土木史研究
Online ISSN : 1884-8141
Print ISSN : 0916-7293
ISSN-L : 0916-7293
11 巻
選択された号の論文の45件中1~45を表示しています
  • 馬場 俊介
    1991 年 11 巻 p. 1-12
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    フランスの石造アーチ橋の歴史を、橋を構成するアーチ迫石、橋脚の水切り、高欄といった形態、および、アーチ環を強調したり高欄部に水平線を付けるといった意匠的付属物という二つの観点から分類し、時代と地域による体系化を試みる。また、これらの形態・意匠要因がどのような印象を与える可能性があるかを分析し、土木意匠における土木史の役割について、方向性を示唆する。
  • 苅谷 勇雅
    1991 年 11 巻 p. 13-23
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本論は明治期の京都における景観の保全整備の努力について、主として行政面からあとづけようとするものである。本論では明治期を3期に分け、それぞれの時期における景観の保全整備の動きを町づくり施策の発展のなかで明らかにする。第1期は明治初年から明治18年の琵琶湖疏水着工まで、第2期は明治28年の平安遷都1100年記念祭まで、第3期は明治末年までとする。
    第1期では、東京遷都により疲弊・荒廃した京都が復興と近代化に努める中で、府・市が建築物の街路境界からの後退規制や道路清掃の奨励、並木の保全、ガス灯の設置を進め、街路景観の整備図ったことを記す。また、御所の保全整備や社寺境内地の公園としての整備、山林の保護・育成などに着手したことを明らかにする。第2期では、まず、京都の本格的な近代化の礎となった琵琶湖疏水の建設に当たって、水路の線形やデザインにおいて自然景観、歴史景観の保全のため細やかな配慮がなされたこと、そして親しみ深い水辺空間を市民に提供することとなったことを示す。次に円山公園の整備や嵐山、東山、高雄等京都をめぐる三山の風致保護などに本格的に取り組むととも街路の清掃・美観維持や街路樹整備及び街路灯の普及などの道路の景観整備の進展について述べる。第3期では京都からの強い働きかけで古社寺保存法が公布され、社寺建造物の保存施策が進んだこと、また御所や離宮の周辺や東山などをばい煙、粉塵等から守るため工場等の建設制限を始めたことを示す。さらに明治末年の三大事業等に見る開発と保全の相克、京都市民の洋風建築デザインの受容過程、屋外広告物規制の始まり等について論ずる。
  • 佐々木 葉
    1991 年 11 巻 p. 25-36
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    In Japan the first notable modernization in bridges started in 1910's in the main city planning projects. The bridges were designed with careful study as one of the important elements of modern Westernized urban space which planners aimed to build. In this paper the author surveyed bridges in Osaka City before World War II and reports the cases which can be highly valued from the urban design point of view. The main results are as follows;
    There were a few cases in which bridges were designed in a set of other urban elements that were large buildings facing the bridge, a pedestrian street along the river side and the Nakanoshima park in the civic center.
    The arrangement of the arch bridges, which were regarded as the best form to build beautiful urban space, reflected not only the geological conditions but also the importance of the location.
    The aesthetic ideal in bridge design had shifted from the decorative and rather classic beauty to the simple and polish one based on structural form as advance in engineering technology and realization of economic efficiency.
  • 石川 幹子
    1991 年 11 巻 p. 37-48
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The Central Park in New York City is the fist municipal urban park in U. S. A., established in 1858. The purpose of this paper is to clarify the role and influence of the Central Park from the point of view of the historical development of landscape architecture in U. S. A.
    The following four points have analysed in this paper. First; the establishment of the Centeral Park caused a nation-wide municipal urban park movement and many big parks and park systems were created as infrasturcture of the city planning. Second; the planning concept of the Central Park was to create a wide pastoral scenery, within highly developed Urban environment, for the park was regarded as lungs of city and also it had a great contribution to citizen's recreation and welfare. Third; To accomplish the above ideal, the technique of civil engineering took a great role, especially on the thorough drainage system, and the separate road system. Fourth; New professional, “Landscape Architecture” was created from the construction of the Central Park.
  • 知野 泰明
    1991 年 11 巻 p. 49-60
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    Studies on flood control techniques of the Tokugawa era have been done from the Meizi period up to the present time. Previous studies concluded that river improvements during those days were conducted by two largest river improvement schools, namely “Kantouryu” and“Kisyuryu”. However, this conclusion and some other conclusions that were obtained through the scarcity of literatures are doubted by recent studies. Besides, these conclusions describe only the policy, and do not, in any way, report the details of flood control techniques during the Tokugawa era.
    This study traces the Tokugawa era through written laws promulgated by the Tokugawa Shogunate in connection with flood control techniques. Thus, a thorough investigation of the flood control techniques during the Tokugawa era through these written laws is a primary objective. Results obtained from this study will then be useful in supplementing existing literatures describing flood control techniques of the Tokugawa era.
