ケ村が栄えた。第二は、富士川の流路が定まることにより、東海道の「富士川の渡し」が定着し、幕府体制下の交通網の整備が可能となった。
    第三として、甲府や、諏訪、松本と言った内陸とも、富士川の船運を開発することにより交易が盛んになり、幕府財政を支えると同時に地域の経済発展をもたらす事になった。
    一方、自然の流れを強固な左岸築堤で締切った結果、対岸には洪水流れが流入し易くなり、しばしば右岸蒲原町方面に氾濫が繰り返し発生するようになった。
    雁堤はこれまで特異な形状と、治水面の効果のみが評価されていたが、本研究の結果、周辺地域に大きな影響を与えたと同時に、当時の日本の社会体制や経済を支えるうえに極めて重要な役割を果たしていたことが明かになった。
  • 知野 泰明
    1990 年 10 巻 p. 33-40
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    Flood control techniques of the Tokugawa era have not been clear until today. Some preceding relational studies have described that river improvements during the Tokugawa era were conducted by two largest river improvement schools, namely, “Kantouryu ” and “Kisyuryu ” which, accordingly, had directed flood control techniques of the Tokugawa Shogunate.
    Recent studies have gradually clarified the improvement works in each river in Japan during the Tokugawa era. The results are that “Kantouryu ” and “Kisyuryu ” might not have directed flood control techniques of the Tokugawa Shogunate. To find out these results, more investigation must be done on the river improvement works of the Tokugawa era in each Japanese river. As one of the studies in this new standpoint, this study is aimed at making clear the flood control techniques during the Tokugawa era in Sakawa river running in west Kanagawa Prefecture.
  • 馬場 俊介, 二宮 公紀, 小川 元秀
    1990 年 10 巻 p. 41-52
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    世界の著名な石造アーチ橋の歴史を、形態と強度という技術的な観点から概説する。1節では、石造アーチに対する土木史としての取組みの重要さと本論文の特徴について触れる。2節では、アーチ橋の概略史を述べる。3節では、アーチ橋の形態的な分類を56橋の歴史的な橋を用いて行う。4・5節が本論文の主要部で、アーチ橋の強度的な分類を、多数のシュミレート・アーチ橋と16橋の歴史的名橋を用いて行う。そして、形態と強度を組合せた石造アーチ橋の分類へのアプローチについて述べる。
  • 小西 純一, 西野 保行, 渕上 龍雄
    1990 年 10 巻 p. 53-64
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国の鉄道で使用された明治期のトラス桁のうち, 英国人が設計したもの, 英国の流儀で日本人が設計し, 英国のメーカーで製作したものを「英国系」の桁と考えて, それらの技術的特徴を調べるとともに, 架設・撤去・転用の状況を, 各種の文献と現橋の調査によって明らかにした.わが国で架設された英国系のトラス桁はおよそ366連であり, これまでに判明しただけでそのうち253連が鉄道橋や道路橋として転用されている.また, 63連がなんらかの形で現存していることが確認されたが, 消滅は加速度的である.各桁ごとの履歴の詳細は付録として文末に掲げて今後の調査・研究の参考とした.
  • 市原 久義, 片寄 紀雄, 贄田 秀世
    1990 年 10 巻 p. 65-74
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    JR山手線及び京浜東北線の走っている新橋駅の浜松町方汐留橋架道橋と東京駅の神田方銭瓶橋高架橋間 (延長約2.8km) は1900 (明治33) 年から1910 (明治43) 年にかけて建設された日本で最初の市街地における鉄道高架橋である。その構造は煉瓦造の連続アーチ橋と道路交差部の有道床鉄桁で構成されている。
    最近、これらの設計図の一部が確認され、これを整理分析した結果、記されているサイン等から設計者、設計年月等が明かになった。架道橋の設計図に残されているサインは当時逓信省の高等技術顧問であったドイツ人フランツ・バルツァーと山中新太郎外5人の日本人技術者との連署であることから各種文献に記述されているフランツ・バルツァーによる設計・審査であることが裏付けられた。しかし、煉瓦造連続アーチ橋の設計図には設計者のサインはなく鉄桁と同様フランツ・バルツァーによる設計なのか否か明らかにできなかった。
  • 神吉 和夫
    1990 年 10 巻 p. 75-84
