日本重症心身障害学会誌
Online ISSN : 2433-7307
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最新号
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第2報
巻頭言
  • 船戸 正久
    2024 年49 巻1 号 p. 1-2
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    第49回日本重症心身障害学会学術集会を、大阪が担当して開催できること心から光栄に思います。13年前に本学会の理事長であられた故有馬正高先生が大阪に来られて、ベルデさかいを訪問された際、児玉和夫先生と私の前で「一度大阪で学術集会を開催して欲しい」という希望を述べられたことを懐かしく思い起こします。 今回、日程を2024年11月8日(金)・9日(土)、会場を神戸国際会議場とさせていただきました。テーマを私の研究テーマである「重篤な障害児・者の方々のトータルケアを多職種協働でどのように大切に支援するのか?~QOL支援とQOD支援のベスト・プラクティスを目指して~」とさせていただきました。 長年働きました淀川キリスト教病院から2011年に大阪発達総合療育センターへ異動し、療育の世界に足を踏み入れて知ったのはLifeの新たな意味です。それは、Lifeには「いのち」だけでなく、「生活」、「人生」の意味があるという当然の事実です。そして療育の使命は、「トータルケア(生も死も含む)を多職種協働でどのように大切に支援するのか」ということでした。現在重症心身障害医療の分野でも高齢化・重症化の問題が大きくなっており、ライフ・ステージに応じた専門的な多職種協働支援の提供が益々重要になっています。 「重症心身障害児の父」といわれる小林提樹先生が、1975年刊行の「福祉の心」という本の中で、第一の医学「保健医学」、第二の医学「予防医学」、第三の医学「治療医学」、第四の医学「リハビリテーション医学」、そして第五の医学「生命医学」と名づけています。 その文章の中で、「すべては生きるための医学であるが、重症心身障害児・者や老人ばかりでなく、私たちもやがて生を終わって死を迎える運命にあるのに、なぜ生にだけ医学は執念を燃やすのであろうか。死があって生がある筈であるのに、なぜ死にだけ医学は目をつむっているのであろうか。生命科学も死を抜きにしては考えられない筈ではなかろうか。私は、そこで、死に焦点をおいた医学を提唱したい。それは、第五の医学とも称すべきものであり、しかも生命医学と命名したいところである」と述べています。 今回の学会では、多くの医療型障害児入所施設で行われている素晴らしいQOL支援だけではなく、愛情深いQOD支援にも光を当てたいと考えています。その手始めに日本重症心身障害福祉協会の協力を得て皆さま方の施設にアンケート調査をさせていただいた「医療型障害児入所施設におけるEnd of life careの現状について」を会長講演として報告させていただく予定です。 基調講演は、末光茂先生(旭川荘名誉理事長)に「重症心身障害児・者の命と心~次世代に繋ぐ医療・福祉の文化」、口分田政夫先生(びわこ学園医療福祉センター施設長、本学会理事長)に「重症心身障害医療の今後の展望」についてお願いし、重症心身障害医療の過去、現在、未来について講演していただく予定です。さらに招待講演として英国から馬場恵先生(Consultant Paediatric Palliative Medicine、英国)に来日していただき、がん以外の重症児・者の方々に対する「英国こどもホスピスの役割」についても講演していただく予定です。 近畿地区に所属する先生方にご協力いただき、プログラム委員会を編成しました。その中で多くの教育講演、シンポジウム、パネルディスカッションの魅力的な企画をいただきました。すべてを採用することはできませんでしたが、それぞれの委員がアイデアを出し合って下さり、具体的な人選やプログラムに繋がりました。今まで3回のプログラム委員会をZoomで開催させていただきました。ご協力いただいたプログラム委員の方々に心から感謝いたします。 今回は原則、対面開催という形になりますが、神戸国際会議場をすべて借り切った形の開催です。多くの方々の演題提出(演題登録期間2024年5月1日(水)~6月19日(水))と学術集会参加(事前登録期間2024年7月1日(月)~10月31日(木))を心から期待しています(目標登録数1500名)。また久しぶりの会員懇親会も感染対策に注意しつつ開催予定です(上限:約300名)。 是非ご参加いただき親交を深めていただければ幸いです。 最終日のプログラムですが皆さまのご了解がいただけましたら、第1会場での市民公開講座前の2つのプログラム「ファッションショー」「人工呼吸器ユーザーの声を聞かして」も、学術集会長の責任で一般公開にしたいと考えています。ご理解・ご協力宜しくお願いします。 それでは会場は神戸の地ですが、皆さまのご来阪を心からお待ちしています。 Welcome to Osaka and Kobe! Love For Children and Persons with SMID!
特集 第48回日本重症心身障害学会学術集会
会長講演
  • 石井 光子
    2024 年49 巻1 号 p. 3-8
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    重症心身障害児の多くが施設で生活し医療を受けていた時代から、入所施設は重症心身障害医療を学ぶ上での重要なフィールドであった。そして在宅医療が主流となった現在も、「支える医療」「命と人生を輝かせる医療」という言葉は、重症心身障害医療に携わるすべての人の心の拠り所である。近年「医療的ケア児」という新たな概念が導入され、家族支援に目が向けられるようになったが、医療的ケア児の多くは重症心身障害もあり、本人を中心にした支援の基本に変わりはない。相互連鎖する様々な重症心身障害の合併症に対しては、支えるだけではなく「合併症予防に挑む医療」が昨今様々取り入れられ、今後の発展が期待される。地域共生社会における重症心身障害児者施設の役割については、地域特性を考慮しながら今一度見つめ直し、あらたな機能を模索していく必要がある。
特別講演1
教育講演1
  • 中村 直行
    2024 年49 巻1 号 p. 15-20
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    小児科の先生方に、まず再確認していただきたいことは、①神経筋性側弯症は終生進行性であること(成長期が終了しても止まらない)、そして、②体幹装具(コルセット)では神経筋性側弯症の脊柱マネージメントはできない、という二つの真実である。 我々からすると当たり前のことがなかなか知られていない、と痛感することがよくある。そして、脊椎外科医を恐れずに、神経筋性側弯症の心得のある脊椎外科医に早めに相談いただきたい。時間はどう頑張っても巻き戻せない。そして、いざ手術とならば、小児科の先生方の協力が必須となる。是非、周術期は整形外科医にお預けとせず、一緒に戦ってほしいと思う。確かに合併症率は低いとは言えない。だが、そういったリスクを考え併せても術後に得られる安定した未来は十分価値があるものと考える。
教育講演2
  • 須貝 研司
    2024 年49 巻1 号 p. 21-30
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.てんかんの薬物治療の基本方針 その発作に最も適合し、副作用が少ない薬を、発作が起こりやすい時間に最も高濃度になるように使用することであり、そのためにはどんな発作症状がいつ起こるか、という情報が最も重要である。重症心身障害児・者(以下、重症児・者)施設では申し送りや看護・生活支援員の記録より得られる。これにより、発作症状に対応した薬剤を選択し、発作の好発時間に薬剤が高濃度になるように半減期、ピーク時間を考慮して投与方法・時間を決め、さらに副作用、不利益がある薬剤は避けるか変更する。 抗てんかん発作薬の略号を表1に、てんかんの薬物治療のまとめを表2に、治療に必要な薬物動態と注意を表3に示す。 Ⅱ.重症児・者のてんかん治療の特徴 ①発作症状:動きを伴う発作(強直、強直間代、間代発作、ミオクロニー、脱力転倒発作)は気づかれるが、動きを伴わない発作(焦点性意識減損発作、欠神発作)はわかりにくく、動きも意識変容も伴わない発作(感覚発作、自律神経発作)はわからない。 ②てんかん発作と紛らわしい突発的なエピソードが多いが、発作時ビデオ脳波など検査機器がない中で、症状からてんかん発作か否かを判断せざるをえない。 ③すでに治療されていて、初めての薬剤選択ではないので、まず使用されている抗てんかん発作薬が発作症状、濃度の点で妥当か否か検討する。 ④複数の発作型を持ち難治が多いので抗てんかん発作薬の多剤併用になることが多いため、抗てんかん発作薬同士の相互作用を活用し、合理的多剤併用を行う。 ⑤合併症、併存症が多いため種々の向精神薬、一般薬を服用していることが多いので、向精神薬、一般薬との相互作用に注意する。 ⑥施設では常に目の前に患者がいるので抗てんかん発作薬の効果がよくわかり、悪化すればすぐ戻せ、無効ならすぐ変更でき、また副作用にすぐ対応できるため副作用を怖がらずに治療できるという大きな長所がある。 ⑦看護記録等で記載された発作症状は発見時のものであり、開始時の症状ではないことが多い。ボーッとして一点を見つめる(焦点性意識減損発作)→手がピクピク(間代発作)→全身がくがく(強直間代発作)、びくん(スパズム)→全身を突っ張って強直発作、など強直発作がスパズムに続いて生じ、全般性強直間代発作が焦点性意識減損発作、焦点性間代発作などから全般化して生じることに注意する。 治療は起始時の症状がターゲットなので、記録されている症状への治療で効果がない場合に、発作のどの時点を示しているのかを検討する。 Ⅲ.重症児・者のてんかん発作と紛らわしい突発的事象への対応 重症児・者ではてんかんとまぎらわしい事象が多数あるが(表4)、動画をスマホ、タブレットなどで記録していただくと大変有用である。両者の違いは以下である。 1.てんかん発作 同じ動きを反復し、刺激をしても動きや意識が変化しない、ボーッとしているときに対物瞬目(目の前に急に指や手を突き出すと目を閉じる)がない、眼球上転時に額を軽くたたいても瞬目しない。 2.非てんかん性の突発的事象 以下の場合に疑う。 ①脳波がない場合   ・動きが同じでない ・刺激したり注意をそらすと動きや意識が変化する ・意識減損・動作停止のように見えて対物瞬目がある ・その発作に適切と思われる薬を十分使用しても発作症状が減らない場合 ②脳波検査が可能な場合 ・発作間欠時の睡眠脳波でも発作波がない ・発作症状がその脳波異常(部位や形)で説明できない Ⅳ.治療開始前の評価 重症児・者のてんかんは初めて治療を開始することはなく、すでに治療されているので、その評価から始まる(表5)。その薬が発作症状に効いているのか否かをまず判断する。 脳波の判読は、厳密ではなくても発作波が焦点性か全般性かがわかればよい。図を描くとわかりやすい(図1 A~D)。 焦点性:一部分か、そこから周辺に広がる、時に全体に広がる(A) 離れた場所で2か所以上だが一側性か、両側性だが一側優位で全体に広がらない(B) 全般性:2か所以上で、両側に同時に出現し、頻回に全体に広がる(C) 主に全体に出て、時に一部分にも出現(D) Ⅴ.重症児・者のてんかん治療:薬剤選択 1.発作症状の診断 まぎらわしい発作性事象は脳波、症状を検討する。 2.現在使用薬の評価 発作症状に対して不適当ならば血中濃度にかかわらず中止、変更する。発作症状に妥当な場合は、血中濃度が低いか中程度であれば増量し、高濃度であれば無効と判断し中止、変更する。 3.発作症状で薬剤選択(表6) 類似の発作の場合 ①脳波が可能ならその所見をもとに全般発作か焦点性発作かを鑑別して選択する(図1)。 ②脳波がない場合、欠神発作およびミオクロニー発作に対する禁忌(CBZ、GBP、PHT)を避けるため、まず全般発作の治療を行い、無効なら焦点性発作の治療とする。明らかに焦点性発作と判断した場合ははじめから焦点性発作の薬剤を選択する。 ・ボーッとして動作停止: 欠神発作としてVPA→焦点性意識減損発作としてCBZ、LCM ・目や口、上下肢がピクピク:ミオクロニー発作としてVPA、CLB、CZP→間代発作としてCBZ、LCM ・一瞬ビクン、ピクン、カクン:ミオクロニー 発作としてVPA、CZP、CLB→スパズムとしてLTG、PER、ZNS、KBr、PBを追加 ・全身性強直発作、強直間代発作:全般発作としてVPA→焦点起始両側強直間代発作として LTG、PER、ZNS、KBr 4.発作の好発時間に血中濃度が高くなるように、ピーク時間(Tmax)、半減期(T1/2)、眠気の有無を考慮して薬剤選択と投与時間を決める(表7、表8)。 ・寝る前:眠気がありピーク時間が短い薬を夕食後または寝る前に ・寝る前~朝起きて1時間前後:眠気がありピーク時間が短いが半減期が長い薬を寝る前か夕食後に ・午前中~夕方:眠気が少ない薬で日中にピークになる薬を朝食後に、眠気があるが半減期が長い薬を朝:夕を(1:2)、(1:3)などで ・夕方~寝るまで:眠気が少ない薬を朝食後に多く、可能なら昼食後に眠気が少ない薬 5.相互作用を考慮した薬剤選択を行う(次項Ⅵ-3、表9) 6.重症児・者にとって不利益がありうる薬剤はなるべく避けるか変更し、 使用時は副作用に注意する(表10)。 Ⅵ.薬の使い方 1.副作用を防ぐため、開始量、増量幅に注意しながら十分量を使用して効果を判定する(表11)。少ないままで無効とされている場合が少なくない。 2.発作の好発時間に血中濃度が高くなるように ピーク時間(Tmax)と半減期(T1/2)を考慮して薬剤選択と投与方法・時間を決める。均等分2、分3である必要はない。日中の発作であればLTGを朝に多く、入眠時から起床時までの発作にはPER、LTG、ZNSなどを夜に多くするなどの偏服処方を考える(Ⅴ-4)。 3.相互作用を活用(表9、次項Ⅶ) ・相互作用で互いに血中濃度を下げ合う組み合わせでは、その発作症状に効果が少ないと思われる薬剤を中止。 ・血中濃度を上げる相互作用の薬剤を増量・追加。  VPAはLTG、PB、RUF濃度を、CLBはVPA濃度を上げる。 ・血中濃度を下げる相互作用の薬剤は減量・中止。 PB、CBZ、PHT、PRMは減量・中止すればLTG、PER、TPM、RUF、STPは濃度上昇 4.多剤併用時の薬剤の変更 ①発作症状から不適当と思われる薬剤、②発作症状には妥当だが量が多い、血中濃度が高いにもかかわらず効果が乏しい薬剤は、中止、変更する。 ③発作症状には妥当だが、量が少ない、血中濃度が低い薬剤は、まず増量して効果を見る。 5.無効な薬、不利益がある薬の変更 その発作症状に適切と思われる薬剤(表6)に変更するが、可能なら作用機序を考慮する。 6.開始、中止時に注意すべき薬剤がある(表12) 7.重症児・者にとって不利益がある薬剤 なるべく避けるか変更し、使用する場合は副作用に注意する(表10)。 Ⅶ.相互作用の注意と活用 複数の発作型を持ち難治が多いため抗てんかん発作薬の多剤併用が多いので、抗てんかん発作薬同士の相互作用に注意すると同時に活用する(表9)。 PHT、PB、CBZ、PRMは他の多くの抗てんかん発作薬を下げ、また骨軟化症(ALP上昇、無機リン低下)をもたらすが、減量・中止により他の抗てんかん発作薬の濃度が上がり、骨軟化症が改善する。 合併症、併存症が多いため向精神薬、一般薬の服用が多いが、カルバペネム系静注抗生剤はグルクロン酸抱合を亢進するので、グルクロン酸縫合で代謝されるVPA濃度を著明に下げ、LTG、PHT濃度も低下するため、発作が増える。 クラリスロマイシン、エリスロマイシン、シメチジンはCYP3A4を阻害するため、CYP3A4で代謝されるCBZ、PER、CLB、CZP、ZNS、 STP濃度を上げ、フルボキサミンはCYP3A4とCYP2C19 を阻害するため、CLB とその代謝産物DMCLBやSTP濃度を上げるので発作は減少するが副作用をもたらす恐れがある。 よく使うメチルフェニデート、リスペリドンなどの向精神薬、オメプラゾール、エメプラゾールなどの抗潰瘍薬では抗てんかん発作薬の血中濃度は上がるが、下がることはない。  (以降はPDFを参照ください)