  • 許士 達広, 品川 守, 久米 洋三
    1991 年 11 巻 p. 61-72
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    石狩川治水の基礎を築いた岡崎文吉の治水思想は、岡崎自身が「自然主義」と自ら称した、自然の蛇行河川の特性を保護し、かっ応用しようとするものに集約される。これは洪水防御と同時に舟運を増進するため、河道の澪筋の維持を重視したもので、水衝部を保護し、河道の安定化を図るためのコンクリート単床ブロックの開発を伴った。また石狩川の改修計画に於いては、洪水のみを分岐させる放水路を用いて、自然の低水路の維持と洪水氾濫の防止の両立を図っている。
    この背景には、
    (1) 当時の石狩川の舟運が活発であったこと。
    (2) 石狩川自体が全くの原始河川に近く、当時の経済力や機械力に見合った施工では、実施による弊害を克服できないと考えられたこと。
    (3) 岡崎文吉が海外視察を行ったころの欧米では、河道切替による舟運への悪影響等から、フランスを中心に自然状態の流路形態を重視する理論の主張が強まってきていたこと、などの状況があったと考えられる。
    しかしながら大正6年に至り、岡崎文吉自らが、「石狩川治水事業施工報文」の中で放水路案から捷水路案への変更を報告している。
    これについては維持土の問題等いくつかの理由が考えられるが、結果的に石狩川の治水対策は洪水調節や河道維持の面等から大きな成功を収めている。この変更により、岡崎が当初理想とした自然主義は、一見生かされることなく終わったように思われるが、砂州の形状を考えた河道計画などの岡崎の思想は、現在の改修にも示唆するところが大きく、現代の石狩川に生き続けているといえる。
  • 古代から家康入国まで
    松浦 茂樹
    1991 年 11 巻 p. 73-83
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    利根川と荒川で囲まれている埼玉平野は、近世の江戸幕府にとって重要な生産拠点であった。近世、埼玉平野では開発が進められていくが、ここにはまた、出土品である鉄剣から金象嵌銘文が発見され、近年、古代史に大きなインパクトを与えた埼玉古墳群がある。本稿は、河川との関わりが深い水田開発と舟運整備に焦点をあて、埼玉古墳群を支えた生産基盤を考察するとともに、家康入国時までの開発状況を論じたものである。
    埼玉平野の安定した開発には大河川利根川・荒川の洪水対策が不可欠であるが、古代の技術では防禦することができず、氾濫を前提として開発が進められ、「不安定の中の安定」という状況になっていた。開発は少しづつ進められていくが、利根川防禦に重要な役割を果たしたのが中条堤と、それに続く右岸堤である。この地域の拠点として忍城が整備されたのが1490年である。
    また綾瀬川筋から元荒川筋へという荒川付替が、さらに利根川水系の舟運の整備が、後北条家の時代に既に行われていた。家康は、決して未開の地ではなく、かなり整備が行われていた状況で関東に移封されたのである。
  • 津波常襲地域の岩手県田老町を対象として
    村松 広久, 安藤 昭, 五十嵐 日出夫, 赤谷 隆一
    1991 年 11 巻 p. 85-94
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    津波常襲地域と呼ばれている岩手県沿岸部三陸地方は、太平洋トラフに沿っているという地理的条件と、津波振幅を増大させる大小の湾が入り組んだ複雑な海岸地形であるため、常に津波の危険につきまとわれているという宿命をもっており、津波による被害は有史以来90回にもおよぶという。
    なかでも、岩手県田老町は生存者わずか36人と、ほぼ全減の状態になった明治29年三陸大津波と、再び町の機能が失う程の被害を受けた昭和8年の津波の2度の大きな津波被害があった。そこで、昭和9年から昭和54年の3期にわたり、町を2重に取り巻くX字型の日本最大の規模を誇る総延艮2, 433m、高さ、海抜10mの大津波防潮堤が建設された。
    第1期の津波防潮堤を建設し旧市街地の山側に復興した市街地は、西の山側へ向かう道路とこれに直行する道路より成る格子型道路網として数多くの避難路を設けた。また第1期の津波防潮堤建設により市街地南部を流れる田老川の流路が安定し、市街地の東側を流れる長内川の川筋と併せて津波緩衝地帯を設けることができた。
    しかし、2・3期と津波防潮堤を増設した結果、高地移転から結婚・分家、土地不足、仕事上の利便性、防災意識の風化などの要因によってしだいに市街地が拡大した。加えて長内川支川の増水時における市街地への氾濫・海の眺めが悪くなったなどの住環境や、交通に対する障害などの都市機能面での障害が伺われるようになった。
    津波防潮堤建設はこれまで治水の効果のみが評価されていたが、本研究の結果、津波防災意識の風化をもたらしながら市街地を拡大させてきたということが実証的に明らかになった。
  • 青木 治夫
    1991 年 11 巻 p. 95-100
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    辰巳用水は、1632 (寛永9) 年、当時の先端技術であった隧道に横穴を用いて掘り、かつ末端で木管による逆サイフォン工法を用いた遺存状態のよい用水である。
    1981年、総合学術調査が行われた際、隧道区間の実測が行われ、区間別の建設年代が明らかにされ、鉱山との関係が論じられた。その実測図によると、相互横穴間にある隧道は、主として三線からなり、それを結んだ線形が特長のある折線形状を示していた。
    近世初期わが国では、方向は磁石で求めていたから、寛永期隧道で隧道方向設定の基凖とした横穴の中心線実測方向角によって、用いられた磁石の伝来系統と方位数を調べてみた。それには地磁気偏角値が必要であり、実測値ではないが、考古地磁気学による寛永期の金沢における偏角、東偏8.3°を用いて試算してみたところ、中国系の48方位刻み磁石を用いていたことが分かった。近世中期になって、鉱山技術が記述され始めたが、その史料によると、鉱山では中国系磁石を使用していたことが明らかで、両者の技術の類似性が確かめられた。
    隧道中心線の折線の集合は、48方位の7.5度刻みの磁石で方向設定したため生じたものであろうが、隧道設定に関する文献にも論究を加え、かつ試算法の応用について述べる。
  • 藤井 郁夫
    1991 年 11 巻 p. 101-107
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    支間1990mキロメートルを単位とする支間の吊橋「明石海峡大橋」は次第にその姿を現し始めた。本報告は, 藤蔓の時代から現代迄の, 日本の吊橋の変遷をみたものであり, 1. 明治以前の天然繊維ケーブルの時代, 2. ワイヤーロープ吊橋の時代, 3. 戦後の長大吊橋の時代とに分けて述べる。