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    江戸時代、江戸・赤穂・福山等に「水道」・「(御)用水」・「上水」と呼ばれる水利施設があり、飲料水供給の役割を担っていたことは広く知られている。しかし、それら施設がどのようにして生まれたかについては定説がない。本稿では「水道」という用語に着目し、わが国の「水道」が中国の都市水利施設の影響を受けて造られた施設ではないかという仮説を提示し検討を試みる。わが国の「水道」は主に近世城下町における給水・排水施設の呼称として用いられており、給水施設は河川を水源とするものが多く、市街では当初は暗渠、後には暗渠化した水路で配水し井戸(溜桝)で利用する構造を持っている。1494年刊の『菽園雑記』には水道のなかった西安に河川から導水、暗渠で配水し井戸(溜桝)から水を汲み利用する施設を建設したことが記されており、この記述がわが国の「水道」のヒントになった可能性が指摘できる。水戸笠原水道を顕彰した浴徳泉碑の文中には『菽園雑記』の表現を意識しと思われる記述がある。鄭連第氏は『古代城市水利』で中国の都市計画に水利計画が重視されていることを明らかにしており、わが国の近世城下町の「水につける」計画とよく似ている。近世城下町建設計画を水の計画の面から再検討し中国の影響を検討する必要があろう。
  • 青木 治夫
    1990 年 10 巻 p. 85-91
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    辰巳用水は360年前の1682(寛永9)年に城中の防火用水を第一目的として造られ、末端に逆サイフォン工法を用い、先ず城内三の丸に、続いて二の丸まで導水された。その時、加賀藩謀反という政治的危機の直後であったから、藩の富裕政策となる新田開発を行い、灌漑後の排水を慶長期に造った城を取り巻く内・外総構堀に流し、城下町防火を名目として、多年の念願であった城の防衛に一役を担わせた。このような性格から、藩政期の管理形態は他の農業専用の用水と異なり、藩が主体となっていた。
    この用水の三分の一が当時としては珍しい隧道を用いて、河成段丘の基盤岩層をうがっていた。その大部分が現在も当初の形態を保ちながら流れている。それは、隧道内面の側壁部やそれにアーチ部の巻立(全巻立という)が加わった恒久的な空切石積工が施されたからで、流水による浸食を予防し、落盤や崩壊を防止した。これらの諸工事の内、全巻立がどの時期に行われたかは、用水隧道技術史上から興味ある問題である。
    辰巳用水に関する藩政期の史料から、『加賀辰巳用水』土木技術編で解明した隧道築造年次により、全巻立地点が藩政後期改築区間にあることが明かである。明治期になって、明治20(1887)年以後県の経営から民間に移り、数次の法律改正により、今の辰巳用水土地改良区に経営が受け継がれたが、の土地改良区に保管されていた組合予算書により藩政期とくらべ維持管理の状態が明かになった。1907(明治40)年以後の予算書から、大規模な切石積工が行われたことが分かり、その石積工面積の試算から、僅かな地点を除き、現存する切石積は予算表示箇所と一致し、かつ全巻立の施工年次は、北陸線が金沢まで敷設された時期以後となった。
  • 堀 繁, 篠原 修, 溝口 伸一
    1990 年 10 巻 p. 93-102
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、デザイン様式が確立し、各種の型が生きていた江戸時代後期の橋詰のデザインの背後に、それを律する如何なる規範があったのかを明らかにすることを目的としたものである。
    橋詰の特性を規定する要因として、橋の格(道の格、中心からの遠近、要所性で決まる)、繁華性(橋の袂の賑わいで決まる)、場所柄(都市や河道、土地利用の性恪決まる)の3つを設定し、当時の図会から収集した江戸50橋、大坂23橋、京10橋、計83橋の橋梁についてそれらを調べた。次に、橋詰の高札、見世、植栽、連絡施設の有無、デザイン形状を調べ、続いて以上の特性規定要因と各施設・装置との関係を分析した。その結果、
    (1) 高札にはヒエラルキーを有する4タイプの形状があり、それは橋の格に規定されていた。
    (2) 見世には仮設構造のものと常設構造のものがあり、それは橋の格と繁華性の2つに規定されていた。
    (3) 植栽は橋詰内には殆ど無く、特に市街掘割の橋詰には皆無だった。すなわち、植栽は橋台の構造に規定され、それを破壊しかねない樹木は受け入れられなかったと考えられる。橋台の構造は特に河道特性を反映するから、結局植栽は場所柄に規定されていたといってよい。また、従来伝統的植栽手法といわれてきた橋畔植栽は一例のみで、多くは橋詰に面する建物の添えとしてあった。
    (4) 連絡施設は江戸で少なく、大坂では多かった。また、都市内の商業地とそうでない場所とでは、前者は幅員が広いのに対し、後者は狭く、商業という社会的場所柄の影響を受けているようだった。
    このように都市のコンテクストを形成する特定の要因が橋詰の施設、装置の立地と形状を規定し、その結果当時の橋詰は一定の秩序に従いつつ、多種多様でありえたことがわかった
  • 清水 教行, 渡辺 貴介
    1990 年 10 巻 p. 103-112
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This study is intended to find out the characteristics and the transformations of“Plaza”in Edo City. For this purpose, the macroscopic distribution and the transformation of“plaza”derived from“Kiriezu”and maps of old Edo City were toporographically examined and the site characteristics of“Plaza”were analysed. Besides, the functions of“plaza”were analized and classified.The result of this study are as follows.
