環境社会学研究
Online ISSN : 2434-0618
11 巻
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巻頭エッセイ
特集 環境をめぐる正当性/正統性の論理――時間・歴史・記憶――
  • 関 礼子
    2005 年 11 巻 p. 4
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー
  • 池田 寛二
    2005 年 11 巻 p. 5-21
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    環境社会学には環境のいかなるあり方をもって正義に適っていると判断すべきかに関するいくつかの背後仮説が潜在している。しかし,これまで,それらが明示的に捉えられ検討されることはほとんどなかった。本稿は,既存の正義論の系譜を参照しながら,従来の環境社会学に暗黙裡に埋め込まれていた環境正義論を四つの類型に分けて析出し,それぞれの特徴と課題を明らかにしようとするものである。まず,あらゆる正義と同様,環境正義も社会の中で予め合意されている規範の根拠ではなく,正当化をめぐる対立や紛糾の契機となる争点を通してしか捉えられない規範の根拠であるという前提に立って,いかなる争点からどのような環境正義が社会の中で構築されるかを検討する。その結果,(1)正当化の社会的基盤の多様性・複数性および人間社会から生態系への正当化基盤の外延性の可否に関わる争点を契機として構築される環境正義,(2)環境による便益と損害の分配における数量的差異という争点を契機として構築される環境正義,(3)環境による便益と損害の分配における社会的公正という争点を契機として構築される環境正義,(4)法規範の実効性と不正義の是正可能性という争点を契機として構築される環境正義という四つの類型を析出する。

    次に,既存の正義論を参照しながら,環境社会学においてこれらの環境正義を捉える視点を示す。その結果,第1の環境正義を捉えるには,環境正義と社会の正義との予定調和を前提として多元的なコミュニティに内在する個別主義的な正義にのみ視野を限定するべきではなく,多元的な諸コミュニティに横断的に適用可能な普遍主義的な公共性の正義論を志向する視点に立つ必要があること,第2の環境正義を捉えるには,功利主義的正義論の視点を批判的かつ慎重に内在化すること,第3の環境正義を捉えるには,分配正義の視点を組み込むこと,第4の環境正義を捉えるには,「受動的不正義」の是正としての環境正義という視点の導入が不可欠であることを説く。最後に,「中範囲の規範理論」としての環境正義の社会学理論の課題を展望する。

  • 菅 豊
    2005 年 11 巻 p. 22-38
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    本論の目的は,ある川で数百年来展開されてきた漁業と,それをめぐるコモンズを素材に,それを維持しようと奮闘努力してきた人々の歴史から,コモンズをめぐる正当性(レジティマシー)獲得の方法と,その変容過程について検討することにある。当該調査地において,近世には,支配権力とのつながりが具現化した納税の事実と,「旧例」という歴史を根拠とする正当性(レジティマシー)が,ムラによる川の管理・利用を支えていた。しかし,明治維新とともに,その正当性(レジティマシー)は実効力を失ったことにより,人々は新しい正当性(レジティマシー)を獲得しなければならなかった。そこで見つけ出したのが,「公益」や「資源保全」といった近代国家によって高く評価される新しい文言とコンセプトであった。それは,地域にとっては外部的なアクターである国家との接触によって発見された正当性(レジティマシー)であったが,いつしか内部的なコモンズの仕組み――共同体へのコモンズからの利益還元という方式――にまで影響を与えた可能性がある。村=ムラ=集落が,川を共同管理するというコモンズとしての川のあり方は,変化しつつも300年もの長きにわたり継承されてきたが,その継承は,自己の活動の正当性(レジティマシー)を,時々に応じて意欲的に獲得してきた人々のストラテジーと密接に関わっている。