教育講演3
  • 榎勢 道彦
    2024 年49 巻1 号 p. 31-38
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.コロナ禍からみえてきたこと -呼吸リハビリテーションのめざすもの- コロナ禍という特異な状況において、感染症予防対策の強化によって気道感染症の発症および反復が減少した。慢性呼吸障害のある重症心身障害児者(以下、重症児者)においては、呼吸機能の障害が重いほど気道感染症を発症しやすく、また、感染症予防対策の効果として、呼吸機能の障害が重いほど気道感染症の発症および反復が減少した。一方で、重症児者とその家族の活動と参加は大きく制限された。 このことを振り返るとともに、重症児者の慢性呼吸障害に対する呼吸リハビリテーションのめざすものについてあらためて考えると、「慢性呼吸障害のある重症児者に対して、下気道感染や無気肺等の急性疾患および呼吸機能低下を可能な限り予防することを念頭において、呼吸機能の発達促進または維持、回復のための介入を通して、ご家族とのパートナーシップに基づいた個別化された呼吸リハビリテーションの計画と実施を生涯にわたり継続して支援し、家庭、施設、保育所、学校、通所事業所等における活動と参加の継続(自立)の達成を目的とする」と定義できるのではないだろうか。 Ⅱ.慢性呼吸障害の複雑性と個別性 1.重症児者のための生活機能評価表 Life Inventory to Functional Evaluation(以下、LIFE)1) LIFEは、国際生活機能分類(ICF)に基づいて重症児者の「生命」・「暮らし」・「生きがい」に重要と考えられた生活機能を包括的に評価しようとするものである。また、重症児者の生活機能を器具や身体的支援、心情的支援、医療的ケア、その他の環境支援の中で達成される機能を含めて評価しようとするものである。 「PartⅠ:生命維持機能」、「PartⅡ:姿勢と運動」、「PartⅢ:日常生活場面における機能的活動」、「PartⅣ:生産的活動場面への参加」の4領域、各領域16項目の評価で構成されている。例えば、「PartⅠ:生命維持機能」では呼吸器感染および発熱の既往、呼吸機能、摂食・嚥下機能、消化・排泄機能、睡眠・意識機能に関する16項目から構成されている。各項目において障害の程度で順序づけた0点~3点の4段階で示すことができ(表1)、各領域で得られた素点合計は%スコア(素点合計/満点×100)に要約される。 2.慢性呼吸障害の複雑性 重症児者の主な随伴症状と相互関係2)について、LIFEの感染回数、呼吸機能、摂食嚥下機能、姿勢保持機能の評価項目で得られた各スコアについて相関係数を用いて検証した(図1)。 重症児者の慢性呼吸障害は、摂食・嚥下機能障害、姿勢保持機能障害などと相互に複雑に関連しあうダイナミックシステムの中で現れ、下気道感染の予防においては、呼吸機能障害、摂食嚥下障害、そして姿勢保持機能障害の個々の病態およびその関連性を明確にし、機能の改善・維持に焦点をあてた呼吸リハビリテーションを行う必要があることが確認できた。 3.慢性呼吸障害の個別性 図2は、重症児9名のLIFEのPartⅠ:生命維持機能の経年的変化を%スコアで示したものである。グラフを俯瞰的にみると、個別性が高いことが確認できる。また、9名のLIFEの%スコアとそれぞれの実際の医療的ケアの内容を照らし合わせてみると、おおむね100点~85点が医療的ケアなし、85点~70点が吸引のみ、70点~60点が胃瘻のみ、60点~30点では胃瘻と気管切開を行っており、酸素吸入や人工呼吸器の必要性については個別差があった。そして、30点以下になると継続して外に出ること、通園に通うことが難しくなる実態があった。 事例Cの経過においては、2歳6か月から5歳7か月の3年間は、気管支炎が2回あったものの、普段の生活で喘鳴は認められず、腹臥位や吸引等の呼吸ケアは必要なかったが、6歳4か月時には毎日ではないが喘鳴が認められるようになってきた。7歳2か月時には喘鳴が毎日みられるようになり、腹臥位と吸引による呼吸ケアを実施するようになった。この経過の中で6歳8か月時にびまん性誤嚥性細気管支炎(DAB)と診断され、水分や唾液の慢性的な不顕性誤嚥が喘鳴の主な要因となっていた。 これに対し、生活全般における呼吸ケア(姿勢管理)の計画を母親と協働して立案した(図3)。24時間の時系列に沿って「活動」、「場所」、「姿勢」、「関わる人」について母親に生活時間表を作成してもらった。これにより睡眠、食事、水分摂取、通学バスなどの活動時に気道クリアランスが維持されにくい状況になることを母親と確認し、その活動に応じて、腹臥位や前傾姿勢を中心とした呼吸ケア(姿勢管理)を行う計画を協働で立案した。個別理学療法では食事姿勢、食物形態、介助方法の検討を行った。その結果、胸部CTで認められていた肺野のすりガラス状の淡い陰性が改善しているのが確認できた。さらに7歳9か月時に胃瘻造設を家族が意思決定し、8歳6か月になるまでに1回気管支炎になったものの、9歳4か月の現在まで、日常生活での呼吸ケアを継続し、夕飯だけは母親の介助で食べることができ、下気道感染を発症することなく元気に学校に通えている。 事例Fの経過においては、4歳2か月時には、下気道感染が4か月間で2回あり、普段の生活において日中のSpO2値が90%未満になることがしばしばあり、痰が貯留していても咳嗽反射はみられず吸引も頻回に行っていた。それでも気道クリアランスが十分保てず、努力性呼吸となりやすく、それに伴う全身的な筋緊張の亢進と胸郭発達の未成熟のために、介助による寝返り等の姿勢変換に対しても、全身的に筋緊張を亢進させ、呼吸運動をより制限していた。座位や腹臥位の姿勢でもなかなかリラクゼーションが得られにくい状況にあった。 これに対し、胸郭呼吸運動の発達促進を通して、頭頸部のアライメントを改善し、上部胸郭および下部胸郭の呼吸運動を促進し、換気改善に伴う気道クリアランスの改善、酸素化の改善を図った。換気が改善されてくるとともにリラクゼーションが得られやすくなり、腹臥位や座位への姿勢変換の適応も向上してきた。この過程を通して側臥位、腹臥位、座位のポジショニングが日常的に定着し、呼吸機能が安定してきた。その結果、下気道感染と発熱回数が減少し、日常的にSpO2が安定し、気道クリアランスも改善した。5歳0か月から6歳4か月にかけては、発熱と下気道感染が増加したが、特別支援学校への就学後は、家庭や学校でのポジショニングとMI-Eの使用の定着、母親と学校の先生との協働での呼吸ケアによって、発熱や下気道感染はなく、呼吸状態も安定して学校への参加の継続が達成されている。 Ⅲ.慢性呼吸障害に対する理学療法のいとぐち 1.発達学的視点3) 子どもの胸郭は大人の胸郭をただ小さくしたものではなく、新生児の胸郭は大人に比べて、三角形で前後径が厚く、上部胸郭は狭い、肋骨は水平位で、肋骨間の間隔は狭い、肋間筋は胸郭を運動させるために効率のよい筋の長さと張力になっていない、横隔膜は高位化し、扁平なため、呼吸は浅く速い特徴がある(図4)。子どもの胸郭呼吸運動が、成人の胸郭呼吸運動へと発達していく過程では、首がすわる、寝返る、這う、座るといった運動発達に伴って呼吸運動も発達し、大人の胸郭の構造と機能を備えるようになる(図5)。これらの知識は理学療法を行っていくためのいとぐちとなる。 2.生体力学的視点 1)“Soda pop can”モデル4)(図6) 呼吸と姿勢制御の相互作用をよく説明した“Soda pop can”モデルを理解しておくことは理学療法の実践に有用である。栓の空いていない炭酸飲料缶を握りつぶそうとしても、なかなかつぶれないが、栓が空いて中身が出てしまえば、缶は容易に握りつぶすことができる。胸郭の特徴も、これに共通した特徴があり、胸郭は構造的に弱いが、機能的に強い特徴がある。吸気筋と声帯の働きにより、胸腔内の陽圧を得ることで骨格を動的にサポートし、胸郭が維持される。横隔膜は胸腔と腹腔の2つのチャンバーの圧を調整して、呼吸と姿勢安定性の要求を同時に満たす役割を持つ。例えば、横隔膜が収縮し、胸腔内が陰圧となると肺に空気が入り、同時に、肋間筋の収縮が活性化されて、胸郭が内側に引き込まれるのを防ぐ(吸気の増加)、また同時に腹横筋の収縮が活性化され、腹腔内の陽圧を発生させる(姿勢安定性)。 重症心身障害においては、重度な運動発達障害による胸郭呼吸運動の未発達や、重力の影響による胸郭変形に加え、上気道狭窄や筋緊張の亢進、腹部臓器などの影響で、吸気が困難となり、陽圧サポートが減少することが“Soda pop can”システムの破綻を来す要因となる。また、気管切開により陽圧サポートが減少すると、発声困難、呼気流速の減少、便秘、そして上肢で体を支えたり、物を持ち上げたりする際の上部体幹-肩甲帯の安定化が困難になる。 (以降はPDFを参照ください)
教育講演4
  • 余谷 暢之
    2024 年49 巻1 号 p. 39-42
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 医療における方針決定において、治癒が目指せる状況にあれば医療的な正しさが優先される。しかし治癒が目指せない状況においては、医療的な正しさが必ずしも正しいとは限らなくなる。本人、家族が大切にしたいことがあれば、医学的には次善の策であったとしてもその方がよいということもありうるのである。つまり治癒が望めない状況においては、医学的最善が本人の最善とは限らない、また医学的に無益と考えられることが本人にとって無益とは限らない状況も起こりうる。 こういった状況において、治療方針を決めていくためには対話が重要になる。医療者は医療の専門家として医学的状況を伝える。患者家族は本人の専門家としてどのように人生に向き合い、何を大切に考えているのかなど本人の想いを伝える。この対話を重ねていくことが意思決定につながる基礎となる。 Ⅱ.治癒が望めない状況における意思決定 治癒が望めない状況において医療者は、最期をどのように過ごすのかということが重要な関心事項になりやすい。 米国では、「患者・医師間のコミュニケーションが増え、予後や患者の意向についての理解が進めば、より早期から治療の意思決定がなされ、死亡前に望まない状態で過ごす時間が減るのではないか」との仮説の元、SUPPORT研究と呼ばれる大規模な介入研究が行われた1)。これは9105人の生命を脅かす疾患に罹患した成人患者を対象に、熟練した看護師が病状理解を確かめたうえで事前指示書を作成し、情報を医師に伝えるという介入を行った。クラスターランダム試験で行われたこの研究結果は、介入群と非介入群でICUの利用率、患者家族の満足度などいずれも差のないnegative studyであった。つまり、事前指示書を作成しても、患者家族の満足度につながらないということが示されたのである。研究者たちは、事前指示書が有効でなかった理由として、代理決定者が、患者がなぜそのような選択をしたのか、その理由や背景、価値観がわからないと、その時点での選択が今も同じかどうかわからないためできるだけのことをしてほしいと答えてしまうのではないかと推定した。つまり書面だけでは十分に患者の意向を反映することができないことがこの研究から明らかになった。 こういった研究結果を受けて、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)の重要性が謳われるようになった。 ACPについては国際的なデルファイ研究から以下の2つの定義が示されている。 「ACPは、年齢や病気を問わず、成人患者が自身の価値観、生活の目標、今後の治療に対する意向を理解・共有することを支援するプロセスである。ACPの目的は、重篤な病気や慢性疾患の中で、人々が自身の価値観、目標、意向に沿った治療を受けられるように支援することである。多くの人々にとって、このプロセスは本人が自分で意思決定できなくなった場合に意思決定してくれる信頼できる人(等)を選ぶことが含まれる」。 (Sudore RL, st al.J Pain Symptom Manage 53:821−32.2017.) 「ACPとは、意思決定能力を有する個人が、自分の価値観を確認し、重篤な疾患の意味や転帰について十分に考え、今後の治療やケアについての目標や意向を明確にし、これらを家族や医療者と話し合うことができるようにすることである。ACPにおいては、個人の身体・心理・社会・スピリチュアルな面を通じた気がかりを話し合うことも重要になる。万が一自分で意思決定できない時が来ても自身の意向が尊重されるためには、あらかじめ自分の代理人を決定し、意向を記載し、定期的に振り替えることが推奨される」。 (Rietjens JAC, et al.Lancet Oncol 18:e543−51.2017.) こういった定義から浮かび上がるACPを行うことのポイントの一つとして、患者の意向を尊重したケアが、患者が意思決定できなくなった段階でも尊重されるということが挙げられる。しかし、終末期における治療の選択はそれほど単純ではなく、年齢、身体認知機能、文化、家族の希望、臨床医のアドバイス、介護者の負担感(例:身の回りの世話をする必要、仕事を休む時間、精神的負担、医療費の自己負担)などに影響を受け、これらは時間とともに変化するため、こういった流動的なものである2)。ACPは、医療従事者とのコミュニケーション、信頼、病気の受容など、患者家族のwell-beingにとって極めて重要な活動の基礎となるものであり、高度急性期環境で死亡することを回避するための手段ではないことを知っておく必要があるだろう。 我が国においても多職種の専門家によるデルファイ研究でACPについて以下のような定義が示されている。 「アドバンス・ケア・プランニングとは、必要に応じて信頼関係のある医療・ケアチーム等の支援を受けながら、本人が現在の健康状態や今後の生き方、さらには今後受けたい医療・ケアについて考え(将来の心づもりをして)、家族等と話し合うことです。 特に将来の心づもりについて言葉にすることが困難になりつつある人、言葉にすることを躊躇する人、話し合う家族等がいない人に対して、医療・ケアチーム等はその人に適した支援を行い、本人の価値観を最大限くみ取るための対話を重ねていく必要があります。 