    (1)“plaza”in Edo City were located on several types of“Fuchi”(fringe, edge) such as riverside and interface.
    (2) Those“plaza”functioned as open space not only for fire prevention but also for transportation, and communication---etc.
  • 昌子 住江
    1990 年 10 巻 p. 113-121
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    東京では、戦災復興計画において、主として戦災による瓦礫の処理を目的として、いくつかの河川・運河・堀が埋立てられたことはよく知られている。しかし、この計画のなかに、9本の運河の新削・拡張計画があったことはあまり知られていない。戦後の陸上輸送の混乱から、水運による貨物輸送が必要とされたが、その後陸上輸送機関の復旧・発達につれて必要性が薄らいできたこと、地盤沈下の進行による橋梁沈下や護岸の嵩上げで水運に障害が出たこと等により、結局はどれも実現されなかったことがその大きな理由であろう。ところで運河計画の存在は、戦災復興計画における街路の設計に影響を与えていた。本稿では、墨田区および江東区内の4本の運河計画を対象にその関連を考察した。1947(昭和22)年の運河計画の策定に伴い、100mの放射街路が大幅に幅員を削減され、また関連する補助線街路も運河に沿うよう設計が変更されている。一方1964(昭和39)年運河計画の廃止と同時期に行なわれた都市計画道路の見直しでは、運河に沿って配された補助線街路もかなり改定され、大幅な縮小や、水路からの分離がなされた。またこの間、首都高速道路の建設が計画され、路線の経過地に治水利水上支障のない河川・運河を利用するとの基本方針のもとに、1959(昭和34)年当該地域を通る路線を含む8路線が計画決定されている。本稿では、こうした都市河川の位置付け・役割の転換期を背景として、都市計画における運河と街路の関係およびその変遷について検討した。
  • 窪田 陽一, 長束 裕行
    1990 年 10 巻 p. 123-130
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    昨年開発した鉄道路線データに関する地図型データベース検索システムを改良して、埼玉県内の全鉄道路線を調査して得た、路線、駅及び橋梁に関する資料のデータベースへの入力を行い、さらに検索システムに追加させる形で検索結果を地図情報として出力表示させるためのプログラムの開発及び検索システム全体の完成をめざした。また、検索機能の強化並びに処理速度の向上をも図っている。
  • 鈴木 恒夫
    1990 年 10 巻 p. 131-135
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 藤田 龍之
    1990 年 10 巻 p. 137-142
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    現在われわれが使っている「土木」という言葉の語義について、その歴史的な変化について種々の文献から検討し、江戸時代末期に現在用いているのと同じ意味の言葉として成立したことを明らかにした。ここでは中国の文献に現れる「土木」という言葉の語義とその歴史的変遷について、諸橋轍治緒『大漢和辞典』、二十四正史を中心に考察し、わが国との比較を試み、中国においていつごろの時代から道路、橋梁、築堤工事などを意味する言葉として使われるように成ったのかについて調べた。
  • 長谷川 博, 内山 一男
    1990 年 10 巻 p. 143-150
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    攻玉社は鳥羽藩士近藤真琴[1831(天保2年)-1886(明治19年)]が, 1863(文久3年)に, 四谷坂町の自邸(近藤塾)で, 同学の士に蘭学を教授したことに初まる。近藤は当時の“富国強兵”“殖産興業”のためには、先ず海外交易と国土開発のための人材が必要と断んじ、私材を投じ、1874(明治7年)に航海測量習練所を、また1880(明治13年)に攻玉社付属陸地測量習練所を創設した。陸地測量習練所は明治17年量地と、明治21年土木科と、明治34年攻玉社工学校と改称して、土木全般を教授し、現在の攻玉社工科短期大学に至つている。
    陸地測量習練所の開設時に東京府に提出された開申書(東京都公文書館蔵)には、学科課程表(カリキュラム)や使用教科書等が示されている。
    東京大学の前身の工部大学校の土木の教育課程表(明治18年)、工手学校(明治21年創立現工学院大学)の学科課程表と比較した。
    陸軍では明治4年兵部省参謀局に、地理の偵察・地図の編成を担当する間諜隊が置かれ、これが逐次発展して、全国の三角測量・細分(部)測量を行った。明治17年「大三角測量事務」は当時の内務省から参謀木部へ管轄替えとなった。明治21年陸地測量部が独立し、その編制の中に「陸地測量官」教育のための「修技所」が設けられた。明治年間の修技所の卒業生は学生77名(高等科)生徒296名である。
    海軍は明治4年兵部省海軍部に水路局を設け、水路監督長官に柳楢悦(ならよし又はなおよし)海軍大佐(のちに少将)が任ぜられた。柳は「徹頭徹尾外国人を雇用せず、自力を以て水事業の進歩改良を期」した。水路局には発足当初から、伝習室があり、測量伝習生5名(旧鹿児島藩士)が採用されているが、特に修技所は設けられなかった。水路部管掌の東京飯倉の海軍観象台(旧東京天文台)は明治21年に文部省に移管された
  • 岩崎 宏
    1990 年 10 巻 p. 151-162