    ただし, 本文ではいわゆる固定床の吊橋のみを取り扱うこととし, 「綱わたし」「籠わたし」「釣り越」等は省くこととした。また, 1900年前後ヨーロッパを中心に架けられた「運搬橋」の我が国での記録は見出せなかった。
  • 二宮 公紀, 出水 さとみ, 馬場 俊介
    1991 年 11 巻 p. 109-117
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    江戸時代後期に造られた鹿児島市の甲突川に架かる5つの石造アーチ橋 (玉江橋, 新上橋, 西田橋, 高麗橋, 武之橋) の歴史とそれらの構造論的な特性を概説する。まず2節では、五大石橋の架設時の時代背景と九州の石造アーチ橋との関連について触れる。3節では、五大石橋各々の特徴や諸元について述べる。4節では、石造アーチ橋の建造の技術力を調べるために行った強度計算について述べる。そして五大石橋と世界の歴史的名橋との技術的な関連について考察を加える。
  • 増渕 文男
    1991 年 11 巻 p. 119-122
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    日本の歴史に「横浜」が登場するのは江戸時代の幕末期で、港を中心とした横浜北部地域が中心であり、これが今日の横浜のイメージとして広く定着している。しかし南部地域にはこれより古い遺構がみられるようで、本研究は横浜南部の土本遺構を調べ、石橋の一橋「昇龍橋」について報告するものである。
    昇龍橋の架設位置は横浜市南部にある栄区の狙川上流部で、この河川には土木遺構として石橋の他に溜池、堰、及びずい道などがある。しかし、これらの遺構は付近の住民一部が知るだけで、一般的にはあまり知られていない。石橋の構造形式といえば九州の石橋があげられるが、昇龍橋はそれと類似性が少なく、何処の石工が建造したものか不明である。石材は当地の鎌倉産「今泉石」を使用しており、軽快な感じと独特な趣をもつ石橋である。架設年代は親柱に大正四年の刻印があり、かすかに読み取れるが、親柱と石橋本体とは石材が異なるので、まだ明確にはなっていない。石橋の建造には高度な技術が必要であるが、何故この地にその技術が展開されたかなど追究すべき点が多い。
    この周辺には江戸時代を中心に土木遺構が多く存在し、高度の技術力と文化、それを支える経済力を温存してきたが、近年になり衰退し開発事業の影響が心配される地域である。
  • 現存最古の本町橋 (大販市) と2番目に古い西谷見附橋
    伊東 孝
    1991 年 11 巻 p. 123-130
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    四谷見附橋のアーチ本体は、多摩ニュータウンに保存が決まり、目下、来年度末の完成をめざして工事中である。これに先立ち、四谷見附橋の保存について土木学会内に委員会が設置され、矯の移築保存に関する検討がなされた。筆者が過去におこなった調査研究では、主に東京の橋梁史のなかでの意義づけにとどまっていた。しかし今回の作業では、わが国のれいめい期における四谷見附橋の土木史的価値があきらかになった。
    また現存する他の貫重なスチール・アーチ橋についても、その意義づけをすることができた。
    主要な内容は、次の3点である。
    (1) 現存最古のスチール・アーチ橋:木町橋(大阪市)の存在があきちかになったこと
    (2) 四谷見附橋は、本町橋よりもわずか4ケ月遅れの2番謝こ古いスチール・アーチ橋であること
    (3) 明治期架設のスチール・アーチ橋が、コンクリートを巻かれてメラン式コンクリート橋として現存すること
  • 国内設計桁
    小西 純一, 西野 保行, 淵上 龍雄
    1991 年 11 巻 p. 131-142
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治期に設計・製作されたトラス桁の歴史と現状を述べてきたこのシリーズの最終回として、日本人の手になるトラス桁について述べる。トラス桁の設計・製作は長らく外国人技術者の手によって行われてきた。標準桁が制定されていたこともあって、1909年以前は、日本人が設計したものはごく少ない。1880年代のものとしては、平井晴二郎による北海道入船町陸橋と原口要による官設鉄道の上路トラスがある。関西鉄道では1895-7年に白石直治、那波光雄の二人が英国流のトラス桁を設計した。宮設鉄道では杉文三設計の日川橋梁の上路トラス (1903年) があるのみで、あとは1910年以降の100ftクラスのものが数例あるくらいである。鉄道院が発足すると既存幹線の橋桁更新が急務となり、橋梁設計を専門とする部署が設けられ、新示方書による統一あるトラス桁の設計が精力的に行われるようになり、その後の発展につながって行く。明治末に相次いで電気鉄道が開業するが、電車荷重で設計した軽快な国産のトラス橋梁が各地に見られるようになる。
  • 窪田 隆一, 小谷 俊哉
    1991 年 11 巻 p. 143-153
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は東京都千代田区内を対象地域として、江戸期から今日までに実施された都市計画的事業によって、皇居周辺地区における景観構造がどのような過程を経て変遷し、各時代毎にどのような景観的特徴を有していたかを考察すると共に、現在見られる景観がいつの時代に形成されたものであるかを明らかにすることを試みたものである。
  • 越沢 明
    1991 年 11 巻 p. 155-166
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    欧米の近代都市計画の歴史については、一都市の全容を解明した実証的な研究は意外なことに少ない。本稿はオランダの首都アムテルダルダムの歴史を取り上げている。
    13世紀に成立したアムテルダルダムはオランダが独立した17世紀初めに急激に発展した。計画的に運河の開削と建築敷地の造成が行われ、近代都市計画の先駆け(建築規則の適用、超過収用の実施)が見られる。その後、19世紀後半、産業の近代化とともに市街地の拡張が実施されたが、住宅の水準は低く、労働者住宅と都市インブラの改良が都市行政の大きな課題となった。
    市当局の依頼によりオランダを代表する建築家ベルラーへが設計した市街拡張計画のうち南郊地区が1915年より実施された。用地は市が買収し、住宅協会が集合住宅を建設した。南郊地区には広幅員街路、広場、公園、住宅、公共施設が巧みに配置され、特に集合住宅地の多彩でリズミカルな設計はすぐれた都市景観をっくり出している。造形美を実現した都市計画としてPlan“Zuid”の意義を今日、再評価してよいと思われる。
  • 第二次大戦前まで
    土井 勉
    1991 年 11 巻 p. 167-174