本人が自分で意思決定することが困難になったときに、将来の心づもりについてこれまで本人が表明してきた内容にもとづいて、家族等と医療・ケアチーム等とが話し合いを行い、本人の価値観を尊重し、本人の意思を反映させた医療・ケアを実現することを目的とします」。 (Miyashita J, et al.J Pain Symptom Manage 64:602−13.2022.) 日本の定義では、今後受けたい医療・ケアだけでなく、現在の健康状態や今後の生き方まで広げた話し合いとしており、ACPは人生の最終段階に限ったことではないということがそこに含まれている。また本人と家族が中心の話し合いに主眼を置いているところも大切なポイントになっており、自己決定を中心とする欧米の定義とは異なる日本の文化的特徴を反映した定義になっている。 このように、ACPについては様々な議論が行われているところであるが、共通していることは、ACPは治療方針を決定することではなく、ACPのプロセスを通じて価値観を患者・家族・医療者間で共有することにあり、その共有した価値観を踏まえて、必要な時の意思決定や緩和ケアの実践につなげていくことが重要だと私は考えている。 Ⅲ.重症心身障害児者の医療における話し合い 重症心身障害児者を含む重症な病態を持つ子ども(以下、重症児)においては、その疾患の軌跡(図1)から予後が見据えにくく、そのため普段からの継続的な話し合いが重要になる。Orkinらは、こういった話し合いにおいては、「子どもの疾患の軌跡の各段階における意思決定について、両親の多様な好みを理解し、支援することを試みることによって、Shared Decision Makingを実践すべきであり、そのためには、個々の家族や患者に対応する際に、柔軟で個別的に対応することが必要である」としている3)のような点からは、普段の会話の中でも子どもと家族について知ることを意識することが重要になる。以下のような会話は、子どもと家族を知る会話の例として知っておくとよいだろう。 ①本人についての問い ・〇〇ちゃんはどのようなお子さんですか? ・お子さんの人生で大切なことは何だと思いますか? ②生活についての問い ・〇〇ちゃんにとって良い一日とはどのようなものでしょうか? ・〇〇ちゃんの生活の質のために何が重要だと思いますか? ・〇〇ちゃんのために達成したいことはありますか? ③両親についての問い ・〇〇ちゃんにとってあなたはどのような親ですか? ・〇〇ちゃんにとって、あなたはどのような親でありたいですか? ④病気について ・〇〇ちゃんの病気や病状は、親であるあなたにとってどのような意味がありますか? ・家族としてどのような意味がありますか? ・お子さんの病気や症状はどのように変化していくと思いますか?  ・そのことは〇〇ちゃんとあなたの家族にとってどのような意味がありますか? このような対話を通じて子どもと家族について知ることが話し合いの基盤になるといえるのではないだろうか。またこういった話し合いをするときは、医療者の文脈に合わせるのではなく、患者・家族の文脈に合わせて聞いていくとよい。その子と家族のものがたりはそれぞれ異なる。これまでの歩みを紐解きながら話を聞いていくと、子どもと家族が大切にしてきたことや、どうしてそのように考えるのかを理解することにつながる場合がある。 一方で、病状が悪化し差し迫った状態にある場合においては、医療者と家族との間により緊張感が高まる。家族は今をどのように快適に過ごすかに注目して考え、医療者はどのように最期を過ごすのかに注目して考えることが多いとの報告もある3)。 このように、家族と医療者の認識や意向が異なる場合に、まずは捉えている事実が同じかどうかを確認するとよい。実際家族に以下のように尋ねて病状認識を確認してみるとよいだろう。 (以降はPDFを参照ください)
教育講演5
  • 筒井 真優美
    2024 年49 巻1 号 p. 43-46
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    日本の新生児死亡率は世界の中でも低く、今まで救われなかった命が救われるようになった。一方、重い障害を持ちながら生まれる子ども「重症心身障害児・者(以下、重症児・者)」も増加している。重症児・者は医療的ケアが必要であるが、成長発達を促すことも重要である。ケア提供者は、重症児・者の生命の危機を予測、予防しながら、成長発達を家族とともに促すことが必要になる。重症児・者に携わる看護師は充実感も味わえる一方で、心身の負担が多く、離職率が他の看護領域より高い。 重症児・者のケアに関わる看護師が、看護を続けるためにはどうしたらよいのかを一緒に考えてみたい。
シンポジウム1:重症心身障害児者の移行期医療
  • 中村 知夫
    2024 年49 巻1 号 p. 47-50
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    少子高齢化が進む中で、日本では、多くのChildren with special health care needs (CSHCN)や、医療的ケア児がいることが明らかになっている。これらの子どもたちの多くが障害を抱えながら成人期を迎え、小児期発症の疾患を持った障害者に対する支援の新たな枠組みの構築が急務となっている。時代とともに、障害を持った子どもや成人そしてその保護者の思いが、最後まで地域の一員として生活したいという思いを実現する社会の構築に向かっている。小児期に発症した疾患を持つ患者が、その後の人生をどのように過ごしてゆけるかを自ら考え、その考えを実現できることと、小児期に介護の主体が保護者であったものから、社会に移行することを目的とした成人移行の実現のためにはまだまだ解決すべき問題は多い。重症心身障害児者(以下、重症児者)の成人移行に関しては、重症児者施設は児者一貫支援の制度の中で、長年非常に重要な役目を持っており、その価値は今後も大切にされていくべきと考える。一方で、重症児者施設でも、多くの入所者が高齢となり、悪性疾患などの成人期の疾患の治療を必要としたり、保護者が存命のうちにAdvanced Care Plan(ACP)についても考えることを必要としたりする入所者が増えている現実がある。また、多くの人がインクルーシブな社会の実現を願う中で、最後まで地域で暮らしたいと考える障害者や家族の思いを実現することも求められており、そのためには、地域の中に、障害者が成人期の疾患となった場合も救急時対応も含め適正な医療を受けるための支援ネットワークが必要であり、重症児者施設にも新たな役割が求められている。
  • 平元 東
    2024 年49 巻1 号 p. 51-56
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    医療型障害児入所施設は、重症心身障害児(者)施設と言われたころから現在まで「児者一貫」体制で運営してきているが、入所者の約9割はすでに成人となってきた。悪性腫瘍の増加など高齢化に伴う疾患に対応するには、重症児者を理解し、重症児者診療・療育のできる内科医師等の裾野を広げることであろう。現在でも施設に勤務する医師の多くは小児科医であるが、たとえ自分の専門が何科であろうと、重症児者の身体的・精神的病態を理解しようと常に勉強と努力をし、寄り添い、人生を支える医療を提供する主治医としての「覚悟」が、トランジションという時期を乗り越えて、いくつになろうとも重症児者にとって最良で最もふさわしい医療になると私は信じている。
  • −どのみち成人になった医療的ケア児や重症心身障害児を診ることになるなら早期から診る方が有利じゃん−
    市橋 亮一
    2024 年49 巻1 号 p. 57-58
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 医療法人かがやきは、かがやきキャンプ(2021年〜)7床の有床診療所+外来リハビリ、重症心身障害児・医療的ケア児のための医療型短期入所施設建築と、プール内でデジタルデバイスを使った新規リハビリテーションの実践を行っている。成人在宅医として小児在宅医療を担当する医師として、小児の移行問題をどのように考え、将来的にどのようになるのが良いのかについて私見を述べた。 Ⅱ.成人移行の必要性の有無とその理由 成人移行が話題となって久しいが、移行そのものを「目的化」することなく、患者ごとに最適の対応を個別に考えることが必要と考える。小児科医そのものが少ないのであれば、非小児科医でも可能なワクチンなどを総合診療医に移行しながら、小児特有の疾患を担当できる小児科医が重要と考える。完全な移行ではなく、疾患の特殊性を理解する小児科医のコンサルテーションを行うようにしていくことが有用である。現在は「専門科医」が多いことで、制度の間に入る患者層への対応が弱くなる。一般的にはそこは総合診療医が対応することが望ましいのであるが日本での制度整備の遅れのためにそこへの対応が難しくなっているのがこの成人移行問題の解決をより困難にしている。在宅においては、総合診療医的な対応をするのは在宅医であり、在宅医は小児在宅で必要とされるような医療的デバイスの取り扱いが慣れていることなどから大都市以外での担当は成人在宅医が担当することも検討するべきである。 Ⅲ.成人移行の目的とあるべき姿 子どもにとって、家族にとって、関わるすべての人に対しての「しあわせ」の実現が目標となる。子ども本人に対しては、「本人が、自分が好き」であること、「親や周囲に愛されていると感じる」ように地域と馴染んでいけることが目標となる。また地域に対して・自分たちに対しては、地域がその子をきっかけに変わっていくこと(社会的ハードルが下がること)や学校が開かれていくこと、公共施設がフレンドリーになることが重要である。またすべての子どもがその人なりの居場所や役割を実感できるような社会づくりが必要となっている。 Ⅳ.成人移行を阻むものは何か 成人在宅医からすれば、人生の始まりから関わったほうが、最初から家族まるごとみることにより、生活・学校・兄弟関係などへ影響でき、一緒に本人・家族と成長できることが魅力的である。さまざまな問題について0-16歳の枠組みで考えることに固執するのではなく、0-100歳で問題を解決することを目指すことが新しい解決策を提案できるようになるのではないかと思っている。 阻んでいる原因としては成人在宅医の準備が不十分であることであるが、それに必要なプログラムがこれまで提供されてこなかったこと、また小児科医が、研修医、総合診療医、在宅医向けに積極的な教育を行ってこなかったこともある。それ以外にも小児科医が言わないほうがいい(んじゃないかと思う)言葉としては、「小児と成人はちがう…と主張すること」である。実際小児患者を担当するようになって、小児科医が言う一般的な発言が少し正しくないのではないかと思うようになった。例えば、「お母さんへの対応が大変」は「成人の他の患者さんの家族と変わらない、むしろ協力的でありがたい」というようにである。 Ⅴ.理想とする成人移行を実現するには、何をすべきか 成人在宅医として小児を担当する中で、以下の6つの新しいパラダイムが必要になってきているのではないかと考えている。新しい見方で、さまざまな社会資源を見直すことが有益と考える。 1.「親のレスパイト施設が必要」と言われてきたが、「親と子のそれぞれの幸せを考えた施設が大切」である。子にとって行きたくない施設は敬遠され結局レスパイトとしての機能を果たすことができない。 2.「医療依存度の高い人を受け入れる施設がほしいという要望が多い」と言われてきたが、足りていないものは、「重症心身障害児を知る人材であり、人材育成の場が必要」ということであること。 3.「生活的な福祉事業は社会福祉法人かNPO法人が主体」というコンセプトであったが、「重症児対応は社福やNPO法人のみでは限界。医療法人も参加・協力(特に地方都市)」と考える。 4.「小児は小児科」であると言われていたが、「訪問診療ノウハウと共に生活者視点を持った成人在宅医療者と共に見る」ことが望ましい。 5.「小児科から成人科への移行が難しい」ということがあるが、「慢性疾患を抱える小児については、当初から小児科病院主治医と成人在宅医療チームが二人三脚で、最初から移行を不要にしてしまう構造的な解決」が望ましいのではないか。 6.「レスパイト入院は大病院が空床で実施」という実践であるが、「家〜通所〜宿泊まで小さなチームで運営できると子どもが安心して泊まれる」場所を作ることが大事である。
  • 岩本 彰太郎
    2024 年49 巻1 号 p. 59-61
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 医療資源の少ない地方において、個別性の高い重症心身障害児・者(以下、重症児・者)の移行期医療体制の充実は喫緊の課題である。 三重県は、総人口約175万人(令和3年度総務省統計局「人口推計」)で、人口30万人を超えるのは29市町中1市のみである。県内の重症児・者の総数は約900人で、うち施設入所が約300人、残りの約600人は在宅で暮らしている(令和5年度県障がい福祉課調査)。県内の重症児・者の入所施設が不足する中、在宅生活を送る18歳未満の重症児(約200人)とその家族が安心できる移行期医療の提供体制は課題となっている。特に、重症者の状態悪化に伴う入院先の確保や医療依存度が高くなった後の在宅移行は容易でない。その理由としては、総合病院における成人診療科の臓器別診療体制に加え、てんかん合併例に対応可能なてんかん専門医の不足があげられ1)、重症者を総合的に診療可能な病院・診療所は少ない。地域基幹病院に勤務する小児科医を対象に実施した小児期に慢性疾患に罹患した患者の移行期医療に関するアンケート調査では、多くの小児科勤務医が成人診療科医との連携の必要性を認識しているものの、十分に移行できていなかった。その移行期医療の障壁として、連携可能な成人診療科医の不在や本人・家族の小児科医への依存などが抽出された。 こうした背景を受け、三重県では2022年度より重症児を含む慢性特定疾病に罹患した子どもの移行期医療について、大学病院、地域関連病院および県行政が参加する「移行期医療を考える会」が発足し、日常の生活を支える医療と急変時の急性期医療がシームレスにつながる移行期医療の体制整備に向けた話し合いを重ねている。  医療資源の少ない地方における重症児・者の移行期医療の充実には、医師会および地域基幹病院の理解を得ながら一例一例を大切に“つなぐ”ことを意識した地域創りが求められる。 Ⅱ.重症児・者の状況 1.三重県内の重症児・者数 令和5年度の県内重症児・者(肢体不自由1級と療育手帳A1をあわせもつ児・者)は896人で、そのうち施設に入所している児・者は259人、在宅で暮らす児・者は637人であった。18歳未満の重症児217人中、施設入所はわずか4人(約1.8%)であった(三重県子ども・福祉部障がい福祉課調査)。 2.三重県内の重症児・者のサービス利用状況 三重県南部(6市10町)の重症児・者の介護者を対象としたアンケート調査(2018年山川紀子ら)では、医療的ケアの中で胃瘻・経管栄養、在宅酸素、気管切開および人工呼吸器の使用頻度は重症児で、障がい福祉サービス(日中活動、短期入所)利用頻度は重症者で高かった。