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    燈台の建設で有名なスコットランドのスチブンソン家。そのなかでトマス・スティーヴンスン(1818-1887)は、港湾工学の分野でも実際の海の波についての優れた観察者の一人であった。
    今、海の波の発達、推算に関して対岸距離 “Fetch”という言葉が用いられているが、これはオックスフオード英語辞典によれば、エンサイクロペディア・ブリタニカ第九版のトマス・スティーヴンスンの解説を引用して初出文献としているのである。しかし、その後百年の間に、風速や吹続時間、風域などをあわせて考えるようになり、波の理論、波の観測、確率や統計的処理などの学問が進展してくると、初期の研究者の名も次第に忘れられてしまいそうである。
    また、トマス・スティーヴンスンは、わが国明治初年の洋式燈建設にとって忘れることのできない功績者である。即ち在英のまま日本政府の技術顧問となり、来日したブラントンをはじめとする技術者集団を指導し、バックアップした役割は高く評価されてよい。
    一方、トマス・スティーヴンスンの息子は文学に転向して、家業を継がなかったが、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」などの小説で有名になった作家のロバート・ルイ・スティーヴンスンである。エジンバラ大学で土木工学を専攻し、父に従って燈台や港湾の建設現場で波の観側をしていたことは、むしろ英文学研究者の方がよく知っている。
    本文は、スチブンソン家の人々を紹介すると同時にトマス・スティーヴンスンについて、その代表的著書「港湾の設計と建設」の中から二、三の話題をとりあげ、また息子ロバート・ルイ・スティーヴンスンのエッセイ「土木技術者トマス・スティーヴンスン」に触れたいと思う。
  • 黄 俊銘
    1990 年 10 巻 p. 163-167
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This research study comprises a part of the fundamental research being conducted on engineers in Taiwan covering the period of Japanese colonial rule. William K. Burton, in his capacity as Sanitary Engineer, was invited to plan the waterwork system of Taiwan. He was teaching at the Tokyo Imperial University and one of his students was Hamano Yashiro whom he brought with him to Taiwan to be his assistant. He worked in Taiwan from August 5, 1896 untilh e died on August 5 1899. Among his works were the planning of the waterworks of Taipei, Chilong, Taichong and still other places in Taiwan Burton also involved himself in the reconstruction works of streets in Taipei and designed' model housing for the country. Upon his untimely death, his Japanese assistant, Hamano, continued his remaining works. An examination of William K. Burton's projects in Taiwan would readily reveal an aspect of great importance in the process of modernization of Taiwan.(Burton, Waterworks, Taiwan)
  • 松浦 茂樹
    1990 年 10 巻 p. 169-174
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    天下の名刹・宇治平等院鳳鳳堂の建築形態は、宇治川の氾濫あるいは湛水に備えたものではなかったかとの仮説を述べるものである。
    1053(天喜元)年、藤原頼通によって落慶供養された鳳凰堂は、中堂とその左右にのびる翼廊と尾廊をもっている。翼廊は楼造で下層は吹放しとなっており、上層には高欄がめぐらされているが、その梁は低く人が立って歩くことはできない。純粋に形を整えるために造られたものと評価されているが、この吹放しの翼廊は河川技術からみればピロティ様式の建物である。
    平等院は宇治川のすぐ辺りにあり、鳳凰堂の前面にある園池には、宇治川から自然取水された水が入っていた。また往古の河床高、氾濫状況、築堤の状況から判断して、洪水で宇治川の水位があがれば、園池の水位もそれに従って上昇していた。その高さから見て中堂が水に浸ったことはないであろうが、翼廊部も含めてその回りは出水時には湛水していたと考えて間違いない。水に浮かぶ阿弥陀堂であり、翼廊はこれに億えてピロティーにされたと判断するのである。
    さて、出水時は上にみた通りであるが、平常時にも翼廊部は水に浸り、そこを舟が行き来したと考えても物理的には可能である。頼通は自分の邸宅である高陽院で、寝殿の回りの池・堀割を大きく造り、大きな舟が行き来できるようにしていた。この形態は高陽院のみであった。頼通がこの癸想を平等院にも応用した、と考えてもおかしくない。水上に浮かぶ宗教建築物、それは1168(仁安3)年ないしその翌年、平清盛によって造営が完成した海に浮かぶ厳島神社へと連想させていく。
  • 稲松 敏夫
    1990 年 10 巻 p. 175-184
