本稿では、社会的共同消費手段 (1) にたいするひとつの社会学的研究をこころみる立場から、上手段の拡充・管理・運営をめぐる共同性の構築をその根底から可能にする住民の側の要素は何か、それを、神戸市A地区の住宅地区改良事業の事例をとおしてさぐることに当面の課題をおく。そのうえで、この要素から共同性の内実をとらえかえすことの、コミュニティ形成論における方法論的意義を指摘したい。
A地区での右改良事業は、混乱と停滞⇒中断⇒再開という一連の経過をたどる。そこでの住民の事業への対応の経緯をふまえてみると、結論として、コミュニティ形成論において右の共同性が論議されるばあい、住民がその当該地区にあってどのような主体として自己を形成し、また、それがどのように再生産されているのかというレベルからその共伺性の内実をとらえかえすことの可能性と重要性が実証的に指摘されえる。また、そのことによって、昨今の都市社会学で問題になってもいる、個別的コミュニティ形成の諸事例をつらぬく一般化-それは、マクロな都市理論とミクロな個別的コミュニティ形成論、ひいては、都市の構造分析と主体分析の双方をいかにして連環させるかという問題とかかわっている-が現実のものへとちかづいていくと思われるのである。
(1) ここで、奥田氏のいう「中間領城」について一言しておきたい。氏は、「共同性の契機」をさぐるうえでの「行政領域と私的領域をつなぐ共同領域」=「中間領域」のもつ可能性と重要性を指摘している (『都市コミユニティの理論』XI章) 。筆者も、つぎのことを確認したうえでその指摘じたいには賛同する。すなわち、その「中間領域」の「存在」は、所与としてあるものと考えられるのではなく、住民と行政の相互の活動、とくに前者の活動のなかから結果的につくりあげられてくるものなのではないか、ということである。したがって、その活動が成立する条件が問題になってくるのであり、ばあいによっては「中間領域」じたいの「存在」が成立しないことも大いにありうる。よって、正確には、右の「中間領域」じたいが共同性の契機たりうるということではなく、結果的にその領域がつくりあげられるところの活動そのものが問題なのである。その活動が成立することじたい、それは、契機の域をこえた共同性のひとつの内実をなすととらえられなくもない。これらのことを確認したうえで、筆者は、氏のさきの指摘に賛同するものである。
(2) 本稿においては、社会的共同消費手段のもつ歴史的、社会的な意味についてはその検討を展開していない。その点については、拙稿「諸個人の消費生活とその階級性-諸個人の普遍的発展と社会的共同消費手段-」 (『社会学評論』130 一九八二年) 、同「現代資本主義における共同性とその再編」 (『ソシオロジ』91 一九八四年) を参照していただければさいわいである。
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