一方、介護者が抱える不安・悩みについては、重症児の介護者では、子ども本人の健康状態や生活上の問題について、重症者の場合は本人の老後の生活設計、急変時対応、在宅生活を続けるための相談先の不足が多かった。また、重症児・者の介護者の多くは、介護者自身の健康状態に不安を抱えており、それぞれ約70%、約80%に認めた。重症児・者の移行期を境に、介護者が抱える課題に変化を認め、医療のみでなく介護者の負担軽減も視野に入れた移行期支援も重要と考える。 Ⅲ.小児期発症慢性疾患患者を担当する基幹病院小児科勤務医の移行期医療状況 三重県内の地域基幹病院に勤務する小児科医を対象に小児期慢性疾患に罹患した18歳以上の患者の移行期医療についてアンケート調査を実施した。地域基幹病院に勤務する小児科医55人より回答を得、うち33人(60%)が18歳以上の患者の外来診療を担当していた。担当患者数別では、10人未満の担当医は15人(45%)と最も多く、20人以上の担当医は10人(30%)に認めた。疾患別では、神経・筋疾患を診ている担当医は26人(79%)、染色体・遺伝性疾患は11人(33%)、発達神経症および内分泌・代謝疾患はそれぞれ10人(30%)の順に多かった。担当医の診療連携パターン別検討では、「小児科医が主科で診ている」は33人(100%)、「成人診療科医と併診している」は16人(48%)、次いで「成人診療科医が主科で小児科は年1回程度の専門外来フォロー」は8人(24%)であった。一方、33人の医師が希望する移行期医療診療連携体制は、「全面的に成人診療科医に移行すべき」は17人(52%)、「特殊な基礎疾患や長期フォローアップは専門性の高い小児科医で、その他は成人診療科医と連携」は14人(42%)で、「小児科医が主科で外来・入院を担当する」を希望する医師はいなかった。移行できない理由については、「成人診療科医の移行先が見つからない」が17人(52%)、「本人・保護者に成人診療科への移行の意思がない」が11人(33%)、「院内の移行期支援体制が整っていない」が2人(6%)であった。すなわち、三重県では成人診療科医への移行期医療の必要性の啓発が不足していること、患者・保護者への移行期医療の意思決定支援の在り方が課題として抽出された。 Ⅳ.成人移行の必要性とその理由 三重県内では在宅で過ごす重症児・者は多く、年齢に伴う重症化への対応が課題となっている。特に、二次合併症の早期発見と適切な対応は小児科医だけでは困難であり、成人診療科医と連携するなど在宅医療連携体制の再構築が必要である。また、小児慢性特定疾病の対象年齢の枠から外れることで、本人の医療費負担が増加し、利用可能なサービス体系も変化するため、重症者の暮らし全般に大きな影響を与える。そのため、在宅生活全体を捉えて移行期を支援する体制整備が求められる。 Ⅴ.成人移行の目的とあるべき姿 重症児・者が、住み慣れた地域で医療−福祉−教育・療育のシームレスな連携のもと、家族と安心して過ごせることを目的に、以下の体制整備が重要と考える。 1)15歳前後から小児科医と成人診療科医との“地域医療連携”を意識すること 2)郡市医師会などと連携し、移行期医療の啓発と重症児・者に対応可能な成人診療科医の見える化を図り、個別性に応じて成人診療科医との連携が取れる地域づくりを目指す 3)重症児・者とその家族の自立(自律)支援に向けて、学校、保健、福祉、障がい者雇用関係者との連携体制を整備する 4)児童発達・放課後等デイから生活介護事業への移行および親亡き後の人生を支える地域支援体制を多職種・多機関で共考する協議の場を設置する これらのあるべき姿を追求する上で、“地域格差の緩和”を意識することも重要と考える。 Ⅵ.成人移行を阻むものは何か 重症児・者の個別性の高さと多様性があげられる。成人診療科は臓器別診療体制にあり、その弊害として診療対応の限界が指摘されている。特に、急変時の入院に対応可能な病院が少なく、てんかん合併例の受入れに課題がある1)2)。また、重症児・者の保護者の小児科医への信頼が厚く(依存度が高く)、本人と保護者の移行期意思決定を含む自立(自律)支援も重要であろう2)。次に、重症児・者の移行期を支える地域社会資源の不足と社会構造課題として、社会全体のノーマライゼーション/ダイバーシティの啓発不足、マイノリティー故に多様な生き方を支える資源不足、そしてインクルージョン(地域共生社会)の未熟性があげられる。これらの障壁の高さは、地域によって異なることから、重症児・者の移行期支援に関わる社会資源を把握した上で地域づくりを進めていくことが重要と考える。 Ⅶ.理想とする成人移行を実現するには、何をすべきか 三重県の取り組みを通して2点あげる。一つ目は、移行期医療支援体制整備の必要性を議論する場を設定すること。二つ目は、重症児・者一例一例を“つなぐ”ことを意識した地域共生社会を構築することである。前者は、地方ほど社会資源が不足するため、医師会と大学病院などの基幹病院小児科と成人診療科(特に、総合診療内科、脳神経内科)の連携に加え、都道府県行政とも協力し、移行期医療に関わる人材育成、啓発や本人・保護者の意思決定支援を担う移行期医療センター(仮称)の在り方を検討するとよい1)。後者では、重症児・者の移行期支援の実践を通して、医療関係団体とそれ以外の関係団体とのリアルな連携を図るなかで構築される地域づくりを大切にすることが重要と考える。
シンポジウム2:医療的ケアがあってもなくても変わらないもの
  • 市原 真穂, 仁宮 真紀, 妹尾 直子, 北村 都美子, 住吉 亮子, 來住 るみ子, 中本 さおり, 塚原 美穂, 矢澤 博美
    2024 年49 巻1 号 p. 63-68
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    2021(令和3)年に「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律(以下、医療的ケア児支援法)」が施行されて約2年が経過した。各地の様々な保育機関や教育機関において地域社会の中で医療的ケア児を育てていく取り組みが開始されている。医療的ケアそのものは、子どもの状態によって「あったりなかったり」することがある。医療的ケアがあってもなくても、子どもと家族が慣れ親しんでいる地域社会で望んだように生活することができるための継続的な支援が求められている。本シンポジウムの演者は、医療的ケアがある子どもを受け入れたこども園の看護師と保育教諭、看護師が配置されていない保育園で医療的ケアがある子どもを受け入れた保育園の保育士、医療的ケア児の訪問看護を行っている看護師、医療的ケア児等支援センターに勤務している医療的ケア児等スーパーバイザーの看護師、当事者の家族の5組である。様々な場や環境において、医療的ケア児へのより良いケアのあり方を発信し続けているシンポジストの方々から、子どもの生活の様子やケア実践を紹介していただいた。本シンポジウムを通して、医療的ケアがあってもなくても変わることがないケアのあり方や、ケアを提供する側とケアを受ける側が大切にしていきたい考え方や想いを共通認識し、すべての子どもたちの最善の利益につながる支援を考えていきたい。 
シンポジウム3:6F-Wordsと重症心身障害児者 ~Friends and Future~
  • 〜Friends and Future〜
    黒川 洋明, 直井 寿徳, 西島 和秀, 大矢 祥平, 篠原 勇, 榎勢 道彦
    2024 年49 巻1 号 p. 69-76
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 島田療育センターはちおうじ 理学療法士 黒川洋明 「6F-words」とは、障害のある子どもたちの世界が「制限」だけでなく「可能性」に満ち溢れていると考えることができるように、Peter Rosenbaum氏らによって提唱され1)、ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health:国際生活機能分類)の枠組みに小児期で重要視する要素を当てはめた「Fitness(健康)」「Function(機能)」「Friendship(友だち)」「Family(家族)」「Fun(楽しみ)」「Future(未来)」の6つの言葉(F-words)(図1)を誰にでも分かりやすく表現したものである2)。 重症心身障害児者(以下、重症児者)の歴史は、「この子は私である、あの子も私である、どんなに障害は重くともみんなその福祉を堅く守ってあげなければと深く心に誓う(小林提樹 氏)」、「重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろう(糸賀一雄 氏)」などの先達の歩みから始まった。 障害とは「障害者の中にではなく、社会と環境に存在する」3)、自立とは「社会の中に依存先を増やすこと」3)と言われている。 健康は生活機能全体が高い水準にある状態であり、人と環境との関わり合いの中で育まれ、興味・関心、社会との関わり、人生経験によって影響する4)。「6F-words」の「Fitness(健康)」においても「障害」を改善することに重点をおくのではなく、「健康」を増進することの重要性を訴えている。 重症児者の支援において「この子にはできない、難しい」と決めつけず、障害の有無に関係なく、誰もが同じことを当たり前に経験、挑戦する機会を提供することで、地域とのつながりが生まれ、重症児者を社会に知ってもらい、共に生活できる方法を考えるきっかけになるのではないか。どんなに障害が重くても、その人らしい生活を支援するためには、多職種の幅広い視点からの支援だけでなく、環境や社会も変えていく必要がある。 今回、重症児者への支援の可能性について、「6F-words」の視点を多職種と共有することが、先達の歩みや想いに応え、そして地域共生社会の実現につながるきっかけになると考え、本シンポジウムを企画した。 以下に、4名のシンポジストからの支援事例について紹介する。 この内容を糸口として、「6F-Words」の視点が社会全体に波紋のように広がることを期待する。 Ⅱ.余暇活動のサポートが地域共生社会の実現に向かう スマイル訪問看護ステーション 理学療法士 直井寿徳 昔も今も目の前の子どもたちと楽しく過ごしたいという思いは変わらず、そのためにバリアだらけの環境をどう便利に、どう生かしていくかを、知識や経験や周りの人たちと相談、考え、協力してみんなが楽しく充実した時間を作ってきた。 そして障害の有無に関係なく、普通に出かけて普通に楽しむ(余暇活動)ことが自然であると確信したのが前職場での「雪ん子」である。 「雪ん子」は療育センターに長期に入所している子どもたちと雪で遊びたい有志が集まってできた会である(図2)。参加者も小児科医師、整形外科医師、病棟看護師、病棟支援員、理学療法士、作業療法士、相談員、センター事務員、給食調理師、外部からは支援学校の教師、製薬会社社員、消防士など、あらゆる職種が集まった。 そしてそれぞれが「役割を決めずとも」自然に子どもたちと関わって、一泊二日の活動を事故なく実施してきた。ただ、「役割を決めずとも」と言っても私で言えば理学療法士の経験や知識があるおじさんなわけで、それぞれそういった感覚で楽しんでいることが大事だと思われる。蛇足ですが消防士さんは「体力には自信がある」と早朝一人でゲレンデに向かい、スキー板を履いてみんなのために圧雪をしてくれていた。 次に、普通に出かけて普通に楽しむこと、普通に経験することを簡単にできることがわかったので「コモネーズ」(センターの所在地の小茂根から命名)という会を立ち上げた。これはスポーツを通して社会経験を積むための会であり、月一回の頻度で「プール」や「歩け歩け大会」、「キャンプ」などを開催し、外との関わりを強めていき、そしてホノルルマラソン、グアムでのスキューバライセンス取得旅までに至った(図3)。この時に「本気でやればなんでもできる」ことを学んだ。子どもたちと一緒に資金集めや旅行会社との交渉、ダイビングの勉強会、出国、中学生並みの英会話、肌で感じた文化の違い…。今年、メンバーの一人が亡くなり、ご両親からあの当時のコモネーズの活動を含めた彼女の軌跡をまとめたいとの封書が届き、今でも大事に思っていてくれることに感謝している。 子どもたちは学校を卒業すると極端に運動する機会が減少する。環境が変化したので、その環境にあった身体になっていくと考えれば気をもむ必要はないと感じる。ただ、有り余る時間の使い方についてはお手伝いが必要である。 このような状況の中、卒業後の子どもたちを対象に医療に依存せず、余暇活動を楽しむためのグループ「ばしゃばしゃクラブ」を立ち上げた。プール活動を主に月一回集まり楽しんでいたが、身体を動かすという大雑把なことから、重症児者でも可能である「パラアーティスティックスイミング」大会出場を具体的な目標にして、取り組んだ(図4)。 この大会は毎年京都で開催され、主な選手が知的障害の方となる中、気管切開、呼吸器使用を含め車いすの子どもたちが参加したことで、現在では車いすの選手が多く参加する大会になっている。このように「知ってもらうことが共生社会の第一歩」であり、今後も積極的にお手伝いしていきたい。 余暇活動の進め方としては、 ①もちろん子どもがやりたいと思ったものを楽しむことを優先する。 ②継続するには親の趣味・特技を共有した方が良い。 ③室内、屋外の二種類を提案する。 こうした子どもたちとたくさん遊んできた話をする機会をいただくにつれて、“普通に楽しく遊ぶ”ではあるが、冒頭に述べた、理学療法士なら理学療法士の、医師なら医師の、看護師なら看護師の基本の上での関わりが当然であることを忘れてはいけないと、特に経験の少ない方には伝えたい。 Ⅲ.Funの選択肢を増やす取り組みの紹介 医療福祉センター聖ヨゼフ園 作業療法士 西島和秀 F-wordsのフレームワークで重症児者の生活をみると、各構成要素の多様性が少なく、特にFunは限定的であることが判明した。「新しい活動を経験し、Funの選択肢を広げること」を目的とした取り組みを実施したので報告する。また、本文への顔写真の掲載については本人とご家族に書面と口頭で承諾を得ている。 黎明期の重症心身障害児施設は入所基準が緩やかであったため、軽度の知的障害のある方が一定数入所していた。当園は50年の歴史があり、50代~60代の利用者の中に知的障害は軽度の方が複数名入所している。アテトーゼ型脳性麻痺(寝返り不可)があり、知的障害はない60代後半の女性の担当となった初回面談時、「何かしたいことはありますか?」と質問をしたところ、「何がしたいのか、何ができるのかがわからない。やってきたことが少ないから」という答えが返ってきた。そこで、「新しい活動を経験し、Funの選択肢を広げること」を目標に作業療法を開始した。重度の身体障害をお持ちのため、アクティブな活動に強い憧れを持っていた。活動は、立ち漕ぎブランコ、電動スケートボード(図5)、リフト走行、電動リフト走行、リフト社交ダンス(図6)を行った。電動スケートボードはジョギングしている人を追い越すほどのスピードで走行することができるようになり、安全に公園を一周することができた。またリフト社交ダンスは「踊りたい」というご自身の夢への挑戦であり、成功した時は感動と達成感を得られていた。新しい活動の経験は、Funの選択肢を広げただけでなく、生きがいの獲得にもつながった。活動の様子をYouTube5)で配信することで、「挑戦する姿に希望をもらった」などの反響を得ることができ、他者の役に立つことに誇りと喜びを感じている様子であった。コロナ禍で施設生活は厳密に社会と分断されたが、YouTubeの活用により社会とのつながりを新たに持つことができた。 Funを見つけていくためには幼少期からの経験が重要であるが、重い障害のために経験すること自体が非常に制約される。そこで、当園の幼少期の入所児たちに「経験する権利」を保障することを目的とした新たな取り組みとして、多職種連携の小児活動を展開した。さらに、地域生活を送る障害のある子どもたちを対象として「障害のある子どもたちとその家族に向けた遊びのイベント」を企画・開催した。今後はこのような取り組みを継続し、Funの選択肢を広げていき、F-wordsの各フレームワークに、どのような相互作用をもたらすのかについても検討していきたい。 ※本文では取り組みの効果を示すため、ご本人の承諾を得て表情がわかる写真を掲載した。ご協力いただいたご本人に感謝します。 (以降はPDFを参照ください)