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    筆者は先に第1回~第8回にわたって、電力土木の変遷と、電力土木に活躍した人々を中心に、各河川の水力開発の変遷について、先づ北陸地方、東北地方、中部地方、関西地方、九州地方、関東地方、中国地方、四匡地方の各河川の水力開発に活躍した人々について述べたが、今回はその9として北海道地方、次回はその10として火力、原子力土木及び送変電土木並びに海外電力土木開発に活躍した人々を中心に、それぞれの河川の水力開発の変遷について述べ、わが国の電力木の開発に一生をささげた人々の生きざまをまとめた。
    かねて筆者は、日本の発電所の開発の経緯について建設した人々の努力を発掘して、後世に残す事の必要を痛感し、諸先輩方の口述及び資料を取り纏めて、系統的に人を中心とした日本の電力土木の歴史一各河川の水力開発の変遷の取り纏めに努力して来ているもので、その9年、10年目の今年、来年は、日本内地及び、海外電力の水力開発の取纏めを締めくくるとともに引続きその11以降について、最終的には日本の電力土木開発に一生を捧げた多くの人々の中の代表的人物、10数名についての偉業について取纏めて、完結したいと考えている
  • 石崎 正和
    1990 年 10 巻 p. 185-189
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国の河川技術は、明治政府による西欧近代技術の積極的な導入を経て、在来技術と融合しつつ発展を遂げてきたといわれる。しかし、河川技術の近代化、とりわけ在来技術と西欧近代技術との関係、その後の河川技術の変化に関する研究は必ずしも十分とはいえない。わが国の現代河川技術の出発点が、明治の近代化にあるとするならば、河川技術の近代化の過程に関する研究が重要となる。
    本稿では、河川技術の近代化における西欧近代技術の果した役割とその後の河川技術の変容を明らかにするための基礎的な研究として、明治以降の技術移転に焦点を当てて、若干の考察を試みた。まず、オランダ人技師団の招聘の経緯とその背景については、これまで知られているA.F.ボードウァンのみならず、その弟のオランダ貿易会社駐日代理人であったA.J.ボードウァンも深く関与していたのではないかという点について言及した。次に招聘されたオランダ人技師に対するわが国の対応について、エッセル書翰と米欧回覧実記を中心として考察し、岩倉使節団帰国以降に対応の変化が見られることを指摘した。
  • 堀野 一男
    1990 年 10 巻 p. 191-198
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本稿では、秋田藩における地方支配文書に示された堰留技術の歴史的な評価とそこにあらわれた災害軽減の思想を取り上げ、歴史的な水利、治水技術と、その理念にふれながら、今後の総合治水のあり方、問題点について探ってみた。
    『普請秘伝集』は元禄十四年 (1701) に黒沢浮木という秋田藩の地方役人が書き留めたもので、その中の「普請節用上」に堰留めに関する技術的な記述がのっている。これは当時の経験的水利技術、流水に対する考え方を知るうえでは貴重な資料であると考えられる。ところで、近世における水利技術を取り上げる場合よく、「関東流」「紀州流」といった二つの流派の工法が問題にされるが、それぞれの地域における水利、治水技術の研究はまだあまり進んでおらず、近世全体の水利、治水技術史を掘り下げる立場からもこの課題は重要である。
    また、河川では、吉くから農業用水との関わりがあり、取水の多くは川を堰留めて行われた。しかしそれは、あくまでも河川との調和が水利技術行使の基底に貫かれていたと言うことができる。それは裏返せば技術的な限界と言えなくもないが、『普請秘伝集』には災害軽減の思想、河川との調和のとれた堰留技術の考え方が示されていて、これは今日にも通じる貴重な示唆を含んでいると言ってよい。自然との調和のとれた河川計画を総合的に追求する立場からも、このような観点は重要であると思われる。【近世前期, 秋賑藩, 堰留技術】
  • 河村 清春, 小野田 滋, 木村 哲雄, 菊池 保孝
    1990 年 10 巻 p. 199-210
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/09/28
    ジャーナル フリー
    Arch bridges built with bricks in Meiji or Taisyo Era were mainly constructed to pass an aqueduct or a road under railway track. We investigated the present state of these old arch bridges in Kansai district and discovered that some of them are spiral brickworks. We recognized, however, this unique structure only in oblique arch bridges. Meanwhile through literature survey on arch bridges constructed in those days, we identified this structure as " Syakakyo " as oblique arch bridges were called in Japanese, which was an engineering technology for construction of an arch bridge as skew to the track direction. In this study, we make clear the designing and working of " Syakakyo ", and reveal the relation between theory and practice of this technology.