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    京都市の公園形成史を取りまとめた論文はまだ作成されていない。ここでは、旧都市計画法制定以前の公園としては京都府・市管理のものは、わずかに4公園であったことと、それらの公園の概要の紹介を行い、次に大正~昭和初期の用地確保が園難な状況で臨機応変に代用公園の設置を行ったこと、昭和初期の京都市の都市像は「田舎に京あり」ということで風致や緑地保存の重要性が認識されてきたことを概観する。また、昭和9年にまとめられた「京都市の都市環境とその改善策に就いて」(高田景)により、児童遊園設置の必要性の整理や上地区画整理事業における児童遊園設置基準について紹介する。京都市の児童公園は市周辺部の土地区画整理事業の進展によって大きく進展したのである。一方、市内については皇太子誕生を記念事業を挺にして、児童公園整備を行ったことを明らかにする。さらに、わが国で最初に受益者負担金制度を導入して整備された船岡山公園について受益者に対する負担方法について紹介するものである。
  • 中田 勝康
    1991 年 11 巻 p. 175-182
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    豊臣秀吉によって復興された博多の町は、長方形の短冊型の宅地割に特徴がある(それまでは矩形が多い)。
    本論文では堺, 近江八幡, 京都等の町割りの状況と博多とを比較して、博多の町づくりが商業都市・兵姑基地として、将来の繁栄性を狙った新鮮な街づくりプランであったと評価している。
  • 篠田 哲昭, 中尾 務, 早川 寛志
    1991 年 11 巻 p. 183-190
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    人類が「火」を手にして以来、薪・石炭・石油・原子力とエネルギーを求め続けてきた。
    なかでも石炭は18世紀半ばイギリスに始まった産業革命の原動力であり、その波及効果が鎖国状態であったわが国に開国を迫る大きな力となってきた。
    当時の石炭は、箱館の国内向けには僅かにオランダから贈られた軍艦の燃料等として需要があった程度であるが、修好通商条約によって箱館港に入港する諸外国の黒船にとっては欠かすことのできない燃料であった。
    幕末の北海道における石炭山は釧路場所の白糠炭山、岩内場所の茅沼炭山が主な産地であった。先進諸外国を見聞した榎本武揚が炭山の必要条件に, 「一に運輸、二に品位、三に分量」と説いたが、本報告は茅沼炭山の「運輸」について史料を整理し取りまとめたものである。
  • 環運転30周年
    藤原 康雄, 奥野 博久, 松岡 義幸, 萱原 瑞穂
    1991 年 11 巻 p. 191-196
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    JR大阪環状線は戦後の復興の中から大阪市民の強い要望により1956 (昭和31) 年3月20日に着工され、1961 (昭和36) 年4月に完成した。しかしながら「の」字運転のためににそれほどの効果が期待されず、ほぼ同時に旧西成線の高架化も着工し、1964 (昭和39) 年に完成した。この年は東京オリンピック、東海道新幹線の開通と大きなプロジェクトが成功した。
    環状線の開通は種々の困難を乗り越え、最新の技術を酷使し、城東線と西成線をむすぶことによって旅客の流動の差を2倍程度に押さえ、大阪市の発展に多大な効果があった。
  • 堀野 一男
    1991 年 11 巻 p. 197-204
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    土木技術史的な立場から言えば、近世期頃までは、河川改修工事や築堤工事など、一般に河川に対する工事の方法は専ら、長年にわたる地域共同体レベルでの経験の蓄積や、熟練された個人による知恵と勘にたよることが多かった。しかし、この事は逆の見方をすれば、その頃までは河川に対して人間社会からの働きかけがまだ少なかったということを意味している。そして、技術力が未熟な分だけ、自然の力を恐れ、同時にそれを考慮に入れた河川への働きかけがなされていたように思われる。そのような視点から見ると、当時の河川計画は自然と調和のとれた計画になっていたと考えられ、今日の河川計画を考えるうえでも重要な教訓を提起しているものと思われる。
    本稿でとりあげた「堤防溝洫志」はこのような近世後期の河川技術について書かれたものである。これは、農学、経済学、さらには都市計画と実に幅広い学問に通じ、数多くの業績を残している佐藤信渕が、その父信有の遺稿を校訂してまとめあげたものとされており、1875年 (明治九年) に刊行した。
    河川とは歴史的、社会経済的な造営物であるという認識に立ちながら、本研究では「堤防溝洫志」で説かれた河川環境論と治水技術上の観点について考察した。
  • 石崎 正和
    1991 年 11 巻 p. 205-210
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国の科学技術は、明治期に入って急速に近代化を遂げたといわれる。その過程で重要な役割を果たしたのが、お雇い外国人技術者や欧米留学生であったが、一方では近世以来の技術者たちが高度に発達したわが国の伝統的な在来技術を駆使して各種の土木事業に活躍した。これまで近代化の担い手としてのお雇い外国人技術者に着目した研究は多いが、事業の実務面における在来技術者の役割及び在来技術の独自な発展に関する研究は少ない。そこで本稿では、急速な近代化が図られたといわれる明治期の水利事業に着目して、在来技術者による在来技術の継承とその技術的な発展について考察した。
    明治期は、西欧近代技術の導入が図られる一方で、わが国の伝統的な在来技術が独自な発展を見せた。それは近代化という時代的刺激を受けつつ、在来技術の旺盛な技術革新が図られたことを示している。特に安積疏水のような国営事業以外では、在来技術を基礎とした生産者的な水利事業が中心であった。それらは近代西欧技術の恩恵に浴することなく、在来技術の近代的な発展を背景として事業が進められた。明治期の近代化においては、西欧科学技術の導入のみならず、在来技術の発展をもたらしたことが注目される。
  • 品川 守, 山田 正, 豊田 康嗣
    1991 年 11 巻 p. 211-218
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    石狩川の冶水事業は、明治43年に北海道第1期拓殖計画の中でその緒について以来、平成2年で満80周年を迎えた。北海道治水調査会の委員として石狩川の治水に関する調査を任された岡崎文吉(当時道庁技師)は、明治37年7月洪水時に、石狩川各地点で詳細な水位観測を行った。その結果を基に岡崎は独自の計算手法を用いて、将来石狩川で河川改修工事が施工され、氾濫が抑制された場合、石狩川下流対雁(現在の石狩大橋観測所付近:河口より27km)地点における洪水量として約30万立尺(8,350m3/s)を算出している。この8,350m3/sという流量は、昭和36、37年の集中豪雨に伴う昭和41年の工事実施基本計画の策定(石狩大橋地点で9,000m3/s)が行われるまで、実に半世紀以上にわたり石狩川の治水事業の根幹として、河川改修を進める上での重要な指標となってきた。水理学、河川工学の黎明期である80年もの前に、そのような計画流量を算出した経緯を詳細に検討するとともに、本研究はその算出方法とその結果について現代的な観点から考察を行うものである。さらに本研究は、現代的な洪水流出計算手法により、明治37年7月洪水の氾濫が防止された場合で流量計算を試みる。一般に今日用いられているような流出解析手法では降雨量、降雨分布がモデルのパラメータを決定する重要な構成要素となっている。しかしながら明治37年当時、石狩川流域で時間雨量を観測していたのは札幌だけであり、総降雨量を観測していたのは札幌と上川(現在の旭川)だけである。従って一般的な現代手法では、明治37年の洪水流量の有意義な検討は難しいと判断し、ここでは降雨特性によらないモデルを新たに考案しこれを用いることにする。