市民公開講座:シンポジウム「地域共生社会における医療的ケアのある重症心身障害児者支援」
  • 大藤 佳子
    2024 年49 巻1 号 p. 77-81
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.たんぽぽクリニックでの取り組み 在宅医療に特化したクリニックであるたんぽぽクリニックは、2000年10月四国で初めての在宅療養支援診療所として開院し、現在23年目である。約100人の多職種からなる職員がおり、年間約600人の在宅患者の訪問診療を行っている。2016年16床の病床をもつ「たんぽぽのおうち」を開設し、有床在宅療養支援診療所となり、外来診療も開始した。 「たんぽぽのおうち」は、お看取りが近づいたがん末期の患者がおられ、障害のあるご家族だけでは支えきれないため、緩和ケア病棟のある他の病院への入院を勧めたところ、「入院して新しい人間関係を作るのは大変なんや!」とご家族に入院を断られたのがきっかけで誕生した。入院しても、在宅で診ている主治医や看護師が引き続き診療するため、患者やご家族も安心して療養でき、最期まで支えることができるようになった。 表1は、たんぽぽクリニックの患者概要(2023年現在)である。総在宅患者は約600人、1か月当たりの新規患者は30~40人、月平均の看取り患者は15人で、そのうち2人がたんぽぽのおうちでのお看取りである。人工呼吸器患者は27人、20歳未満の小児患者は16人である。 私は、2018年10月たんぽぽクリニックの勤務医となり、子どもから大人までの在宅医療を学んだ。2018年10月から2019年9月までの1年間で訪問した50歳未満の小児および医療的ケア児者は36人であった(表2)。そのうち、19歳までの患者が17人、20歳以上の患者が19人で、悪性腫瘍の2人と脳性麻痺の1人が、この1年間で亡くなった。主な疾患は、低酸素性脳症や脳形成障害、てんかん性脳症、脳性麻痺などの中枢神経疾患が多く、脊髄性筋萎縮症や筋ジストロフィーなどの神経筋疾患や、染色体異常や先天奇形の方もおり、20歳以上では、やはり中枢神経疾患と神経筋疾患が主であるが、悪性腫瘍が3人、頸髄損傷や頭部外傷後の方が3人と中途障害の方が増えていた。患者の年齢(図1)では、初診時は年齢が低くても、長い患者で16年間訪問診療をしており、現在15歳以上の患者が多い。医療的ケアの内容(図2)で多いのが、気管切開20人、胃瘻・腸瘻18人、人工呼吸器14人で、医療的ケアがないのは、19歳までの脳性麻痺と、脊髄小脳変性症の2人である。これら患者のレスパイト先(図3)を示す。19歳までは、子ども療育センターなどのレスパイト先を持ち、定期的に利用している患者が多いが、それに比べると20歳以上では、レスパイト先がない患者が多かった。 たんぽぽのおうちには5つの機能(表3)がある。①トランジット機能、②看取り機能、③食支援機能、④レスパイト機能、⑤医療型短期入所であるが、当初は①から④の機能が目的で開設された。トランジット機能での入院は、病院からの在宅患者の紹介数の増加につながった。自宅看取りが難しい家族も多く、看取り機能やレスパイト機能も必要であった。また、食支援にも力を入れており、嚥下機能評価や言語聴覚士による摂食指導を行っている。 4つの機能に加えて、私が入職する前から、重症心身障害児者(以下、重症児者)の短期入所も開設して欲しいと話し合いを重ね、2019年5月(令和の始まり)から、空床を利用して医療型短期入所を開始した。重症児者や医療的ケア児者のニーズに応えるとともに、災害時対応や経営面にも寄与している。 短期入所の利用者は、訪問診療を行っている患者を基本として、日帰り利用から開始した。自宅が遠いため訪問診療はできないが、中途障害のためレスパイト先がない人工呼吸器の成人患者も利用されている。知的障害のない医療的ケア者やけいれん重積がある患者、介護する家族が精神疾患を持っている患者の利用もある。人工呼吸器を常時必要とする患者が、豪雨により避難が必要になった時に緊急で短期入所を利用したこともあり、災害時対応も重要な機能と考えられる。日帰り短期入所から開始して、在宅患者の利用は徐々に増え、宿泊利用も入れて、現在の延べ利用日数は月平均で60日、利用登録患者は20人である。日中の生活介護事業がない日曜日や週末の日帰り利用も多くなっている。 医療型短期入所は、患者側だけでなく、成人在宅医や看護師、リハビリスタッフなどの診療所職員が、小児や若年の患者に慣れていくためにも有用である。短期入所の開始時には、病棟スタッフが、医療的ケア児者やてんかん患者の対応に不安があったが、小児経験のある看護師を配置し、人工呼吸器の研修を行うなどして、少しずつスタッフも慣れていった。また、訪問診療と訪問看護、短期入所という横のつながりを生かして、日常生活の中でのケアの見直しを行うことができ、ゆっくり家族と話をする場にもなるため、患者の生活の質を高めることや、家族との絆をより深めることにもつながっている。 短期入所では、愛媛大学教育学部の協力のもと、文部科学省の「障害者の多様な学習活動を総合的に支援するための実践研究事業」の一環で、学校を卒業後の重症児者を対象とした訪問カレッジを行うとともに、スタッフによる音楽会も開催している。 また、短期入所は災害時の避難先としても利用できるため、人工呼吸器の患者家族とともに、個別避難計画を作成する会議(図4)に参加した。病院主治医、訪問診療医、短期入所担当の看護師、社会福祉士、相談支援専門員が集まり、行政からは危機管理課、健康増進課、福祉課が参加し、民生委員など地域をどのように巻き込むか、電源の確保を行政側はどうするのか、時間帯によっては誰が一番に安否確認ができるのか、などの問題点を確認した。合計3回の会議を行い、愛媛県医師会と愛媛県小児科医会の小児在宅医療検討委員会が作成した「災害時対応ノート」が完成した。この会議を開催したことがきっかけで、その後、行政による避難訓練や非常用電源の確保にもつながった。 Ⅱ.ゆりかごファミリークリニックでの取り組み 2022年4月愛媛県新居浜市において、「地域で暮らしたい、おうちで過ごしたい、そんな思いを叶えるために」という理念のもと、小児科外来診療と訪問診療を行うゆりかごファミリークリニックを開院した。2023年1月に新築移転し、有床在宅療養支援診療所となり、病棟(9床)では医療型短期入所と産後ケアを行うとともに、リハビリテーションと訪問看護も開始した。 医療型短期入所では、たんぽぽクリニックと同様に、訪問診療を行っている在宅患者をお預かりし、発達を促す療育やリハビリに力を入れている。胃瘻患者にはペースト食を提供して栄養管理も行っている。近くに保育園があり、行事があるときには一緒に参加させていただくこともある。 人工呼吸器を使用している場合(図5)は、訪問診療の時には確認できない睡眠中の呼吸状態のチェックを行うこともできる。長時間お預かりするなかで、日常生活でのケアの見直しや発達の促進にもつながるような関わりも行っている。また、患者家族の交流会(図6)も開催している。今後、地域と連携した災害時対応や個別避難計画の作成なども行う予定である。当院は太陽光発電を設置したが、福祉避難所には指定されておらず、今後の災害時対応については、行政との話し合いを重ね、患者家族の安心につながる生活や地域づくりに関わっていきたいと考えている。 Ⅲ.小児慢性特定疾病児童等自立支援事業について 小児慢性特定疾病児童(18歳未満で厚生労働大臣が定める慢性疾病をもつ子ども)には、気管切開などの医療的ケアを必要とする子どももおり、医療費助成対象となっている。そのうち、人工呼吸器が必要な子どもの場合は、重症認定により自己負担はない。2015年の児童福祉法改正により、医療費助成は義務的経費となり、それまでピアカウンセリング事業として相談事業が行われていたものが、小児慢性特定疾病児童等自立支援事業1)(以下、小慢自立支援事業、図7)となった。愛媛県では、愛媛大学地域小児・周産期学講座の檜垣高史教授が理事長を務める、認定NPO法人ラ・ファミリエが愛媛県と中核市である松山市から委託を受け、小慢自立支援事業を行っている。また、愛媛大学の厚生労働省科学研究として、この小慢自立支援に関わる研究を続けており、詳細は、「小児慢性特定疾病児童等自立支援事業情報ポータル」(https://www.m.ehime-u.ac.jp/shouman/)というホームページに、これまでの取り組みや成果物、成果報告会の資料が掲載されている。 この小慢自立支援事業では、必須事業として、自立支援員による相談支援事業が行われているが、難病支援センターなどに委託して行っている場合、保健師が兼務して自立支援員としての相談を行っている場合などがあり、自治体によって運営形態は様々である。自立支援員が主となって相談を進め、地域の他機関との調整やカンファレンスを行う場合もあるが、医療的ケア児等コーディネーターと一緒に支援を行う場合もある。 (以降はPDFを参照ください)
  • 中澤 信
    2024 年49 巻1 号 p. 83-86
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 当法人は2001年から愛知県西尾市で開設され高齢者を中心とした介護保険事業と保育園の運営をしている。その中でも2013年に開設された、せんねん村矢曽根(図1)ではこれまで、高齢者と健常児との世代間交流に力を入れてきた。今回そこに障がい児サービス施設を併設することでの地域共生へ向けた取り組みを始めたので報告する。 Ⅱ.背景 せんねん村矢曽根は120床の特別養護老人ホームと認知症対応型のデイサービス(デイ倶楽部)と健常児をお預かりする学童保育(キッズクラブ)を併設して運営している。学校から学童保育に帰ってきた児童が「ただいま」と声をかけると、認知症のご利用者さんが「お帰り」と応えるのが当施設の日常であった。また、特別養護老人ホームに入所するご利用者さんとの交流は定期的に行ってきた。曾孫相当の年齢差での世代間交流で古くからの地元の文化や食などの継承にも力を入れている。その交流では子どもたちが認知症を理解し学ぶ場にもなっている。西尾市内にはこれまで特別支援学校がなく市内で暮らす重症心身障害児(以下、重症児)は肢体不自由は岡崎市、知的障害は安城市と市外への長時間の通学を余儀なくされ、児やご家族にとっても負担であった。10年ほど前から市内の障がい児を抱える親御さんの念願が叶い、2022年4月に愛知県立にしお特別支援学校が開校されることとなった(図2)。 Ⅲ.取り組み 地域で支えられている社会福祉法人として地元で暮らす障がい児のため、何かできることはないかと考え、リハビリに注力している医療法人と連携できるメリットを生かして医療的ケアを要する子どもたちに重点をおいた児童発達支援と放課後等デイサービスを開設することにした。障がい分野の事業は法人として経験がなく、設備投資も簡単ではないため、比較的スペースに余裕がある既存の学童保育(キッズクラブ)への併設を計画した(図3・4・5)。 施設名は小さな芽であってもすくすくと育ってほしいとの願いを込めて“すぷらうとこども発達サポート”と職員からの公募で決定した。午前中に0歳から就学前の子どもを受け入れる児童発達支援、午後に就学児(6歳から18歳)対象の放課後等デイサービスとした(図6)。 健常児だけであった場所に医療機器をつけた身体の大きな重症児や、気管切開で喋ることができない小学生が通うようになり、当初は戸惑いもあったが、子どもたち同士は大人よりも隔たりが少ないようで徐々に馴染んできている。 Ⅳ.課題 医療的ケアの内容は児により異なるため日々スタッフが細やかな環境調整準備にあたる必要があり苦労している。また、性別が違う児をお受けする場合には、パーテーションなどプライバシーへの配慮も必要である。現実場面では施設基準では不十分であり予測していた以上に医療的ケア児を受け入れるには広いスペースを必要とすることが運営して分かってきた点である。人員面では医療依存度が高い児が増えてくると看護師が多く必要になってくるが、関連の医療法人のスタッフは成人や高齢者の経験は多いが重症児のケアの経験は少ない。徐々に解決ができるよう、両法人間で人材交流をすすめ経験者や父兄のアドバイスを頂き、体験しながら小児ケアの経験を積み重ねるように取り組み始めている。当たり前のことではあるがスタッフの対応力のレベルアップが今後の長期的な課題である。 Ⅴ.最後に コロナ禍が明け、2023年の夏休みあたりから健常児と障がい児の交流は本格化してきている(図7・8)。特に2023年の夏休みはすべての児がサービスを一日中使用することもあり事業所内は楽しく活気にあふれており、今回のチャレンジに取り組んで良かったと思えた光景であった(図9・10)。 医療的ケアに対応する事業所は多くないこともあり徐々に利用者は増えてきている。この施設の特徴として健常児と障がい児が早期から触れ合う場と考えている。地域共生社会を目指そうと言われているが、既に隔たりがある者同士が共生するのは簡単なことではない。ごくごく隔たりのない年代の子どもたちが“いっしょが当たり前”の関係を続けて地域で成長し、大人になっていく。街で会ってもいつまでも声を掛け合えるようになった時、本当の地域共生社会が見えてくるものと考える。時間はかかるであろうがこういった取り組みを地域で続けていきたい。
  • 景山 朋子
    2024 年49 巻1 号 p. 87-92
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    近年、地震・豪雨・台風等による自然災害が全国各地で発生し甚大な被害を及ぼしている。災害対策基本法の改正により避難行動要援護者への個別避難計画の策定が市町村の努力義務となった。しかし、停電が命に関わる医療的ケア児者や重症心身障害児者(以下、重症児者)が地域に暮らし災害時に支援が必要であることを市町村や地域住民に十分知られていない現状がある。今回、千葉県医療的ケア児等支援センターとして市町村が主体となる地域の災害支援体制の構築に向けた取り組みを報告し、重症児者の災害支援の課題を共有するとともに市町村をバックアップするための国や県の施策づくりに繋げたい。重症児者の災害支援に取り組むと縦割行政が横断連携に方向転換され、官民を越えた包括的な地域連携が生じてくる。地域共生社会の実現に向けた方策の1つになると考えた。