  • 三浦 耕吉郎
    2005 年 11 巻 p. 39-51
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    この論文は,〈環境問題の社会学〉と〈環境共存の社会学〉といった本学会内に存在する研究対象の棲み分けを根本から問いなおすことをめざしている。そのさい,私たちが着目するのは,環境をめぐる支配の正当性(=ヘゲモニー的支配の状態)とマイノリティの人権ないし差別問題との関係性についてである。環境社会学研究者によるこれらの問題群の取り上げ方をみてみると,二つの棲み分け領域のうち,とくに前者において,こうした問題が言及される比重が圧倒的に大きく,後者においては,逆に,これまでのところほとんど取り上げられてはこなかった。これは,いったい,どうしたことだろう。後者の領域において,差別や人権問題は存在していないのだろうか。この点について,以下では,大阪空港の「不法占拠」問題を検討することをつうじて,後者の領域において用いられている概念装置(〈慣習〉,〈環境の言説〉)や諸理論(コモンズ論や共同占有権論)が,〈歴史的なもの〉の隠蔽をつうじて差別の生産や再生産に加担し,結果として,マイノリティの権利を否定する側に与してきたことを指摘する。そうして,上記のような研究対象の棲み分け自体が,後者の領域において,研究者が差別問題を取り上げたり言及したりしないことの正当化として機能してきたのみならず,「環境的正義」の二面性,すなわち「環境的正義」の論理のなかに,構造的差別の芽が胚胎している可能性を見逃してきたことをあきらかにしていく。

  • 細川 弘明
    2005 年 11 巻 p. 52-69
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    環境保護と環境正義を追求する運動における正当性と正統性の問題を,先住民族の自然観を手がかりに批判的に分析する。先住民族に対する主流社会からの眼差しのあり方として,弱き者(2.1.),美しき者(2.2.),異なる者(3.1.〜3.3.)という3つのイメージをとりあげる。とりわけ,先住民族と主流社会のあいだに横たわる異文化の壁がもたらす認識の齟齬について重点的に論じる。この齟齬を見落としてきたことが,従来の自然保護・保全運動における先住民族の疎外・抑圧の原因でもあった。

    論考の素材として,本稿では主に,オーストラリア先住民族(アボリジニー)と日本の先住民族であるアイヌの事例に言及していく。自然と人間のあいだに本来あった身体的感応性を環境運動がどう受けとめるか(3.1.),特定の土地と特定の人間集団をめぐる特異的な関係のあつかい(3.2.),先住民族の自然観・環境知識・資源管理技術を評価する深度をめぐる問題(3.3.),などについて順次議論する。3.2.では,近代民主主義の制度にもとづく正義と先住民族の文化伝統とが抵触するようなケースをどう考えるか,という点にも踏み込む。

    本稿が提示する結論は,i)異文化に対する無理解や抑圧が自然破壊を推し進める因子のひとつであること,それゆえ,ii)自然を守るためには「文化的多様性」への理解と擁護が必須の条件であること,そしてそれを実践するうえで,iii)自然を守る運動は自分たちの文化や社会の既存の価値観に対する見直しを含むものでなければ高いレベルでの環境正義に到達しえない,というものである。

  • 松田 素二
    2005 年 11 巻 p. 70-87
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    東アフリカ・ケニアの首都ナイロビから西北に200キロメートル離れたライキピア地方で,乾期のさなかの昨年8月,マサイ人の牧童が何千頭もの家畜をつれて,白人所有の大規模ランチに侵入をはかり,一人が,急行した警察官に射殺されるという事件が起きた。その日からちょうど100年前の8月,当時のマサイ人指導者は植民地政府に土地の借地権を与える協定に署名し,肥沃なライキピアの地を去って南へと移動していった。マサイの牧童たちは,99年の借地権が期限切れとなったと主張し,白人所有地の返還を要求して,ランチに侵入したのである。白人所有者は,土地登記証書を手に,私有財産の不可侵を謳ったケニア憲法に依拠して,「不法侵入者」への厳罰を求めた。結局,侵入したマサイ人100人以上が逮捕され裁判にかけられた。

    本論文の目的は,このライキピアの土地の正しい所有者は誰かを考察することにある。そのために先住民が100年以上前に手放した土地に対して,今日なおも正当な所有者であることを根拠づける正統化の論理に対して検討を試みる。なかでも強力な根拠として流通する「真正な伝統文化」については,メラネシアにおける「カストム論争」を手がかりとして根源的な分析を加え,正統性を保証する新たな水準を導き出す。そして最後に,この新たな水準が,サイードやフーコーによって社会理論に浸透した「知の政治学」を超えた地平を切り開くことを示す。

  • 松井 健
    2005 年 11 巻 p. 88-102
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    自由主義経済体制の先進諸国においては,個人の所有権は,絶対的なものであるかのように法的に固く守られている。そうした法システムのもとでは,個人的所有権は処分,収益,使用権の束として,財産権の基盤とみなされている。しかし,今日でも,このような個人所有権が治安や政治的理由などによって十分に法的に保証されていないところが世界中に多くある。たとえば,パキスタンではこのような個人所有権は警察や法システムの不備や不正のため,しばしば脅威にさらされる。