  • 藤田 龍之, 根本 博
    1991 年 11 巻 p. 219-228
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    猪苗代湖疏水(安積疏水)は明治初期の最初の国営農業水利事業であり、その設計について、戦前ではフアン・ドールンの業績が高く評価されていた。しかし、戦後昭和29年9月10日付けの「毎日新聞」(福島地方版) に彼の設計にたいして異義を唱える報道があり、それ以後、彼の疏水工事に関する功績をはとんど否定するような論説が多く見られるようになった。そこで、「安積疏水志」(天・地・人、明治38年、織田完之編) を始め種々の文献よりフアン・ドールンの疏水工事に対する業績について再検討を行ってみた。また、彼が猪苗代湖等の現地視察後、石井土木局長に提出した復命書「水ヲ猪苗代湖ヨリ引キ以テ福島県ノ稲田二灌クニ供スル溝渠ノ計画」(これは明治前期の国家的大事業の計画と、彼の設計や工法について述べた重要な資料である) に示されている設計式については、誤写されて「安積疏水志」に載せられているため、ほとんどの式が意味不明となっている。この原因についても原本にまでさかのぼって調べ、設計式の訂正を試み、フアン・ドールンの猪苗代湖疏水に関する業績を明らかにする。ここで、疏水工事の実施設計および施工は全て南一郎平、山田寅吉をはじめとする日本の技術者であることは周知のことであるが、この報告では、フアン・ドールンの関係する事柄に重点をおいて調べた。
  • 各河川水力開発の変遷 (その10)
    稲松 敏夫
    1991 年 11 巻 p. 229-239
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    筆者は先に第1回~第9回にわたって、電力土木の変遷と、電力土木に活躍した人々を中心に、各河川の水力開発の変遷について、北陸、東北、中部、関西、九州、関東、中国、四国、北海道地方の各河川の水力開発に活躍し, た人々について述べたが、今回はその10として第二次世界大戦前、つまり大正から昭和20年にいたる外地即ち、朝鮮、満洲、台湾等の水力開発に活躍した人々と、大戦後の世界各地即ち、東南アジア、韓国、台湾、中国、ペルー、タイ、トルコ等の海外電力開発に活躍した人々、及び火力、原子力、送変電土木に活躍した人々を中心にそれぞれの河川の水力聞発の変遷、さらに電力開発の変遷について述べ、わが国の電力土木の開発に一生をささげた人々の生きざまをまとめて完結したいと考えている。(明治~昭和期、電力土木、開発した入)
  • 伊藤 芳昭, 清水 浩志郎, 木村 一裕
    1991 年 11 巻 p. 241-246
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    1600年代前期、雄物川河口付近の秋田平野は至るところ湿地に覆われ、河道変動の激しい-大氾濫原であった。秋田藩の古穴堰は、その支流、旭川にあり、1,000M級の山々が連なる出羽丘陵の西端に位置していたとみられる。そこから、日本海岸までの広大な湿地帯の開発を目的として実行されたものが鬼越峠古穴堰掘鑿である。これまで、領主・佐竹義宜の指示に基づいて、惣山奉行でもあった梅津正景が着手したとされてきた。その根拠となったものは「梅津正景日記」(以後、「日記」という。)である。そこには見分・測量、さらに一部掘鑿の状況が明かにされている。「日記」では鉱山関連を除くと、鬼越峠古穴堰掘鑿のように五回にも渡って詳細な記載が及ぶのは希である。しかし、「爰元ノ御普請、御急候問」という理由によって、工事が途中で中断してしまい、以後は古穴堰に関する記載が見あたらない。それは公用日誌でなく、正景の私的印象を中心としているためと考えられる。このような事情に加え、古穴堰そのものが埋没していることから、今日では幻の存在となってしまった。それを解明するため、「日記」や、関連資料の再検討を行なった。その結果、中断の理由としては久保田城下一体の水害の影響が直接的原因であると判断した。本論ではさらに、現在その近くに在る穴堰を手がかりに、完成した年、位置、経済的影響についても検討を行なった。
  • 長弘 雄次
    1991 年 11 巻 p. 247-258
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    九州北部を流れる遠賀川は過去度々氾灘を繰の返し、近世黒田長政が福岡藩初代藩主として部後、その治水、かんがい用水、物資輸送の目的から公水路としての堀川運河の堀さくが計画された。
    堀川は北九州市寿命を起点に折尾を経て洞海湾に至る延長10.1km、平均幅11mの人工運河で、1621(元麹7)年に着工されたが3年後長政の死去で中断し0、127年後第6代藩主継高によって1750(寛延3)年に再開され、岩山の切ぬき、水門の設置などの難工事を経て1762(宝暦12)年に一応の完成をみたが、取水口の上流への移設などによって全工事が完成したのは、1804(文化元)年である。
    爾後は漢水防止、かんがい用水の確保による米の生産量増大、物資の輸送特に筑豊炭田の開発とともに石炭の輸送に大きく寄与した。しかし明治中期の鉄道敷設後は石炭の輸送は逐次陸運に切り換えられ、1939(昭和14)年頃には殆んど水運の利用はなくなり、戦後の石炭産業最盛期には洗炭汚水で荒廃にまかされ、生活下排水路と化し往時の面影はなくなった。
    しかし、エネルギー革命による筑豊炭田の使命が終った1975(昭和50)年以降遠賀川の水が清浄化するとともに、近時の環境保全意識の高まりから護岸の改良工事も施工されつつあり、往民の遺構保存の気運も活性化し、その2湾生が期待されている。
  • 近藤 隆二郎, 盛岡 通, 城戸 由能, 原田 弘之
    1991 年 11 巻 p. 259-264
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The environmental planning become to involve the spatial identicalcharacteristics found out by means of analysis on historical literacy, written books, drawn maps and soon.