  • −生きることは学ぶこと、学ぶことは生きる喜び−
    下川 和洋
    2024 年49 巻1 号 p. 93-98
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    2014(平成26)年に日本政府が批准した障害者権利条約は、教育についての障害者の権利を認め、学校教育と生涯学習を確保するとしている。2006(平成18)年の改正教育基本法第3条は、教育全体の普遍的理念として「生涯学習社会」の実現を謳う。「訪問カレッジ@希林館」の活動は、特別支援学校などを卒業後、障害や病気のために通所施設等の毎日の利用が難しい18歳以上の医療的ケアが必要な重度障害者の自宅等を学習支援員が訪問して、生涯学習を支援する民間の居宅訪問型生涯学習支援事業である。重度障害者の生涯学習は、「生涯学習社会」の実現にむけた取り組みである。
特別企画:追悼シンポジウム「有馬正高先生の足跡と重症心身障害児者医療」
  • −小児科学から小児神経学そして障害児者医学・医療の66年−
    加我 牧子
    2024 年49 巻1 号 p. 99-105
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 第三代日本重症心身障害学会理事長として1990年以来2018年までの28年間にわたり重症心身障害児・者医学医療福祉にご貢献著しかった有馬正高先生が2022年12月12日、逝去された。享年93歳。肺炎から回復され、退院寸前に急変されたものの安らかなご最期だったという。 2023年10月26日第48回日本重症心身障害学会学術集会(石井光子会長)で、追悼記念シンポジウム「有馬正高先生の足跡と重症心身障害児者医療」が開催され、光栄にも筆者は有馬先生のご生涯を時の流れとともに振り返る機会と、学会誌への寄稿のご指示をいただいた。 有馬先生(1929-2022)は日本の小児神経学の礎を築き、固め、今日の小児神経学を切り開き、牽引し、開花させた巨人であると同時に、日本の障害児医学、特に知的障害、重症心身障害医学・医療の領域を切り開き、開花させ、世界に例を見ない高レベルの医学と医療の実現に多大なご貢献をなさった。 Ⅱ.生い立ち 先生は帝国海軍有馬正文中将と、ご令室文子様のご次男として鹿児島県伊集院でお生まれになった。兄正宏様、姉百合子様、弟孝禮様の4人きょうだいである。戦前は抗結核薬がなく、罹患、即、死を覚悟すべき病であり、兄上は結核性腹膜炎のため14歳でご逝去、当然のことながら我が子をなくされたご両親の嘆きは深く、先生のお言葉では「うちの親も1−2年はめそめそしてましたね」とのことで、子ども心に子どもは親より先に死んではいけないということが強く心に刻まれた。先生ご自身は当時小学2年生で、やはり結核性肋膜炎に罹患されたが、幸運なことに生還された。 Ⅲ.少年期 青年期 父上の仕事の関係で転居、転校が多く小学校は5校、中学校は2校を経験された。肋膜炎で長く学校を休んだため勉強がわからなくなり、泣いて悔しがったことから転校して1年落第し、2年生に編入したとのことである。小学校卒業後、県立湘南中学校(現 湘南高校)に進学された。当時の中学校は5年制で、成績優秀者は4年生から上級学校への進学、すなわち旧制高等学校受験も可能であった。湘南中学校の生徒は海軍軍人の子弟が多く、父を戦死で失っていた生徒も多く、先生御自身も1944年10月に父上を戦死で亡くされていた。1945年、海軍兵学校予科が従来より2年早く受験資格を与えた。4年終了で先生も受験され、海軍兵学校に合格した。同期生は4032名。1945年春入学、8月15日終戦。聞き取りにくい玉音放送は集団赤痢のため兵学校予科のバラックの病床でお聞きになったとのことである。数日後兵学校は解散、山口県防府針生島からご実家の鹿児島に帰郷された。帰郷後、県立第二中学校に編入、旧制第七高等学校に入学を果たし、医師となることを志して東京大学医学部をめざし受験勉強に励むことになった。 戦後は、家族に給費されていたご遺族への恩給が停止され、母上は大家族の生活を支えるのが大変な中、先生ご自身も闇市で魚を売るなど家計を助けるなども一仕事であった。 先生は「自分の人生、座学で一番勉強したのは大学受験生の時代でした」と回顧しておられるが、東京大学医学部に合格し、鹿児島県の学生寮、同学舎に入寮、学生生活を送り(図1)、1953年に卒業後は東京大学医学部附属病院で1年間のインターンを経て1954年春東京大学医学部附属病院小児科に入局された。 Ⅳ.東京大学医学部附属病院小児科時代(図2) 入局直後、小脳腫瘍による水頭症児と、脳性麻痺児の二人の神経疾患の主治医となったが、二人とも急激に病状が悪化して亡くなり、それぞれの母親の深い悲しみに直面し、「子どもは親より先に死んではいけない」、との思いを新たにされた。この年、小児科学教室に高津忠夫教授が就任され、「子どもの病気は小児科医が診る」ことを徹底させるべく、分野別専門制度をめざされた。特に、てんかんは精神科でなく、小児科で診るべきであるとして、高津先生は入局2年目の福山幸夫先生に責任者を命じた。福山先生は小児科に入局直後の有馬先生、長畑正道先生、他大学から入局された横田和子先生ら数名と共に、後に「東大神経班」とよばれるようになったグループが誕生した。「てんかんを診る」といっても病気も治療法も、ほとんどゼロから勉強することになり、数か月間、グループで猛勉強を重ね「けいれん」外来を開設した。当時、てんかんに対する偏見は今日の比ではなく、てんかんではなく、けいれん、すなわちドイツ語のKrampfの名称が用いられ、K外来と呼びならわされた。 当時、東大に脳波計は精神科に1台あるのみで、精神科の患者さんの検査終了後の夜間、自分たちで患者さんの検査をすることになった。 当時使用できる抗てんかん薬はアレビアチン、フェノバール、ミノアレビアチンの3剤にほぼ限られていたが、8割以上に有効で、親御さんに感謝された。他にはこのような場がなかったこともあり、大変な数の患者さんの診療が行われた。K外来専用のカルテを作り、外来診療がすべて終わってから、スタッフ一同で勉強会、症例検討会が夜遅くまで行われた。K外来の診療を続けるうち、発作はおさまったものの、麻痺や運動機能の障害を伴う病態が認識され、精神運動機能が退行するなどの子どもたちが目立つようになり「脳性麻痺外来」として診療の幅が拡大された。この二つの外来の中から福山型筋ジストロフィーやTay Sachs病など代謝性変性疾患が次々と見いだされていった。K外来、脳性麻痺外来は後に日本の小児神経学を牽引する場の一つとなった。 一方この時代は小児科学全体の発展にとって途方もない変革期であった。まずは抗生物質が臨床に導入され、かつて死病であった結核を始め多くの感染症が死なない病気へと劇的な転換を遂げ、静脈輸液療法の導入により、下痢・脱水で死ぬ子どもが激減した。さらにDown症候群が染色体異常による疾患であることが確立し、病因や疾患概念の根本的変革が行われた。先天性代謝異常症が酵素欠損や、酵素量低下に起因するものであることも発見され、診断方法が確立していった。これらの疾患は後に遺伝子治療をみすえた遺伝子診断が行われるようになる。ともかくも大変な数の小児神経疾患の患者さんが東大小児科K外来、脳性麻痺外来を受診されたことになる。有馬先生は東大医局在籍中にてんかん、脳性麻痺などに関する多数かつ緻密な論文を日本語、英語で上梓され、当時日本のトップジャーナル「神経研究の進歩」に掲載されたてんかんについての研究で学位を取得された。また多数のWilson病の患者さんに出会い、ペニシラミンによる発症前治療で疾患のコントロールができることを証明された。後に新たな治療薬トリエンチンを薬として開発し現在に至るまで多くの患者さんに感謝されており、先生が初めて記載された「有馬症候群」と共に、Wilson病は先生のライフワークそのものである疾患になった。 入局初期にアメリカ航路の船医として初めての海外の経験をなさり、自衛隊病院への派遣を含めた医局在籍中、講師・病棟医長を経験されたことは先生の臨床能力がさらに鍛えぬかれる機会ともなり、東邦大学助教授として転出された。 Ⅴ.東邦大学医学部付属病院小児科時代 中山健太郎教授の下で、医師、学生への教育を行い、先生の熱心な姿勢に感動して入局された学生の中に、後に東邦大学医学部小児科教授、さらに東邦大学学長をつとめられた青木継捻先生がおられ、青木先生がこの時代を中心に詳しく記述してくださる。あえて追加させていただくエピソードは都立府中療育センター新設の際に非常勤医長として大学と併任なさったことである(図3)。10年前に先生が東大で診療していらした多数の患者さんが、やせ衰え、弱りはてて外来を受診され、しかも入所直後に死去される方が多数あったことに衝撃を受けたことが後の障害児医学医療への道への大きなきっかけとなったようである。 さらに関連病院の東京小児療育病院に土曜、日曜に医局員や学生を連れて診察に訪れ、教育と障害児への理解と思いを深められたという意味でも東邦大学は有馬先生にとって大変重要な場であった。 Ⅵ.鳥取大学医学部脳幹研究施設教授、付属病院脳小児神経科長・教授の時代 鳥取大学に日本で初めての小児神経科の講座ができ、高津教授の強いお勧めにより、教授職公募にこたえ、選出されて、新設の講座を創り上げるミッションを負うことになった。このため無から大きな「有」を作り出す大作業をなさり、将来の小児神経科医を育てるための教育に力を注がれた。また医局員とともに県内・県外の病院のほか、重症心身障害病棟を含む療育施設を訪問し、将来の医療、教育、研究のための布石を打たれた。学問的な意味での小児神経学だけではなく、神経疾患に随伴する、あるいは結果として生じる子どもの障害、大人に至るまで随伴する症状と、社会的課題についての視点を持っていらした。有馬先生は正解を教えることはなく、医局員は各自が自分で勉強し、考えて患者さんに対応するために猛勉強をすることになった。当初から将来の日本の小児神経学、障害児医学を担う医師を育てるという決意がおありだったことは、この時代に薫陶を受けた先生方がいまも全国で日本の小児神経学、障害児(者)医療を支えてくださっていることからも推察される。 (以降はPDFを参照ください)
  • 青木 継稔
    2024 年49 巻1 号 p. 107-112
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 小児神経学、障害児者医学のパイオニア的存在であった有馬正高先生が、2022(令和4)年12月12日に逝去された。享年93歳であった。先生は、日本における小児神経学および障害児者医学・医療等に生涯にわたり、発展にご尽力され多大な貢献をされた。先生は診療のみならず医学研究や医学教育にも情熱を燃やされた。先生の門下生は、日本全国にたくさんの方がいて、活躍している。 有馬正高先生に関する私に与えられた課題は、先生が小児科学助教授として活躍された東邦大学時代(1939-1945年)の7年間を中心に、また1939年に開設された東京小児療育病院との深い関係について話題を提供する。東京小児療育病院と関わることにより、先生が障害児者医学への道にも関心を持たれて進まれたものと思う。 Ⅱ.有馬先生の輝かしい医師としての区分 有馬先生は「自分の医師として活躍の場は約7年毎に区分できる」とよく話されていたことを思い出す。 1.東京大学時代 先生は、1953(昭和28)年3月に、東京大学医学部を卒業された。東京大学付属病院にて実地研修(インターン)を1年間終了後に、同病院小児科に1954(昭和29)年4月に入局された。小児科医として助手・講師になり、次第に小児神経学に傾倒していった。1961(昭和36)年には、1年先輩の福山幸夫先生(後に東京女子医大教授)とともに日本小児神経学会を創設した。東京大学時代は約10年間であった。 2.東邦大学時代 次の勤務先は、東邦大学医学部小児科であり、助教授として赴任した。1964(昭和39)年1月から1970(昭和45)年12月までの7年間、診療・教育・研究のほか、多くの対外的活動など充実した時期であった(後述)。 3.鳥取大学時代 鳥取大学医学部脳神経小児科教授として責任ある立場、全国初の小児神経学専門の教授となり活躍した時期であった。1971(昭和46)年1月から1977(昭和52)年12月までの7年間であった。 4.国立精神神経センター時代 当時の田中角栄首相の肝入り構想にて先天性筋ジストロフィー症等の神経疾患の総合的な診療・研究および教育の施設として計画された。神経内科系の責任者として、里吉營二郎先生(東邦大学教授)、小児神経領域の責任者として有馬正高先生が選任されて国立精神神経センターが設立された。小児神経科医長、疾患研究第二部部長として活躍し、副院長、国府台病院院長、武蔵病院院長を歴任した。全国から小児神経学専門医を目指す若き医師、研究者が集まった。多くの有馬門下生が育成され全国で活躍している。1978(昭和53)年から1994(平成6)年3月までの17年間であった。 5.障害児者医学の発展に寄与 東京都立東大和療育センターや東京都立東部療育センターの設立責任者として、またそれぞれのセンター長や院長となり、障害児者の医学・療育・教育・福祉等の発展に多大な寄与をされ貢献した。1994(平成6)年4月から2014(平成26)年3月31日までの約20年の長期にわたった。 6.日本重症心身障害学会や日本重症心身障害児者を守る会の発展に尽力 引き続き、2014(平成26)年4月からは、日本重症心身障害学会や日本重症心身障害児者を守る会の会長・理事長あるいは役員として亡くなるまでご尽力くださった。 有馬先生の詳細な履歴に関しては文末の参考文献1)をご参考下されば幸いである。 Ⅲ.東邦大学時代の有馬正高先生 1.東邦大学の小児科助教授として赴任 1964(昭和39)年1月、有馬先生は35歳の時に東邦大学医学部小児科学教室に赴任した。当時の教授は教育に厳しい中山健太郎先生(東大卒)、人に優しい有馬先生は助教授(東大卒)、器用で面倒見の良い小宮和彦先生が講師(東大卒)でした。前任者教授の久保先生が千葉大学小児科教授に転出されて小児科医局員は大変少ない状況であった。 2.医師として若く最も充実した時期 有馬先生は35歳から41歳までの丸7年間、東邦大学に在籍された。医師として、医学研究者として、医学教育者として最も充実した時期を過ごされたのではないかと拝察する。多くのいろいろな疾患に対峙し、また研究をされて、たくさんの論文を次々と発表された。さらに中山健太郎先生の下に、有馬先生独自の教育スタイルを確立されたのは東邦大学時代であったと確信する。 3.臨床面でのご活躍 先生は患児やそのご家族に対して極めて優しく寄り添われて、病気以外のいろいろな相談事にも応じられ信頼されていた。その姿は『医師としての鏡』であり、若き医師・研修医など私を含めて“有馬先生のような医師になりたい”と憧れの存在でした。教科書に記載されているほとんどの症例を診療され、私どもには大変な勉強になった。小児神経筋疾患、先天性代謝異常症、染色体異常症、奇形・奇形症候群、内分泌代謝障害、重症心身障害児、各種発達障害児や知的障害児、心身症など多岐にわたる疾患をご診療されていた。