    アフリカの民族誌の例は,多くの社会が個人の所有権をむしろチェックして抑制する社会的な仕掛けをもっていることを教えてくれる。個人的所有権は,生存のために基本的な資源の所有者に権力集中をもたらすものとみなすそれらの社会は,個人所有権を無力化しようと試みているようにみえる。ときには,近代的な個人的所有権を構成する三つの権利がばらばらに分解されていたりする。狩猟採集,牧畜,焼畑をおこなうアフリカ諸社会は,個人的所有権をあいまいにし,無力化する装置をもっているといえる。

    人間が資源に対してもつ権利のあり方は,その社会と個人の関係と表裏一体である。個人の自立と完全性をうたう社会においては,個人は十全な所有権を許されるが,個人が社会に従属するという位置づけがなされるところでは,社会が個人に十全な所有権を認めることはない。社会のなかにおける個人の位置が,個人的所有権の範囲と強さを左右するということができる。

論文
  • 藤川 賢
    2005 年 11 巻 p. 103-116
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    被害が被害として認識されにくいことは多くの公害問題に共通して見られるが,イタイイタイ病および慢性カドミウム中毒においてはとくに特徴的である。中でも,大幅な発見の遅れにより多くの激甚な被害者が見過ごされたこと,富山以外でも要観察地域や土壌汚染対策地域が指定されながら同様の健康被害が公害病と認められなかったことは,重要と考えられる。本稿は,被害地域などでの聴き取り調査にもとづいて,こうした被害放置の経緯と背景を明らかにしようとするものである。発見の遅れについては,公害の社会問題化以前で危険性が重視されなかったこと,川への信頼などの他に,個々の症例においても地域全体としてもイ病が長い年月をかけて深刻化したために,激しい症状さえもあたかも自然なことのように受け止められていたことが指摘できる。また,農業被害は明治時代から明らかで補償請求運動も続いていたにもかかわらず,それが直接には健康被害への着目や運動につながらなかったことが指摘される。

    イ病訴訟後も,土壌汚染対策費用などの政治経済的理由を背景に,イ病とカドミウムの因果関係を疑い,神通川流域以外でのカドミウムによる公害病を否定する動きがある。これは医学論争であると同時に,力の弱い少数者の被害が行政面でも医療面でも軽視されるという,未発見時代と類似した社会的特徴を持ち,現代にも問題を残していると考えられる。

  • 三上 直之
    2005 年 11 巻 p. 117-130
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    環境社会学の調査・研究を,環境保全に向けた社会的実践と緊密に連携させるにはどうすればよいか。そのための一つの方法として,本稿では「参加型調査」という考え方に注目し,これを環境社会学の調査設計に生かす方法を探る。議論の素材として,筆者らが2004年から2005年にかけて行った「三番瀬円卓会議ふりかえりワークショップ」について報告する。このワークショップは,住民や漁業関係者,環境保護団体などが参加して干潟の環境再生を議論した千葉県の「三番瀬円卓会議」について,その運営プロセスや手法を,会議に参加した住民や研究者自らがインタビュー調査やワークショップなどによって検証したものであった。このように,住民らと研究者が簡易な社会調査やワークショップの手法を用いて,具体的な問題やプロジェクトについて検証・評価活動を行う「評価ワークショップ」は,様々な課題に応用可能な参加型調査の一つのモデルとなると思われる。三番瀬での評価ワークショップの実践は,社会集団や個人の主張・行為をベースとした問題の過程分析,問題連関の全体的な把握や提示,そのためのインタビュー・資料分析の技法といった環境社会学の調査法を,他分野の研究者との協働を通じて加工しながら,地域住民など当事者が環境問題をめぐる意思決定プロセスを検証・評価する際に提供することにより,環境保全の実践の場に生かす可能性を示している。

  • 丸山 康司
    2005 年 11 巻 p. 131-144
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    本研究の目的は,自然再生や環境ビジネスといった取組みを環境社会学の対象として分析・評価するための方法論を確立することである。環境創造型というべきこれらの取組みでは潜在的/顕在的な方向性が流動的であるため,新たな分析手法を提示すると同時に,具体的な事例についての分析も試みた。

