社会学評論
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36 巻, 2 号
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  • 池田 義祐
    1985 年 36 巻 2 号 p. 148-158,283
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    新明正道博士が確立した綜合社会学は、その構想において、わが国の社会学に大なる影響を及ぼし、特に理論社会学の領域で貢献するところ多大であった。筆者は特殊科学としての社会学の立場から、その方法および実質的・具体的な研究の今後の若干の問題を提起し、そのうえで綜合社会学の意義と存在理由とを検討した。先ず、方法論における問題としては、綜合社会学にとって化学的認識の核心をなす綜合の拠点、綜合の準拠枠組について考察し、社会を構成する各領域の全体的関連そのものがそれにあたることを明かにし、その基底にある社会像が文化的統合体として前提され、また究極の目的ではなかったという点である。次に実質的・内容的展開については、(1)綜合社会学が対象とする“広義の社会”は、実際問題として如何なる社会的次元の社会であるかを検討し、それが現時点においては、全体社会としての近・現代国民社会ではないかという問題提起を試みた。次いで(2)綜合社会学で問題にされている“広義の社会”を構成する諸特殊領域を明確に限定すること、(3)諸特殊領域の相互連関に関する図式を新明博士の綜合社会学の立場をとる“特殊社会学”との関連について問題を提唱し、最後に“全体的関連”をめぐる問題をそれが綜合社会学の出発点であると同時に究極の目的点-社会像に関するものではなかったかに要約し、この問題をめぐって筆者の試論を素描した。
  • -T・パーソンズとの関わりを中心として-
    倉田 和四生
    1985 年 36 巻 2 号 p. 158-173,282
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    新明正道教授は一貫して「綜合社会学」を標榜されていたが、その理論の中核をなす概念は「行為関連」である。
    (一) これは「社会」を行為の関連として把える見解である。この概念には行為の人格的主体性、社会を動的過程とみる、形式と内容の相即的把握という三つの意図があった。この概念にはその後も発展はみられなかった。
    (二) しかし新明教授は戦後アメリカにおいて行為アプローチが隆盛に成るにしたがって、これに関心を寄せて研究し、行為関連の立場に拠ってこれを批判した。ことにタルコット・パーソンズの理論体系を徹底的に検討して、これに痛烈な批判を加えている。このようにして新明教授の行為理論は深化した。
    (三) 新明教授によるパーソンズ批判の第一は、本来、行為アプローチは個人の主体性、創造性を含意するものであるが、パーソンズの理論はこれに反馳した性格のものと成っている。
    第二は機能主義の問題である。新明教授によると、本源的機能主義は社会有機体論に反対する理論として生まれ、形式的実体よりも内容的過程を、構造よりも機能を重視する理論であったが、パーソンズのシステム理論は逆に形式と構造を重視するもので、かつての社会有機体論に逆戻りするものであるという。
    第三にパーソンズはウェーバー理論 (名目論) とデュルケーム理論 (実在論) を綜合することによって主意主義的行為理論を創造したと主張するが、これは全く異質の理論を極めて強引に統合しようとするもので、不可能な試みであると新明教授は批判している。
  • 横山 寧夫
    1985 年 36 巻 2 号 p. 173-182,282
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2010/02/19
    ジャーナル フリー
    新明正道はわが国において最初に本格的な社会学史を書くに相応しい該博な知識の所有者であった。たしかに彼の社会学史は、夙に構想された独自な理論的立場を基礎にして広く世界の社会学理論の発展を通観し、均衡よくまとめられたものであるが、社会学理論と社会思想を交錯させて理解しようとする彼の「社会学史の方法」(sociological thought)は、私のみるところでは、その著作の中であまり成功しているとは云い難いように思われる。この方法論的立場は欧米で最近注目されている「社会学思想」の概念に近く、晩年になって彼の中に次第に固められてきたようであるが、しかしこの立場を固執しようとすれば、彼が以前に学説史研究の中で強く主張してきた議論 (とくにマンハイム批判など) と憧着してくることは避けがたい。新明の長い学的生涯の発展過程の中で理論や立場のアンビバレンツがあっても不思議ではないが。ここに述べようとする諸点は彼の知識社会学的立場と体系的理論の関係、あるいは新明とマルキシズムとの関係を考えるうえに重要なポイントとなるのではないかと思われる。
  • 河村 望
    1985 年 36 巻 2 号 p. 183-194,281
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    本稿は、新明社会学の全体像を明らかにすることを、直接にめざすものではない。むしろ、戦時中の新明正道の社会学以外の分野での活動に、主として焦点があてられている。
    このような扱いになったのは、たまたま、アメリカの日本史研究者、キンモンスが私の新明社会学の評価に根本的な疑問を提示したからでもあった。かれによれば、新明はファシズムの積極的な主唱者の一人で、新明をファシズムに「屈服」したものとして、「同情」的に評価するのはあたらない、ということになる。そして、そのような評価がなされるのは、新明がなお生存して、伝統的な権威をもっているからなのか、というような疑問もだされていた。
    私は、かつて『日本社会学史研究』でおこなった新明社会学の全体的評価を基本的にかえる必要を認めていないが、と同時に、ファシスト新明という像についても、それをまったくの虚像であるとみなしていたこれまでの見解を部分的に修正する必要を認めるものである。戦時中の新明をファシストとみなすことができるという点は、私のキンモンスにたいする返事の手紙では、まったく無視されていた点である。とすれば、私は、一方を本質的、基本的なものとみなしているとはいえ、それと矛盾、対立するもう一つの新明像を承認し、二つの新明像をどちらも実像として認めたことになる。この二つの像をどのように統一的にとらえるかについては、今後も議論されていくであろう。私の見解も暫定的なものにすぎない。
    すなわち、ファシスト社会学者としての新明正道をどのように評価するかは、今後の課題となるといえよう。このようにみれば、「新明社会学の社会学」はまだはじまったばかりで、そのなかから「『新明社会学の社会学』の社会学」が生まれてくるには、まだ時間が必要とされるということができる。
  • 田原 音和
    1985 年 36 巻 2 号 p. 195-203,281
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    Dr. Masamichi Shimmei (1898-1984) is celebrated by his continuous endeavor to systematize the general theory of sociology. However, his empirical sociology is also very important. In the collected works consisted of ten volumes which were edited by himself before his death, Dr. Shimmei devoted just half of the works to these special sociologies which contained empirical researches, the remain half being assigned to his general theory of sociology. The importance he attached to his special sociology is unexpected, for he has been regarded in general as a general theorist.