  • 小野田 滋, 山田 稔, 井上 和彦, 松岡 義幸
    1990 年 10 巻 p. 211-222
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The section betweeh Nagahama and Kobe on Tokaido Line is a very important one for tunnel history, because it includes the first railway tunnel ever bored in Japan, and the first railway tunnel completed solely by the force of Japanese engineers. But many of the original tunnels in this territory have been abandoned for repeated relocation or track addition works. This paper describes the history and present state of these tunnels based on field surveys and historical records. For instance, the first Osakayama Tunnel was replaced with a new tunnel following a new route taken Otu and Kyoto in Taisyo Era, and added wuth next tunnels to meet the traffic increase in Syowa Era. This case study reveals that the tunnels was built with various inside shape reflecting the age of their construction.
  • 伊藤 芳昭, 清水 浩志郎, 木村 一裕
    1990 年 10 巻 p. 223-230
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    出羽丘陵の一角にある鳥海霞は秋田、出形両県を南北に分断する標高2, 237mの活火山である。日本海側に突き出した岩肌は、天然の要崖として古来より人の往来を厳しく制限してきた。東に延びる尾根はそのまま人の歴史をも分断する分水嶺として、この地方の人々のくらしに深く関わり、その造営物に多大な影響を与えた。本論では、地形・地盤・土質を初めとする自然諸条件に規定される土木構造物や土木工事の特徴について鳥海山の北面に沿って流下する象潟温水路群を対象として考察する。温水路は「一般の用水路より幅を広く、水深を浅くし (50cm以下)、流水中に十分日照を与え昇温させるよう計画した水路で、昇温のため多数の落差工を施したり、または温水ため池と併用することもある」(『農学大辞典』) とされている。象潟温水路群のうち最初の長岡温水路は昭和の初期に完成し、その後30数年を経るうちに今日みられるような一大温水路群となった。土木構造物やその技術的発展は、地域のもっている歴史的な風土やその産業構造などによっても制約を受けるものと考えられ、本論では相互の関連性を把握することを目的として象潟温水路群を例に史的考察を行なう。
  • 多田 博一
    1990 年 10 巻 p. 231-238
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    イギリス東インド会社は, インドの植民地領土の拡大にともない, 1820年代以降貿易よりも組織的な植民地経営に力を入れるようになった。その中心になったのは, 第一に, 歳入の柱である地租の増収のもとになる農業生産の安定・増加, 干魃の被害の軽減にとって欠かせない灌漑施設の整備, 第二に, 輪出入品および政府物資・人員ならびに軍隊の輪送・移動に不可欠の鉄道であった。技術史の立場からみて, この両者のインドにおける発展はきわめて対照的であった。灌漑についていえば, イギリス本国の農業は天水依存であり, 当時のイギリス人技術者たちは大規模な人工灌漑施設の建造・維持管理の経験をもっていなかった。これに対して鉄道は, 1825年にリヴァプール・マンチェスター間の鉄道路線が開業して以来19世紀を通じて, イギリス最大の輪出産業に成長していき, 技術的にも世界の先端を切っていた。
    本稿では, 19世紀中葉世界最大の用水路工事といわれた上ガンガー用水路の建造工事を追跡しながら, 当時のイギリス人にとって未知の領域であった用水路灌漑技術がどのようにして形成されていったか, を明らかにしようとするものである。(その一)では計画立案過程と事業計画概要を扱った。
    本稿では, 工事実施上の諸問題ならびに労働者・資材の調達の問題に触れたい。その中で, 種々の構造物の案出, インド在来技術とイギリスの近代的科学・技術知識との融合の側面に着目して, イギリスの技術者たちがインドにおける用水路灌漑技術を確立していった過程を明らかにしてみたい。
  • 馬場 俊介
    1990 年 10 巻 p. 239-248