また、稀な疾患も数多く経験され、Wilson病、フェニルケトン尿症、メープルシロップ尿症、Crigler-Najjar症候群、Lesch-Nyhan症候群等が含まれていた。Wilson病の診療、研究等は日本をリードした。さらに有馬症候群の第1例目は先生が東邦大学在任中に発見され論文発表された2)。これらの症例の多くは有馬先生が鳥取大学教授に栄転された後は私が担当することになった。 4.有馬式教育スタイルの確立 大学には、医学生、研修医(インターン生)、教室員等がいて教育は重要であった。中山健太郎教授は、我が国における医学教育の主流がドイツ医学教育から米国式医学教育をいち早く取り入れた。当時としては画期的なPOS(Problem-Oriented System and Solving)式教育、Disease-OrientedではなくPatient-Oriented式教育を導入され、記載は、SOAP(Subjective, Objective, Assessment, Planning)を採用した。小児科学テキストはNelson小児科学書、各分野別モノグラフ、和文・英文論文を引用した考え方およびプロセスを求めた(参考資料に基づいた考察・論理)。有馬先生は、正確な所見のとり方、検査所見等からの診断プロセス、治療法の選択を厳しく求められた。決して解答を教えない。答がないとか正しくないと無視された。1回だけチャンスを与えられ、次回のGR(Grand Round)や回診までに調べて正しい解答を求められた(にっこり笑って人を斬ると教室員に恐れられていた)。有馬先生のこの教育スタイルは、東邦大学在任中に確立されたと考える。 5.有馬先生と研究 有馬先生は、症例を中心とした臨床研究、症例からヒントを得た基礎研究をエネルギッシュにされていた。医局に隣接した研究室にも足を運ばれ、私は血清セルロプラスミン測定(PPD oxidase)法、尿中銅比色測定法等を教わった。先生自身多くの論文を書かれ、私どもにも論文の書き方を指導してくれた。 6.東邦大学時代における対外的な活動 1)重症心身障害児者に関する活動 1964(昭和39)年7月に東京小児療育病院(社会福祉法人鶴風会)が開設され、小児神経学専門医として非常勤医となり、土・日・休日に活動され、必ず私ども若い小児科医を連れて診療されご指導下さった。私の診察の仕方や所見のとり方などの基本は、ここでのじっくりとした時間の中で身についた気がする。 1968(昭和43)年には都立府中療育センター開設があり、非常勤小児科医長をされ、重症心身障害児者医療にも関わられて障害児医学・医療に強く関心を持たれたと思う。 2)その他の対外的活動について (1)サリドマイド事件(1966)、(2)大島の分類に臨床家として参加、(3)原爆症と小頭症、(4)森永ヒ素ミルク事件、(5)胎児性アルコール症候群などにも関与された。 7.鳥取大学脳神経小児科教授に転出 1970(昭和45)年12月に鳥取大学脳神経小児科学講座の初代教授に赴任されることになった。私どもは大きなショックであったがご栄転と諦めた。先生の残された多くの患児達の診療を私どもが担当することになった。 Ⅳ.東京小児療育病院と有馬正高先生 1.東京小児療育病院について3) 東京小児療育病院(東京都武蔵村山市)は、東邦大学医学部の前身である帝国女子医学薬学専門学校医学部第1回卒業生の龍智恵子先生を代表する多くの卒業生のご尽力により、1964(昭和39)年の第一回東京オリンピック開催の年に開院した。当時、我が国において療育や研究の遅れていた「脳性小児マヒ等の肢体不自由児」専門の病院・療育センターとして全国的にも先駆的な病院としてスタートした。国・厚生省の絶大なる支援、東京都の援助、東邦大学の応援があった。最先端のアミノ酸分析装置が導入された研究室も完備された。療育施設も整備され整形外科医師も診療に参加したのは画期的なことであった。現在は社会福祉法人鶴風会として東京小児療育病院(創立60周年、170床)および西多摩療育支援センター(創立20周年)を有し、重症心身障害児者の療育を中心に活動している。 (以降はPDFを参照ください)
  • −10余年の有馬先生の足跡−
    平山 義人
    2024 年49 巻1 号 p. 113-115
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    私は当学会理事の曽根翠先生から、国立武蔵療養所時代からの有馬先生の足跡を話してほしいとの依頼を受け、お引き受けしたものの、30年も40年も前のことで、うろ覚えのことが多く、記憶違いのことがあるかもしれませんのでそのつもりで聞き流してください。 私が弘前大学を卒業した1968年はインターン制度が廃止になった年でした。大学生最後の年には、インターン制度反対、大学病院での研修反対と書いたプラカードを持ち、クラスメートと市内を歩き回ったことがありましたが、私としては、インターン制度が廃止されても、どこかの大学病院の医局に入局したいと考え、東京女子医大の小児科に入局しました。教授は前年の秋に赴任された福山幸夫先生でしたが、福山先生の専門が小児神経疾患だとは知りませんでした。入局した翌年、初めて小児科学会に出席したときに、福山先生と有馬先生が一緒に歓談されることがありました。福山先生は若き医局員と一緒で、私もそのうちの一人でしたが、このときに福山先生から有馬先生に紹介していただきました。女性ばかりの医局員の中で私だけ男だったためか、有馬先生はすぐに私のことを覚えてくれたようです。有馬先生は間もなく鳥取大学の教授として赴任されましたが、小児科学会や小児神経学会でお目にかかると親しげに声をかけてくださいました。私が入局して7年目、女子医大の講師をされていた熊谷公明先生に誘われて埼玉県立小児保健センターの小児神経科の医師として勤務しましたが、ここは6年間で退職し、福山先生の紹介でロンドン大学附属病院のDubowitz 教授のところで半年ほどミオパチィー外来と筋病理を見てきました。帰国後間もなく、有馬先生から国立武蔵療養所で働かないかとのお声がかかり、1980年の12月から勤務するようになりました。有馬先生は私より1年半前に小児神経科の部長として勤務されておりました。本日は、有馬先生が武蔵療養所に勤務してから、私が退職するまでの10数年間の有馬先生の足跡をお話しいたします。 私が勤務したときの小児神経科管理下の病棟は3病棟ありました。1つは小児神経科入院病棟、あとの2つは重症心身障害児病棟です。以下、重症心身障害児を重症児と略します。重症児病棟の1号館は1975年の5月に精神科の病棟として開設され、病棟の主治医は都立府中療育センターからいらっしゃった先生で、この先生は当学会の発起人のお1人ですが、小児神経が専門の先生ではなかったようです。2年後の1977年に重症児病棟の2号館が開設されました。この病棟の開設には、有馬先生の先駆けとして落合靖男先生と鈴木康之先生が尽力され、この時から重症児病棟は小児神経科管理下の病棟となります。入所基準の詳細は知りませんが、重症児病棟に入所したときの入所児の年齢は全員10歳以下でした。 小児神経科部長としての有馬先生の週間スケジュールは、週に1回の外来診察、週に1回の3つの病棟の回診でした。回診の前には、新規の入院患児と退院患児の検討会を行いましたが、重症児病棟の入退院はほとんどありませんでした。小児神経科病棟の医師は桜川先生を筆頭とする数名の小児神経科の医師と、数名の研修医で、重症児病棟の医師は各病棟1名の小児神経科の医師と1名の研修医で構成されておりました。研修医は小児科あるいは神経内科の医師として2~3年経験を積んでから、小児の神経疾患に興味を持ち応募された医師でした。 有馬先生が武蔵療養所に着任された同じ年、重症児病棟に隣接して都立小平養護学校の分教室が建てられ、重症児病棟と小児神経科病棟に入院していた学齢児は病棟内で授業を受けられるようになっておりました。私が勤務した重症児病棟では、病棟職員も養護教員の授業に参加することが多く、有馬先生が回診される時間と授業時間がぶつかることがよくありました。病棟に感染症やてんかん発作が続いているような問題児がいないときには、有馬先生はこの授業を優先され、養護教員と病棟職員が共同して行う取り組みを、時間をかけて観察されておりました。養護教員にとっても病棟職員にとっても、回診中の多くの医師に注目されているということが良い刺激になったようで、私が勤務した翌年には、昼食時間に養護教員も食事介助に入ってくれるようになり、従来バラバラに行われていた食事摂取訓練や口腔内の清潔を保つための歯磨きや歯肉マッサージを、病棟職員と養護教員が協力して行うようになりました。食事摂取訓練の効果を短期間のうちに明らかにすることはできませんでしたが、口腔内を清潔に保つために行った取り組みは、半年もしないうちに、歯肉増殖と歯肉からの出血の減少、口臭激減、新たな虫歯の発生減少としてはっきりと表れました。養護教員と病棟職員が協力して行う授業は、私が退職したあとも続いていたと思います。別の日の午後には、有馬先生も参加されて各人が興味を持つ英語の論文を翻訳し紹介する抄読会が行われました。医事新報という雑誌社に依頼されて、小児神経に関連する英文雑誌の年度末サマリーを、スタッフが分担して書いたことがありました。 研修医が新しく入ると、小児神経科のスタッフ全員が集まり歓迎会を開きましたが、このときいつも有馬先生は医師の心構えにつき訓話をされました。いろいろと話されましたが、私が覚えているのは、診察をするときには清潔な白衣を着て、無精ひげや口臭には気を付けること、新しい障害児を診察したときには、予後を予想して書き留めておくこと、現在できうる限りの治療をするよう努めることの3点です。余談になりますが、大島分類で皆様よくご存じの大島一良先生にお会いしたとき、小児神経科の若い先生方は、患者さんの病状を少しでも改善するよう治療に取り組んでほしい。今すぐには完治できなくとも、200年後、いや300年後、500年後には完治できるはずです。その日は必ず来ると信じて、できるだけよい状態に保つように頑張ってほしいとおっしゃっていました。 武蔵療養所の敷地内には国立精神・神経研究所が建てられており、有馬先生は研究所2部の部長を兼務されておりました。2部の研究課題は知的障害と脳性麻痺で、私もこの部の検討会に出席させていただいておりましたが、2部の研究スタッフは有馬先生に研究成果を聞いていただき、有馬先生の助言を励みに、皆さん頑張っていました。 私が勤務してから5年後の1985年に武蔵療養所は国立精神・神経センター武蔵病院(以下、神経センター)となりましたが、組織替えが行われるまでには、紆余曲折があったようです。 1986年には有馬先生の門下生が中心になり多摩小児神経懇話会が発足しましたが、始めの挨拶で、多摩地区は世界で1番小児神経科医が集まっている地域であると、有馬先生は満面の笑みを浮かべながら誇らしげに話されました。重症心身障害研究会は小林提樹先生の呼びかけに応じた30名の発起人のもとに、1975年に発足し、初回から12回までの学術集会は小林先生が主催され、この間、小林先生は会長と理事長を兼務されました。私は1981年に入会しましたが、入会して2~3年のうちに学術集会への応募演題が減ってしまいました。この窮地を救ったのは会員集めに奔走した中村博士先生と山形恵子先生でした。その裏には、両先生と親交が深かった厚生省の国立病院・療養所課長だった大谷藤郎先生から猛烈な檄が飛んでいたのではないかと思います。大谷先生は厚生省を退職してから当研究会の2代目の理事長になられました。小林先生が亡くなった後、私は小林先生のご自宅に伺い、本研究会立ち上げの経緯を書いたノートをいただいてきましたが、そのノートには厚生省の大谷先生に強く勧められて本研究会の立ち上げを決意したと書かれていました。 有馬先生が3代目の理事長に就任されて直ぐにとりかかったことは、この研究会を全国規模の研究会にしようとする試みでした。そのため、有馬先生が理事長になった翌年の学術集会は初めて東京から離れて、愛知県で開催されました。また全国的規模の研究会にするためには日本学術会議の協力学会になることが不可欠だから、できるだけ早く協力学会になりましょうとおっしゃいました。調べたところ、協力学会になるための必須条件は、会員数が500名以上いることでしたが当時の会員は450名もいませんでした。これからの話は内緒ですが、途方にくれた私は、有馬先生に相談しないまま、すでに退会された会員のお名前を無断でお借りして、急遽500名を超える会員名簿を作り協力学会になるための申請をしました。専門的な調査があったらどうなるかとちょっぴり心配しましたが、書類調査だけで済んだようで間もなく申請は認可されました。有馬先生の取った策は効果てきめんで、2~3年のうちに会員数は年間100名に近いペースで増加し始め、また学会誌の郵送代が半分ぐらいになりました。 有馬先生は重症児や知的障害の支援団体や家族会から協力依頼を受けると断り切れずに、一度引き受けると真摯に対応されました。私が退職する1年ほど前に、日本重症児者を守る会(以下、守る会)の会長さんにつかまり、新しく作られた世田谷区立の通所施設を見に来てほしいと頼まれたので一緒に行こうと誘われました。このとき守る会の北浦雅子会長に紹介されました。 (以降はPDFを参照ください)
  • 倉田 清子
    2024 年49 巻1 号 p. 117-120