    手法に関しては社会的リンク論を発展させ,「よそ者」の多義性に伴う問題を踏まえて定式化した。具体的には,科学人類学におけるアクターネットワーク理論を応用し,複数の社会状況と多様な主体との関係性の全体像を対象化した。この手法では人やモノがアクターワールドという場に集約される過程を図式化するが,その紐帯となるシナリオを分析し,環境社会学的な理念によって評価することによって現象と理念の両方を問うという応用方法を提案した。

    また,この方法の有効性を示すために事例分析を行い,風力発電事業における利害構造を比較した。その結果,通常の環境ビジネスとして取り組まれている風力発電事業と市民出資による事業の間には,主要な主体の利害に顕著な差があることを明らかにした。また,その背景として利害対象者の拡大とシナリオの多様性とが関連していることを指摘した。さらに,社会的ネットワークの潜在的/顕在的な可能性という視点から,両者には経済的利益の追求と興味関心による共同性という差違が存在することを指摘した。

    最後に,この手法の有効性を確認し,流動性の高い環境創造型の取組みを扱うことが可能になるとした。

  • 森久 聡
    2005 年 11 巻 p. 145-159
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は,歴史的環境保全の社会学的な分析視点を提示した上で,鞆港保存問題とその住民運動の事例分析を行うことである。本稿が採用する分析視点は,保存運動の当事者が主張する「保存の論理」を〈保存する根拠〉と〈保存のための戦略〉の2つに自覚的・積極的に分節化して把握するものであり,「なぜ保存しようとするのか」という問いに対して有効な分析枠組みである。そしてこの「保存の論理」には,未だ明らかにされていない部分があると考えられる。そこで本稿は,先の問いに答え,「保存の論理」の一つを明らかにするために,鞆港保存問題を事例として取り上げた。鞆港保存問題とは,湾内を埋め立てて道路を建設する公共事業の賛否を巡って地域社会が二分してしまった深刻な地域紛争のことである。そして鞆港の保存を目指して多様な政治運動を展開した一つの住民団体「鞆の浦・海の子」を分析し,「物的環境に歴史的に織り込まれた地域社会の紐帯」が保存運動の〈保存する根拠〉となっていたことを明らかにした。この鞆港保存運動における〈保存する根拠〉は,堀川の「場所性」とは保存対象自体の歴史的蓄積の点で異なるが,生活を下支えする地域社会の編成原理という点では同じ側面をもつ。さらに中筋の〈社会の記憶〉と鞆港保存運動における〈保存する根拠〉とは,記憶による社会の紐帯という点では重なる部分がある。

  • 平川 全機
    2005 年 11 巻 p. 160-173
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    市民参加の自然再生事業においては,人びとが長期間事業に向き合わざるをえないという特質上,時間の経過と公共性の問題を考える必要がある。というのは,討議過程においては意見の多様性を維持できても,管理の段階では,ある1つを採用することはそのプロセスにおいて同時に他にある可能性を排除しそれが累積されるからである。担い手は,時間軸の中で可能性の排除と公共性の確保というジレンマを引き受けざるをない。

    本稿では札幌市豊平川の堤防の法面で自然再生に取り組むホロヒラみどり会議・ホロヒラみどりづくりの会の6年間の活動を取り上げる。ホロヒラみどりづくりの会では自由参加の議論を経て決まったはずの合意を揺るがす事件が2004年に発生した。これを解決する際,合意の拘束性と活動の継続性に基づく可能性の排除と手続き主義的な公共性の確保との間に発生するジレンマの問題に直面した。担い手の活動を検討すると,理念からいえば厳密ではなかったり忘れたりという営みが含まれていた。それは,一時的にジレンマの中にあって可能性を保障し,担い手を成立させる営みでもあった。しかし,これは再びジレンマの中に回収されてしまう。最終的に選ばれた解決は,ジレンマを覆い隠すような権力性や知識であった。今後,こうしたジレンマを覆い隠していくものを解明していく必要がある。