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治以降の日本の道路整備は、鉄道優先政策のもとでなおざりにされてきた。そうした環境の中で、一地方都市が道路整備をどのようなスタンスで実行し得たのか。本論文では、明治・大正期の名古屋にスポットをあて、その道路造りを、時代背景、特にその財源という観点から記述する。まず、名古屋市の発展過程をいくつかの期に分類し、各時期ごとにその特徴と財源を示す。そして、大きな推進力の一つとなった「電鉄寄付金」について分析する。さらに、自治体による自助努力的な道路整備を支えるもう一つの推進力となった「熱意」についても、道路に対する意識の変遷という形で説明を試みる。
  • 堂柿 栄輔, 佐藤 馨一, 五十嵐 日出夫
    1990 年 10 巻 p. 249-254
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    「必要最低限」から, 「より贅沢」な土木施設計画が許される, または要求される現在, 地域性を考慮した道路造りもその一例である. 景観を考慮した道路の線形設計, 材料の選択あるいは橋梁の景観等は取り上げられる機会も多い.
    雪国の道路造りに関しても, 経済効果の顕著な幹線道路を中心に余裕幅等の特例が認められてきた. この経緯を二回の道路構造令の改訂にみることができる. この結果, 冬期間の交通の確保について一応の成果を得たといえよう.
    一方克雪から親雪, 利雪へといわれる今日, 道路の除雪に関しても新たな段階を迎えた. ここで, 新旧道路構造令の改訂から, 積雪地域に対する配慮の新たな視点を考えたい.
  • 入江 平門, 西村 聡
    1990 年 10 巻 p. 255-262
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    都市の発展と交通の問題は、産業革命以後の世界の大都市において常に大きな課題であった。
    それは、交通手段の発達が都市を拡大させ、都市の拡大が新たな交通問題を引き起こすということを繰り返してきたからである。その中で、19世紀中葉にロンドンで導入された地下鉄は、都市交通問題の画期的な解決策として世界の大都市に相次いで導入されてきた。しかし、地下鉄を企業として考えた場合には、建設に膨大な投資が必要であること、コストにみあう運賃設定が難しいこと、等大きな問題を当初から抱えていた。
    わが国においても、最近の地下鉄建設を取り巻く情勢は厳しく、このままでは今後の都市の発展に応じて速やかに地下鉄を整備することが極めて困難な状況となっており、わが国の地下鉄も一つの曲がり角にきているものと考えられる。
  • 山本 功, 岡村 康弘, 上石 俊之
    1990 年 10 巻 p. 263-266
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    JR山陽本線は、出陽鉄道によって1888[明治21]年11月1日、兵庫・明石駅間開業以来100年以上を経てきている。その間、様々な鉄道構造物が建設、改築され現在に至っているが、これらの鉄道構造物の中には古レールを用いた構造物をいくつか見ることができる。
    その古レールも、関西地方の鉄道会社が発注したものが多いが、中には横浜鉄道といった還隔地のものも見られる。また、初期はアメリカを中心とした外国からの輸入のみであったが、1910年以降は国産も見られ、1930年以降は国産のみとなっている。
  • 丹羽 俊彦
    1990 年 10 巻 p. 267-275
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    停車場は鉄道と社会生活との接点であり、鉄道の営業拠点として極めて重要な役割を果たすものである。特に大都市に輸送サービスを提供するための拠点として建設された停車場は、輸送需要の増大、当該都市の発展に対処するべくターミナル駅としての使命を早くから与えられ、逐次改良が加えられて今日の形態に発達してきたものである。
    首都・東京の中央駅を建設する計画は、1889(明治22)年の東京市区改正計画に取り入れられていたけれども、日清・日露の2大戦争の影響で遅延し、ようやく1908(明治41)年に基礎工事に着手、1914(大正3)年に完成して「東京駅」と命名された。
    その後の鉄道網の整備、国力の発展は鉄道の輸送需要を大幅に増大し、東京ターミナル駅の乗降客は逐年増大した。特に丸の内周辺のビジネス街の発展は通勤客の増大となり、朝夕の混雑が激しくなった。この増大する輸送需要に対処するため、東京駅においては各種の改良工事が計画され、実施に移されたのである。
    1925(大正14)年に降車口・乗車口の分離を止め、両口を通勤客が利用できるような改良から始まり、八重洲口の開設、戦災を受けた駅舎の復旧、ホームの増設、新幹線の開業、地下駅の建設等、鉄道輸送機能は大いに発達し、開業当時の一日乗降約9.6千人程度の輸送規模から、1985(昭和60)年の一日乗降約794.3千人に対処している。
    大都市旅客ターミナル駅は当該都市の発展、周辺街区の整備、これに伴なう輸送需要の増大に対応して常にその機能を強化してきたものであり、東京駅にその良い例を見ることができる。
  • 古田 崇, 天野 光一
    1990 年 10 巻 p. 277-287
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The way in organizing the Station Plaza is often mentioned as “the adjustment of the means of transportation” and “building the gateway to the city.”