    This study is to produce a concept in event management aiming environmentalb etterment from interpretation the contents of aqua-culture of the noted springs and wells on Uemachi-hill.
    The results from these analyses as follows: 1) the fresh springs and wells of Uemachi-hill were indispensable for lives of peoplc in Osaka especially before 1890. 2) Before modern water supply, water carriers named as MIZUYA delivered clean water to citizens. 3) In Edo era peoples were conscious of the nature of pureness, sweetness, sustainability and holliness as drinking water.
    Then we planed and managed an public-participated event named as ‘UEMACHI-DAICHIMIZU MEGUR I’ in which the concept introduced from the historically relationship of human and springs/wells of Uemachi-hill had the main theme as‘You play as MINYA.’ articipants enjoyed town watching and to bring water in one well and to throw water into another dried-up well as a ceremony for environmental resuscitation.
  • 土質工学からみた古代土木技術
    新居 忠彦
    1991 年 11 巻 p. 265-268
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    大阪にある、仁徳陵、応神陵、履中陵、河内大塚古墳の全長300メートルを越す超巨大古墳について、この様な超巨大古墳を構築する為に必要な長年月と膨大な作業員。しかも超巨大古墳で4基、全長100メートルを越すものは数十基にも及び築造を可能ならしめた社会経済的構造を支えた技術。その中心的技術である土器製作技術、この技術の核心部分である土質工学的知識として可塑性の「のび」と「腰」。コンシステンシー限界の、液性限界、塑性限界、収縮限界などについて述べた。縄文時代の大阪としての「森ノ宮遺跡」及び弥生時代の大阪平野の稲作農業、土器製作に必要な窯の技術と金属製作。金属製作による農機具の鉄製化と、灌漑と稲作農業の発展が、超巨大古墳築造可能な経済の基礎作りになる事について述べた。
  • 都市計画基本線の検証
    須股 孝信
    1991 年 11 巻 p. 269-280
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    (その1) で提唱した都市計画基本線 (以下、基本線と呼称) 存在の検証として、基本線設定の時期, 目的, 使用尺度, ならびに測線設定の精度等を明らかにした。
    古墳等建造物の位置を定める場合の普通的論理である幾何学的思考「位置設定の原理」について述べ、畿内に点在する陵・著名古墳を対象にして、位置設定の原理から予想される古墳位置と基本線の関わり, 古代の大和に設けられた古道と基本線の関わり、等についで検討し次の結論を得た。
    (1)基本線設定の時期は4世紀で、(2)設定の主たる目的は領地の地理・地形の把握を意図する地図作成のための18里方格網の設定にあり、(3)大和の古道,上ッ道・中ッ道・下ッ道・横大路は方格綱設定の一環として基本線設定と同時期に計画された可能性が強く、(4)7世紀造営の前期難波宮中軸線の位置は方格網設定のための幾何学的な基準点に置かれ、(5)それらの基準尺度は尺29.2cm~29.4cmが使用され、(6)驚嘆すべき高精度の測量が実施された。
  • 黄 俊銘
    1991 年 11 巻 p. 281-288
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This study is part of the fundamental research being conducted on engineers in Taiwan covering the Japanese period. Nagao Hanpei, from documents gathered, was the most prominent figure serving as President in the Organization of Building Construction in Taiwan during the initial period of the Japanese administration. Nagao Hanpei was a 1881 graduate of the Tokyo Imperial University. He was invited to “Taiwan So-toku-fu” to be the Chief Engineer of the conoly from Dec. 1898 to Sept. 1910. During that time he also became a member of several advisory committees of the “So-toku-fu”. This enabled him to have a strong influnce on the infrastraucture activities of Taiwan during th period. Through an examination of Nagao's works, the development of organizations related to building construction can be view more clearly.
  • 長谷川 博, 天ヶ瀬 恭三
    1991 年 11 巻 p. 289-299
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    著者は第9回, 第10回土木史研究発表会で, 明治期の攻玉社 (工学校) について断片的に発表した。この論文では、同校に残存する史科その他に基づいて、同校と学制との関係, 生徒の実態, 土木教育の内容, 勉学状况, 就職状況などについて調べた。
    また, 同校の同窓会誌が土木総合雑誌として, 会員数の約8倍の部数が頒布されていたこと, また, 明治39年~明治40年に農商務省委託耕地整理技術講習所が開講されたことについても調査した。
    これらの調査かち, 明治期の青少年が機会を求めて勉学し, それぞれの道を開拓していった様子の一端がうかがえると思う。そして, その人達が当時の殖産興業・国土開発の第一線を担ったのである。
    今回は, 他の土木関係の学校についても, 比較検討して見たいと思ったが果せなかった。
  • パナマ運河委員会に現存する人事認録書類による追跡から
    長野 正孝
    1991 年 11 巻 p. 301-304
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    A. Aoyaaa, the 23rd Chairman of the Japan Society of Civil Engineers, was a well-known civil engineer for his triumph with the Dhkouzu-bunsui at the Sinanogewa River in 1931. However his achievements during his Panama Canal years were rarely recorded except for his essay “P anama Unga No Hanasi (A tale of the Panama Canal)”.