  • 青木 聡子
    2005 年 11 巻 p. 174-187
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    ヴァッカースドルフ反対運動は,使用済み核燃料再処理施設建設計画を中止に追い込み,連邦政府に国内での再処理を断念させ,ドイツの脱原子力政策を導く契機となった代表的な原子力施設反対運動である。この運動の展開過程を現地調査に基づき内在的に把握してみると,当初は外部に対して閉鎖的だったローカル市民イニシアティヴと地元住民が,敷地占拠とその強制撤去を契機に,オートノミー(暴力的な若者)との乖離を克服し対外的な開放性を獲得し発展させていった点が注目される。国家権力との対峙を実感し,「理性的に社会にアピールする私たち」という集合的アイデンティティを否定され「国家権力から正当性を剥奪された私たち」という集合的アイデンティティを受け入れざるをえなくなった地元住民は,「自らの正当性をめぐる闘争」という新しい運動フレームを形成することで,国家権力による正当性の揺さぶりを克服しようとした。このような集合的アイデンティティと運動フレームの変容こそ,ローカル抗議運動に開放性を付与し,地域を越えた運動間のネットワーク形成を可能にした条件であった。日本の住民運動との対比のなかで,ドイツの原子力施設反対運動の特徴とされてきた「対外的な開放性」は,ドイツの市民イニシアティヴの本来的な性格ではなく,運動の展開過程で市民イニシアティヴや地元住民によって意識的に選択され獲得されたものである。

  • 松井 理恵
    2005 年 11 巻 p. 188-201
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    環境運動が地域づくりという文脈で展開されるという近年の傾向を受け,地域の環境を創造する際,環境運動を含めた諸主体が「ともに」かかわるべきである,という認識が一般化した。その結果,地域の環境をめぐる諸主体間の関係が,環境運動におけるひとつの課題となったのである。

    本稿が事例とするのは,韓国大邱市三徳洞でおこなわれている,住民主導の地域づくり,マウルづくりである。この運動を先導する市民運動家Kさんは,三徳洞の住民と「ともに」マウルづくりを展開しようとしたにもかかわらず,住民は彼に背を向けた。つまり,Kさんの目論見は外れたのである。この背景には,運動が必然的に内包するパターナリズムの問題が存在する。すなわち,環境運動を担うNGOと住民との力関係の露呈が,運動の失敗の原因であったのである。

    運動の限界に直面したKさんは,みずからがマウルづくりの表舞台から身を引くことによって,この限界を打開しようとした。つまり,運動のパターナリズムを乗り越えるために,パターナリズムを相対化したうえで戦略的に利用したのである。本稿では,Kさんのこの試みを「戦略的パターナリズム」と呼ぶ。話し合いのみでは乗り越えられないような,さまざまな問題を抱える地域社会で運動を展開せざるをえない数々の環境運動に対して,この「戦略的パターナリズム」は,ひとつの有効な視座を提供できるのではないだろうか。

  • 卯田 宗平
    2005 年 11 巻 p. 202-218
    発行日: 2005/10/25
    公開日: 2019/01/22
    ジャーナル フリー

    本研究は,琵琶湖での有害外来魚駆除事業を事例に,担い手である漁師たちの生業の現場から問いなおす作業を通じて,生業者がもつ論理を順応的に組み入れた自然再生のあり方を考察するものである。

    この有害外来魚駆除事業をめぐっては,生態学者や漁民が中心となる外来魚駆除派と釣り産業や釣り人を中心とした擁護派に分かれ,事業の賛否に関する議論が起こっている。しかし従来の議論では,駆除をめぐる二元論が先行し,駆除事業が生業の現場でいかに実践されているかがまったく問われていない。

    駆除事業の実施後,漁師たちは新たな外来魚漁を従来の生業暦の空白期間に取り入れることで対応している。この結果,彼らがこのままの対応を選択した場合,仮に駆除事業を継続しても外来魚漁が持続的に展開する可能性があることを指摘した。とくに担い手にとっての駆除事業は,駆除活動で収入が補填される一方,自らの利益を生み出す構造や「自然」への関わり方をめぐるせめぎ合いを発生させるものであった。これは,漁業という生業に従事する彼らの対応が「自然への関心」とともに「生計(経済)への関心」という二つの論理に裏打ちされているからである。

    これを踏まえ本稿では,生業者を組み入れた自然再生手法を議論する場合,彼らが併せ持つ論理への理解が重要であることを指摘した。その上で,この論理を自然再生のプロセスにいかに組み合わせ,あるいは使い分けていくのかという構築論的で順応的な手法を具体例に即しながら検討し,今後の自然再生のあり方について考察した。

研究ノート
資料調査報告
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