    In recent years, there has been several movements within the self-governing body regarding a large remodel of the public square around the railway station. During the construction there were often some printed phrases in sight, such as, “The gateway of the city needs to be remodeled.” Yet, when the construction is over all there are tall buildings everywhere and a deck for the pedestrians. Such are the common results found in several cases.
    Hence, this study will refer to the actual photographs, sketchings and other drawn materials.
    “Traffic Management” and “Relationship between the City andthe station” are the two points from which we are able to find ideas and skills for accomplishing the plan. In addition that they would offer some hints to the future constructing plans.
  • 為国 孝敏, 榛沢 芳雄
    1990 年 10 巻 p. 289-297
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    東京の副都心ターミナルである渋谷は、現在では若者とファッション・文化の街として個性的な顔を持っている。そのような渋谷の中核となっている駅空間は、どのような変遷をたどってきたのか。渋谷についての文献・資料を基に駅空間形成の変遷・特徴・性格等に史的考察を試みた。
    その結果、初期では自然派生的に、中期では鉄道事業者の理念によりターミナルの基礎が確立され、その後は地域発展とともに駅空間形成は質の充実へと性格付けられる。
  • 松本 昌二, 宮腰 和弘, 会田 洋, 熊倉 清一
    1990 年 10 巻 p. 299-306
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    1945(昭和20)年8月、新潟県長岡市の市街地は空襲を受け、その被災率は79%を越えた。本研究は、土地利用、街路、公園緑地、多雪に関する戦災復興都市計画の策定・決定の過程、および街路、土地区画整理の事業の開始から完工迄を考察し、長岡市の復興都市計画の特徴をまとめたものである。(1)復興都市計画の原案づくりはかなりスムーズに進捗し、都市計画街路と区画整理区域は正式決定されたが、用途地域の変更はされなかった。(2)戦災復興院の嘱託制度によって東京大学助教授高山英華が派遣されたが、その土地利用計画案は採用されなかった。(3)戦災復興院は、多雪都市復興計画の調査研究を行おうとしたが、中途で挫折した。(4)1949(昭和24)年に行われた再検討で、区画整理事業の施工面積は幾分縮小されたが、その後順調に進み、全国のトップを切って完工式を迎えた。(5)戦災復興は、広幅員の街路網を形成し、冬季間の道路交通を確保することに貢献した。しかし、公園面積はきわめて少なかった。
  • 須股 孝信
    1990 年 10 巻 p. 307-318
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    古代の前方後円墳は, その形状からみて幾何学と高度な施工技術によって築造された土木構造物であり, その技術と同レベルの測量技術も古墳時代に存在したと考えられる. それらを裏付ける事象として, 古代の著名遺跡や古墳を結ぶ線分には正しく東西・南北を指すもの, それらの方位に対して30°, 60°の角度を振った方位を指すものの事例が多い.
    本稿は, それらの事象の中から同一子午線上に置かれた陵と都宮の一例を示し, 古代の都宮の配置にみられる幾何学的な特性から, それらの方位あるいは角度が用いられた理由を考察した. 結果では, 30°, 60°角をもつ直角三角形の相似特性を利用した測量行為であったと結論するに至り, 点在する古代の著名遺跡や古墳の位置相互の関係から, 古代の畿内に東西・南北の直交座標軸が設定され, この座標軸を基準にした都市計画基本線ともいえる雄大な計画線の存在を提唱し, 座標軸設定の方法を明らかにした.
  • 中岡 良司
    1990 年 10 巻 p. 319-327
    発行日: 1990/06/25
    公開日: 2010/06/15
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