    During my work in Panama over the passed two years, I lobbied for permission to view his personal records from the PCC, Now, I would like to introduce not only his extensive works on the Canal but also his virtuous behaviour as seen through the eyes of the isthmian Canal Commission (ICC). Aoyama worked from 1904 to 1911 in ICC. At the beginning, he was put in the hardest field survey team, and moreover yellow fever and malaria spread through work force. Although he had gotten two close scrapes with death during the survey work, he stood for the hardship.
    Later, he moved to the Cristobal and Gatun Division. He had always.done excellent work, been appreciated and promoted in every field. His seven years' works in Panama fostered his virtuous personality and excellent ability.
  • 山本 一彦
    1991 年 11 巻 p. 305-307
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治4年の廃藩置県, の時、現在の愛知県の区域は13の県に分かれており、旧藩の形態がなお残っていたが、明治5年になって名古屋県が額田県を吸収してようやく愛知県の原形が成立した。県の土木行政が実動しはじめるまでには更に数年を要したと見られる。明治8年には全国的に大巾な人事移動が行なわれ、当愛知県でも国貞廉平という人物が参事(現在の副知事)として名東県(現香川県)から転出してきた。彼は後に愛知県令(現知事)になるのであるがこの年同県から一人の若い土木技術者をスカウトしてきだ。名を黒川治悪(以下治愿という), といい、以後明治18年まで愛知県につとめた。わずか10年間ではあったが県令に昇進した国貞廉平の下で治愿は愛知県下の土木工事に多くの実績上げた。治愿の業績は「名古屋市史・人物編」始め県下のいくつかの市町村誌等に述べられているが、彼の足跡を知るうえで非常にユニークな情報源は現地に残る石碑である。彼の名とともに係った土木工事のことを刻んである石碑は広く県下19ケ所に現存している。その分布は岡崎市5、春日井市4、名古屋市・西尾市・犬山市各2、安城市・幸田町・弥富町・立田村各1である。建碑年は明治13年から大正8年に渡っており、文献上でしが確言忍できなかった1個を除き企て硯地で確認できた。多くは治水碑であり、中には頭部の欠落したものや台座が流失したとみられるものもあるが大半は良好に管理されている。また現在でも毎年田植の時期になると近辺の人々が集まり感謝の意を込めて彼の碑の前で頭を下げる祭事が行なわれているところもいくつか知られている。碑文を集めてみると、多くの場合建碑者は付近の村々の連名であり、内容はそれまでの劣悪な治水上の旧状がその土木工事を遍していかに改良されたかを記述しており、地元からみた当時の土木の事情をかいまみることができるのではないかと思う。
  • 石田 正治
    1991 年 11 巻 p. 309-318
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    人造石工法は、伝統的な左官の技術“たたき”を応用した土木技術で、愛知県碧南市出身の服部長七がその創始者である。服部長七は、明治11年から30年代にかけて広島県宇品築港、愛知県豊橋市の神野新田堤防、豊田市の明治用水頭首工など数々の近代の土木事業を成し遂げた。人造石工法は、安価でコンクリートに比肩しうる強固な構造物を造ることができため、コンクリート工法が普及するまで全国各地で港湾・河川・運河・橋梁などの構造物構築に用いられ、日本の産業近代化の基盤形成に大きなの役割を担った。
    近年、産業遺産の調査研究の進展にともなってこの人造石工法による遺産が各地に少なからず残されていることが明らかになった。とりわけ、愛知県を中心とする東海地方には人造石工法の土木構造物が産業遺跡として、あるいはなお現役の形で多く残っている。本報告は、愛知県、岐阜県の産業遺産調査の過程で確認された人造石工法の土木構造物の所在とその現状を報告し、歴史的価値の評価を踏まえて重要なものについては保存の必要性を提言した。
  • 浅井 章治, 村瀬 勝美, 社本 英, 水野 孝
    1991 年 11 巻 p. 319-325
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    納屋橋は、名古屋市の中心部を南北に流れる堀川に架かる橋長27m.幅員30mの鋼桁橋である。この橋は慶長15年(1610年)の名古屋の誕生と同時に架けられ、以後数次にわたる改築を経て現在の姿になっている。
    380年間ひたすら名古屋のまちの発展を支えてきた納屋橋は、明治43年から大正2年にかけての改築で、それまでの木橋から近代的な鋼アーチ橋に生れかわり、花崗岩の重厚な親柱や郷土三英傑の家紋を配した鋳物の高欄、橋の中央部に設けられたバルコニーなど、当時の社会情勢を反映した豪華なものであった。
    当時の名古屋市民は、この新しい橋が誕生したことを歓迎し、橋の開通式には多数の市民が参加したと記録されている。以後、この橋は名古屋のメインストリートである広小路通りとともに市民に親しまれ、周囲の街の発展にも大いに貢献してきた。
    橋梁景観という言葉が目新しかった昭和50年代初期に、納屋橋が当時の幅員21.8mから都市計画幅員である30mに改築されることになったが、この橋の歴史が橋の修景に大きなインパクトを与える事になった。
    橋梁形式はアーチから桁橋になったが、外見上はアーチ形式の飾り桁の採用や高欄の修復、親柱の復元等、明治から大正にかけて改築された当時の姿をほぼそのまま再現したものであるが、これからの橋梁景観の整備に一つの指針を与えるものである。現在の納屋橋を歴史という観点から再評価してみると、(1)技術・素材・意匠などにおいて、時代の節目を伝える土木文化財、(2)名古屋のまちの歴史を伝える記念碑であるという事ができる。また、景観整備という観点からは、(3)整備の一手法として復元の在り方を示す、(4)明治の情緒を今に伝える橋であるということができる。
    名古屋の堀川には納屋橋の架設と同時に六橋が架けられたが、これらの修景についても以上の経験が生かされるとともに、今後に計画されている堀川の環境整備や周辺の都市景観の整備にも生かされることが期待される。
  • 藤原 脩二
    1991 年 11 巻 p. 327-333
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    名古屋市は、第二次世界大戦によって、都心部を中心に市域 (当時) の約24%を焼失し、一面が焼野原となった。復興を機会に名古屋南を近代都市とするため雄大な将来設計を折り込んだ街づくりの計画をたて、約4,400haにわたる区域の復興土地区画整理事業に着手した。しかし、財政事情や他事業との調整の結果、現在では約3,450haの区域について事業施行中である。
