社会学評論
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36 巻, 3 号
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  • -「社会計画」へのシステム論的アプローチ-
    佐藤 嘉倫
    1985 年 36 巻 3 号 p. 286-300,403
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    社会計画に関する従来の議論の多くは社会計画に対する規範的要請か社会計画に関する経験的一般化だった。本稿の目的は、このようなアプローチを避け、「社会計画」という社会現象を経験科学の対象として分析でき、かつ社会計画の論理的可能性を追求できるような分析枠組の構築をめざすことである。
    この目的のための予備作業として、 (a) 制御の視点から「社会構造」概念を検討し、 (b) 構造制御情報の分類と制御関係の分析を行い、 (c) 社会計画の担い手である拡大意思決定層の内部分析を行う。
    以上の予備作業を経た上で、「社会計画」を制御と情報処理の視点から分析する。特に、社会計画が作動する原因と社会計画の目的を達成するメカニズムを中心に分析する。そしてこの分析を通じて、社会計画の目的が必ずしも社会的価値によって設定されるわけではないこと、目的を実現するための手段が必ずしも合理的に選択されるわけではないこと、などを明らかにする。
  • -真理・規範・権力・影響力-
    正村 俊之
    1985 年 36 巻 3 号 p. 301-317,402
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    社会学的なメディア論はT・パーソンズをもって嚆矢とするが、N・ルーマンにおいては、特にコミュニケーション・メディア論として構想されている。本稿は、社会的情報空間の中で作用する代表的なコミュニケーション・メディアとして真理・規範・権力・影響力を取り上げ、これらのメディアの特性とその相互関係を分析する。まず前半では、行為論的枠組を用いて上記のコミュニケーション・メディアの特性を検討する。そして後半では、社会システム・社会的情報システムの進化に関連づけてメディア相互間の関係を把握し、社会システムに対するコミュニケーション・メディアの機能を検討する。
    真理・規範・権力・影響力は、社会的相互行為に関わる課題と社会システムの環境適応に関わる課題を同時に達成するようなコミュニケーション・メディアであった。そしてこれらのコミュニケーション・メディアの間には、 (1) 同種メディアの未分化/分化と (2) 異種メディア間の相互依存性という二つのタイプの関係が形成されていた。
  • -神戸市A地区の事例をとおして-
    高橋 英博
    1985 年 36 巻 3 号 p. 318-334,402
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    本稿では、社会的共同消費手段 (1) にたいするひとつの社会学的研究をこころみる立場から、上手段の拡充・管理・運営をめぐる共同性の構築をその根底から可能にする住民の側の要素は何か、それを、神戸市A地区の住宅地区改良事業の事例をとおしてさぐることに当面の課題をおく。そのうえで、この要素から共同性の内実をとらえかえすことの、コミュニティ形成論における方法論的意義を指摘したい。
    A地区での右改良事業は、混乱と停滞⇒中断⇒再開という一連の経過をたどる。そこでの住民の事業への対応の経緯をふまえてみると、結論として、コミュニティ形成論において右の共同性が論議されるばあい、住民がその当該地区にあってどのような主体として自己を形成し、また、それがどのように再生産されているのかというレベルからその共伺性の内実をとらえかえすことの可能性と重要性が実証的に指摘されえる。また、そのことによって、昨今の都市社会学で問題になってもいる、個別的コミュニティ形成の諸事例をつらぬく一般化-それは、マクロな都市理論とミクロな個別的コミュニティ形成論、ひいては、都市の構造分析と主体分析の双方をいかにして連環させるかという問題とかかわっている-が現実のものへとちかづいていくと思われるのである。
    (1) ここで、奥田氏のいう「中間領城」について一言しておきたい。氏は、「共同性の契機」をさぐるうえでの「行政領域と私的領域をつなぐ共同領域」=「中間領域」のもつ可能性と重要性を指摘している (『都市コミユニティの理論』XI章) 。筆者も、つぎのことを確認したうえでその指摘じたいには賛同する。すなわち、その「中間領域」の「存在」は、所与としてあるものと考えられるのではなく、住民と行政の相互の活動、とくに前者の活動のなかから結果的につくりあげられてくるものなのではないか、ということである。したがって、その活動が成立する条件が問題になってくるのであり、ばあいによっては「中間領域」じたいの「存在」が成立しないことも大いにありうる。よって、正確には、右の「中間領域」じたいが共同性の契機たりうるということではなく、結果的にその領域がつくりあげられるところの活動そのものが問題なのである。その活動が成立することじたい、それは、契機の域をこえた共同性のひとつの内実をなすととらえられなくもない。これらのことを確認したうえで、筆者は、氏のさきの指摘に賛同するものである。
    (2) 本稿においては、社会的共同消費手段のもつ歴史的、社会的な意味についてはその検討を展開していない。その点については、拙稿「諸個人の消費生活とその階級性-諸個人の普遍的発展と社会的共同消費手段-」 (『社会学評論』130 一九八二年) 、同「現代資本主義における共同性とその再編」 (『ソシオロジ』91 一九八四年) を参照していただければさいわいである。