    While his general sociology is based on a theory of action (Köi-kanren), empirical researches are treated in his framework of special sociology, in his system of synthetic sociology (Sogo-shakaigaku). In his sociological theory, the theory of action was conceived as the theory of “Köi-kanren” which contained “content” as well as “form” of social action. From this concept of “Köi-kanren”, the empirical research on various aspects of contents of social action became possible.
    His studies in domain of special sociology contain such as sociology of knowledge, political sociology and sociology of nations, crowd and regional society, which consist of volumes from No. 6 to No. 10 in his collected works. Because in these works, except the sociology of knowledge, he analyzed concrete and contemporary problems of society such as european ideologies of facism, nations and races, the masses and regions, it was necessary for him to treat empirical data.
    So far, this article tried to elucidate the place and significance of his empirical researches in his synthetic sociology. It should be insisted that the newer generation of sociologist after him should inherit his sociology to develop more broad and new aspects of empirical resarch.
  • -マックス・ヴェーバーにおける「合理化問題」によせて-
    嘉目 克彦
    1985 年 36 巻 2 号 p. 204-216,280
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    マックス・ヴェーバーの「マクロ社会学的研究計画」に対する問題関心の高まりとともに、近代西欧の「合理化」がヴェーバーの社会学と歴史研究の統一テーマであり、ヴェーバーの全作品を貫く「赤い糸」であること、したがってその作品理解の主要課題はいわゆる「合理化問題」の解明にあることが、最近改めて注目されはじめている。しかしその場合、「合理化」は「合理性」概念にかんする一定の解釈を前提にして論じられているのであって、この点では、早くから指摘されている「合理性」の「多義性」にかんする問題が従来と同様ほとんど考慮されていないといわざるを得ない。
    本稿は、「合理性」の論理的意味にかんして、「ものの属性としての合理性」という観点から従来の諸説を検討し、これまで多様に解釈されてきた「合理性」概念を一義的に理解するための道を模索した試論である。従来の解釈では結局のところ「合理性」が「体系性」、「経験的合法則性」および「首尾一貫性」として個別的に理解されているということ、これらの特殊的かつ要素的な「合理性」はしかし例えば「理解可能性」ないしは「伝達可能性」として一般化しうるということ、また「合理性」は結局「意味」の「理解」にかかわる概念であるということ、こうした点が本稿で指摘される。
  • -社会的実践と社会心理学-
    安川 一
    1985 年 36 巻 2 号 p. 217-231,279
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2010/02/19
    ジャーナル フリー
    ミードの「社会心理学」を、もっぱら「自己」、とりわけ「I」と「me」の相互関係を焦点に個体の「主観的世界」を叙述する理論として結像するならば、議論は、そこに本来内包されていた社会批判的性格を失ってしまう。彼の議論はしばしば論じられるような自我論ではない。また、意味解釈の過程を扱う理論でも主体性論でもない。むしろそれは、自らの進歩観を拠所にした社会制度批判と、社会再構成の過程の理論的基礎付けとを指向している。複雑で高度な組織化=普遍化の進展と、これに伴う諸個人の個別化の進行とをいかに調和させ得るか。絶えず現れる諸問題に対処すべく、諸集団の対立・葛藤を克服し、より大きな社会を再構成することはいかにして可能か。ミードの議論は、これらの課題への解答を、社会に共有される共通パースペクティヴと諸個体の持つ個別パースペクティヴとの相互関連的再構成過程の考察を通じて試みようとする。
    だが、その論述は必ずしも成功してはいない。かかる再構成過程は明確な理論的言明を与えられておらず、そのため、ミードが主張する社会過程への科学的方法の適用は十分な解答とはなっていない。むしろそれは、儀礼的制度や対立・葛藤を繰り返す諸集団の実際、パースペクティヴの狭小化の悪循環の実際を照出しているかのようである。しばしば楽観的だとされる彼の叙述の背後にあるこうした逆説-我々はそこに何を見て取るべきであろうか。
  • 川本 勝
    1985 年 36 巻 2 号 p. 236-237
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 関 孝敏
    1985 年 36 巻 2 号 p. 238-239
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 厚東 洋輔
    1985 年 36 巻 2 号 p. 239-241
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 1945-1980年
    鈴木 広
    1985 年 36 巻 2 号 p. 241-243
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 1985 年 36 巻 2 号 p. 277
    発行日: 1985/09/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
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