    事業着手以来、100m道路など広幅員道路の整備をはじめ公園、街区、墓地の集中移転などの整備を進め今日の中部圏の中核都市である名古屋市の発展に大きく貢献してきた。
    この大事業は、着手以来30数年を経て換地処分を完了し、現在は事業の収束を図っている。
  • 日本初のトラス橋の建設
    五十畑 弘
    1991 年 11 巻 p. 335-342
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    ブラントンは, 主業務の灯台建設以外にも多岐にわたって業績を残しているが, その1つに鉄の橋 (吉田橋) の建設がある。吉田橋は, 1869 (明治2) 年に横浜の居留地の入口 (現JR根岸線関内駅前) に架けられた日本で2番目の鉄の橋で木橋を架け替えたものであった。この前年 (1868 (慶応4) 年) に長崎で架けられた日本初の鉄の橋, くろがね橋がプレートガーダーであったのに対し, 吉田橋は下路ダブルワーレントラス桁であった。
    ワーレントラスは, 19世紀中期以降世界中で英国の技術者が中心となって架設されていった橋梁型式であり, 吉田橋もこの1つである。日本国内では明治10年以降の鉄道建設の本格化にともなって, 数多くのトラス桁が英国から輸入された。吉田橋は19世紀後半の世界的なトラス橋建設の潮流にのったものであり, その橋梁型式には必然性があった。
    ここでは, ブラントンの業績の1つである吉田橋について19世紀後半における世界的視点からその橋梁型式の必然性について述べ, 更にその構造, 製作技術, 運搬, 架設技術など橋梁技術のテーマごとに仮説を提示しっっ言及する。
  • 松浦 茂樹
    1991 年 11 巻 p. 343-350
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治初頭、イギリス人、R. H. ブラントンによって大阪築港計画が策定された。大阪府知事後藤象二郎の依頼によるものだが、本計画が我が国最初の欧米人による築港計画であった。それまでの大阪港は中の島周辺を中心とする河口港であったが、土砂堆積のため水深が浅く、西洋大型船の入港に支障が生じていた。ブラントンは安治川の河口を海近くで付替え、港湾を河川から分離する計画を提案した。この後、1897 (明治30) 年の工事着手までオランダ人技術者によりいくつかの計画が提案されるが、その端緒になったものである。
  • 知野 泰明, 大熊 孝
    1991 年 11 巻 p. 351-360
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    Richard Henry Brunton was a foreign engineer hired by the National Government of Japan in early Meiji era. On the 8th of August, 1868, he arrived at Yokohama from England in order to construct lighthouses in Japan. His activity in Japan did not only cover lighthouses' constructions but it also covered a wide range of occupation, e.g., city and port planning, railway and telegraph construction, etc.
    On the 6th of June, 1871, Brunton surveyed the mouth of the Shinano River in the Niigata district. The mouth of the Shinano River had been used as a port since the early history of Niigata. In 1858, the treaty of amity and commerce was concluded between Japan and America. This treaty advocated that Niigata Port, as a treaty port, would be opened to foreign trade from 1868. However, due to the sand obstacle at the mouth of the Shinano River, trade did not flow very smoothly. The purpose of Brunton's survey, therefore, was to remove this natural sand obstacle, thereby making a new plan for a Niigata port.
    This study is aimed at researching into the contents of Brunton's survey in Niigata. Results of this study clearly show that Brunton was a pioneer in devising modern flood controls in the Niigata district.
  • 馬場 俊介
    1991 年 11 巻 p. 361-369
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    最初期のお雇い外国人として本務の灯台設置以外に土木全般にわたって幅広い「指導」を行った英国人技師ブラントンについて、その上下水道計画を対象として、技術的提言の新規性 (最新技術を取り入れているか)、親地性 (日本の国情を考慮しているか) などについて分析し、異質の文明と新技術の出会いという観点から評価する。
  • 中岡 良司
    1991 年 11 巻 p. 371-381
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、土木技術者の顕彰事例に関して、アンケート調査および現地調査等の結果をとりまとめたものである。調査の結果、全国から192件の事例が報告された。本研究では、それらを有形と無形の顕彰に分類し集計するとともに顕彰所在地の分布も示した。その結果、さらに調査は継続される必要があるものの、初めて全国的な顕彰の実態が明らかとなった。
    事例分析においては、特色ある顕彰例としてファン・ドールン、デ・レーケ、田辺朔朗、青山士、青函トンネルと瀬戸大橋、R. H. ブラントンの6例を取り上げ、より詳細な内容を示すとともに、顕彰行為に含まれる問題点および今後の課題等について言及した。
  • 滞在年表
    知野 泰明, 大熊 孝
    1991 年 11 巻 p. 383-387
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 越沢 明
    1991 年 11 巻 p. 389-396
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 五十畑 弘
    1991 年 11 巻 p. 397-400
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
feedback
Top