  • 三谷 鉄夫, 盛山 和夫
    1985 年 36 巻 3 号 p. 335-349,401
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    本稿は、世代間親族関係における夫方あるいは息子方と妻方あるいは娘方との関係の非対称性について、札幌での調査データに基づいて、理論的に考察したものである。
    とりあげた関係項目のうち、五分の二にあたる項目で非対称性がみられた。妻方もしくは娘方優位が十一項目、夫方もしくは息子方優位が九項目である。
    われわれは五つの仮説をデータに基づいて検討した。近住説は夫方優位の項目についてはかなり説明力をもつけれども、娘方優位の項目については成立しない。母娘結合を軸とする愛着依存説の妥当性は極めて限定されたものである。いくつかの項目について性別役割説が成立する。多くの妻方優位の項目に関して、主婦の役割における他人継承者との葛藤回避説がある程度有効である。このほか、娘ど息子の間だけでなく長男と次三男の区別がいくつかの項目でみられ、これは家規範説にかかわっている。
    全体として、伝統的規範の弱化と妻 (娘) 方優位への変化が推測されるが、いずれにしても、世代間関係の非対称性は、単一要因によってではなく、複数要因によって説明されなければならない。
  • 沢田 善太郎
    1985 年 36 巻 3 号 p. 350-368,401
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2010/02/19
    ジャーナル フリー
    本稿は組織内移動 (昇進、配置転換など、公式組織内部での成員の地位の移動) を分析するためのモデル作りの試みである。最初に、内部労働市場論や日本の労使関係研究の成果を踏まえて、組織内移動の二つの類型を提案する。一つは、組織成員の熟練を基盤にして形成された「移動群」にそってなされる「組織内連関移動」である。もう一つは、技術革新や合理化にともなう地位あるいは職務のスクラップ・アンド・ビルドによって生じる「組織内強制移動」である。
    この二つの移動類型にフォーマルな記述図式を与え、両者の比率や関連を分析するために、本稿では全体社会レベルでの社会移動研究の成果を参照する。とくに注目するのは純粋移動と強制移動の測定に関する安田三郎の議論である。しかし、彼が用いた通常の「移動表」によって組織内移動を記述すると、 (1) 比較の時点の不明瞭性、 (2) クローズド・システムの仮定から生じる困難、 (3) 移動数と移動者数の混同という三つの難点が生じる。組織内移動の分析では比較の時点を厳密にし、オープン・システム・モデルを採用する必要がある。
    この条件を満たした「移動累積表」や移動表を用いると、組織内強制移動は周辺分布の比較によって測定でき、組織内連関移動は周辺分布の標準化よって測定できる。また、この二つの指標とモステラー化の方法によって、予測の観点を含んだ組織内移動のモデルが作成できる。
  • -ハーバマース=ルーマン論争への一視座
    西阪 仰
    1985 年 36 巻 3 号 p. 369-383,400
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    一九七一年にハーバマースとルーマンの間でたたかわされた論争で両者は、 (1) 意味が社会学の根本概念であること、および (2) 意味概念にはすでに諸主体の非同一性が含意されていること、この二点を共通の出発点としていた。ここから生じてくる問題は、 (a) 意味が常にすでに非同一的諸主体を前提とするとしたうえで、なおかつ意味を根元的に (すなわち、すでに有意味な何ものかをあらかじめすべり込ませておくことなにし) 把握することができるかということ、また (b) そのような意味概念をもとに、有意味な行為の構成、さらに行為が織りなす世界の布置の形成はどのように考えることができるかということ、これである。
    本稿は、まず最初に単独「主体」による意味の決定が不可能であることを証明し、次いでこれに基づいて、ハーバマースとルーマンの各論点を整理する。そのなかで (a) 行為が常に実践として公的におこなわれること、および (b) 有意味な世界は行為が連鎖することのうちで成立することを指摘し、そこから、 (i) 両者がそれぞれ強調する妥当性要求の普遍性 (ハーバマース) と規定された世界の布置の特殊性 (ルーマン) とが同値であること、さらに (ii) この同値性に注目することによってのみ行為および行為者の把握が可能となることを示す。
  • 小川 全夫
    1985 年 36 巻 3 号 p. 387-388
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 三浦 典子
    1985 年 36 巻 3 号 p. 388-390
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 永井 和
    1985 年 36 巻 3 号 p. 390-392
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 飯田 剛史
    1985 年 36 巻 3 号 p. 393-395
    発行日: 1985/12/31
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
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