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    まず、初めに全国重症心身障害児(者)を守る会の親の会と法人組織について説明する(図1)。 守る会では、長年にわたり親の会と社会福祉法人の両方の代表として、令和5年2月101歳で他界された北浦雅子さんが就任されていたが、平成26年6月にそれぞれの立場を明確にした。 親の会は、運動体として重症児運動の中心であることから、その代表は、北浦雅子(会長)が引き継いだ。 全国47都道府県にある親の会を束ねて、親の方やその家族が困っていることを行政などに要望し、重症児者の福祉や医療、教育などの制度策定に寄与してきた。 一方、社会福祉法人は事業者経営の主体として経営管理にすぐれた方が適切であることから社会福祉法人の代表には有馬正高(理事長)が適任ということになった。 法人は、直営の「あけぼの学園」を中心とする重症心身障害児療育相談センターや栃木県足利市の「あしかがの森」があり、指定管理や委託事業として、都立東大和療育センターや都立東部療育センター、その他自治体から6か所の事業を受託している。 図2は有馬先生と守る会の関わりを年表で書き記したものである。 有馬先生のお人柄は良く知られているが、守る会の親の方々がいかに有馬先生を慕っていたかをお話ししたい。 有馬先生が、重症心身障害の医療に全力を尽くしておられたのは周知のことであるが、有馬先生がいつごろから重症児医療に勢力を尽くし始めたのかというのが著者の疑問であった。 種々著作物を調べたが、あまり明確にはわからなかったが、有馬先生は小児科医療を志していた当初から障害のある小児やその親たちに愛情をもって接しておられたということはよくわかった。 府中療育センターが、昭和43年に開設された時に有馬先生は、いわゆる重症児の施設で重症児医療に携わっておられた。 在宅で親たちがみていた重い重症児たちが、入所してきて数日のうちに死亡するという経験はかなり印象に強く残ったようであった。 そのころ親の会である「守る会」は、社会から見放され何も政策が及ばなかった重度の重複心身障害児者を児童福祉法の中に入れてほしいという純粋な願いをもって運動に取り組んでいた。 それから、時は流れ、平成3年(1991年)に開催した「第28回守る会全国大会」で当時、国立国府台病院院長として活躍していた有馬先生に特別講演をしていただいた。 この時、北浦雅子会長は、有馬先生に「医の倫理と共に重症児の医療に真剣に取り組んで下さっていることを力強く感じ、またそれだけにこの重症児対策は絶対後退させてはならないとしみじみ思います。」と謝意を述べている。 この第28回全国大会の翌年、平成4年の東大和療育センター開設の際には、東京都は、すでに運営を守る会に委託することに決めていた。 親の会には、入所施設に入れないで短期入所を廻っている、あるいは、自宅で親がずっと見ている入所待機者を楽にさせてあげたいという思いから、東大和療育センターの入所対象は、在宅の18歳以上の者という考えが基本であった。 そのため、北浦雅子会長は、当時の国立病院を所管している厚生省に、有馬先生を東大和療育センターの長に下さいと申し入れて成功したといわれている。守る会の理念「最も弱いものをひとりももれなく守る」と有馬先生の重症児医療への姿勢が合致したということであった。 有馬先生の重症児医療への情熱は、東大和療育センターそして東部療育センターの開設までつながっていった。 有馬先生の東大和療育センターに対する思いは、並々ならぬものがあった。 有馬先生は、東大和療育センター準備室を、国立武蔵病院医長の平山義人先生に託し、飯田橋にあった準備室以外にご自宅などでも設計図を検討するなど熱心に取り組まれた。 また、初代院長や医師をはじめとする医療スタッフをリクルートした。 平成4年8月の開設当初は、初代院長は、三吉野産治先生、副院長は平山先生で運営が始まった。 初代院長の三吉野先生に続き、平成6年10月、有馬先生は、2代目の院長に就任された。 有馬先生は東部療育センター開設時にも、その手腕を発揮された。昭和53年鳥取大学から国立精神・神経センターに異動した後、発達障害専門医関連のレジデント制度により、医師の育成の安定化を構築していた。 東部療育センターの運営が、委託制度から指定管理者制度に変更されたため、守る会から院長候補を出す必要があり、有馬先生自ら院長候補となり、北浦会長からも是非、準備室の段階から関わってほしい旨の要請があった。 平成16年4月開設準備室長をされた。 開設に当たっては、医師の確保が課題となっていたが、仕事のできる人、核になる人が何人かすぐ来てくれて助けていただいたと感謝していたという。 最重度の医療が必要とされる重症児に焦点を当てた東部療育センターの設立は先生の集大成であった。 東大和療育センターは、在宅の18歳以上の方を重点的に受け入れ、東部療育センターは、人工呼吸器やモニターを使う子どもなどかなり医療の重い子を受け入れる方針とされた。 有馬先生は、例えばエレベーターの天井の絵など、「ストレッチャーで上を見ている子どもたちばかりですから」と、天井の造りまで気遣い、受け入れ態勢を準備しておられた。 最後まで重症児医療の現状に満足せずこれから何年か何十年後かに世界に冠たる日本の重症児医療はもっともっと評価されるだろうと希望を抱かれていた。 図3は、守る会創立50周年大会の時に、有馬先生が、天皇皇后両陛下、現在の上皇ご夫妻をご案内された場面のお写真である。 たいへん矍鑠(かくしゃく)として、立派にお役を果たされた。 有馬先生には平成26年から法人の理事長にご就任いただいた。 これは、その後の平成28年の社会福祉法の改正により行われた内容、つまり、理事会を業務執行に関する意思決定機関として位置付け、理事・理事長に対する牽制機能を働かせることや、理事会の経営責任を明確にするなどの法改正の趣旨を先取りして行っていただいたと思う。 有馬先生には、平成26年7月から平成30年6月まで理事長をお務めいただき、平成30年6月に理事長を退任された後も名誉理事長として、社会福祉法人全国重症心身障害児(者)を守る会を支えていただき感謝申し上げております。 著者と有馬先生の関わりについて少し述べる。 最初に、有馬先生から、第27回重症心身障害学会の学会長をするようにと言われて、何とかこなした。 2回目には、同じ頃、落合先生がやってこられた学会雑誌の編集委員長を続けてやるようにと指示されて、つい最近までやらせていただいた。 3回目は、東大和療育センターの院長を、平山義人先生のあとを続けるよう指示された。 そして4回目は、守る会の理事長を有馬先生のあとに、推薦していただき現在に至っている。 自分がこうしているのは、ひとえに有馬先生のおかげであり、本当に感謝しております。 心より、有馬先生のご功績に感謝し、ご冥福をお祈りいたします。  【略歴】 1969年 東北大学卒業 国立小児病院勤務 1971年 東京大学医科学研究所勤務 1987年 東京都立府中療育センター勤務 2004年 同副院長 2007年 東京都立東大和療育センター院長 2018年 社会福祉法人全国重症心身障害児(者)を守る会理事長 【資格】 医学博士 日本小児科学会会員 小児神経学会会員 日本重症心身障害学会前理事
ランチョンセミナー④
  • 加藤 美穂子
    2024 年49 巻1 号 p. 121-126
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    痙縮は脳性麻痺などのさまざまな中枢神経障害によって引き起こされる上位運動ニューロン症候群の陽性徴候の一つで、脳性麻痺児においては約70%程度が痙直型であると報告されている。その中でも、特に重症の場合には、四肢の緊張亢進がやがて拘縮を生じ、体幹の緊張亢進は脊柱の弯曲変形を生じる。さらには胸郭変形による呼吸障害や持続する筋緊張に伴うエネルギー消費の増加など、日常生活のすべての時間において、重症心身障がい児・者(以下、重症児・者)のQOLを低下させる。本講演では、重症児・者に対する痙縮治療、特にバクロフェン髄腔内投与療法について概説した。
ランチョンセミナー⑤
  • 根津 敦夫
    2024 年49 巻1 号 p. 127-130
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    重症心身障害あるいは重度脳性麻痺でみられる重症上下肢痙縮に対するボツリヌス治療では、数か月後の痙縮再燃がほぼ必発である。おおむね4~6か月おきに反復投与し続ければ、ほぼ通年的に効果を保持できるが、適切な理学療法の併用による関節可動域の保持、医原性廃用性筋萎縮の回避、バクロフェン髄腔内投与への移行の検討を忘れてはならない。当センターで重症痙縮へ20回以上反復して施注した例は、2023年9月までに42名みられた。そのうち整形外科手術を9例、バクロフェン髄腔内投与を2例、脊髄後根切断術を2例で併用したが、全例でボツリヌス治療の有効性はある程度保持されていた。また、ボツリヌス治療はできるだけ早期から導入することが望ましいが、当センターで18歳以上からボツリヌス治療を開始した例は、下肢で84例、上肢で72例にみられた。それぞれの有効性は、小児期の約90%と比し、約60%であった。以上、ボツリヌス治療は、長期間にわたりある程度有効で、かつ成人期からでも試みるべき治療であると考えられた。 
原著
  • 白崎 和也
    2024 年49 巻1 号 p. 131-139
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    入院した重症心身障害児(者)の予後を明らかにするため、あきた病院における死亡例の臨床像と死亡率を調査した。観察期間(2004年4月1日から2023年3月31日まで)に入院した重症心身障害児(者)は計269名で、観察期間中に死亡した者は110名、転院または在宅移行により退院した者8名、入院を継続していた者151名であった。死亡例は、男64名、女46名、死亡時年齢は1〜74歳(平均44歳)であった。生前の状態は、寝たきり(寝返り不能)66%で、人工栄養法71%、気管切開等の気道処置30%、人工呼吸療法は19%の者に施行されていた。消化器系ケアの開始から死亡までの期間は平均8.6年、呼吸器系ケアの開始から死亡までの期間は平均7.1年であった。死因は、肺炎18%、腸閉塞14%、悪性新生物10%、突然死7.3%、窒息7.3%、心不全6.4%、呼吸不全5.5%、腎不全5.5%、気管内出血3.6%、腹膜炎3.6%、尿路感染症3.6%、致死性不整脈2.7%、消化管出血2.7%、脳血管障害1.8%、栄養障害1.8%、肝不全0.9%、詳細不明5.5%であり、死亡率は3.7%(人年法)であった。
  • 井上 智子, 小川 一枝
    2024 年49 巻1 号 p. 141-148
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    近年、医療依存度の高い小児の在宅移行が増えている。在宅移行支援の実際と課題を明らかにするために、東京都重症心身障害児等在宅療育支援事業に従事する訪問看護師にインタビューを実施した。支援の実際として【在宅生活へ向けた医療的ケア児と家族の情報共有】【環境を整え生活がイメージできるような支援】【医療的ケア児の移乗・移動の援助】【地域関係機関との連携と支援の統一】【家族との関係性を構築しつつ医療的ケア児の成長発達について助言】の5カテゴリーが抽出された。また課題には「医療的ケア児との在宅生活に対する家族の戸惑い」「退院前には見えにくい家族の課題」「困難を伴う医療的ケア児の移動」等があり、在宅療育支援員と協働した「在宅生活のイメージ作り」「関係者との情報共有」「状況に合わせた移動の援助」はスムーズな在宅移行に寄与した。医療的ケア児と家族が安心・安全に在宅移行するには、専門的な看護の知識と在宅移行の経験等を有した在宅療育支援員としての関わりが有効である。
  • 西村 洋子, 益山 龍雄, 岩崎 裕治, 加我 牧子
    2024 年49 巻1 号 p. 149-153
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    重症心身障害者の死亡例について背景と原因を検討する。2006年4月から2023年3月に当施設の長期入所および通所を利用した18歳以上の成人で、死亡した35人の基礎疾患、重症度、医療的ケア、死亡年齢、死亡原因を検討した。また悪性腫瘍で死亡した群(腫瘍群)とその他の群(他群)を比較した。死亡原因の1位は 肺炎・感染症10人(28.6%)、2位は悪性腫瘍9人(25.7%)だった。死亡年齢の中央値は腫瘍群45歳、他群27歳で腫瘍群が高かった。医療的ケアは、腫瘍群で少ない傾向だが、有意差はなかった。悪性腫瘍は偶発的な発見か、症状から精査し診断された。9例中8例は積極的な治療を選択せず緩和ケアを行った。我々の施設で、重症心身障害者の死亡原因の1位は肺炎を含む感染症、2位は悪性腫瘍だった。死因としての悪性腫瘍の背景として高齢化があるが、評価システムの不足、治療経験の乏しさも考えられた。
症例報告
  • -1事例報告-
    石田 基起, 石倉 健二
    2024 年49 巻1 号 p. 155-162
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    本研究では、肢体不自由特別支援学校に在籍する超重症児1名を対象に、快を促すと想定した働きかけを行い、その解釈の妥当性について鼻部皮膚温度と脈拍数および行動面の記録から検討する中で、鼻部皮膚温度を超重症児の情動的反応評価として適用することの妥当性や可能性について検討することを目的とした。その結果、曲に合わせた歌声とタッピングの働きかけは鼻部皮膚温度低下が認められ、不快情動反応を示したことが推察された。一方で、曲とオーナメントライトの光の働きかけは鼻部皮膚温度上昇が認められ、快情動反応を示したことが推察された。不快情動反応時の鼻部皮膚温度は脈拍数やVAS得点と関連が認められ、観察や脈拍数においても捉えやすい反応であることが推察された。しかし、快情動反応時は関連が認められず、観察や脈拍数では捉えにくい反応であることが推察された。これにより、超重症児における情動的反応は、かかわり手の観察のみで判断せず、鼻部皮膚温度を用いて解釈の妥当性を高めることが重要であることを示唆した。
  • 横山 桃子, 藤田 之彦, 久保 達也, 西村 淳, 道廣 成実, 小平 隆太郎, 椎原 弘章, 山田 隆太郎
    2024 年49 巻1 号 p. 163-168
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    症例は脳性麻痺の48歳女性。37歳時右乳癌(stage2)と診断され摘出術を施行した。45歳時胸膜炎を発症し、月に1回程度の発熱を反復した。46歳時、年単位で体重減少も認め、血液検査で抗核抗体1280倍以上、抗U1-RNP抗体550 U/mL以上であり混合性結合組織病と診断した。プレドニゾロン1mg/kg/dayを開始し、発熱の頻度は減少、CRPは低下したが、0.44 mg/kg/dayまで減量した際再燃し、0.57mg/kg/dayに増量した。その後乳癌の再発、多発肺転移を認めアロマターゼ阻害薬を開始した。しかし急速に腫瘍が増大し、48歳時呼吸不全のため死亡した。重症心身障害児・者(以下、重症児・者)において、膠原病の報告は少なく、また入所者では寒冷刺激に暴露されないためレイノー現象も確認できず、診断が困難であるが、感染徴候の乏しい発熱や胸膜炎を反復した場合、膠原病を念頭におく必要がある。また重症児・者において乳癌は比較的罹患率が高く、積極的に検診を行う必要がある。
  • 元 和美, 片山 勇人, 古賀 智子, 上村 由美
    2024 年49 巻1 号 p. 169-172
    発行日: 2024年
    公開日: 2026/08/27
    ジャーナル フリー
    グリセリン浣腸は日常的に行われる処置であるが、その合併症に直腸穿孔やそれに伴うグリセリン液の血管内混入による溶血、溶血による急性腎障害があることはあまり知られていない。直腸穿孔は腹痛、肛門痛、血便などから疑われるが、症例1では血便に先行して着色尿が見られ、微熱と肛門部のびらん・潰瘍形成が観察された。症例2は着色尿、血便を呈し、腹部に圧痛があった。血液検査では共通して炎症所見と逸脱酵素、血清クレアチニンの上昇がみられた。尿検査では尿潜血陽性にもかかわらず沈査赤血球は乏しく、溶血によるヘモグロビン尿が考えられた。2症例いずれもCT検査で直腸穿孔の診断に至り、人工肛門造設術が実施された。グリセリン浣腸は重症心身障害児(者)施設で日常的に行われているが、重篤な合併症があること、重度重複障害児(者)や重症心身障害児(者)は痛みを訴えることが難しいことを踏まえ、着色尿や血便、肛門部の病変といった症状がみられた際には、直腸穿孔の可能性を念頭に置いて診療することが重要である。
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